聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/3/27 「建築家、ネヘミヤ」ネヘ1~8章『ジーザスコーリングバイブル』137

2022-03-26 12:00:29 | こども聖書
2022/3/27 「建築家、ネヘミヤ」ネヘ1~8章『ジーザスコーリングバイブル』137

 夕拝で読んできた「こども聖書」は、旧約聖書のエピソードが先週で終わりました。今日は、その中になかった大切な話を『ジーザスコーリングバイブル』から選びました。それがこの「建築家ネヘミヤ」、旧約の結びにある、捕囚から帰還した出来事です。



 先週まで見てきたダニエル、エステルの出来事は、エルサレムから遠く離れたバビロンやペルシャでの出来事でした。イスラエルの民は、神である主の言葉に背き続けたため、遠くバビロンへと連れて来られたのです。



 しかし、七〇年したら、再びエルサレムに帰る、という約束をお与えになっていました。七〇年、決して短くはありませんが、そんな先のことを言われても信じがたいのに、神様は歴史を大きく支配されて、遠いバビロンからイスラエルの人々を連れ戻してくださると約束されていました。そして、そのバビロンでも主はイスラエルの民とともにおられました。そして、七〇年後、本当に、彼らはバビロンから帰ってきた。帰還したのです。それは、紀元前538年と、紀元前458年の2回に亘りました。今日のネヘミヤは、その二回目の出来事です。

 ネヘミヤが、二回目の帰還でエルサレムに行ったのは、エルサレムの城壁が敵に焼かれてボロボロだと知ったからでした。ネヘミヤはペルシャの王宮で、よい地位を得て、仕事をしていましたが、故郷エルサレムの悲惨な知らせに一大決心をして、王の元に行き一時帰国を願ったのです。



 ペルシャの王アルタクセルクセスは、ネヘミヤの願いを受け入れてくれました。必要なものすべてを揃えてくれて、ネヘミヤの推薦状まで持たせてくれます。こうして、ネヘミヤはペルシャを後にして、エルサレムに向かいます。帰って来てから、ネヘミヤは焼け崩れた城壁を見て回った後、言います。

2:17私は彼らに言った。「私たちが直面している困難は見てのとおりだ。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままだ。さあ、エルサレムの城壁を築き直し、もうこれ以上、屈辱を受けないようにしよう。」

 このネヘミヤの言葉に励まされて、民は再建に取りかかります。しかし、反対する人たちもいて、ネヘミヤの働きはなかなか簡単には進みません。ネヘミヤは腹を立てます。悩み、祈り、神様に愚痴ります。一緒に働いている人たちも、段々疲れたり、狡くなったりして、ネヘミヤは頭を振り絞って、指揮に当たります。そうして、敵や裏切り者の攻撃をかわして、民の心を奮い立たせたりしながら、城壁は再建されたのです。



六15こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。16私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。

 工事の完成の後、お祝いの礼拝をしました。



 そして、エズラという学者が聖書の戒めをまとめて、皆の前で読み上げました。なぜなら、本当の再建は、城壁や建物が建て直されることではないからです。神の民としての再出発は、見えない心で、神様に立ち帰って歩み始めることだからです。だから、エズラは聖書をまとめて、皆に聞かせました。



 しかし聞いている人々は泣き始めました。聖書に書かれた神の命令や、人間の罪が心に刺さったからでしょうか。自分たちの悪、ボロボロだった都、神様の御心に背いた過去に、心が責められたからでしょうか。



 その民を見て、ネヘミヤとエズラは言いました。
八9-10
「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。10さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」

 主の言葉は、確かに人の罪を責めます。しかし、責められるだけなら絶望です。責めるだけなら神様でなくても、人間でもできます。神は、責めるしか出来ない方ではありません。建て直してくださるお方です。バビロンの捕囚からも民をエルサレムに帰還させてくださいました。敵たちがボロボロにして、建て直すなんて無理だと嘲った城壁を再建させてくださいました。その神の言葉を知る時、自分の罪や失敗を気づかされて泣くことはあるとしても、その私たちの失敗や後悔から、神がもう一度、立ち上がらせて歩み出させてくださると知ります。それこそが神だと励まされて、喜び祝い、互いに励まし合う。それが神の下さる信仰です。主が、愛する人々を建て直してくださる事こそ、敵を恥じ入らせる裁きです。その主を喜ぶことこそ、あなたがたの力、私たちの力です。

 ここまで旧約聖書を見てきました。その最後にあるのがネヘミヤとエズラの再建です。旧約の歴史全体が再建の繰り返しでした。主は、人間がご自身に背いても、何度でも何度でも、決して諦めずにやり直させてくださった。ノアの方舟、出エジプト、ダビデも、ダニエルも、神の回復の力を証ししています。それが旧約聖書です。



 そして、その旧約聖書全体が指し示していたのが、やがてキリストが来られる。私たちを心から癒やしてくださるお方。私たちを建て直してくださるお方。私たちが諦めたり、もうこんなもんだと決めつけたりしていても、キリストが来られて、新しいことをしてくださる。私たちを神様に結びつけてくださる。私たちを責めたり脅したりする人間とは違う、本当に聖なるお方、罪から救い、喜びを与えてくださるお方。そのために、命を捧げてくださるお方が来ると約束していたのです。この方がイエスです。この方を信じていいのです。

 『ジーザスコーリングバイブル』は、ここにこんな神からの呼びかけを載せています。

ジーザス・コーリング
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
マタイによる福音書5:17 新共同訳聖書

神さまを第一に愛しなさい、そしてほかの人々をあなた自身のように愛しなさい。これがもっとも大切な神さまのきまりです。しかし、イスラエルの人々は神さまのきまりに従うかわりに、まわりの国々の罪に従うことがよくありました。そのとき、イスラエルの人々はすべてを失いました。なぜなら、まことの神さまだけを信じる信仰がなかったからです。神さまはネヘミヤを用いて、何人かのイスラエルの人々をエルサレムにもどされましたが、彼らは救い主が必要でした。神さまの民は自分自身で自分たちを救うことができるほど立派になることができません。それで、神さまは神さまのひとりご--唯一の神の民をとこしえに救うことができるわたしをつかわしたのです。
(『ジーザスコーリングバイブル』137ページ)

 ネヘミヤが城壁を建てたように、この教会堂も世界中の会堂も、情熱を持った人たちが建てました。何かを建てる、それ以上に壊れたものを立て直し、修復しながら、誰もが生きていきます。それは、神ご自身が建て直すお方だからです。イエス様が命がけで世界を再建し、私たちを癒やしてくださる。そして、やがて必ずその工事は完成し、永遠にお祝いする日が来るのです。私たちが何かを造り出す事は、その一環を担う事です。



「造り主であり作り直される主である神。あなたがこの世界を完成される創造主であり、私たちをもそのあなたの栄光を現すものとしてお造りくださったことを感謝します。私たちの世界や心にある破れを、諦めを、約束通りどうぞ繕い、時間をかけて癒やしてください。あなたを小さく考える罪から、あなたを喜ぶ力へと、私たちを造り変えてください。そして、私たちの生涯の業すべてを、あなたの大きな再建の業に用いてください」
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2022/3/27 ピリピ書2章1~11節「喜びの民 一書説教 ピリピ人への手紙」

2022-03-26 00:15:43 | 一書説教
2022/3/27 ピリピ書2章1~11節「喜びの民 一書説教 ピリピ人への手紙」[1]

 ピリピはマケドニアの都市です。「使徒の働き」16章にパウロのピリピ伝道の様子が伝えられています。その後、パウロが他の都市を巡回した間もピリピ教会はパウロを支えました。この手紙はピリピから献金を届けたエパフロディトを介して、パウロが持ち帰らせた手紙です。

1.「喜びの書簡」

 ピリピ書は「喜びの手紙」と言われます。日本語聖書だと16回も「喜び」が言われます[2]。

二18 …喜んでください。…
四4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 こんな勧めが6回も繰り返されます。でも喜べと命じる以上に、パウロが喜んでいます。6回の勧め以上に、9回の「喜び」は、パウロがどれほど喜んでいて、喜びを大事にしていたか。また、ピリピ教会の人々を喜んでいたか、を溢れるほどに物語っているのですね。

一4あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、…
二17…私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
四1…私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。…

 パウロは喜びに生きた人です。聖書が差し出すのは喜びの宗教です。神も喜びの神であって、

四18私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。

と言われます。実はこの元々の言葉だけは他とは違う「喜び」の形容詞なのです。新約で9回出て来ますが、
「みこころにかなう」
とも訳されます[3]。確かに「喜ぶ」とは「心にかなう」、人としての願いが満たされること、私たちの求めに沿う何か嬉しいことがあった時の感情です。

四19…私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 だからその恵みに与る時、喜びがわき上がります。でも人は、心とは無関係に笑顔や明るさだけを取り繕ってしまうこともあります。喜びだけがいい、涙や辛さを感じまいと心を麻痺させるなら、結局、喜びさえ感じられません。心こそ命の泉です[4]。神は私たちの行動の変化以上に心を甦らせ、あわれみ、思いを新しくなさいます。パウロは涙や心配も隠しませんし[5]、

四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。…[6]

 主が私たちの心を深く知って、必要を豊かに満たしてくださる。だから、この時パウロは牢獄にいたり[7]、ピリピ教会も様々な課題があったりしても、喜びを持てるのです。

2.キリスト賛歌

 本書には素晴らしい言葉が沢山あります。中でも美しいのは今日の「キリスト賛歌」です。

二6~
キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。…

 この詩はパウロの文章と言うよりも、初代教会で歌いかわされていた最初の讃美歌だったとも考えられます。神の御姿であるキリストが、ご自分を空しくして、低くして、死にまで従われました。そのキリストの姿に心打たれて、最初の信徒たちが歌い上げていたのでしょうか[8]。

 そこまでなさったキリストを知った時、パウロは他のすべてを損と思うようになったと言います[9]。パウロは新しい思い、恵みを与えられました。その中でも代表的なのが3章20節です。

三20
しかし、私たちの国籍(市民権)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

 多くの宗教は天国へのパスポートを得られる方法を語ります。聖書は私たちが既に天に国籍(市民権)があり、今ここで神の国の市民として生きることを語るのですね。今この寄留者としての地で、悩みや悲しみはあっても、この世界の不条理も死もすべて味わってくださったキリストを覚えて、そのキリストが私たちにくださった新しい市民権を手に、旅を続けるのです。

3.「最も人間味あふれる手紙」

 ピリピ人への手紙は、パウロ書簡十三の中で「最も人間味溢れる手紙」です[10]。パウロが個人的に非常に良く知る教会で、ピリピの信徒らもパウロを愛し、支援を続けていました。この時はパウロが投獄されたと聞いて心配し、エパフロディトに献金を預けて遣わした、人間味ある交流がうかがえます。同時に、大きな罪は(コリント教会のように)なかったようですが、4章2節では教会内のいざこざも透けて見えます。派遣したエパフロディトが思いがけず病気になって心配しています[11]。決して問題のない教会(そんなものは元々ありませんが)に向けて、教会の一般的な義務を教える教科書のような書簡ではありません。むしろ、日常の交流や精一杯の献金や奉仕もしながら、人間同士、対立してしまう教会の姿の中で、キリストを見上げさせてくれる書簡です。先ほど読んだ、2章のキリスト賛歌は、教会の日常の心がけを語ったのに続いて、引き出された「キリストのうちにある思い」でした[12]。2章2~5節です。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

 これは「キリスト・イエスのうちにある思い」、受肉と十字架に現された神の心でした。そして神はそのキリストを引き上げてくださった。神は世界の中に働いて、喜びとは真逆のような事をも喜びと変えてくださいます。パウロの投獄はそこでの新しい出会いと宣教になり、教会に確信を与えました[13]。エパフロディトの瀕死の病気は主の憐れみによって癒やされました。二人のご婦人の対立は、主にあって同じ思いを持つようにとチャレンジされました。

三1最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。

 「喜ぶ」ことは安全になります。我慢とか喜びのない「べき」なら、どうしても対立してしまいます。主に心変えられて、喜びに生きる時、困難にあっても希望を持てるし、対立する時にも拘りを捨てる柔軟さが持てます。喜びを持つ、必要を豊かに満たしてくださる主を味わいながら生きている。「喜びなさい」とは、私たちを苦々しさから守ってくれる言葉です[14]。

 今日はピリピ書からお話ししました。いつものまとめと違い、喜びの理由を三つ整理して結びます。
 1つ、喜びは心の願いや必要が満たされるからこその感情です。神は私たちの必要をすべて豊かに満たしてくださいます。私たちが心を深く取り戻して、必要が豊かに満たされていると気づくから、喜べるのです。
 2つ、キリストを知る喜びです。そして、キリストご自身が私たちを喜んで、ご自身を卑しく低くすることも厭わずに捧げて、私たちに天の市民権を与えてくださいました。この初代教会最初の讃美歌を、私たちも歌いましょう。
 3つ、今この現実にも神は働いてくださいます。私たちの予想とは違う形で、良いことをなさる。だから形や手段に拘らず、お互いの益や喜びを柔軟に選べるのです。最も人間味ある「喜びの手紙」ピリピ書から、私たちの道を示されて、「喜びに生きる民」として歩ませていただきましょう。

「喜びの神よ。獄中で書かれた喜びの手紙を感謝します。新しい歩みへと踏み出す今、もう一度祈ります。私たちの苦しみや悔しさを知る主が、病気や悲しみの耐えがたさを知る主が、ご自身ひととなり死も十字架さえも味わわれた主が、私たち一人一人を憐れみ支え、すべてを働かせて益としてください。喜びを受け取らせてください。また私たちが主の思いによって心から一つとならせてください。そうして私たちが喜びの民として成長する日常としてください」

脚注:

[2] ピリピ書における「喜び」は、名詞カラ5回、動詞カイロー9回、スンカイロー(カイローに「ともにスン」がついた合成語)2回、ユーアレストス1回。使用節は、次の通り。1:4(あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、)、18(しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。)、25(このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。)、2:2(あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。)、17(たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます[スンカイロー]。18同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んで[スンカイロー]ください。)、28(そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。)、2:29(ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。)、3:1(最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。)、4:1(ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。)、4:4(いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。)、10(私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。)、4:18(私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んでユーアレストス受けてくださるささげ物です。)
[3] ユーアレストスの新約における他の箇所は次の通りです。ローマ12章1、2節(ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。)、14章18節(このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。)、Ⅱコリント5章9節(そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。)、エペソ5章10節(何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。)、コロサイ3章20節(子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。)、テトス2章9節(奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、)、ヘブル13章21節(あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。)
[4] 箴言4章23節「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」
[5] 2:27「本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼をあわれんでくださいました。彼だけでなく私もあわれんでくださり、悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。」、3:18「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」
[6] 4章6~7節「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
[7] ピリピ人への手紙1:7(あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。)、1:13(私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。)それが使徒の働きの結びにあるローマでの投獄なのか、使徒の働き20章でエペソにいた三年間での出来事なのか、判定しがたいのですが、いずれにせよパウロは投獄されていました。
[8] 聖なる神は「御心に叶う」のでないことは決してなさいません。何によっても嫌々、無理やり何かをさせられることはありません。その神の子キリストが、神のあり方を捨てて空しく謙り、仕えてくださいました。それが神の心であり、栄光でした。それほど神は私たちを喜ばれるお方です。
[9] ピリピ3章2~11節「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。4ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。5私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、6その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。7しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。10私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
[10] 伊藤明夫、『実用聖書注解』より。
[11] 2章25~30節。
[12] 2節と5節の「思いを抱く」は同じ言葉フロネオーです。この語は、1:7(あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。),2:2、5、3:15(ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。)、19(その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。)、4:2(ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。)、10(私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。)でも出て来るキーワードの一つです。
[13] ピリピ1章12~14節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。13私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。」
[14] 「喜びこそ我が家だ。神は私たちを喜んで創造し、喜びに向けて創造し、私たちをその喜びから切り離すものは何もない」Frederick Buechner, The Great Dance, 240 , from “Luke 2:8-11, REJOICING, by Rev.Dr. Lindley G. DeGarmo

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