聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ19章41~44節「イエスはその都のために泣いて」

2014-11-09 20:09:20 | ルカ

2014/11/09 ルカ19章41~44節「イエスはその都のために泣いて」

 

 イエス様が十字架にかかられるその週に、エルサレムに入って行かれる所です。そこで、ルカだけが記しているのが今日の記事ですが、イエス様が、エルサレムのために泣かれたというのです。イエス様が涙を流されたと伝える箇所は三つありますが[1]、今日の箇所はその一つで、イエス様のこの時の感情の激しさ、溢れる思いというのを現しています。

 37節以下に見ましたように、弟子たちはエルサレムに入ることで感極まり、イエス様の素晴らしい御業を思い出しては大声で神を賛美しだしました。喜び、賛美、興奮です。ところが、その横で当のイエス様が、涙を流し始められたのですから、弟子たちはさぞかしビックリしたことでしょう。他にイエス様が泣かれたと書いてある箇所は少ないのですし、これは喜びや感激ではなく、悲しみ、苦しみの涙です。弟子たちは、本当に驚いて、歌も止んだことでしょう。喜びや期待が漲っていたはずの所に、イエス様が突然号泣されたというギャップ。それだけの激しい思いが、ここで浮き上がって来ます[2]。なぜ、イエス様は泣かれたのでしょうか。

42言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。…」

 勿論、エルサレムという町に何か人格や魂があるということではありません。エルサレムに象徴される、ユダヤの民、神の契約の民、イスラエル人たちが、平和のことを知っていない、という意味です。このエルサレムという名前自体、「神(エル)の平和(シャローム)」という意味があります。神の平和、という都なのに、神の平和を知らない[3]。そこに、彼らの不信仰が現れています[4]

 見たところエルサレムは、ローマでも屈指の美しさと言われる神殿があり、丁度「過越の祭」の巡礼者たちが集まって、賑やかな都でした。弟子たちの心も浮かれ、都を見て、興奮は頂点に達していた筈です。しかし、イエス様はその外見上の賑わいや逞しい建造物を見ながらも、その信仰の根本的な問題を見抜いて、その都を目にしながら、悲しみや痛ましさで堪らなくなってしまったのです。決して、ご自分が十字架にかかる苦しさや弟子たちも離れて行く切なさで泣かれたのではありませんでした。また、

43やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、

44そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。…

とありますが、それが悲しくて泣かれた、のでもないのですね。確かに、エルサレムはこの後、四〇年ほどした紀元七〇年、ローマ軍によって陥落させられ、叩きのめされます。非常に残酷な最期を遂げます。「その中の子どもたち」と言われるエルサレムの住民も、文字通りの子どもたちも虐殺されます。けれどもそのことを予見してイエス様がこれを言われているというよりも、イザヤ書やエレミヤ書の裁きの預言を引用されているのです[5]。イスラエルの民が、主に逆らい続けるならば、主が何百年も前からハッキリと警告されていたようになる。最後にはエルサレムといえども敵が取り囲み、滅ぼされ、中にいる人たちは皆殺しになり、エルサレムも跡形もなくなると言われていたとおりになる。そう思い出させているのです。

 実際、エルサレムには今も「嘆きの壁」というのがありますが、紀元七〇年のローマの襲来によっても潰されなかった石壁です。石が積まれたまま残されたのです。イエス様が仰った言葉は外れたのでしょうか。いいえ、イエス様が言いたかったのは数十年後の予告や警告ではなくて、その結果を嘆かれて涙されたのでもなくて、偏(ひとえ)にイスラエルの民の不信仰、契約違反を思って、慟哭されたのです。ですから、最後にイエス様はもう一度仰います。

44…それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

 訪れの時、とはルカが何度も使ってきた言葉で、イエス様のお生まれを通して証しされた、神様の訪問、顧みのことです[6]。イエス様のお生まれにおいて、神様が民を顧みてくださった。訪ねて、様子を気遣い、お世話をしてくださるのです。先にイエス様が言われたように、

十九10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

 イエス様が、失われた状態にあった私たちを訪ねて来てくださり、捜して救い出し、神様によって造られた本来の状態に回復してくださることに、私たちの平和があるのです。けれども、エルサレムはそのイエス様をまもなく十字架にかけようとしています。イエス様の言葉も愛も、平和の恵みも理解できず、頑固になり、思い上がって、イエス様を叩き殺さんばかりの憎しみで十字架に殺そうとしています。自分たちのやり方、豊かさ、力に拠り頼んで、神の訪れにも心を閉ざしている。その事をイエス様は悲しまれているのです。でも、イエス様は、怒って冷淡に突き放してしまうのではなく、泣かれました。なお熱い情熱、溢れる思いをもっておられます。繰り返しますが、それはエルサレムの町そのものではなく、そこに象徴される人々への愛であり、憐れみです。そして、その愛のゆえに十字架に掛かろうとされているのです。

 では私たちは今、この町、この国の都市、この国をどんな目で見るのでしょうか。この国の不信仰を嘆いて、裁きを予告する-そういう結論にさっさと飛びつく前に、ここに住む人々を神様がどれほど愛しておられ、平和を知らせようとされているか、を強く思わされるのです。

 ルカは「使徒の働き」で、パウロや使徒たちが各地の大都市を訪れた事を伝えます[7]。その繁栄を「バベルの塔」だ、悪魔の町だ、などと蔑んだりはしませんでした。そこに真の神が礼拝されることを願って、命も惜しまずに伝道するのですが、それは都市に象徴される人間の文化や営みが、真の神を中心としてあるべきだから、です。繁栄した不信仰よりも、貧しくても神との平和があるほうがいいに決まっていますが、そんな黒か白か、極端な二者択一に走るよりも、信仰を中心に据えた町、本当に「神の平和」と呼ばれるような豊かな営みを、神様は望んでおられることを、イエス様の涙は教えてくれます。

 そもそもこの町に、私たちが神の平和を与えられた者としてある、ということはどれほど尊い事でしょうか。弟子たちと同様、まだよく分かってはいなくても、しかし、この私たちを主が捕らえてくださり、平和を戴いたと知らされています[8]。そのような恵みを知らされた者として、私たちが今ここに、それぞれの場所に生かされています。平和を造る難しさを感じています。こじれた関係をどう戻せば良いのか分からず手を焼きます。それでも、私たちは、そのような私たちを一方的な契約によって救いに入れ、永遠の平和をもたらしてくださった、主イエス・キリストの福音を知らされています。その主の御業と御言葉に拠り頼んで、歩んでいます。文化や経済、事業、人間の営みは決して無意味ではありません。でも、それ以上に大切なもの、そして、そうした豊かさや繁栄に初めて命を吹き込むもの-真の神の平和、キリストが私たちとともにおられる事実。これを私たちが受け止め、味わいながら、ここに生かされている事実が、イエス様の愛、涙に溢れた程に熱い御心によってある事実を受け止めるのです。

 

「私共を訪れたもうた主よ。エルサレムから地球の裏側のここにまで、あなた様は平和を携えて来てくださいました。涙も笑いも、喜びも悲劇もある私たちを、あなた様がどれ程、熱い思いで見ておられ、愛し、朽ちない絆で結びつけておられることでしょうか。その主の御愛と御業に根ざして生き、労し、積み重ねる私たちの歩みにより、この町に御恵みを現してください」



[1] 本節の他に、ヨハネ十一35「イエスは涙を流された。」、ヘブル五7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

[2] 「泣く(クラウゾー)」はルカが最多の九回も使っています。(マタイ1回、マルコ4回、ヨハネ6回)。ルカ六21「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」25「いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。」、七13「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。」、32「弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。」、38「泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。」、八52「人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」、十九41、二二62「彼は、外に出て、激しく泣いた。」、二三28「しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」 ルカ福音書の「人間らしさ」が、この「泣く」という人間的感情を多用した事実にも現れています。

[3] 先ほど弟子たちは、歌っていました。「38…「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」しかし、イエス様は仰います。エルサレムには、平和のことが何も分かっていない。

[4] この事がわかる一つは、エルサレム入城の瞬間というものを、ルカは何も書かない、という記述です。人々が期待を寄せ、弟子たちがあれだけ興奮していたエルサレム入城なのに、次の45節ではいつのまにか、宮に入っておられるのです。

[5]イザヤ二九3わたしはアリエル[エルサレムのこと]をしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる」。また、エレミヤ書六章(6節ほか)、エゼキエル書四2、二六8、なども参照。

[6] 「訪れ」エピスコペー 使徒一20「その職」、Ⅰテモテ三1「監督の職」、Ⅰペテロ二12「おとずれの日に神をほめたたえるようになります」。動詞形でルカ一68「主はその民を顧みて、贖いをなし、」、78「そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ」、七16「神がその民を顧みてくださった」、使徒六3「選びなさい」、七23「顧みる心を」、十五14「異邦人を顧みて、」、36「たずねて行って」。ヘブル二6「主は御使いたちを助けるのではなく、確かにアブラハムの子孫を助けてくださるのです。」、ヤコブ一27「孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、」

[7] サマリヤ、アンテオケ、テサロニケ、コリント、エペソ、そしてローマなど。いずれも当時の大都市、州都です。

[8] 弟子たちもイエス様のすぐそばで、「天には平和」と歌い、盛り上がってはいても、その平和のなんたるかをまだよく分かっておらず、エルサレムを見て泣かれる御心からは遠く離れていました。でも、彼らはイエス様をお迎えし、イエス様の平和の中に入れられていました。

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問25「大祭司であるキリスト」 ヘブル七24-25

2014-11-09 20:06:01 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/11/02 ウェストミンスター小教理問答25「大祭司であるキリスト」

                                                                      ヘブル七24-25

 

 キリストが私たちの「贖い主」である、ということは、私たちの「預言者」であり、「祭司」であり、「王」であられる、というお話しを続けています。今日は二番目の「祭司」です。ウェストミンスター小教理問答25。

問 キリストは、祭司の職務をどのようにして遂行されますか。

答 キリストは、神の義を満たして私たちを神に和解させるために、ご自身をいけにえとしてただ一度献げたことと、私たちのために絶えず執り成しをすることによって、祭司の職務を遂行されます。

 「祭司」というのは、キリスト教以外の宗教にも出て来ます。神殿や宗教行事の時に前に立って、その儀式を執り行う仕事をする人です。普通の人ではなく特別な人が、呪文を唱えたり怪しい儀式をしたりするのです。他の誰かが立ったり、呪文を間違えたりしたら、神様を怒らせてしまって大変な事になる。そんな考えがあるように思います。

 でも、聖書は、そんな恐ろしい神様を信じません。もっと礼拝は、伸び伸びとして、祝福に満ちたものです。神様は人間を愛して、喜んでお造りになり、親しい交わりを持とうとされたのです。ところが、人間が、神様に背いて、罪を持ち込んでしまったために、神様と人間との間の親しさがなくなってしまいました。神様と人間の間に、罪という邪魔が入ってしまいました。人間の心が罪で汚れてしまったために、神様とさえ、親しさではなくて、怒らせないで言うことを聞いてもらえたら良い、という勝手な関係になったのです。そんな心のままで神様に近づくことは出来ません。神様は正しいお方ですから、罪を大目に見たり見逃したりすることは決してなく、ちゃんと罪を取り除かなければ、人間は神様に近づくどころか、罰せられて滅ぼされるしかないのです。

 けれども、神様は、ちゃんと罪を取り除いて私たちを近づかせてくださるために、イエス様を送って下さいました。イエス様が、神様と私たちの間にお立ちになり、もう一度、神様と私たちを結びつけてくださったのです。イエス様は、私たちの贖い主として、大祭司の務めを果たし、私たちの罪を赦すために十字架におかかりになったのです。

 イエス様が来られる前の時代に立てられていた祭司たちは、動物の生け贄を献げて、神様に人間の赦しと和解とを求めたり、その生け贄の血を人間に振りかけたりしていました。でも、動物をいくら犠牲にしても、決して人間の罪を赦したり、神様の正義を満足させたりすることは出来ませんね。動物の血やいのちには、そんな魔力は絶対にないのです。どうして神様は、そんな儀式をするようにお決めになったのでしょうか。それは、イエス様がおいでになるまでの準備にするためでした。本当の大祭司であり、本当に罪を赦し神様の怒りを宥めることの出来る犠牲を捧げてくださるイエス様がやがておいでになるまでの「代役」「しるし」が、旧約の時代の大祭司や生け贄の儀式だったのですね。そして、イエス様がおいでになって、真の大祭司としての務めを果たされて、ご自身のいのちを生け贄として、神様と私たちの間の罪を赦してくださったのです。

 ですから、今日、覚えたいのは、イエス様が大祭司として、完全に私たちを赦してくださった、ということです。イエス様の救いにあずかったなら、もう私たちは、神様の怒りや滅びを恐れなくてよい、ということです。私たちは、イエス様の御業に与って、自分の罪を罪として認めて、心から謙ることが必要です。赦されたからもういいんだ、と開き直ってはいけませんし、罪からもっともっと解放された方がいいに決まっています。けれども、私たちは自分の罪を全部気づくことは出来ません。今までに犯した罪、いいえ、この一週間や何日かだけでも、自己中心的な考えをしたり、人を傷つけてしまったりした罪を、一つ残らず思い出すことだって出来ません。そして、これからも、私たちは、まだまだ罪を犯してしまったり、悪い考えを持ってしまったりするでしょう。

Ⅰヨハネ一8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われている通りです。でも、そうした、これから犯す罪も、思い出せない罪も含めて、イエス様は私たちの全ての罪のために、完全な犠牲を捧げてくださいました。私たちの側の真剣さや努力や足りなさが、このイエス様の救いを左右してしまうことはありません。本当に私たちは、赦されて、神様との完全な和解を頂いたのです。

 礼拝の中で「罪の告白」をします。悔い改めを祈り、赦しを願います。けれどもそれは、まだ私たちがそうしなければ赦していただけない罪人だから、ではないのです。その逆に、私たちが罪を告白して、悔い改めることを通して、本当にもう赦された者である恵みを確認させて頂くのです。罪の負い目や後ろめたさ、神様の怒りを恐れてビクビクするような必要はないのだ。思い出せる限りの罪を告白して全部イエス様のもとに下ろさせていただくことで、思い出せない罪もすべてイエス様が引き受けてくださったのだ。イエス様が「あなたの罪は赦されました」と仰ってくださった。そう確認させて頂いて、心から神様を礼拝するのです。そのための「罪の告白と赦しの宣言」という時間なのです。そして、大祭司イエス様が、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちの心を更にきよくしてくださって、神様が造られたこの世界において、為すべき務めを積極的に果たさせてくださることを願っていきたいと思います。

私たちのために絶えず執り成しをすることによって、祭司の職務を遂行されます。

ともあります。イエス様は、十字架において既に和解を成り立たせてくださった、というだけでなく、絶えず神様と私たちとの間に立って、結びつけていてくださっています。今この時も、主が私たちの大祭司であられて、私たちを神様の民として歩ませてくださっています。そして、私たちの祈りや願いも、全部神様に届けていてくださるのですし、私たちの心がきよくなるように、働いておられるのです。

 聖書に出て来る大祭司は、胸当てにイスラエルの十二部族の名前を書いていました。その名前の書いた胸当てを落ちないようにシッカリ結びつけること、と書かれています。真の大祭司であるイエス様は、私たち一人一人を名前で覚えて、ご自分に結びつけていてくださいます。私たちのために、完全に執り成し、また、私たちをきよくしてくださいます。だから、私たちも、恐れや疑いや不安を捨てて、生きることが出来ます。そして、毎日の歩みでも、イエス様のように平和を作る人になるよう召されているのです。

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申命記四章1~14節「あなたがたの知恵と悟り」

2014-11-09 20:04:00 | 申命記

2015/11/02 申命記四章1~14節「あなたがたの知恵と悟り」

 

 1今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

 こう高らかに歌い上げて、モーセは申命記の本題に入っていきます。前回三章まで、今までの歴史を振り返らせた上で、改めて、モーセは民に呼びかけて、主の掟と定めに聞くよう呼びかけます。この申命記四章は「申命記全体の要約」とも言われます[1]。主の言葉を守ること、それに付け足したり減らしたりせず、その言葉に従うことを繰り返しています[2]

 しかし、それは決して、申命記や旧約聖書が、行いによる救い、人間の業(わざ)に基づく契約を教えているということではありません。「旧約の時代は律法を守ることを命じられたけれども、イスラエルの民は失敗したので、イエス様が来てくださって、行いによらず、ただ恵みによって救われる、人間は信仰だけで救われるようになった」。そういう誤解を、私もしていました。けれども、旧約の救いも、最初から主の恵みによっていました。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から救われて、今、約束の地に辿り着く所まで来たのも、ひとえに主の憐れみと恵みによる御業でした。そして、その恵みにいよいよ拠り頼むよう、御言葉に聞き従うのです。3節で出て来る「バアル・ペオル」は、民数記二五章にある出来事で、色仕掛けと偶像崇拝の誘惑に負けた大失敗です。人間の欲望や甘えを唆す誘惑は、苦々しい結果にしかなりませんでした。しかしその逆に、何か、正しいけれども難しいこと、立派だけどレベルの高いことを要求して、それをクリアしたら救ってあげる、と要求するようなカミもまた、真の神とは違うまがい物です。御言葉を守ることは何かの手段ではなくて、それ自体が祝福であり、命なのです。

 6これを守り行いなさい。そうすれば国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言うであろう。

 偉大な国民になる。でもそれは、経済大国や軍事大国という意味ではなく、知恵と悟りの大国になるというのですね。御言葉に聞き従うことは、窮屈なこと、大変なことではなくて、賢さ、洞察、現実的な判断力に繋がるのです[3]

 7まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。

 御言葉を与えてくださる主は、御言葉において、私たちとともにいてくださいます。それは、一般的に神様はこういう方だ、誰に対しても「神様はいつもあなたと一緒にいてくださる方だよ」と言えることではなくて、神様の恵みの契約によって、主の民とされた者に与えられる特別な祝福なのです。「御言葉を守ることによって主の民とされる」でもないのですが、「御言葉を守らなくても神様はともにおられるよ」でもなく、主の契約の民とされたからこそ、神様からの知恵と正しさを頂くのです。御言葉の光に照らされて進む恵みが与えられているのです。

 8ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。…

 では、この「自分の目で見たこと」とは何でしょうか。10節以下にあるように、ホレブ(シナイ山)で律法が与えられた時、

11…山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒があった。

という恐ろしい光景でしょうか。そういう圧倒されるような光景を心に焼き付けて、その神様の言葉なんだから従わなければならない、というのでしょうか。いいえ、そうではありません。

12主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。

13主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うよう命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。

 大事なのは、あんな神様の壮大な栄光を目で見る、特別な体験をすることではないのです。あの山で与えられたのは、結局、神々しい姿やインパクトではなくて、主の声だった。強烈な体験よりも大切なのは、主の言葉を聞かせて戴いて、それを私たちが行うことだった。それが、

…ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。

と言われていることなのです。神様の栄光を見たという体験も大切です。でも、その体験が、御言葉においていつも共にいてくださる神様への信頼、忠実、御言葉に聞き従うことに繋がらないなら、その体験が生かされることにはなりません[4]。そして、バアル・ペオルの失敗も反省しないままなら、何か目の前にある楽しみとか戦い、誘惑にコロッと騙されて、御言葉から離れることに必ずなるのです。忘れてはならないのは、神様の力や栄光は、スゴい出来事や奇蹟を見、体験することよりも、従うべき御言葉が与えられていること、御言葉に聞き従うという関係にある、ということです。私たちが呼ばわる時、いつも、主は近くにおられるのだという約束です。そうは見えなくても、そうは信じられなくても、主が私たちに下さっている言葉が、私たちに知恵を与え、悟りある民とする、唯一の道なのだ、という事です。

 主の言葉は、「十のことば」(十戒)であって、これが「契約の言葉」であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされたと13節にあります。この「二枚」は、以前は十の言葉の、神に関する半分を一枚に、後半の人との関係に関する言葉をもう一枚に書かれた、と理解されていました。けれども考古学の研究が進んで、違う理解になっています。二枚は、全く同じ内容の写しです。契約を結んだ両者が、同じ文書を持つことで、契約が成立するということです。二枚の石の板は、神様が契約を一方的に人間に与えて命じられただけでなく、神様ご自身もその契約を覚えておられて、その約束を必ず守ってくださる、という証拠なのです。

 イエス・キリストは、インマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれるお方です。世の終わりまでいつも私たちとともにいると約束された方です[5]。イエス様は、人として歩まれて、この世界で御言葉を信じることがいかに難しいか、御言葉から引き離そうとする力が如何に強く働いているか、いいえ、御言葉さえ偏って用いて信仰から引き離そうとする誘惑があることさえ、よくよくご存じです。私たちがどれほど失敗しやすいか、騙されやすいかも十分知っておられます。私たちが愚かで騙されやすく、見える出来事に振り回され、恐れ、滅んでいくままでいいとなどとは思われません。ともにいてくださる主への信頼と、そのお方が下さる知恵の言葉によって育てようと願っておられるのです。御言葉に、十の言葉に従いなさい、と仰るのです。私たちの人生を支えて、傷はあっても真っ直ぐな心で歩ませてくださるのです。

 

「呼ばわる時、いつもあなたは近くにおられると信じさせてください。御言葉の光で私たちを助け、知恵を与え、過ちや愚かさから救ってくださると、味わい知る一生であらせてください。心が挫け、あなたが見えなくなり、自分を見失うことが起きますから、どうか御言葉の道を示して励ましてください。そして私たちを、主への信頼に生きる幸いの証しとならせてください」



[1] 宮村武夫『申命記』(新聖書講解シリーズ 旧約4、いのちのことば社、1988年)35頁。

[2] 1節の「おきてと定めをと聞きなさい」は、五1、十一32、十二1、二六18でも繰り返されます。いずれも、申命記の展開において、肝心な転換点です。

[3] またこれは、政治形態や組織によってではなく、民の一人一人の教育と成長によってなされる「大国」化です。

[4] 出来事よりも言葉が大事、と言っているのではありません。言葉と出来事が切り離せないこととして覚えられているのが申命記なのです。J. G. McConville, Deuteronomy, (Apollos Old Testament Commentary, IVP, 2002), pp.115-116. 

[5] マタイ二八18-20。

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