2014/11/23 ウェストミンスター小教理問答28「キリストは高くなってくださった」
ピリピ二章6~11節
今日のピリピ書のみことばは、先週も開いた所です。キリストが低くなってくださったこと-ご自分を卑しくし、十字架の死にまで低くなられたこと-を言った後に、
9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
とあったのです。神の栄光から、私たち人間と同じにまで謙ってくださったイエス様は、高く挙げられた(これを「高挙」と言います)、全ての名にまさる名前をお持ちになった、高いお方であるのです。
問 キリストの高挙は、どのような点にありますか。
答 キリストの高挙は、彼が三日目に死者の中からよみがえられたこと、天に昇られたこと、父なる神の右の座に着かれたこと、また、終わりの日に世を裁くために来られること、にあります。
イエス様だけに与えられた特別な高さ、と言い換えてもいいでしょう。それがここに四つ書かれています。一つ目は、イエス様が、十字架で死なれた三日目に、墓の中からよみがえられたことです。時には、死んだ人が息を吹き返すこともあるようです。イエス様が、死んだ人をよみがえらせた奇蹟も、少なくとも三回はありました。でも、イエス様は、ご自分で最初から、死と三日目の復活を予告しておられました。また、他の人はよみがえってからまた、今度こそ本当に死んでしまいました。イエス様は、死に打ち勝って、栄光の体でよみがえられましたので、もう死ぬことはありません。今も生きておられます。たまたま死んで一回よみがえった、というのではなく、死に勝利されて、今も生きておられる。これは、私たちのために十字架に死んでくださったイエス様だけの、特別な「高さ」の第一です。
そして、イエス様は、それから四十日して、天に昇られた、とルカの福音書の最後と使徒の働きの最初に書かれています。ヘブル書では、
ヘブル九24キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。…
とあるように、これはイエス様が、大祭司としての贖いの御業、私たちのための罪を取り除くため、捧げられたご自身を、天に携えに行ってくださった、ということです。
そして、三つ目の「父なる神の右の座に着かれたこと」とあるのは、天に本当に宮殿やお城があって、神様の席(御座)があって、その右にイエス様のお席があるということではありません。神様の権威を行う立場、位を与えられた、ということですね。何度も引用していますが、マタイの福音書の最後にイエス様はこう仰いました。
マタイ二八18…わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
天で神の右の座に着いておられる、というのは、このイエス様の権威を表しています。それは、どんなものよりも高く大いなる権威です。
しかし、イエス様は、弟子たちにこうも仰っていました。
ヨハネ十四2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
イエス様が、天高く遙かな所に挙げられたことは、私たちをそこに迎え入れて下さるためだ、とイエス様は仰います。高すぎて、見えなくて、偉くなり過ぎちゃって、余所余所しく感じてしまう、かも知れません。けれども、私たちがどう感じようと、イエス様は、死からよみがえり、天に昇り、神の右の座に着かれるほど、高く挙げられて、私たちのために場所を備え、私たちのために執り成しておられるのですね。天の高い所で、私たちの贖い主として、預言者・祭司・王の務めを果たしてくださっているのですね。そして、その天の高きにおられるお方が、私たちを守って、やがて天に引き上げてくださる。そのために、イエス様はもう一度この世界においでになって、すべてのものを裁かれて、天の御国を始めて下さる。そのことを見上げて、天の主を見上げながら、歩みなさい、と私たちは励まされているのです。
ピリピ三19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
イエス様はこの地上に来てくださいました。低く、卑しくなられて、人間の罪や苦しみや悲しみを、全部味わい知ってくださいました。そして、そのイエス様が私たちの思いを全部、天に届けてくださいました。そこから、私たちのために執り成し、王として治め、祭司として執り成し、預言者として語ってくださっています。ですから、私たちは地上のことを思うだけではありません。天を見上げるのです。高く挙げられたイエス様を想って、天を見上げるのです。そして、やがてそこからイエス様がおいでになる。世界を裁かれるために、でも、私たちのことも裁かれた上で、必ず天の住まいに入れてくださる。私たちを天の古里に迎え入れるために、天から来てくださる。そのことを思って、天を見上げましょう。
神様はノアに、空の虹を示されました。また、アブラハムには、天を見上げて星を数えなさい、と言われました。抜けるような青空、満天の星々、雲海からの眺め、美しく広がる朝焼け。そんな空をじっと見上げていると、私たちの毎日は、大きく息をつくことが出来るようになります。天に上げられて、私たちを大きな手で守っておられるイエス様を想いましょう。イエス様から励ましと希望をいただいて、賛美していきましょう。