2015/03/15 ルカの福音書二一章20-24節「悟るべきとき」
先週、東日本大震災から四年経ちました。新聞に「悲劇を繰り返さない」という記事がありました。震災そのものは防ぎようがないことでした。けれども、あんなに大きな津波だとは思わず、逃げ遅れた人が多くいました。その甚大な犠牲への反省や強い後悔から、「悲劇を繰り返さない」、すぐに高台に逃げる訓練もしている、という記事でした。
二千年前、イエス様がここで予告されたように、エルサレムが軍隊に囲まれたとき、大勢の住民が、逃げようとしなかった。エルサレムは大丈夫だ。神の都、美しい大神殿があり、神様に選ばれた特別な街なのだから、守られるに違いないと思いました。また、群衆を扇動する預言者たち(偽預言者たち)も神殿に集まれば神様が守り、ローマの軍隊を蹴散らしてくれると説き伏せて、逃げようとした人々を「裏切り者」として処刑したのだそうです[1]。
しかし、イエス様がそれに先立つ四十年ほど前、ここで仰った言葉を受け止めていたキリスト者たちは、エルサレムが軍隊に囲まれた時に、すぐにエルサレムから逃げたと言います。都の中から立ち退き、郊外にいた人も戻ろうとはせずに脱出して、大勢が生き延びたのだそうです。「エルサレム不滅信仰」などには縋(すが)らずに、助かりました。
確かに、聖書の中にはエルサレムを神の都として歌う詩篇もあります。しかし、その都にさえ留まっていれば何をしていても大丈夫、とは教えられていません。むしろ、神に立ち帰り、御心に従わなければ、それに相応しい報いを受けることになることが、繰り返して教えられているのです。そういう意味でもイエス様は、ここでただエルサレム滅亡の出来事を預言されたという以上に、ユダヤ人たちの不信仰を責めて、心から神に立ち帰ることを求められたのです。
23…この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
と仰っているのも、ただ不吉な未来を予言されたかったのではなく、心と生き方を悔い改めるよう招くことこそが、イエス様の意図だからです。「エルサレム神殿が立派な建物だ、自分たちはそれを大事にして、犠牲を捧げている、だから大丈夫」。そういう思い込みが、やがて大変な悲劇を招きます。エルサレム神殿こそ聖地であり世界の中心だと、そう思い込む人々の狂信で、「九万七千人が捕虜になり、百十万人が殺された」と伝えられています[2]。物凄い犠牲者です。震災の時にも「安全神話」というものが逃げる足枷になりました。戦時中に日本は「神風」が吹くから負けるはずがないと言っていました。ユダヤでもそうでした。イエス様は、そういう楽観的な「神話」を捨てさせられます。見える生活の安全を信じる信仰ではなく、神様の道に従う信仰、人生の危険を悟って、逃げるべき時には逃げる信仰、を語られます。
しかし、このような言葉だけを読んで、神様の裁きの恐ろしさ、神様という方への恐怖ばかりを募らせて、それで信仰を持たせることが出来るのでしょうか。イエス様は、そんな恐怖心を煽り立てたいのでしょうか。そうではありません。確かに、エルサレムに立てこもり、「きっと奇跡が起こる」と信じるような見込みは間違っていました。神様は自分を怒られるはずがない、という筋書きは勝手な予想でしかありませんでした。聖書は、主なる神への信仰と従順を求め、それを侮って建物とか形式などに縋る歩みは、滅亡、報復、苦難に至ると教えます。けれども、そんな警告よりももっと素晴らしい約束こそ聖書の福音です。神様を信じて従うことの幸い、素晴らしさ、喜び、力こそ、イエス様の福音が与えてくれる祝福です。
この天地を造り、今もすべてを治めておられるお方。聖なる神であり、正しい神であり、憐れみ深い神であるお方が、私たちを造られ、いのちを与え、私たちを神の民としてくださいました。御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その十字架の尊い犠牲によって、私たちに新しいいのちを下さいました。主は、この私たちの小さな歩みを教会に集めることを通して、神様の栄光を現してくださいます。一人一人に神様は、深く特別なご計画を持っています。私たちが何か目覚ましいことをするというのではなく、むしろ、見えない所、心の隠れた思いから語りかけ、私たちを変えてくださるのです。それが、イエス様のご計画です。
私たちは弱く、貧しい者です。けれども主なる神様は、私たちがどんな恥や醜い思い、人間社会では赦されないような過去を持っていたとしても、そこから私たちを救い出し、新しく「神の子ども」として歩み始めさせてくださいます。決して私たちを離れず、私たちを捨てず、神の子どもとして訓練し、成長させ、教え導いて、この地上の生涯を、かけがえのない意味のあるものとしてくださいます。私たちが神様を第一に礼拝しながら生きる時に、福音によって私たちは変えられます。自分の利益や欲望や世間体に従うのではなくて、神様に従った聖い価値観をもって、人を助けたり、愛の言葉をかけたり、正直になり、ともに泣いたりともに笑ったりする。そうして教会が建て上げられていくという神様の、大切なご計画があるのです。
もし、このような主への信頼なしに、ただ裁きへの恐怖心や、信心の下に憎しみを秘めた動機で、罪を避けるだけ、神様に怒られないような生き方をしようとする、というだけなら、そのような生き方そのものが罪に他ならないと言っていいでしょう[3]。イエス様はそんな窮屈で詰まらない人生を与える救い主ではないのです。自分を神様に明け渡し、御言葉に従う道-自分の人生を自分のためでなく主の御栄光が現されるために捧げていく生涯-そういう歩みに伴って、捨てるもの、失うものは沢山あるのですけれど、その失ったものすべてにまさる恵み、祝福を神様は用意していてくださいます。それをイエス様は、語っておられるのです。
でも、そのようなイエス様の言葉を聞きながらも、この時の人々も、躊躇(ためら)いました。神殿を隠れ蓑として自分の問題を認めようとしない。どんなに素晴らしい神様からの招きを聞きながらも、それでも人間は今手にしている特権を手放したくない。このまま何とかなるんじゃないか、という筋書きを描いてしまうのです。だからイエス様はこんな厳しい言葉で、強く仰るのですね。その言葉にも、イエス様の憐れみが溢れています。逃げなければ救われませんが、逃げなさい、立ち退きなさい、と言ってくださるのです。逃げても、逃げた先で「あなたは今まで勝手に生きてきたから駄目です。救ってあげることは出来ません」とは断らないのですね。最後の最後で、やっとイエス様のもとに駆け込んだ者をさえ、受け入れてくださるのです。
とはいえ、その時になって悟ればいいと思っていたら危険ですね。この言葉を聞いている人々、この言葉をともに聞いている今日の私たちに対して、悟りなさいと言われているのです。そうでないと、悟ることさえ先延ばしにしてしまうでしょう[4]。その時に「悟る」ためにも、今から、主の御言葉に応えるのです。イエス様の約束に励まされて、この世界の語る「安全神話」とは違う道を歩むのです。主の裁きの厳粛さをも心に留めつつ、その裁きを避けようとか何とかしようと考えて終始するよりももっと伸びやかに、主に従う生き方、聖い生き方を大切にしていくのです。今日書かれているような滅びが私たちの人生の終わり方であってよいはずがない。余りに勿体ない。そうイエス様が叫ばれた言葉に従おうではありませんか。
「正義の主であり救い主なる天の父よ。あなた様が私たちに備えてくださった命の道よりも、見えるもの、見かけに心を奪われやすい私たちを、いつも深く心に語りかけて、見えないあなた様の約束に立ち戻らせてください。主イエス・キリストの贖いによって与えられた豊かな御業に与れるよう、どうぞ私たちを悟らせ、目覚めた者としての歩みを全うさせてください」
[1] 「神殿不滅信仰」というものの根拠になったのは、詩篇四六篇、四八篇、七六篇。イザヤ書やエレミヤ書にも垣間見えるものですが、そこではそのような盲信が間違っていることも強く教えられています。
[2] ヨセフス『古代誌』六420。この数字は大袈裟であろうとも言われますが、それをさっ引いても、相当な犠牲者であったことは間違いないでしょう。
[3] その好例は、ルカ十九20~26で語られていた「一ミナのしもべ」への裁きです。
[4] 「20…エルサレムが軍隊に囲まれているのを見たら、…」とは、「囲まれ始めたのを見たなら」という意味です。囲まれ始めても、まだ大丈夫じゃないか、と思っていて、囲まれてしまってからでは遅いのです。