聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

「礼拝⑭ 養い主なる神」マタイ14章13-21節

2017-03-12 20:18:38 | シリーズ礼拝

2017/3/12 「礼拝⑭ 養い主なる神」マタイ14章13-21節

 私たちがいつも祈っています「主の祈り」を、改めて一つずつ取り上げています。前回まで「御名、御国、御心」と来て、まず天の父なる神をあがめ、神を礼拝し、委ねる祈りであることを見てきました。今日から「私たちの」祈りになります。その最初は、何を祈るでしょうか。私たちなら、自分のためにまず何を祈るのでしょうか。主イエスが教えられたのは「糧(パン)」です。

1.「糧」はパン

 「日毎の糧を今日もお与えください」。

 なんと有り触れた願い事でしょうか。もっと高尚で、信仰的で、壮大な祈り-たとえば「世界平和」「奇蹟を行う力を」「神の栄光を現す大事業を」などと祈ることも出来るのに、イエスが教えられたのは

「日毎の糧」

 つまり自分の一日分の食事を乞う祈りでした[1]。しかし、こう祈る事を教えることによって、イエスは私たち弟子に毎日のご飯、生きるのに必要な最低限のことさえひとえに神が下さると教えられました。「食事はあって当たり前、神に願うならもっと大きなもの、特別な事を」ではないのです。食べ物や命さえ当たり前ではありません。私たちは神に養われて生かされていると教えられるのです。

 この「糧」はパンです[2]。私たちの食事、ご飯です。これを直ぐ、もっと「神聖」な意味に換えて「みことばのパン」とか主の聖晩餐のパンだとか広げようとしてはなりません。本当に私たちの食事、必要最低限のものが神からの賜物だ、神が私を生かしておられるのだ、と生々しく覚えさせるところに、主の祈りのインパクトがあるのです。イエスは祈りについて、

六6祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて…祈りなさい。

と言われましたが、その「奥まった部屋」とは食料庫のことだとも言われるそうです[3]。食料庫に入り、生活の現場から祈りをささげる。私たちはこの生々しい現実を棚上げしがちです。「神は自分の祈りなど聞かれない、祈っても何にもならない」と呟きがちです。呟きながら、神から備えられた食事を食べているのです。神は天の父として、私たちに必要な食事を下さり、生かしておられます。祈りに応えてくださらない、何もしておられない、ではないのです。

 「主の祈り」が教えられたマタイ五から七章の「山上の説教」をまた思い返してください[4]。主はこの祈りに続いて、弟子達に

「何を着ようか、何を食べようかと思い煩うな」

と教えられ、天の父が私たちを養ってくださっていることを信頼するよう教えられました。野の花や空の鳥を見て、天の父の養いを信頼せよ、と言われました[5]。そして、今日の十四章15節以下では

「五つのパンと二匹の魚」

で男だけでも五千人の人々を養われた奇蹟を見せられました。これはマタイとマルコとルカ、ヨハネの四つの福音書が全て記している唯一の奇蹟です[6]。それだけにこの記事にはイエスの福音が凝縮されて、豊かに生き生きと物語られていると言えます。

2.天地の造り主を信ず

 ここでイエスは、子どもの弁当に過ぎないパンと魚で一万もの人を満腹させるパフォーマンスで人々を惹き付けられたのではありません[7]。そうだと誤解した人々に対してイエスは一線を引かれたと、ヨハネの六章に記されています[8]。そして実際こんな奇蹟をイエスがなさったのは二回だけです[9]。しかし、イエスが天に帰られた後も、いいえ、天地創造の最初から今に至るまで、神は私たちをパンや魚で養い続けておられます。人間が神に背き、恵みを忘れて呟いてもなお神は太陽を上らせ、雨を降らせておられます[10]。穀物を生じさせ、豊かな実りに至らせ、それが食料となって人間の手に入り、手間暇をかけて調理されて食卓に並ぶまでの全てのプロセスを備えておられます。それは、パン五つを何千倍にした一瞬の奇蹟に、遙かに勝ってダイナミックでドラマチックな奇蹟です。イエスが五つのパンと二匹の魚の奇蹟で示されたのは、天の父が私たちに食べ物を豊かに与えてくださること、私たちもその養いと憐れみを信頼して、互いにその配慮をしていくことでした。言わば、

「私たちの日毎の糧を今日も与えてください」

という祈りがどれほど現実的であるか、ということでした。

 イエスは日毎の糧を与えたもう父、「天地の造り主」を信じる信仰を育てられます。この世界のものや現実と切り離された信仰の世界、天国の宗教ではなく、この世界を造られ、支えられる神を信じ、今朝の食事も、それを食べたこの体、手足も、神のものとして見るのです。また、糧を生じさせるこの世界の、ユニークな自然、ビックリするほど面白い動物や、カラフルな植物など多様な生態系、太陽や宇宙、不思議な自然界を造り、支えたもう神を信じます。もっと言えば、神から与えられたこの世界の営みを、自分のためではなく、神を喜び、感謝して育てる使命を信じます。人間は、体や「世俗」と切り離して、伝道や奉仕や教会の事をするのが信仰だと誤解しやすいものです。天地を作られた神を信じる時、自然を育てること、体を大事にすること、社会を営んでいくこと自体が神の栄光を現す、かけがえのない意味を取り戻します。牧師や伝道者になるのは素晴らしい人生ですが、それは社会に生きる人、また体が弱くて生きるのが精一杯という人にさえ、その生きる喜び、生かされている素晴らしさを取り戻すお手伝いをするためです。神に日毎の糧を求めて祈る祈りは、そういう招きなのです。

3.私たちのものを私たちに

 イエスが教えてくださった祈りは「私たち」と繰り返しています。「私」ではなく「私たち」と教えられます。この第四祈願でも「私たちの日毎の糧を私たちに」です。自分が食事に事欠きませんよう、ではなく、私たちの日毎の糧を私たちに、なのです[11]。豊かな人が他者の食料まで取り上げて、贅沢に楽しむことをこの祈りは窘めます。「私たちに」と祈る時、私たちは自分だけでなく、この祈りを祈るすべて方々に思いを馳せるのです。実際イエスも弟子達に、

マタイ十四16…あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。

と仰ったのです。この言葉を受け止めて弟子達は、教会に長老と執事とを立て、監督の務めと食卓の配慮の務めを大事にしようとしました。ただの宗教ではなく、現実の問題に取り組もう、この世界は神がお造りになった素晴らしい世界である意味を取り戻そうとするのです[12]

 二千年前と今では、社会の構造は大きく変わりました。弥生時代の日本と現代では社会も全く様変わりして、同じような働きは求められていないかもしれません。同時に「糧」に凝縮される人間の必要はより深く理解されています。人に必要なのは栄養補給だけでなく、噛むことや香りや楽しみ、また食べた物の排泄も含めた健康もだと分かってきました[13]。食糧の心配よりも、食べ過ぎや肥満の解決も必要になっています[14]。その根っこには、豊かさが幸せだと勘違いが扱われなる必要があります[15]。人間が生きるのには、健康は勿論、知恵や正しい情報を見分ける力、人格的な成熟などもあるのです。ストレスでさえ、ある程度はなければダメなのだそうです。

 生き甲斐も必要です。家族や友人、共同体も必要です。一緒に人生を分かち合い、喜んだり泣いたり、笑わせてくれる仲間がいて、健全な自尊心、自己肯定感をもらうことも必要です。そして、そうした所での問題が人間を深く傷つけているという現実もあります。それは、伝道や信仰だけで解決できない、現実的な問題です[16]

 ですから、教会には食料の援助や教育の働き、様々な支援団体の活動があるのです。その全てに取り組めるわけではありません。それでも主イエスが私たちに「私たちの日毎の糧をお与えください」と祈る道を示してくださいました。ですから私たちは祈るのです。

「私たちの日毎の糧を、生きるのに必要なものを私たちにお与えください。食べる物がない人に食べ物を、食べ物が豊かにあるのに生きる意味を見失っている人に生き甲斐を、孤独な人に良い仲間を与えてください。そのために遣わされている私たち一人一人を助け、祝福してください。そうして、私たちに命も糧も与えてくださっているあなたを、ともに心から誉め称えさせてください」

と祈り、行動するのです。

「日毎の糧を与え、私たちを養いたもうあなたの御愛を感謝します。あなたが私たちを喜んで養い、今ここに生かしておられます。そうして、私たちがともにあなたのいのちを戴くよう、その事を願い、仕え合うよう送り出してくださいます。どうぞ主の恵みに気づき、感謝する者としてください。互いに生かし合い、喜び合い、天の父を称える私たちとならせてください」



[1] 先の「荒野の誘惑」では、石をパンに変える誘惑に抵抗されたイエスが、ここではパンを求めよと言われる。そこに、人間をバランス良く見ておられるイエスの深い理解が現れている。私たちも自分の必要に気づこう。そして、そのすべてが天父の養いによって与えられることを祈り求めよう。

[2] もちろん、ご飯ではなくパン、という意味ではありません。日本人はパンではなく米食文化で、食事の事全部を「ご飯」というように、このパンはパン食文化での食事全体です。ですから日本語では「糧」と堅い言葉を使ったのでしょう。どちらにしてもこれは食事のことです。

[3] ジェームズ・フーストン、『神との友情』、199頁。

[4] マタイでの「パン」 四3、4(荒野の誘惑)、七9(パンを求めるのに石を)、十二4(ダビデが供えのパンを食べた史実)、十四(五つのパンと二匹の魚)、十五2(洗わない手でパンを)、26(机の上のパンを子犬にはあげない)、33以下(七つのパンの給食)、十六5(パンを持ってこなかった)、二六26(最後の晩餐)山上の説教では、天父の養いも強調。六25以下の「思い煩うな」も、七9以下「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。10また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。11してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。12それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」も。ここでは、神が下さるのがパンである、という以上に、神は当然必要なものをくださるし、何よりも、神の国とその義を求めて生きる生き方、自分にしてもらいたいことを他の人にもする生き方を下さる、そのような心、生き方を下さる、というメッセージである。食べ物や必要から、神の恵みに生かされる生き方、神の恵みの栄光を現す生き方まで、神は下さらないはずがない、というメッセージである。

[5] マタイ六25-34。

[6] マルコ六32-44、ルカ九10-17、ヨハネ六1-13。マタイ、マルコ、ルカの三つは「共観福音書」と呼ばれ、重なる記事は多いのですが、ヨハネは独自です。イエスの復活以外に四つの福音書に共通する奇蹟記事は、この「五つのパンと二匹の魚」だけです。

[7] ヨハネの並行記事では、この「五つのパンと二匹の魚」が「少年の持っている」ものだとあります。そこからよく「お弁当」という言い方がされます。本当にお弁当だったのか、少年が差し出したのか、などは想像の域を出ませんが。

[8] ヨハネ六15、26以下をご参考に。

[9] マタイの十五32-39(及び、マルコの並行記事)では男四千人を七つのパンと少量の魚で満腹にされた記事があります。この二つでイエスのメッセージとしては十分であったとお考えであった事は、十六8-11で明らかです。

[10] マタイ五45。

[11] 「私たちの場合、物質が溢れかえった消費文化のただ中で、次のように言うことができるようになる恵みを求めて、この祈りを祈るべきなのです。「もうこれで十分であるということを知る恵みを与えてください。」「この世界が多くの物によって誘惑して来るときにも、私たちが『いらない』と言えるように助けてください」。(ハワーワス、148頁)

[12] 神が私たちに糧を与えておられることに気づく時、それは何のためか、も考えずにはおれない。それは決して無駄ではなく、目的がある。ただしそれは、人間が考えがちな、有用性とか効果ではない。憐れみ豊かな神は、私たちをも神の恵みに沿って生きる者とならせることを考えておられる。私たちが何かをすることが大事なのではなく、神の恵みに応えて、感謝と喜びをもって生きることこそ、神が私たちを生かしておられる目的である。

[13] 天の父は、私たちの下の世話をも配慮してくださっています。

[14] 「しかし、私たちは、パンが少なすぎることによってではなく、自分をむしばむ虚無感を絶え間なく消費し続けることでごまかそうと、あまりに多くのパンを集めることによって滅びていくのです。」(ハワーワス、『主の祈り』、147頁)

[15] ここで思い出されるのは、箴言三〇8-9です。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

[16] それは、食糧難が祈りだけでは解決しないのと同じです。食糧が与えられるように、とは祈りますが、それを祈るだけで何もしないとか、「祈れば空腹で悩むことはなくなる」などという事はないでしょう。

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問55「聖徒の交わりを信ず」Ⅰコリント12章14~27節

2017-03-06 10:43:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/3/5 ハイデルベルグ信仰問答55「聖徒の交わりを信ず」Ⅰコリント12章14~27節

 

 「使徒信条」を少しずつお話ししながら、もうあと少しになろうとしています。今日は「聖徒の交わり」です。これは「聖霊を信ず」という私たちの告白が、「聖なる公同の教会」に具体化して、更にそれを詳しく「聖徒の交わり」と言い換えたものです。

問55 「聖徒の交わり」についてあなたは何を理解していますか。

答 第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。

 「交わり」とはキリスト教用語ですよね。教会ではよく聞くけれども、教会以外ではあまり使わない言葉です。こういう言葉は極力減らした方がいいと私は思っています。教会用語や業界用語は鼻につくものですし、自分達と外との間に壁を作ってしまいます。そして案外意味が曖昧なまま使われていることが多いのです。折角ですから、今日は交わりの意味を考えてみましょう。しかもそれを、「使徒信条」という正式な信仰告白文書の中でわざわざ入れて告白しています。それほど大事なものなのだ、ということを、この素晴らしさを、よく味わって戴きたいのです。

 「聖徒の交わり」と言いますが、この言葉のもともとはセイントです。これをカトリック教会では「聖人」と訳しているそうです。聖人、というとどうでしょう。特別に清らかな人、人間離れした人、あるいは自分は特別だと思っている人を揶揄していうこともあるでしょう。カトリック教会では教義として「聖人」という考え方があります。殉教したり特別敬虔な生涯を送ったりしたキリスト者を、教会が大変厳密な審査をして、幾つもの条件をクリアすると「聖人」として認定されるのです。そして、その聖人は特別な功績をたくさん摘んでいるので、一般の欠けだらけの信者のために執り成しをしてくれますし、信徒も聖人に祈ってキリストへの執り成しをお願いしたりするのです。そういう特別な聖人達との交流があることを「聖人の交わり」と考えるのです。

 こういう考えに対して、プロテスタントは聖書の教えに反するものとして抗議をしました。キリストが聖なるお方なのであって、私たちの事を完全に救い、執り成してくださるのだ。聖人に頼る必要などないし、聖人になれる人など誰もいないのだ。そういう考え方を打ち出したのが、プロテスタントだったのです。そして、私たちは皆、キリストが聖であり、聖なる御霊が私たちを救って下さるゆえに、「聖なる公同の教会」の一員とされた時に「聖徒」ともされているのですね。キリストが世界の色々な人を集めてくださいました。そこにある人は完璧な人などいません。聖人という意味で清くなれる人などいないのです。罪や過ちをまだまだ抱えていようとも、集めて下さったキリストが聖であるゆえに、私たちは「聖徒」であり、教会は「聖徒の交わり」なのです。

 ここでもう一歩踏み込んでみましょう。思い出して下さい。先の後半には、

 …第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。

ともありました。「聖徒の交わり」には、聖徒とされた信徒が集まっている、というだけではなく、もっと積極的な「責任」があるというのですね。

「弁えなければならない」

とは強すぎる言葉にも感じます。しかし言いたいのは、キリストが私たちを教会の一員とされた時、私たちは一人ではなくなる、ということです。自分一人が救われるとか聖人になるとかではないのです。群れの一員となって、互いに助け合い、自分の賜物を他の部分(他の一員)の益と救いとのために、用いるようになる。そういう積極的な意味が「聖徒の交わり」という言葉にはあるのです。先に読んだように、

Ⅰコリント十二26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 勿論そうは言っても、教会の交わりが楽しく素晴らしい事ばかりである訳ではありません。やっぱり違う人間同士、楽しい時もあれば、すれ違ったりぶつかったりする時、嫌になるような時もあるのですね。人の醜い部分が見え、傷つく事もあります。いっそ、教会なんか行かない、交わりなんていらない、と言いたくなる時もあるでしょう。でも「使徒信条」が言うのはそういう人たちに対してです。教会の交わりを批判して、自分一人だけ(それこそ聖人ぶって)キリスト者として生きればいいだなんて、そんなものではないのだ。様々に問題があって、難しさがあって、欠けや違いがあるとしても、キリストは私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました。愛し合う難しさや限界を承知の上で、愛し合いなさいと言われました。そして、その私たちの交わりの中で、確かに私たちは祝福を受けたり、自分の賜物が用いられたり、教えられ、励まされるのです。苦しい思いを通りながら、成長し、砕かれていくのです。教会の交わりは、綺麗事でも無駄でもありません。確かに主は、交わりを通して働いてくださるのです。

 実は「聖徒の交わり」という言葉は、「聖なるコミュニオン」つまり聖なる聖晩餐、とも訳せるのですね。私たちはそのような意味には直接は取りません。けれども、これは私たちが「聖徒の交わり」を理解する上でとても良い絵でもあるとも思うのです。

 聖なるキリストを現すパンを、私たちはともに裂きます。今日の朝の礼拝でも私たちは、パンをともに分け、杯を分かち合いました。言わば、目には見えませんが、世界の教会の聖徒たちと、一つのパンを分かち合うのです。それは私たちが、キリストにあって一つとされ、もはや一人ではなく互いに自分の賜物を用いて仕え合い、ともに歩む群れであることを豊かに物語っています。教会の交わり、出会い、関わりは

「聖徒の交わり」

です。教会は、人と関わり、繋がったり助けたり、笑ったり泣いたり、語り合う場です。自分の罪や限界を知らされ、罪の赦しや回復をリアルに知らされます。ともにパンを裂くだけでなく、時間や力、感謝や涙を、もっといえば人生を互いに分かち合う交わりがここにあります。そのような交わりをキリストが私たちに与えられ、聖別し、祝福して用いて下さいます。

 教会は聖人ぶった集まりではありません。自分自身をそのままに分かち合い、ともにキリストの恵みを豊かにいただいていく、聖徒の交わりなのです。

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「礼拝⑬ 神の意志と計画」マタイ7章21-27節

2017-03-06 10:40:37 | シリーズ礼拝

2017/3/5 「礼拝⑬ 神の意志と計画」マタイ7章21-27節

1.「御心の天になる如く、地にも為させ給え」

 この「主の祈り」の第三祈願を祈る時、皆さんはどんなことを考えているでしょうか。私は随分長い間、「天では争いや禍がないように、地でも悪いことや嫌なことがありませんように」という思いで祈っていました。自分にとっての願わしい状況に引き寄せて「御心」ということを考えていたのです。第一祈願と第二祈願でお話ししたようにこの「御心」とは

「天にいます私たちの父」

の「心・御意志」という意味です。第一祈願、第二祈願と同じように、私たちはこの祈りをする時に、

「私の願いではなく、あなたがよいと思われることをなしてください。私の思うようにではなく、あなたのご計画の通りになりますように」

と言うことになります。言わば、天において行われているのも、私たちが願うような平和で温々とした心地よいことではなく、天にいます私たちの父の御心が行われているのです。キリスト者の祈りは、自分の楽や降伏や願いを神に要求する祈りではありません。自分のちっぽけで浅い願いよりも、神の大きなご計画やお考え、天の父の思いに信頼し、明け渡す。そういう祈りだ、という素晴らしい意味に、私は段々と気づかされています[1]。勿論それは、自分の願いを押し殺し、諦めて、神の御心に降伏する、というような詰まらないことではありません。自分が見えている事、精一杯考えていることよりも遙かに深く、比べものにならないほど素晴らしい神のお考えに、私たちが心から信頼して、自分の願いも、自分自身も、その御心にお任せして従うことです。[2]

 でも、多くの方は心配するのではないでしょうか。自分の願いや思いを捧げて、神の願いに従うだなんて、危なくはないのだろうか。何か、神の操り人形やロボットになろうとするかのような、危険な宗教ではないのか。確かにそうです。そういう危険は教会こそ十分警戒しなければなりません。私たちは、聖書を通して、神の御心がどのようなものであるかを丁寧に学び続けて行くことが出来ます。そして、聖書を通して私たちは、神の御心が私たちの考えがちなものとは全く違う、驚くばかりの憐れみに満ちた御心だと知ります。私たちが神の名前や真理を掲げて、絶対服従を要求すること自体、神の御心とは違うのだと、聖書は教えています。そればかりか、今日読みましたマタイ七章では、不思議な最後の大逆転が言われていました。

マタイ七21わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

2.あわれみの御心

 この七章21節は、マタイ六章10節の「主の祈り」の

「御心が天で行われるように地でも行われますように」

の後に初めて出て来る「御心」の箇所です[3]。勿論、「御心」という言葉は使わなくても五章から七章の「山上の説教」全体が神の御心を現しています[4]。でもその最後にもう一度

「天におられる父の御心を行う者が天の御国に入るのです」

と念を押すように書いている時に、私たちはどれほど神の御心を誤解しやすいかを思うのですね。ここでイエスはハッキリ、主の御名によって言葉を語るとか悪霊追い出しや奇蹟など力強い業を行ってさえ、それが「御心を行う」ことではないと明言なさいます。そういう人は大勢いると言われます[5]。熱心に主の御名を呼び、自分では御国に入れるものと疑わないのです。御心を行っていると疑わないのです。でも、そこに勘違いがあります。なぜなら、自分が御心を行い、あれこれの正しい伝道、華々しい活動をしてきたから、だから自分は神の御国に入る権利がある。そう主張するのは、神の憐れみではなく、自分を誇ることです。神の恵みではなく、自分の信仰や行為に信頼を置いているのです。そんなあり方は御心ではない、とイエスはハッキリと仰るのです。

 厳しい言葉です。だからこそ、私たちの心にシッカリと神の御心を刻みましょう。神は私たちにもっと何か努力せよ、自分の期待に応えよと求めたり、出来ない私に呆れたり失望したりしておられるお方ではないのです。自分の願いが叶わないのは自分の信仰が足りないからだとか、人に対してもそのような基準で裁いたりするとしたら、それ自体が、天の父の御心を全く誤解したあり方です。それは、天の父との関係も不健全にしますし、人との関係も傷つけます。

 この「山上の説教」の最初にイエスは何と仰ったでしょうか。

五3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 これは神の深い憐れみです。自分の心に何もないと嘆く者に天の御国を与えてくださるのが神の御心です。同じ山上の説教の最後に出て来たあの人たちが主張したのは何でしょう。自分は預言や奇蹟をしてきたから神の国に入る権利がある-自分は貧しくない、という自己主張でした。そこには神の深い愛への感謝が欠けています。自分のプライド、人より勝っていたいという思いを神の御名によって貫いただけです。そんな生き方を神は求めておられないのです。

3.「天にいます私たちの父」の御心

 神は憐れみ深く、三位一体の中に永遠の愛を輝かせておられるお方です。その神の、見せかけでない、深い御心が聖書に明らかにされています。御心を明らかにするだけではありません。聖書は、神の御心が確かにこの世界になされている現実も明らかにしています。人の誤解や傲慢や悪意が勝ったように見えても、その全てを巻き込み、覆したり逆手に取ったりしながら、神の大きなご計画が果たされるのです。御心が行われていないから、

「御心が行われますように」

と祈るわけではありません。御心は確かになされる。その事を忘れがちな私たちのために、

「御心を為させ給え」

と祈るよう主は教えて、御心への信頼を取り戻させてくださるのです。

 しかし、御心への信頼だけではありません。マタイが教えるように、天にいます私たちの父の御心は、私たちもまた憐れみ深い父に倣って、憐れみ深い子どもとして成長することです。神の子どもは、天の父の心を知り、神と同じ心を持っていくのです。神は、私たちを我が子として憐れまれるだけでなく、私たちにも同じように、心から仕え、互いを受け入れ、赦し合い、慰め合い、生かし合うよう教え、育て、訓練なさるのです[6]。私たちは、ただ一方的に与えたり、優しくしたり、相手をかばい甘やかすのではありません。ともに我が儘や甘えを捨てて、神の子どもとして成長することを励まし合うのです。起きる出来事にどんな御心があるのかは分かりません。しかし、今は多くの事に御心が見えない中で、互いに思い合い、祈り合い、限界を受け入れ合って境界線を引き、みんなを巻き込んで、ともに進むことこそ、御心なのです。

 主イエスは、居心地のよい天にふんぞり返っているお方ではなく、私たちを神の子どもとするために、人間となるリスクを冒しました。それが天において行われた御心でした。御自身の命を十字架に捧げて、私たちの罪のための生贄となってくださいました。その一方的な憐れみへの感謝に溢れて、私たちは神を礼拝し、証しや奉仕を行います。それは神の憐れみを現すためですが、ひょっとするとそうしたそれ自体は善い業さえもプライドにすり替わりかねません。でも、そういう危うい私たちを、天の父は

地の塩」

とされてこの地に置き、天での御心を地になさるのです[7]。私たちが幸いや成功した時には神に感謝をし、失敗や恥をかいては謙ってまた神に感謝をし、禍や悪に対しては真剣に戦う。そういう生き方を、聖書を読みながら励まされ、砕かれ、何も誇れない自分を痛感して、ますます天の父の憐れみを仰がされます[8]。そういう私たちの歩みを通して、神が深い憐れみの御心を、尊いご計画をなして下さるのです。

「御心が、私たちの願いより遙かに尊いあなたの御心が行われますように。その確かな御心を知らせ、信頼させてください。御心は、私たちがあなたの子どもとなる、父としての御心です。どうぞその御心を私たちになし、それぞれの場で傲慢を砕かれ、あなたへの感謝と心からの信頼に歩ませてください。私たちの小さな業を祝福し、御名が崇められるよう用いてください」



[1] 諦めを込めてこう祈るのではない。私たち自身がそう願い、それを選び取っていけるようにと祈る。そうすることによって、私たちは自分の狭い殻を打ち破り、怒りや苛立ちではなく、天の父への広やかな希望、信頼、喜びに立つ。

[2] 私たち自身が積極的に神の御心にそった願いを持つようになることこそ、神の願いであることは、最も大切な戒めが「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ一二30)にも明らかです。自分の意志・心・感情を押し殺して、ではないのです。判断を放棄するのではなく、悩み、熟慮し、思いを新にしていくことです。参考、ローマ十二2。

[3] マタイでの「御心(セレーマ)」は他に、十二50「父のみこころを行う者はわたしの兄弟また姉妹なのです」、十八14「小さな者のひとりが滅びることは天の父のみこころではない」、二一31「父親の心にかなうことをしたのはどちらか」、二六42「わたしの願いではなくあなたのみこころがなりますように」で用いられています。

[4] この山上の説教で見えてくるのは、隠れた所を見ておられ、憐れみ深く、善い物を下さり、心の貧しい者を幸いに入れて下さる天の父。

[5] C・S・ルイスは、「人は、神に「あなたの御心がなりますように」という人間と、神から「おまえのしたいようにせよ」と言われる人間とのどちらかになる」。

[6]五45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。…48だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」繰り返しますがこの「完全」とは、冷たい完璧主義のような完全さではなく、憐れみにおける完全さです。

[7] 「天になるごとく地にも」の「地」は、山上の説教では「地の塩」でも用いられます。私たちが地に置かれているのは、地の塩として、私たちを通して御心が行われるため。神に愛されている者、あわれみをいただいた者として生きることが、地に対する「塩」としての働きを示す憐れみの証しとなるのです。

[8] それは今まで見てきたように、自分の名前がどう口にされるかではなく、神の御名が崇められることを何よりの喜びとして満足し、自分の支配や力への憧れを捨てて、天の父が王であられる事実に服する。そういう御心です。主の祈りという実にチャレンジングな祈りを通して私たちが変えられ、新しくされることも、主の御心がどのようなものであるかを物語っています。

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