聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き5章17-32節「辱められたイエスこそ」

2017-08-13 18:20:37 | 使徒の働き

2017/8/13 使徒の働き5章17-32節「辱められたイエスこそ」

 読んでお気づきでしょう。今日の箇所は教会が迫害される深刻な出来事なのに、明らかにコミカルに書かれています[1]。大祭司たちがドタバタ喜劇のお役人様のように翻弄されます。舞台の右ではもう使徒たちは自由になっているのに、左側では大祭司たちがほくそ笑んで、どうしてやろうかと相談している。そこに「牢がもぬけの殻だ」と慌てた知らせが飛び込むのです。

1.「大変です」

 牢は鍵がかかって番人もいたのにと首を傾げていると、すかさず次の知らせが飛び込みます。

25「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」

 そして宮の守衛長たちがまた宮に行って、使徒たちを連れてくる。右往左往して振り回されているのです。しかもそこで彼らは手荒なまねが出来ません。人々の方は使徒たちの教えを喜んで聴いていたからです。無理矢理捕まえたら、自分たちの方が、神を冒涜する者として石で打ち殺されそうな様子だったのです。地団駄踏む思いでしょう。そういう中で、使徒たちは終始寡黙です。最後まで落ち着いています。その対比がまた、笑えます。

 真面目に考えれば、教会にとって深刻な事件です。でもそれを、むしろアタフタする大祭司たちの側から描くのです。それは私たちも、自分の人生を全く違う角度から見られるようにしたいからかもしれません。ユダヤの大祭司や議会の長老たちは、当時の社会の政治や宗教行事を取り仕切る最高権力者でした。28節の言葉のように彼らにとって、民が自分たちの命令に従わないだなんて考えられないことでした。そういう「泣く子も黙る」権力を持っていたはずの議会が、この使徒たちの活躍を妬み、当惑させられ、恐れ、怒り狂い、振り回されています。最高権力者であったはずが、動揺して、落ち着かなくなっています。それが彼らの大声や迫害の正体でした。特に注目したいのは、28節の大祭司の言い分です。こう言われています。

「…エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

 けれども、そうなのでしょうか。ペテロたちはこれにこう応えます。

29ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。30私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスをよみがえらせたのです。

 ペテロは大祭司やユダヤ人たちがイエスを嫉んで捕らえ、十字架に殺した責任に触れています。しかし、それ以上に、そのイエスを神はよみがえらせたと言っています。

31そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。

 決してペテロは大祭司たちの罪を論って、その血の責任を負わせ、非難しようと告発したのではありません。むしろ、神はそのあなたがたの暴力から思いもかけない救いを始めてくださった。それこそあなたがたに聞いて欲しい言葉だと言っているのです。

32私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

2.刺々しい耳

 これは驚くべき良い知らせです。20節では

「いのちのことば」

と言われていました。命を与える言葉、イエスが下さる新しい命の言葉です。決して「裁きの宣告」ではないのです。非難ではなく、命が喜ぶような言葉です。神はイエスを通して、いのちを下さいました。イエスに対する妬みや暴力さえ神はそれにまさる復活によって覆ってくださいました。それほどに私たちを新しい命に招いてくださるのが神なのです。しかし、それを聴いても大祭司はそうは聴きませんでした。

「あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

 そうではないのです。なのにそう聴けないのです。イエスを殺したと自分を非難するのか、としか聴けない。自分が卑しめられている言葉だとかみつくしか出来ない。これは本当に悲劇です。

 でもそれは私たちにもない事でしょうか。神の測り知れない恵みを聴いても、その中の自分の責任の部分に引っかかるのです。非難に聞こえて噛みつき、逃れようとする[2]。神の恵みは99%でも自分が1%非難されるに違いないと過剰反応するのです。教会でも今日の箇所を説明するときには、使徒がユダヤ人を非難していると説明しているものが殆どです。ある方は「自分は四〇年前には、使徒たちが責任を追及する鋭い説教だと思っていた。けれど今注意して読むとそれは間違いのようです」と反省しています[3]。それは決して小さくない間違いです。でもそれぐらい人間は怯えているのでしょう。自分は正しくて強いか、非があってダメか、勝つか負けるか、そういうとても殺伐とした、脆い生き方しか考えられないのです。自分の非を認めたら、立つ瀬が無いように思うのです。人間の間違いや限界よりも大きな神の恵みを信じられないので、色々なものにしがみつきます。その立場を危うくされそうで、妬んだり、怒ったり、暴力的な言葉を言うのです。神の恵みにさえ、自分たちの悔い改めや自己非難が必要だと、生真面目な善意で思い込んで、人にもそう教えて結局怯えさせてしまうことが多いのです。[4]

3.悔い改めと罪の赦しを与える

31そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。

 罪の赦しを与るではなく、

「悔い改めと罪の赦しを与える」

です。神は罪を赦してくださるけれども、そのためには私たちが悔い改めなければならない、ではないのです。悔い改めさえ、神が下さるのです。神は私たちに「反省」を要求する神ではありません。人間は恵みを聴いてもそこに非難を聞き取って、刺々しい言葉で返してしまう存在です。そんな人間に、神は反省を強制する方ではないのです。自分では悔い改められず、意固地にしかなれない私たちに、罪に気づき神に立ち帰る「悔い改め」の心も神が下さるのです。ですから、私たちは、反省が十分になるまで怒る神をビクビク恐れたりしません。罪に気づき救いを願う心さえ神のプレゼントですから、自分の非は非として素直に認めて謙りつつ、それをさえ益に変え、私を愛して止まない神を仰ぐのです。そういう「いのちのことば」を頂いて、今を生きるのです。

 その言葉は、私たちの心を新しくします。良い知らせを聴いても非難に聞こえなくなります。人の人気を見て妬みに燃えることもなくなります。自分が全部を仕切っているつもりで、端から見ればドタバタ喜劇の笑いものになっている滑稽な生き方から、そういう自分も含めてみんなと一緒に笑えるようになります[5]。売り言葉に買い言葉で返さなくて良くなります。イエスは使徒たちをそのように変えて、新しい心で生かしてくださり、証人としておられます。

 神は私たちに色々な悲しみさえ通らせながら、どんな苦しみや痛みよりも強い愛に私たちを成長させます。この愛が私たちを生かすのです。それが分かるまで、人は何かあれば妬み、腹を立て、心を閉ざします。神の恵みを聴いても自己防衛的になり、噛みつきます。そこに飛び込んで来られたイエスは、人の上辺の言葉や脅しにいちいち反応せず、辱められ、権力の暴力の極みさえ味わう生涯を全うされました。その十字架が、復活により神の愛のしるしに変わった。これが「いのちのことば」です。イエスは人を、死や妬みや怒り、被害者意識から救い出し、悔い改めと罪の赦しを下さいます。徹底的に恵みの言葉で、深い平和を持たせてくださり、話の聴き方さえ変えてくださいます。人の言葉や言葉尻に反応しなくてよくなり、権力者の虚勢や脅しや過剰反応が喜劇に見せるようにさえしてくださいます。相手も自分も「いのちのことば」を必要とする者として見るように変えられます。十字架を証しさせてくださるのです。

「平和の主よ。いのちのことばを語り続けた使徒たちに続いて、私たちも主の救いの証しとならせてください。人の言葉はどんなに偉そうで私たちを痛め苦しめても、いのちのことばの方が強いのです。私たちを生かすため、辱めをも厭わなかったイエスが、私たちをどんなときも支え、殺伐とした言葉や暴力が溢れる世界に、深い慰めと喜びを届けるためにお遣いください」



[1] 12節から16節に書いてあるのは、まだ生まれて間もないキリスト教会がますます伸びやかに成長した様子です。周囲からも尊敬され、信じる者も増え、病人の癒やしを求めて縋る人々まで現れました。この後、六章七章とステパノの殉教やそこから始まる大逆風の迫害がありますから、この箇所は、エルサレムでキリスト者が最も人気のあった時期を伝えています。後は厳しくなります。人気が高まったからこそ、嫉む人たちもいました。まず大祭司やユダヤの議会が妬みに燃えた。そして、使徒たちを捕らえて留置場に入れたのです。

[2] イエスの福音を聴いても、そこに非難や裁きを聴いてしまう。それが私たち人間の発想です。教会や牧師、神学者でさえまだまだ思い込みで小さく考えてしまうのです。それが人間です。そして、神の福音はそうした人間の考えよりも遙かに大きいのです。「そういう聴き方しか出来ないなんてやっぱり人間は(私は)ダメだ」とまた、刺々しい聴き方をしてしまうのが人間でしょうが、それもまた「恵みならざる」言葉です。

[3] 「もう、この使徒言行録を連続説教したのは四十年以上前になるわけですが、その時のわたくしは、ここら辺りまでユダヤ教と渡り合う使徒たちの姿や言葉を見ながら、何度も何度も“あなた方が十字架につけて殺したイエス”“あなた方が殺したイエス”というふうに、どんどんどんどん責任を追及している鋭い説教だなぁと思って、前回は読みました。ところが、今回改めて注意深く読んでみると、さっきも申しました通り、どうもそれは間違いのようです。そうではなくて、最初のキリスト教会が一所懸命ユダヤ教に宣べ伝えたことは、“あなた方がイエスを殺したのは無知のためだったのだから、今から悔い改めなさい、遅くはない、イエスは生きておられる”、こう言って、悔い改めと罪の赦しを受けるようにと一所懸命に勧めている説教だということが、とても印象的であります。(以下、続く)」榊原康夫『使徒言行録講解 2 4-7章』(教文館、2012年)、115-116頁。

[4] 「非暴力コミュニケーション」で言うと、これは「ジャッカル」の言葉です。何に対しても、暴力と受け止め、暴力的に返してしまうのです。

[5] 使徒たちがそうでした。捕らえられて留置場に入れられても嘆いたり腹を立てたり、呪ったりしませんでした。夜、主の使いが救い出してくれて、やれやれと家に帰るのでなく、夜明け頃から宮で教え始めました。そこでまた捕まっても「せっかく自由になったのに」と抵抗せず、黙って議会に来て、淡々と弁明します。最後の40節では「鞭打ち」で39回も背中を打たれて大変な痛みだったでしょうに、「41…御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」のです。辱められたことを喜んだのではありません。辱められるに値する者とされたことを、です。なぜなら、イエス御自身が辱められた方だからです。私たちのために鞭打たれ、十字架につけられ、妬みや怒りや脅しで殺されたお方だから、それに似た扱いを受ける事は「はずかしめられるに値する者とされた」ことだと受け止めたのです。そして、大祭司に対しても「いのちのことば」の証人になろうと努めます。彼らはもう知っていたのです。五章最初にあったように、自分を良く見せようと背伸びする必要は無いのだと、知っていたのです。

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問80-81「残る弱さも」Ⅰコリント11:26-32節

2017-08-06 20:17:28 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/6 ハ信仰問答80-81「残る弱さも」Ⅰコリント11:26-32節

 

 順番から言いますと、今日はハイデルベルグ信仰問答80です。しかし実は、問80は、ハイデルベルグ信仰問答が造られた真っ最中に、当時のカトリック教会との論争を色濃く反映しています。プロテスタントもカトリックも、お互いのミサ理解を否定します。ハイデルベルグ信仰問答問80では、ミサを

「呪われるべき偶像崇拝」

と口汚く非難します。本文の主旨は賛同しますが、それは既に他でも十分学んできた内容です。そして問題は、聖餐理解が正しいとしても、そこに来る人間の心が間違っていることがあります。その肝心な点を、今までも確認してきましたし次の問81で確認することにします。

問81 どのような人が主の食卓に来るべきですか。

答 自分の罪のゆえに自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死によってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは「自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 「どのような人が主の食卓に来るべきですか。」この言葉は、明らかに先のⅠコリント11章にあった

「ふさわしくないままで」

「自分を吟味」

「みからだをわきまえないで」

といった言葉を意識しています。つまり、誰が聖餐に来る事が出来るか、という問題です。多くの方はこういう言葉を読むと、「自分は先月も大きな間違いをしてしまった。神の前に罪だと分かってやってしまった。そして自分の心には今も、そういう罪を求めている汚れがある。憎しみや残酷な思いが心にある。だから、自分は、聖餐に来るには相応しくないに違いない。そう考えてしまうことがよくあります。こんな自分が来ても、主は嫌悪されるんではないだろうか。本当は、主は天で、渋い顔をしておられるんではないだろうか。しかし、この81ではこう答えるのです。

答 自分の罪のゆえに自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死によってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは「自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 自分の罪のゆえに自己を嫌悪する。つまり、私たち自身は罪があります。自己を嫌悪せずにおれない罪が行動や心にあります。自分で自分に愛想を尽かしたくなる。しかし、その私が

「キリストの苦難と死によってそれら(罪)が赦され」

ることを信じる。キリストは、私に愛想を尽かさず、私のために十字架の苦難を引き受け、死んでくださいました。それゆえに、私は受け入れられると信じて、主の食卓に行くのです。キリストは私たちを招いて、パンと杯に託して、私たちにご自分の命を受け取るよう、救いを受け入れるよう、強く命じます。それを私たちが、「自分のようなものは、ふさわしくないだろう」「もっとふさわしくなるよう、努力してから行こう」などと考えるのは、キリストの思いとは全く違うのです。病人が、もっと健康になったら医者に行こう、という勘違いです。自分ではどうしようもない罪のために、キリストは来られました。自己嫌悪するしかない私を、キリストは受け入れ、愛してくださいました。その最大級の表現が十字架であり、それを現す聖餐です。更にそれは「ここまでの罪は勘弁してやろう」でもありません。

「残る弱さも覆われることをなおも信じ」。

 私たちの中に、弱さは残っています。まだこれからも、失敗をするでしょう。自分が嫌になるでしょう。あるいは、赦された恵みの感謝を忘れたり、失敗して痛い思いをしたことに懲りたりせず、調子に乗って過ちを繰り返す。そういう弱さも残っているのです。しかし、そうした「残る弱さ」も覆って下さる。これからも色々な弱さを見せるとしても、イエスはずっと私から離れず、その弱さにも働いて下さる。そう信じるのです。

 しかし、かといってそれが甘えや現状容認になるかというと違うのです。

 …さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める…

 罪は赦されるし、これからも弱さは覆われるのだからいいや、ではありません。やっぱり、罪に縛られた生き方より、自由になり、信仰も生活も成長する生き方こそ、切に求めるに値します。そして、イエスの恵みは、私たちをただ罪の罰から救い、神の子どもという身分を与えるだけのものなんかではありません。イエスは私たちを養い、私たちを恵みの中で生かして、イエスの命を与えてくださいます。ここが微妙ですね。

 私たちはただ、イエス・キリストの恵みによって罪を赦され、救われます。そして、私たちは恵みの中で、神の律法に従って歩んでいきます。ところが、私たちはそれを両極端に誤解しがちです。片方の極端は

「律法主義」

です。自分で律法に従う事で救われるし、頑張り続ける、と考えます。その反対は

「無律法主義」

です。恵みによって救われるのだから、律法なんかいらない、自由にして良い、という生き方です。それを見越して、「律法主義」には、救われるのは恵みだけれど、後は神の恵みもありつつ、自分で努力しないと行けない、と教えるタイプもあります。無律法主義になって怠けないよう、頑張って聖書を読みましょう、献金しましょう、奉仕をしましょう、そうでないと成長せず、誘惑に負けますよ。そういうプレッシャーをかけるのです。

 しかしそれは恵みを低く見過ぎています。キリストは私たちを愛しておられます。どんなに罪を犯そうと、どんな罪の可能性を秘める心の闇を持っていようと、私たちを愛され、御自身の命という犠牲さえ惜しまれませんでした。しかし、愛すればこそ、私たちを成長させ、罪に縛られていた生き方から、自由な生き方へ、そして、互いに愛し合い、神の愛に生きる共同体に入れてくださるのです。そして、律法的にではなく、恵みに押し出されて、成長させて、新しい生き方を与えてくださるのです。そしてこれを現すのが聖餐です。

 聖餐は、主イエスが私たちのために御自身の肉を裂かれ、血を流され、罪が赦されたことだけを覚えるのではありません。その主の恵みによって生かされ、変えられ、互いに分かち合い、ともに生かされることのエッセンスがあるのです。そのように私たちが成長すること自体がイエス・キリストの恵みなのです。

 聖餐は私たちが自分を吟味する機会です。パンを裂き、杯を分け合う聖餐に照らして、私たちはキリストの測り知れない恵みを覚えます。その恵みを本当に豊かに味わう事から、私たちが新しくされます。お互いに、

「残る弱さ」

がありながらも、律法主義の脅しやプレッシャーではなく、恵みによってともに歩みます。弱さを通して恵みを戴き、ますます感謝し、聖書の恵みの言葉によって養われ、祈る恵みを味わい、仕えて生きる喜びを知るようになります。

 主イエスが下さるのは罪の赦しだけでなく、キリスト御自身です。私たちを、ますます神の恵みに頼る生き方に成長させてくださる主イエスです。

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使徒の働き4章23-5章11節「神はだませません」

2017-08-06 20:15:11 | 使徒の働き

2017/8/6 使徒の働き4章23-5章11節「神はだませません」

1.最初のほころび

 「使徒の働き」の四章23節以下にあるように、信じた者の群れは心と思いを一つにして、持ち物を共有にしていて、助け合っていました。特に、バルナバと呼ばれたヨセフが自分の畑を売って、教会に捧げた、という喜ばしい出来事もありました。しかし五章、アナニヤとサッピラ夫妻が財産を売りながら、その

「ある部分」

だけをさも全額献金したかのように持ってきた。この偽善はアナニヤとサッピラとがその場で息絶えて死んで葬られるという結果になり、

11…教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

と結ばれます。ドキッとする出来事です。誤解しないでほしいのですが、決して当時は、洗礼を受けたら財産を全部差し出したわけではありません。それぞれが自主的に必要に応じて捧げ、乏しくて困る人がいないようにしていたのです。だからこそバルナバのささげ物は特筆されました。アナニヤとサッピラも売却した全額を持って来なかったと責められたのではありません。

それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になった」

のです。彼は持ち物を売らなくても良かったし、売った後も自由にして良い。むしろ、持ち物を売って全額を献金して、今度は自分が教会のお世話にならなければならないというよりも、自分の生活はちゃんと面倒を見つつ、必要以上は捧げる、というほうが遙かに現実的で良いはずです。ただ8節にある通り「値段」は誤魔化していました。一部なのに全額持ってきたように見せかけました。人を欺けると思っていました。しかしペテロは4節で言います。

 4あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 二人は、バルナバの献金を見て格好良いなぁと思ったのでしょうか。バルナバをみんなが誉めるので、「自分たちも持ち物を売り払えばバルナバに匹敵する尊敬を受けられる」と思ったのでしょう。しかしどこかで全額は惜しくなった。ならば正直に「全部でなく一部だけお捧げします」と言えば良かったのです。しかし、そういう真似はナゼか出来ませんでした。惜しみない献金をしたという評判も欲しかったし、代金を全部献金せず手元に残してもおきたかった。そこで彼らは、全部献金したことにしても分かるまい、虚栄心から嘘で名誉を買おうと行動したのです。しかし、この欺瞞をペテロは、いや神は小さな事とは思われなかったのです。

2.教会の自覚

 この出来事は私たちに「教会とはどういう場所か」を改めて深く教えてくれているとつくづく思います。当時、弟子たちの中には貧しい人々も大勢いました。裕福な人は財産を捧げて、生活を支援した-それは良い事です。しかしその良い事が一人歩きして虚栄心をくすぐって、見せかけで献金をするアナニヤとサッピラのような行動が起きました。その最後に11節に

「教会全体と」

という言葉が出て来ます。実は「使徒の働き」で「教会(エクレシヤ)」と言う言葉が出て来るのはこの五章11節が初めてなのです。今までは「兄弟たち」[1]「信じた者の群れ」[2]とか「弟子」[3]「一同」[4]と言っていたのが、初めて「教会」となるのです。その理由はハッキリしませんが、私はここで生じた主への恐れが教会を教会とする自覚だと思うのです。人が増え、不思議が起こり、多くの献金で、社会貢献をしている。でも、そういう上辺の活動には見えない所で、心まで見られる神への恐れがない…自分を良く見せよう、さも惜しみなく仕えているように見られたい、という見栄で動いているなら、教会ではない。サタンは教会が「善人の集まり」で「生き生き活動し」「世間体」で満足して、その動機が自分たちの見栄や虚栄心であるような大教会などちっとも恐ろしくない。むしろそういう教会、外側で活動している裏で、自分たちの見栄や損得で動く、どこにもあるような集団にしたくて巧妙に働くのです。

 ペテロがここで見せたのは一つの覚悟です。アナニヤとサッピラは全額と言っても疑われない程、相当額の献金を持ってきたはずです。細かい事は言わずに、そのまま有り難く受け取ることも出来たでしょう。また、折角得ていたよい評判も、こんなスキャンダルを公にすれば、台無しです。外からの迫害には耐えたのに、内側に偽善が入っていた、とは恥です。しかし、どんなに多額の献金、実際の慈善活動、教会が世間体に隠して、自分たちの偽善を伏せることはしませんでした。神の子イエスが十字架の苦しみと死さえ受けて、私たちを罪から救い出して神との関係を回復してくださった。それなのに、その主の痛みに私たちは鈍感になって、まだ自分が善人だと見られたい、そのために嘘をつき、神も騙せるかのように思う、そういう闇をまだ持つ私たちなのだ。活動や世間体や自己満足よりも、神の前にある。私たちの本心、実際、隠れた思いや行動も全てご存じで、決してだませないお方の前にある。自分たちの弱さ、闇を認めなければ教会は教会ではなくなっていく。そういう「覚悟」ではないでしょうか。

Ⅰヨハネ一5神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

 6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

3.欺けない神、という恵み

 誤解されがちかと思いますが、決してここでは「神を欺くなら直ぐに罰せられて死ぬ」という教訓が人々を非常な恐れに陥れた、わけではありません。そんな恐怖の神なんて、恐ろしくて信じたくありません。アナニヤとサッピラだけではありません。虚栄心に駆られ、人から誉められたくてささげ物をしたり、秘かにお金を握りしめていた人は大勢いたのではないでしょうか。そういう人がみんな息絶えたのではありません[5]。今でも私たちは、全く見栄や虚栄心から自由でしょうか。嘘や言い訳がましさで、自分を善人に見せようとすることは、意識するとしないとに関わらず絶えずあるのです。しかし、それで罰せられないのは神も欺けるからでしょうか。「地獄の沙汰も金次第」、神の目も節穴なのでしょうか。いいえ違います。神は私たちの偽善も胡麻菓子も、本心も打算もご存じです。神を信じると言いながらあれこれ手放せない不安も、人に隠しておきたい軽蔑されるような実際の姿も、完全にご存じです。神は光であって、決して欺かれる方ではありません。しかしその私たちの罪を怒って罰し、滅ぼすのでなく、その私たちを憐れみ、主イエスは私たちのところに来て、ともにおられます。

 イエスが見ているのは綺麗事で覆う私たちではなく、その下に隠れずにはおれない弱く揺れてしまう私たちです。その私たちを解放するため、十字架に架かられました。それなのに、私たちはまだ自分が善人だとか愛があるとか思われたいと、実際は物惜しみや執着心だらけなのに見栄だけ張ってしまう。アナニヤとサッピラも、ふと魔が差したけれども、その事に気づいた時、耐えきれず、堪らずに息絶えるほどの良心があったのかもしれません。しかしそのような私たちさえなお忍耐し、ともにおられて、深く取り扱ってくださる。

 この神を知るとき、立派なキリスト者だと見られたいと取り繕って何かをするのでもないし、神の罰を恐れる恐怖心から持ち物を捧げるのでもなくなります。そういう私の渇きや疑いや打算など心の底までご存じで、なお恵みを注ぎ、ともにいて下さる主への恐れ、畏敬、恭しさ、恐れ多さこそ、教会の土台なのです。

 やがて永遠の御国では主の光が全てを明らかにします。人の見かけ倒しや嘘は全て露わにされ、教会の裏話も周知されます。恥ずかしさや屈辱で息が止まるでしょうか。いいえ、その私たちを愛され、ともにおられた主の憐れみに圧倒されるでしょう。ありのまま一切の虚栄を捨てて、恵みの神を心から称えるのです。恥ではなく至福です。私たちはそこへ向かっています。神を恐れ、背伸びのない正直な者にされながら、心から分かち合う教会としてくださるのです。

「光である主よ。あなたを告白し、頭で理解しているつもりで、お金や人の声やプライドでバラバラになってしまう私たちです。人を欺き、それが主を欺くことだと気づいてもまだ平気な私たちが、本当に虚栄を捨て、謙虚になり、十字架の主の憐れみに根差して、恐れつつ歩めますように。正直に、私たちのあるがままを差し出して、ともに歩む教会とならせてください」



[1] 一15、

[2] 二44、四32。

[3] 二41。

[4] 二43。

[5] 少なくとも教会の二千年の歴史を辿ってもそういう実例は事欠きませんし、教会自体がそうした名誉欲に訴えて献金を求めた習慣もあります。

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