聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問103「休ませてくださる神」マタイ11章

2017-12-10 20:28:37 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/12/10 ハ信仰問答103「休ませてくださる神」マタイ11章

 今日は十誡の第四戒

「安息日を覚えてこれを聖とせよ」

です。十誡の中で、一番長い戒めです。読んで分かりますように、十誡が与えられたユダヤ社会では、週の六日を働き、七日目を一日、安息の日として、何の労働もせず、聖なる日として過ごす、ということです。七日目ですから、土曜日でした。今でもイスラエルでは正統派のユダヤ教徒が土曜日を一日一切の労働をしないそうです。お店も開かないし、家庭でも極力作業をしないように生きています。しかし、新訳聖書を見ますと、イエスは、当時のそのような安息日の理解に対して、大きく異なる態度を取られて、宗教家たちの強い反感を買いました。ここにはとても大切な、沢山の事が込められています。その全てをお話しすることは出来ません。今日もハイデルベルグ信仰問答に沿って、短くお話しします。

問103 第四戒で神は何を望んでおられますか。

答 神が望んでおられることは、第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、わたしが、とりわけ休みの日には神の集会に勤勉に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な献げ物をする、ということ。第二に、わたしが、生涯のすべての日において、自分の邪悪な業を休み、御霊を通して主にわたしの内で働いていただき、こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる、ということです。

 この答で分かるように、ハイデルベルグ信仰問答も余り深く長い説明はしていません。ただ、一つには

「休みの日」

日曜日には神の集会に集い、御言葉を学び、聖礼典に預かり、一緒に祈りや賛美を献げよう、そして献金をしよう。もう一つは、安息日だけでなく、生涯の全ての日において、永遠の安息をもうこの生涯において始めるようになる。それが安息日において神が望んでおられることなのだ。その二つに絞っています。日曜日を、教会において過ごす、というとても具体的な実際的なことと、永遠の安息がいまここでの毎日において始まる、というとても大きな、想像しづらいこと。その二つが、この第四戒を通して教えられているのだ、ということです。

 イエスは仰いました。

マタイ十一28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 これは教会の看板や集会案内、HPに大きく書かれていることの多い有名な言葉です。ここに

「休ませて…安らぎ」

という言葉が出て来ます。それは、今日の

「安息日」

と通じます。それは「教会にいらっしゃい、日曜日の礼拝に是非ご一緒ください」という具体的なお誘いでもありますし、同時に、イエスが下さるのは永遠の安息であり、イエスを通して、今ここで安らぎのある毎日を送ることが始まる、という意味でもあります。日曜日だけ、慌ただしい世間を離れて、教会の礼拝に来て、現実逃避や休息をする、という意味ではありません。イエスとともに歩み、イエスから学び、イエスから託された軛や荷を担う生き方をする時、いつでもどこでも、魂に安らぎを得ながら歩む、ということです。そしてそれを味わう始まりが、毎週、仕事の手を休めて、礼拝に来て、こうして一緒に過ごすような時間の使い方にあるのだ、ということです。

 イエスは

「全て疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」

と言われました。「全て立派な人、良いことをした人、頑張った人」とは言われませんでした。イエスが下さる「休み」は「ご褒美」ではないのです。全て疲れた人、重荷を負っている人を休ませて、休息を下さると仰いました。イエスは、休ませてくださるお方です。無条件に休ませてあげようと言って下さる神です。イエスはご自身を

「安息日の主」

と名乗られました。そして、それはイエスを通してハッキリと知らされる、聖書の神のとてもユニークな本質です。

 第四戒の安息日律法の根拠は、神が六日間で世界を造られ、七日目に休まれたことにある、とありました。神が休まれた。勿論、神は世界を造って疲れたから休みたかったのではないはずです。世界を治め、今も原子やクォークから銀河に至るまで神はすべて支配しておられる全能で無限のお方ですから。また、何か神が淋しくて、何か物足りなくて世界を造られたとも考えられません。聖書に出て来るのは、神がこの世界を造られ、それを美しいものとして愛でられ、眺めて祝福されたことです。そしてその祝福を楽しみ、一緒に喜ぶようにと、神は人間をお造りになり、一緒に休んで喜ぼう、楽しもう、と言われるのです。神が人間に求められるのは、神が造られた世界の中で一緒に喜び、楽しみ、祝うことです。そして、やがて永遠に安息をする世界へと入れたい、そのために、全ての人に

「わたしのもとに来なさい」

と言われる神です。

 左は、それを図にしてみた神の創造の世界です。神の創造が土台になり、その土台の上で人間が作られて、存在し、労働も休みも与えられています。とても安定しています。しかし、そのような神を知らない人間中心の考えが右です。神という土台がないので、信頼できるものがなく、いつも自分の努力をしていなければ安心できません。自分が頑張れば神も祝福してくださるかもしれないし、頑張らない人には休みももらえない。土台は自分たちの努力次第、ということになります。神が安息の主だとは思いもしません。

 安息日は、そのような人間の考えを脇に置いて、神の前に静まり、世界を楽しみ、神を心から賛美する日です。言わば自分が働かなくても、世界はちゃんと回っている、ということを謙虚に覚えるのです。神を礼拝し、イエス・キリストの恵みを覚えて、自分の頑張りや企みやプライドや不安も、全て主にお委ねするのです。やがて、神の安息がこの世界を覆う時が来る。主が私たちの功績や努力によってではなく、恵みによってその安息に迎え入れられる日が始まる。その日を待ち望んで、今ここでも安息日を休みつつ、六日間は精一杯働きつつ、ともに休める社会、恵みに立った生き方、疲れている人が憩いを得て生きていける社会を造るのです。日曜に行事の多い、また日曜しか休めない日本で、私たちが本当に安息の礼拝の日とすることには知恵や柔軟性が必要です。でもその根底にあるのは、教会で忙しくする日曜日ではなく、働き過ぎる空回りを止めて、安息の主を礼拝して、私たちが安息へとともに招かれていることなのです。

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マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

2017-12-10 20:25:11 | クリスマス

2017/12/10 マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

1.王の誕生

 アドベントの第二週として、マタイの一章を開きました。お馴染みの箇所ですが、もう一度、この箇所から主イエスのお生まれを覚えましょう。聖書を読み始めようと新約聖書を開くと最初に書かれているのが、聞き慣れないユダヤ人の名前尽くしで読む気を削がれてしまうような系図です。これは旧約聖書の歴史の振り返りです。アブラハムから始まり、ダビデ王を頂点として、やがてバビロン捕囚に至った、旧約聖書の歴史が、ここに凝縮されているのです。神が世界の祝福のために選んでくださったのがアブラハムとその子孫でした。そこから王になるダビデがやがて生まれましたが、その後のイスラエル王国は神に背き続けて、遂にバビロンが責めてきて、イスラエルの王家や主立った人たちは捕囚となってバビロンに連れて行かれました。そうしてバビロンから帰ってきた人々が、イスラエルを細々と再建したけれど、その末裔のヨセフは王位継承者とは名ばかりの、一庶民として生きている、そういう始まりなのです。でもそのヨセフが婚約していたマリアが、聖霊によって身ごもって、王位を継ぐ方が生まれる。それがイエス・キリストの始まりなのだ、というとても深い繋がりになっているのです。

 マタイの福音書はイエス・キリストを王として紹介します。アブラハムの直系で、ダビデ王の王位を継承した方がイエス・キリストです。ただ優しく素晴らしい方ではなく、聖書の歴史を貫いてきた系図を引き継いで完成させなさる王なのです。そしてその誕生は、この系図や旧約聖書が示すとおり、沢山の失敗や罪や問題だらけの歩みをしてきた末にやって来た誕生でした。ヨセフ自身、王位とは無縁の生活をしていた人で、マリアの身ごもったことを聞いて、喜んだり受け入れたりするどころか、ひそかに離縁しようとしたのです。そういうヨセフの所に、イエスの誕生が与えられた。私たちはつい、マリアを中心にクリスマスを考えて、このエピソードも「裏話」のように思います。マリアとイエスがメインでヨセフはサポーターのように聞きがちです。そういう先入観を脇に置いて、旧約からこのマタイ一章へと読み進めていくなら、この出来事が、ヨセフにとってどれほど深い意味や励ましだったかに気づくのです。

2.「正しい人」ヨセフ

19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 この「正しい」の理解には幾つかの可能性があります。聖書の律法では姦淫は死刑でした。婚約とは結婚と同じ重みがあり、婚約者の子ならぬ子を宿すことは処刑に当たりました。ヨセフはそういう律法の基準を知って、重んじる正しい人でしたが、マリアをさらし者にはしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った、とも読めます。

 或いはそういう杓子定規な冷たい人ではなく、ヨセフは本当に正しい人だったからこそ、マリアをさらし者にせずに秘かに離縁して去らせることにした、とも説明できます。自分が「婚約者に逃げられた」とか「何故か破談になった」とか噂されようと、汚名をかぶってでもマリアを守ろうとした。ヨセフが本当の意味で正しい人だった、という理解です。

 もう一つは、マリアが聖霊によって身ごもったと分かったからこそ、「正しい」ヨセフは身を引こうとし、ただマリアをさらし者にしないよう、秘かに離縁を図ったのではとも思うのです。

 しかし、ヨセフが思い悩んでいた夜、

20…見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。

 御使いはヨセフの心の

「恐れ」

を指摘します。ヨセフの

「正しさ」

が何であれ、その奥には恐れがありました。それは「律法を守らなければ」という恐れだったかも知れません。マリアと離縁するにしても「さらし者にする」ことへの恐れだったかも知れません。あるいは自分なんかが聖霊によって身ごもって特別な子を産む特別なマリアと結婚することへの恐れだったかも知れません。自分と血の繋がっていない子を愛せるだろうか、自分の子でない子を宿したマリアを愛せるだろうか、という不安だったかも知れません。いずれにせよヨセフは、マリアを秘かに離縁しようと決心しながら逡巡しました。正しい彼の願いは、どうすることが本当に正しいのかという迷い、恐れがつきまとっていました。婚約者が自分の子でない子を身ごもる、という展開は想定外だったでしょう。

 想定外のこと、自分の物差しや基準や経験では対処できない事態に直面した時、私たちは恐れます。自分の経験や基準だけでバッサリ切り捨てることも出来るけれど、それでいいのか。或いはその状況を庇(かば)い、黙認して、なかったことにする、そういう処理の仕方も出来るけれど、それもそれでいいのか、迷うのかも知れません。人間が自分でもっと正しくなり、間違いを糺し、厳格に罪を処罰しようともします。あるいは罪を庇い、問題に蓋をし、遠ざければ解決しようとします。正しい方である神に対して、どうすることが正しいのか、人間は迷い、恐れながら、ますます戦いや断絶を造ってしまうのです。

 主の使いが告げたのはそうした方法よりも、もっと深い

「恐れ」

を取り扱います。恐れることはない、マリアを迎えよ。その子は聖霊によって宿った子だ、この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ。その方は恐れや人の正しさよりも大きなお方だ、というようです。

3.神は「とも」に

 生まれる子どもに名付けよと命じられる

「イエス」

とは「主は救い」という意味です。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ、と言います。人間の罪というのは抽象的な問題ではありません。それは旧約聖書においてとてもリアルに描かれます。アブラハム、ダビデ、ヨセフに至る系図で明らかですし、人間が神を裏切ったり、戦争をしたり家族で傷つけ合ったり、関係を壊したり、恐れや疑いで行動してしまうことにも現れています。そういう歴史の末ともいえるここで、神が示してくださったのは、神が罪からの救い主を送って下さるという道です。神ご自身が、マリアの胎に宿って、罪から民を救って下さるという希望です。正しくない人間、正しくあろうと願いながらも、どうすればいいのか分からずにいる人間のために、神ご自身が来て下さった。この方が私たちの王になり、恐れや心配を取り除いてくださる。

 23節は、旧約聖書のイザヤ書七章に出て来る言葉です。これもまた、イスラエルの歴史でも最悪の王の一人アハズ王が神に背いた生き方を晒している時の出来事です。神を信じない、恐れや問題に向き合えない、そういう人間に対して、神が強くこの言葉を仰ったのです。しかしそれはアハズから何百年も先のイエスの誕生を預言しただけではありません。この時、主はイザヤに自分の幼い子どもを連れて行け、と言われています。その子どもを脇に立たせながら、イザヤはアハズ王に

「男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」

と告げるのです。イザヤの脇に子どもがいるように、神は私たちとともにおられる。いや、その「ともにいる神」をそのまま現すような赤ちゃんが生まれる、と仰いました[1]。そして、そのイエスこそ全世界の王であり、今も私たちとともにおられ、私たちにどんな罪や問題や恐れがあろうとも、それでもともにいてくださる、というのです。神は、私たちとともにおられる王です。私たちの恐れや罪や過去や限界も全部承知の上で、私たちから決して離れず、ともにいてくださる。文字通りの「友」、心の理解者です。私たちが正しく生きれば罪を赦してやろう、というお方であれば、私たちの心の底の恐れや不安は決して拭えません。イエスは、私たちのちっぽけな正義や経験よりももっと大きくて、私たちがどんなに不安や恐れに囚われているかもちゃんと見抜いておられます。そういう友の存在こそが、私たちを恐れから自由にして、愛や友情に裏付けられた正しい生き方へと進ませてくれます。それは本当に素晴らしい「救い」です。

「主が私たちを罪から救い、私たちとともにおられます。それゆえ、私たちもお互いに、恐れたり小さな物差しで裁いたりせず、大きな主の御手の中に、あなたの民としてともに歩んで行くことが出来ます。罪や限界さえもあなたが取り扱って、恵みにしてくださいます。そのあなたの良き御支配を心から告白し、あなたが王として完全においでになる日を待ち望みます」



[1] 赤ん坊の形で。七14、3、八8、10も。九章、一一章と、小さな子どものイメージ。実際のイザヤの子ども同伴も。

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問101-102「神の誓い」エレミヤ書4章1-2節

2017-12-03 17:12:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/26 ハ信仰問答101-102「神の誓い」エレミヤ書4章1-2節

 今日も十誡の第三戒

「主の御名をみだりに唱えてはならない」

という言葉をお話しします。私たちも自分の名前がどう呼ばれるか、大切に名前を呼ばれるか、馬鹿にされたりからかって名前を噂されるかどうか、とても気になるものです。まして本当の神の名前を、私たちが丁寧に呼ぶことはとても大切なことです。かといって、名前を恭しく唱えなければ、と一切神様の名前を呼ばない、というのもおかしな話になります。今日はそうした極端な間違いの一つ、「誓い」「誓約」のことを取り上げます。

問101 しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。

答 そのとおりです。為政者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合、です。なぜなら、そのような誓いは、神の御言葉に基づいており、旧新約の聖徒たちによって正しく用いられてきたからです。

問102 聖人や他の被造物によって誓うことはよいのですか。

答 いいえ。なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと、呼びかけることであり、このような栄光はいかなる被造物にも帰されるものではないからです。

 ここでは二つとも「誓約」(誓い)が取り上げられています。自分の考えや行動の裏付けとして「神」を持ち出すことはよくあります。「神がこうなさったのだ」とか「神も罰せられるだろう」などと言う場合です。もっとハッキリ「神の前に誓う」形もありました。

 このハイデルベルグ信仰問答が作られた16世紀、社会では、神の前に誓うことがありました。裁判所での証言、結婚の誓約、またここで「為政者が」とあるように、政治の場面や公職に就く場合、神の前に誓約を立てることがあったのです。ところが、その頃、極端な改革をする人々は、そういう誓約もしてはならない、と考えました。なぜならイエスが「山上の説教」で

「誓ってはならない」

と仰ったからだ、というのです。確かにイエスは、当時の人々の「誓い」に対する姿勢を非難なさいました。神の名前は使わずに、天やエルサレムを指して誓っては、いい加減に済ませる、というのが当たり前だったようです。そこでイエスも厳しく、誓うよりも、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい、と仰いました。

 この言葉を拡大解釈して、「もう一切誓わない、イエス様が仰ったのだから、誓約することは禁じられています。誓約は罪です」と考える運動がありました。そうすると誓約が求められる仕事にはつけません。政治家や公の仕事には就任する際に誓約が求められていましたから、彼らは最初から国や市のことには携わらず、社会そのものを軽蔑するような、とても極端な運動になっていったのです。こういう運動を意識して、今日の問101では

しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。

答 その通りです。…

と言います。イエスが仰ったのは、誓ってはならない、誓約することは罪だ、ということではありません。為政者が国民に求める場合もあるし、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合もある。そしてそう言えるのは、聖書の御言葉の中に、沢山の誓いの例があるからです。旧約聖書でも新約聖書でも、誓約の良い例はたくさんあります。だからイエスが仰った一箇所の言葉の字面だけを取り上げて、「誓ってはいけないと言われたのだから誓ってはいけないのだ」という考えを窘めているのですね。

 また、今日読みましたヘブル書の言葉では、神ご自身が「誓った」とありました。神が誓われて、キリストを私たちの大祭司として立てることを誓ってくださいました。

ヘブル人への手紙7章21節この方は、ご自分に対して言われた神の誓いによって祭司となられました。「主は誓われた。思い直されることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」

22その分、イエスは、もっとすぐれた契約の保証となられたのです。

 神が誓うなんて、本当は不必要ですね。神の仰ることを私たちはそのまま信じ受け取れば良いのです。しかし、神はご自身の言葉の確かさを私たちに確証するために、わざわざ誓って、本当だよ、偽りではないよ、と強く仰ったのです。ですから私たちも、誓いがなくてもいつも真実を語り、必要な場合は誓うことも躊躇ってはならないのです。問102の通り、私たちは

「ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、私が偽って誓う時には私を罰してくださるようにと、呼びかける」

 そういう正当な誓いをするのです。誓わなければ良いとか、神の名以外のもの(聖人や他の被造物)に誓うのであれば良いとかではないのです。いい加減な事を言わずに、全てを知っておられる神の前に、心の奥までもご存じである神の前に正直に語れば良いのです。

 しかし聖書には、間違った誓いの例も沢山あります。国主ヘロデは酔った勢いでとんでもない誓いをしました。弟子のペテロは殺されるのが恐くて

「イエスを知らない」

と呪いをかけて否定しました。そういう場合、間違った誓いでも果たすべきでしょうか。嘘で誓った場合、それは許されない罪なのでしょうか。いいえ、イエスはペテロを愛されました。言葉で間違うのも人間です。その場合は謙って自分の非を認め、良い形で責任を取って事態の収拾に努めるべきです。そのような回復を、主は助けてくださいます。

 主は本当に真実で恵み深いお方です。主の御名には、主の御真実が凝縮されています。だから私たちは主の御名をみだりに唱えてはならず、主を恐れ、愛し、賛美しつつ御名を口にするのです。主もまた、私たちに御名をみだりに唱えるなと命じるだけではありません。実に主は、ご自身の御名を聖書の中で繰り返し、新しく教えておられます。

 

 これはその主なものです。クリスマスが近づきましたが、クリスマスにも主は

「インマヌエル」

「ユダヤ人の王」

「ナザレ人」

「いと高き方の子」

「聖なる者、神の子」

「主キリスト」

そして

「イエス」

と新しい名前で呼ばれています。主は、私たちのために、沢山の名前をもってご自身を私たちに紹介してくださいます。名前をみだりに唱えるな、という以上に、神の御名の素晴らしさ、確かさ、真実さを教えてくださっています。自分の不真実や、口の軽さ、失敗で、いい加減に語ったり、神のお約束さえ割り引いて考える私たちに、神は、ご自身の御名が聖なる名であることを強調されます。更には、多くの名で私たちにご自身を名乗られます。何より、イエス・キリストの御生涯そのものが、神の自己紹介でした。この方の前にあって私たちは生きています。

 この方がすべてを聞いておられます。すべてをお見通しで、心の奥までご存じの神です。そして、私たちが嘘やはったりで庇ってまで隠そうとする事実を、ありのままに受け入れて、祝福して下さる神です。その神を思いつつ、いつでも真実に語れる恵みがあるのです。

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ルカの福音書1章26-38節「幸いなマリア」

2017-12-03 17:08:07 | クリスマス

2017/12/3 ルカの福音書1章26-38節「幸いなマリア」

1.この世界の片隅に

 アドベントに入り、キリストのお生まれからお話しします。今週はイエスの母となるマリアに御使いガブリエルが現れ、キリストを宿すことを告げた「受胎告知」の箇所です。何十回と聞いて来た箇所だからこそ、このマリアの選びは驚くべき展開だった事実を思い出しましょう。

 「さて、その六か月目に」

とある25節までの話には、エルサレムの神殿で御使いガブリエルが現れた出来事が書かれています。彼は民の代表として務めていた祭司ザカリヤに現れたのですが、ザカリヤはせっかくの約束を疑ってしまいます。そのため、彼は口がきけなくなって、神殿から出て来て身振り手振りで合図するしか出来なかった。御使いの約束通り、ザカリヤの妻エリサベツは身ごもりますが、それを信じられなかったザカリヤが口をきけない事実が影を落としていました。

 それから「六か月」。エリサベツの体調が安定して、あの不思議な御使いの出来事も忘れられようとしていた頃、あの御使いがもう一度現れたのです。それは、エルサレムではなく、ダビデ王の生まれたベツレヘムでもなく、北の辺境の片田舎、ナザレにでした。またその町の優れた教師や熱心な人にではありませんでした。一人の結婚前の少女の所にでした。当時の考えでは、女性は教育の対象とは見なされず、子どもは人間として扱われませんでした。しかし神は、誰も気づかない時この世界の片隅、ナザレの町にいた少女マリアに現れたのです。

 マリアは御使いの挨拶を聞いても、落ち着いたり恭しく受け取ったりせず、

29この言葉にひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 まったく予期しない御使いの登場とその挨拶に彼女は戦きます。御使いはマリアに

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 マリアは既にヨセフの許嫁でしたから、こうも思えたでしょう。「そうか、私がこれからヨセフと結婚して生まれる子はやがて王になるのね。楽しみだわ」。でも彼女はそうでなく、

「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

と答えるのです。御使いの登場は人生の計画やマリアの世界を引っ繰り返しました。結果的にはマリアはヨセフと一緒になりますが、マタイが伝える通り婚約は一旦解消しかけたぐらいの出来事でした。それ自体、生まれて来る王の支配の不思議さ、常識外れを物語ることでした。

2.神の支配の真逆さ

 交読文ではこの時マリアが歌った46節以下の「マリアの賛歌」を読みました。マリアは、

ルカ一46私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が私に大きなことをしてくださったから…

と言います。マリアは自分を

「卑しいはしため」

と呼びます。ご謙遜や社交辞令ではなく、マリアは本当に自分の事をそう思っていたのでしょう。私たちは「イエスの母になるほどのマリアはきっと素晴らしい女性だったに違いない。他の人とは土台が違う信仰深い少女だったはずだ」と思いたがります。「ナザレの村に埋もれていた素晴らしい少女を主はちゃんとご存じで、敬虔なマリアを用いてくださった」とか何とか。マリアが歌っているのはその反対です。主が私にも目を留めて下さった。だから後々の人も

「私を幸いな者と呼ぶでしょう」

と歌います。でもそれは、自分がそれに相応しいからではなく、主が目を留めてくださったからです。

 50節、54節に

「主のあわれみ」

という言葉が出て来ます。新改訳2017では欄外で「真実の愛」と説明されています。この「真実の愛」は新改訳2017の目立つ工夫の一つでヘブル語の「ヘセド」―「真実・愛・恵み」と訳されてきた、神の特別な深く真実な愛です。その神の慈悲を戴いて、私も幸いな者となった。そして自分だけではない、主を恐れる全ての人に主が幸いを与えてくださる。マリアへの受胎告知は、マリアが特別なのではなく、神が「真実な愛」で卑しいものを引き上げて幸いにしてくださる証しです。マリアだけでなく、私たちも神が「幸いな者」とされる、主のあわれみに生かされているのです。その「真実の愛(あわれみ)」こそ神の御支配であって、それは人間の力の支配や心の思いよりも遙かに強い御支配です。

 51節以下、主が高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられたとあります。裏を返せば、世界はまさにその逆です。声の大きい者が勝ち、力や知恵ある者が権力の座に着くのです。小さな者、貧しい者、賢くない人は馬鹿を見て、それは要領が悪いから、自己責任だから、本人の問題だ、と言われます。そういう世界の中で、御使いは誰も思わない世界の片隅に現れました。そこで生きるまだ少女のマリアに現れたのです。

3.神の国は子どもたちの国

 マリアは戦いて疑問も口にしましたが、38節で

「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」

と受け入れます。何故でしょう。最大の要因はマリアがまだ少女だったからでしょう。老齢になっていたザカリヤは経験や常識が邪魔をして信じることが出来ませんでした。マリアはザカリヤほど人生経験がなかった少女だったから、

「子どものように信じる」

ことが出来た面を見落としてはなりません[1]

 10月より礼拝の「招詞」に、イエスが弟子たちを招かれた時、子どもを真ん中に立たせて、子どもを受け入れる者こそ神を受け入れる、と言われた言葉を入れました[2]。神の招きを受け入れる、礼拝に相応しい態度、ということを考える際、陥りやすいのは子どもには「邪魔をしてはいけない」と窘めるような考えです。子どもにとっての教育は必要ですが、しかし、大人のためや神が喜ばれる礼拝を考えてなら、イエスは全く逆を仰いました。子どもを受け入れないなら主をも神をも受け入れてはいない、と言われるのです。

 勿論、よい意味で成長し、成熟して、洞察を持つことは必要です。幼稚で単純で考えずに信じるのが良いのではありません。騙されないよう注意深くする必要はあります。しかしクリスマスにハッキリ示されているのは、神が憐れみ深く、この世の闇に来られること、人間の思い上がった力を覆されることです。私たちのために主が人となって来られ、すべてを新しくなさったこと、そしてやがて完全にその真実な恵みが地を覆う時が来ること[3]。まだ見えないその約束を、子どものように受け入れて、歩み続ける幼子の信仰を、マリアという少女の姿が私たちに語りかけています。クリスマスを祝い、主の御降誕を信じつつ、憐れみなんて綺麗事に過ぎない、とどこかでシッカリ思っているのではなく、憐れみの主が今この世界を治めておられる、と信じるよう迫られるのです。

 マリアがもし御使いの言葉を信じなかったらどうなったでしょう。それは前のザカリヤの話や45節に示される通りです。マリアが信じなかったとしても、主によって語られた通りイエスは宿ったのです。それほどの主の憐れみだからこそ、マリアは受け入れたのです。私たちが信じられず抵抗しても、主は低い者を引き上げられます。高ぶる者を追い散らし、やがて世界を主の恵みによって治められます。そのために、イエスは卑しい生涯を歩まれ、十字架に架かられました。主の憐れみなど見えない道を通られました。でもその最後は、復活でした。主の恵みこそ、死よりも強い力があったのです。そのイエスのお生まれです。主の約束など信じられない、悪い方に悪い方に考え、諦め、期待もしない。そういう心を砕かれて、救い主がお生まれになったという疑いない事実に、幼子のように立ち戻るためのクリスマスです。

「失われた者を捜して救うために来られた王よ。マリアに宿られたあなたが、私たちにも来て下さり、卑しいものを引き上げて、幸いを与えてくださいます。恵みを諦めている心を新しくしてください。冷たく刺々しい心を捨てさせてください。憐れみに満ちたあなたこそ王であることを、綺麗事や夢物語ではなく、私たちの力強い希望として一歩一歩を進ませてください」



[1] 更に言えば、「マリアが信じたから、イエスの母になった」という考え方も誤解でしょう。先のザカリヤの例が示すとおり、信じない場合のデメリットは伴うにせよ、神が言われたことは必ず成就するのであって、マリアが信じる事が条件ではないのです。その力強いあわれみの支配を前にしたからこそ、マリアは信じて受け入れることに踏み出すことが出来ました。信仰は「条件」ではありません。神の恵みは無条件です。その無条件の恵みが私たちの心に、恵みへの応答としての信仰をもたらすのです。

[2] マタイ九36-37。

[3] クリスマスはイエスが私たちの所にお生まれになった、というメッセージだと言われます。その「私たち」は「自分たち」だけでなく、私たちが見下したり煩わしく思ったり眼中にさえ置いていない人も含めての「私たち」です。いいえ、私たちが人を軽んじたり、人間的な常識で諦めたり、聖書の言葉よりも人間の支配や力の方が所詮は強いのだ、と諦めたりしている、その私たちの不信仰を暴露して、引っ繰り返してしまうのがクリスマスです。そして、そのような私たちの中にキリストはおいでになった。このイエスが永久に世界を治め、その支配に終わりはないのです。そのお方が、奇蹟や眩い出来事ではなく、世界の片隅に現れること、しかもご自身が、小さな子どもとなって、その前に胎児となってマリアに宿られた。そうして、世界の王が「捨て身」で恵みを示されたのがキリストの誕生でした。

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