聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/7/5 ルカ伝1章1~4節「小さな大事件 一書説教 ルカの福音書」

2020-07-04 08:39:42 | 一書説教
2020/7/5 ルカ伝1章1~4節「小さな大事件 一書説教 ルカの福音書」

 一書説教として「ルカの福音書」を取り上げます[1]。新約聖書の最初には四つの「福音書」、主イエスの生涯と教えと御業を辿る書があります。その三番目、最も長いのがルカです。聖書通読表では、既に4月から何回かに分けて読むことになっていて、9月まで続きます。それぐらい長いのです。その最初の前置きが今日の言葉で、このルカの福音書が、どんな状況で、誰のために、何の目的で書かれたのかがとてもよく分かるようになっています。
1:1 2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
 ルカの福音書が書かれたのは紀元60年頃、イエスの昇天から30年が経って、第一目撃者も減ってきた。歴史を纏める必要も生じてきた時代と思われます。まとめてようとはしても、なかなか大事業で、試みだけで終わっている。それをルカが果たしたのです。お気づきでしょう、ここで1節と2節をまとめて訳しています。原文では1節から4節までが一続きの文章で、いっきにこんな長い文章を書けるのはルカの文章力を表しています。言葉も表現力も美しく、長いけれども読みやすい語り口で、ルカの福音書は書かれています[2]。
 また、
「尊敬するテオフィロ」
とあり、献呈という形でルカは福音書を書きました。言い方からして、テオフィロは身分の高い人で、キリスト教に好意を持つか入信したばかりか、でもまだよく分からない。ルカはそのテオフィロを念頭に、この書を書き始めているのです。
 ですから、ルカの福音書には、分かりやすく忘れがたい出来事や譬え話がてんこ盛りです。
 クリスマスのマリアや羊飼いのお話しも、「良きサマリヤ人の譬え」も「放蕩息子の譬え」も「取税人ザアカイの話」もルカの福音書です。キリスト教の入口としてよく使われる有名なお話しはこの三つでしょうが、三つともルカ福音書の記事です。また、イエスの十字架で
父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです[3]。
と言われた言葉も、隣で十字架にかけられていた強盗がイエスを告白して、パラダイスを約束されるエピソードも、「エマオ途上」の出来事も、ルカがなければ知られていたかどうか分かりません。ルカは、こうした物語を通して、テオフィロに、また読む私たちに、読んだことのない人にさえ、語りかけます。
 どの話も、始まりは小さな出来事です。世界の片隅にイエスが来られ、闇に光を照らされる。強盗に襲われた人、放蕩息子、孤独な金持ち、自業自得の死刑囚がイエスに出会います。人は、神からさ迷い、道を失っている[4]。小さな失敗から人生を棒に振ってしまう。世界そのものが恵みを失って暴力的になっている[5]。そんな世界の小さな一人に、イエスは近づいて、一緒に食事をしてくださる。この、食事を一緒にする「祝宴」のテーマもルカの福音書で繰り返されているイメージです。それを見て、周りは「あんな人と一緒に食事をするなんて」と批判しますが、実はそれこそが、失われた人を探して、救い、ともに食事をする、神の物語なのです。
 ルカには素晴らしい物語が沢山あるばかりではありません。2節「まとめて書き上げようと」を聖書協会共同訳[6]は「物語にまとめようと」と訳します[7]。ルカ福音書そのものが「物語」として語られた福音です[8]。更にルカは続いて、新約五巻目の「使徒の働き」を書きました[9]。主イエスが去った後、教会が広がる様子を伝えます。この二つの「ルカ文書」は新約聖書でパウロ書簡全部より多く、上巻の「福音書」より下巻の「使徒の働き」が28章と多いのです。福音は導入であり、序論、伏線で、今ここに働いている主の御業こそ本論なのです。
 ルカが語るのは、かつてのイエスの物語ではなく、今も世界に働いている神のみわざです。「良いサマリヤ人」「放蕩息子」やザアカイの話は、キリスト教の教えや理想の「譬え話」以上に、本当にこの世界に神が何をなさっているか、私たちの人生を神がどのように導かれて行くかを「譬え」た本物の話なのです。神の約束をイエスは成就してくださって、それが世界に拡がっていきました。迫害者パウロが伝道者になり、伝道の眼中にもなかった異邦人が信仰を持ち、神の民としてともに旅をしていく。今もそれが続いている。その土台としての福音書なのです。
 「使徒の働き」もテオフィロに呼びかけて始まります。そこでは「尊敬する」という敬称抜きで
「テオフィロ」
と呼ぶのです[10]。
 「あなたによく分かっていただきたい」
と始まったルカ福音書を読む内に、本当によく分かったのでしょう。ルカとの関係はより親しく変わったのです。ルカの福音書は、私たちの目も開いて、今ここに神が生きて働いていることを教えています。主イエスが私たちを探して救うために来て下さったことを物語ります。そして、私たちの人生そのものが、イエスとともに神の元に帰っていく旅になったのです。ルカの福音書、そして「使徒の働き」は、私たちの歩みも神の小さな、しかし大きな物語の一つなのだと語ってくれるのです。ぜひ、ルカの二つの文書を読んで、その醍醐味を味わっていただきたいと思います。

「主よ。あなたはルカの福音書を与え、多くの人と主の出会いを生き生きと語り、忘れがたい物語を聞かせてくださいます。そして、私たちを神の家に子どもとして迎え入れるため、御子イエスをこの世界の最も低い所にまで遣わし、今や私たちの道は家への旅路となりました。やがて主の前で、ともに食卓を囲み、喜び祝う時を今日も想います。今この道も主がともに歩み、導いてくださいます。どうぞ、私たちもすべての人も、この恵みの道に与らせてください」

脚注:

[1] 今回も多くの記事を参考にしましたが、手軽なものとしては、山崎ランサム和彦氏のブログがオススメです。https://1co1312.wordpress.com/2016/12/11/%e3%83%ab%e3%82%ab%e6%96%87%e6%9b%b8%e3%81%b8%e3%81%ae%e6%8b%9b%e5%be%85%ef%bc%887%ef%bc%89/
また、聖書プロジェクトも、シリーズでルカを詳しく解説してくれます。
https://www.youtube.com/watch?v=MpefMBKEvMo
[2] 聖書記者の中で、ルカは唯一の異邦人(非イスラエル人)です。また、四福音書でただ一人、イエスの地上の生涯を見ていない人でありながら、9:51-18:35のほとんどは、ルカだけの記録。コロサイ4:14によればルカは「医者」で、知的レベルの高さを思わせます。
[3] ルカの福音書23章34節「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」
[4] ルカには、「失われた(アポッリュミ)」という動詞が、24回出て来ます。マタイ17回、マルコ9回、ヨハネ10回と比べると断トツの多さです。ルカの罪理解には、道徳的な悪という以上に、「失われた」という面があります。神との関係で失われ、帰る家、目的を知らず、迷子になっている。その私たちを見つけて家に帰らせてくださるのがキリストです。
[5] 現代の心理学用語で有名になった「トラウマ(心的外傷)」というギリシャ語は、聖書で唯一ルカ10:34に「傷」と訳される言葉で出て来ます。(動詞では20:12)
[6] 聖書協会共同訳ルカによる福音書1章1-4節「1,2私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。3敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。
[7] ギリシャ語「ディエーゲーシス」は、新約聖書ではルカの福音書のここにしか使われない名詞。語源の動詞ディエーゲオマイは、新約で九回使われるうち、五回がルカと使徒の働きです。
[8] もちろん、それはルカの福音書が「創作物語」だ、という意味ではありません。その福音は、歴史的な事実です。しかし、他の福音書と読み比べても分かるように、その構成や順序や細かな表現は、それぞれの福音書記者が大胆に編集しています。それは、「事実」をそのままに伝えるという形はありえず、必ず取捨選択はしなければなりません。起きた事実でも伝えない事が何かしら(極端な例としては、語られたセリフや、歩いたのが右足か左足か、ということなど)あるとしたら、その時点で「事実」は「物語(ナラティブ)」となっているのです。ルカの旅は、ガリラヤからエルサレムへ、という旅を大枠としていますが、これ自体、他の福音書に明らかな、あと二回のエルサレム上京を編集しています。それが、ルカのいう「順序立てて」という手法です。
[9] 口語訳では「使徒行伝」、新共同訳と聖書協会共同訳は「使徒言行録」と題した文書です。
[10] 使徒の働き1:1-2「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。2それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」 新改訳2017は「テオフィロ様」としていますが、原文には、ルカで使われた敬称(クラティステ)がありません。
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