仲良しだったAさん一家が樺太(サハリン)から引揚げてきたのは
一番遅く(1949年)昭和24年になってからだった
コルサコフ(大泊)の港
昭和20年 お父さんは樺太の玄関口 大泊駅の駅長さんだった
母と子共8人は終戦後すぐ引揚げられたはずだが 事情があったのだろう
大泊神社の石段跡
引揚げてから お父さんは宗谷本線の小さな駅「蘭留」の駅長に
Aさんは交換手になったと聞いたので 早速職場へ会いに行った
再会を喜び合ったが私よりずい分大人で淋しげな表情だった
仕事が終わってから一緒に「蘭留」の官舎へ行ったが
小母さんは私の顔を見るなり「無事でよかったね」
とだけ言って涙をぽろぽろ流し 後は言葉にならなかった
敗戦後ソ連兵に連れて行かれそうになり
頭を丸坊主にして隠れて暮らしたと
うわさで聞いていたが 命の危険に遭い 大変な苦労だったらしい
Aさんも何も言わなかったが 一家の支えになっている様子だった
がらんとした家には家具も荷物もほとんどなかった
その後まもなくお父さんは国鉄を辞め
一家でどこかに引越して行ってしまった
それっきりAさんの消息はわからない
まだ生きていたら会いたいなあ
幸せな日々を過ごすことが出来たろうか
国民学校5年生の時お互いに札幌から転校して仲良しになった
8人姉弟の長女でしっかり者のAさん
戦争に負けてからの4年間の苦労とつらさは想像を絶する