76年前の8月日本は戦争に負けた
樺太に住んでいた私たち一家は 父を残して北海道へ
その後の生活はもっと大変で 難民と同じだった
冬
着るもの履く靴もない お腹がすくのが一番つらかった
21年の春は一番食べるものがなかった
母は毎日農家をまわって 軍服などと物々交換して分けてもらう
ジャガイモだけの日々 何もない時は デンプン粕まで食べたが
ウジが入っており臭くて 二度と見るのも嫌だった
遅い春
線路を歩き鉄橋を渡ってわらびやフキ採りに行き
山菜は貴重な食料だった
すぐの姉は女学校を退学し 上の姉と一緒に働いて家計を助け
1年遅れたが私を女学校に通わせてくれた
これでも我が家は恵まれた方だった
栄養失調で亡くなった人も沢山いる
90歳になった姉や妹もつらく苦しかった日々は忘れられないという
母と姉たちに感謝の気持ちは忘れない