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天気のいい日はプロレスでも――【第5回】

2018年01月30日 | Novel

 「――それではお呼びしましょう。ゴー☆ジャス譲治さんとサユリーナ選手、どうぞ!」

 清潔感を漂わせる美貌の女子アナウンサーからの呼び出しと共に、合板丸出しな番組セットの裏で待機していた譲治とさゆりがADに促され、眼が眩むほどの大型照明とテレビカメラの待機するセット正面へ移動した。ふたりはいつも試合で着用している、おなじみのリングコスチュームでの登場だ――

 《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》がマスメディアで発表されてからというもの、譲治たちの身の回りが急に慌ただしくなった。団体事務所の電話にはチケットの問い合わせはもちろん、地元や県外マスコミからの取材依頼が引っ切り無しにかかってきて、彼や選手たちは休む暇なく対応に追われていた。
 目立ちたがりという本来の性分もあり、《こだまプロレス》旗揚げ時より譲治は「地元愛を謳う謎の覆面レスラー」という“色物枠”でローカル番組にたびたび出演、それが自身の存在と団体の認知度を上げるきっかけになった事もあってか、今回もテレビ出演を中心に宣伝活動を行う事を決めた。実際、テレビに出た後のチケットの売れ方は普段の倍以上で、普段プロレス中継や、専門誌を見ない一般層に向けて情報を届けられる最良の媒体は、圧倒的に地上波によるテレビ放送であろう。
 一方で活字媒体へのアプローチも忘れてはいない。プロレスの、見た目の面白さや凄さは映像媒体だけで伝わるが、そうでないもの――譲治のプロレスに対する視点や哲学など、自身の内面を表現するのには時間に限りのあるテレビよりも、腰を落ち着けて読者が目で「聞いてくれる」活字が一番いい。だからテレビ出演の合間を縫って雑誌や新聞、それにWebメディアからのインタビュー依頼を出来る限り受け、時には面白おかしく、または真面目に大会のアピールと共に自身のプロレス観を大いに語ったのだった。

 小洒落たカフェをモチーフとした情報番組のセットの中では、メイン司会の女子アナウンサーと共にふたりは短く編集された、《こだまプロレス》の大会の様子やアイドルレスラーだった頃のさゆりの試合を見て、ときどき尋ねられる質問や疑問に答えていた。モニターには懸命に制止する若手選手たちをものともせず、熱狂的なファン達に揉みくちゃにされながら入場する彼女が映し出されていた。

「うわっ……この時怖くなかったですか?」
「画面では平気な顔してますけど、正直ほんと嫌でしたね。試合後に“胸を触られた”って下の子たちが泣き出したりするし……試合自体よりも入退場に神経使いました」

 眉を八の字にして若干引き気味のアナウンサーに、さゆりは笑顔で当時の“裏話”を語った。映像は次の場面に移り、フィニッシュ直前の様子へと切り替わる。コーナーポストからの落下技を狙う対戦相手に、セカンドロ-プへ足を掛け弾みを付けると、突き上げるようなドロップキックを放ち落下させたさゆりは、頭を押さえふらふらと不用心に立ち上がる相手の背後を素早く奪い、羽交い絞めで両腕の動きを封じそのまま後方へ、綺麗な弧を描いてブリッジしマットへ沈めた――全盛期のフィニッシャーであったウイングロック・スープレックス(ドラゴン・スープレックス)が決まると画面の中に映る十五年前の観客も、それを見ていたアナウンサーからも同時に驚愕の声が漏れた。

「凄いですね! 相手との体格差をものともせず投げちゃうなんて。今度行われる試合でも見せてくれるんでしょうか?」
「出来たらいいなーとは思っているんですけど、相手があの水澤茜ですから。でもチャンスがあれば狙っていきますよ、当時一番の必殺技でしたから」
「先ほどちらりと対戦相手の名が出ましたが、さゆりさんは水澤さんの事をどう評価されてますか?」

 さゆりはしばらく上を見て考えた後、はっきりとした口調で水澤について語りだした。

「ひと言で――凄い選手です。この間試合を生で観戦しましたけど、時代云々ではなくどの選手より身体能力が高く自己表現も素晴らしい、正に完璧に近い今の時代のスターだと思っています。だからこそ彼女には絶対勝ちたいですね」

 試合が決まった以上は、年齢や休止期間(ブランク)によるスタミナの衰えなどを言い訳にせず、持てる全ての力を相手にぶつけた上で勝利したい――水澤との対戦に消極的だった以前のさゆりとは違っていた。家族連れで観戦しに来るお客さんの前で見せる“楽しいプロレス”も好きだけど、勝ち負けに拘る純粋なプロレスもまた楽しい。闘争心が久しぶりに燃え上がったさゆりは活き活きとし、かつての絶頂期にも似た《スター》の輝きを放っていた。 

 さゆりは今回の試合に専念するため、これまで住んでいたアパートを引き払って譲治の家に“押しかけ女房”よろしく転がり込んだ。そのほうが行動が楽だし何よりも、彼ともっと一緒に居たいという「本音の部分」もあった。こうして大会のプロモーション活動と合間を縫って道場でのトレーニングというハードな日々を送るにつれ、今まで勤めていたアルバイト先へ時間が全く取れず、働きに出る事が難しくなった。さゆりは辞めるべきかどうか真剣に悩んだが、店長との話し合いで休業扱いにしてもらった上に、何と大会チケットを50枚ほどまとめて買ってくれたのだった。

「また試合が終ったら、店に顔を出してくださいね――なんて優しく言われちゃってさ、もう泣きそうになっちゃった」

 今日もへとへとになり、夜遅く譲治宅へと戻ったさゆりと譲治は、彼女が手早く作った夜食のうどんを食べ、“仕事”から解放された、という実感がようやく湧きあがり、それまで身体を縛り付けていた無意識下の緊張が解ける。薄らと湯気の立つ、熱い麺汁がゆっくりと喉から流し込まれると溜息と共に、冷え切っていた身体も暖まり心も何だか穏やかになった気になる。

「いい人だね、その店長。そういう人格者と親しくなっておくと、後々にピンチになったとき助けてくれるもんね……大事にしなよ」
「そうね。また仕事を再開出来るように、大会が無事に終わるまでは《プロレスラー》に専念しなきゃ」

 食器棚の壁面に張り付けてある、残り一枚となったカレンダーの、日に日に迫る大会開催日に記された赤い丸印を見て、さゆりはぽつりと呟いた。
 うどんを完食して空きっ腹が満たされた譲治は、眠気に襲われ頬杖をついたまま首をこくりこくりと上下させている。それを見たさゆりは譲治の肩を叩きベットへ行くように促すと、彼は目を擦り「うん、うん」と彼女に返事をしベッドまで辿り着くと、着ている服も脱がずにそのままうつ伏せになって倒れた。

「――今日も一日ご苦労様。そしてありがとうね」

 既にいびきをかいて眠る譲治の頬に、彼女は軽くキスをする。そして自身も服を脱ぎ淡いピンク色の寝間着に着替えると、起こさないよう静かに彼の傍へ潜り込んで眠りについた。譲治と同じく疲労困憊なさゆりも、あれこれと考え事をする間もなく瞬時に深い闇へと堕ちていく――
 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

 暦の上では祝日である今日は、ビッグマッチが決まる以前からスケジュールの入っていたイベント《商店街プロレス》が、多くの商店が軒を連ねるアーケードの中にリングを設置して行われていた。水澤との試合を数日後に控えているこの時期に、さゆりに試合をさせるのはどうか? との声もあったが、練習と宣伝活動だけでは当日、思った通りに身体が動くかどうか心配だったし、何よりも相手は自分と闘う前に各地を廻り、何試合も行ってコンディションを整えているはずだ。さゆりは久しぶりの野外での試合やリングの感触に胸を躍らせる。

 試合は譲治とサユリーナこと神園さゆりがコンビを組み、“謎の黒覆面”HEY-ZONE・愛果ゆうとが対決するミックスド・タッグマッチがマッチアップされ、リング上では男性レスラーふたりが序盤早々激しいバトルを繰り広げていた。
 口無し目無しの黒いマスクと、グレー&ブラックのワンショルダータイプのロングタイツという、昭和のレスラーを思わせるコスチュームのHEY-ZONEが巨躯を活かした連続ショルダータックルやパンチ・キックといった反則ギリギリの攻撃をする一方、袖の部分に切込みの入った紫のタンクトップに、マスクと同じ赤色で揃えたパンタロンという出で立ちの譲治は、真正面に飛んでのフライングラリアットやクロスボディなど空中殺法に勝機を見い出そうとする。

「ぬぉぉぉぉ!」

 HEY-ZONEの放つカウンターのクローズラインをかわし素早くバックを取った譲治が、抱え込み式のバックドロップで相手の頭をマットに叩きつけると、ふらふらになりながら自軍のコーナーへ戻り、サードロープに足を掛け待機していたパートナーのさゆりへとタッチした。一方のHEY-ZONEもミックスドマッチの「掟」として相棒の愛果に交代する。近年では性別の垣根が取り払われ男性×女性の対戦も珍しくなくなったミックスドマッチだが、昔気質のHEY-ZONEはこういった基本的なルールだけは厳守する。
 大一番を間近に控え、最近では彼女の姿を見ない日が無いくらい各メディアに出ずっぱりなサユリーナと《こだまプロレス》いちのアイドルレスラー・愛果が対峙すると、リング周辺のギャラリーから一際大きな歓声が沸き起こった。ふたりは熱いエルボーバット合戦に始まり、手首の取り合いやドロップキックの相打ちなど互いに一歩も引かず見物客を大いに熱狂させる。絶好調のサユリーナはもちろんだが、地道に努力を重ねてきた愛果の成長は著しく、少し前まではその容姿だけで観客たちの興味を引いていた彼女が、あの時以降精神的にも逞しくなり、そのファイトぶりにも注目が集まるようになった。愛果自身も「水澤効果」によりプロレスラーとしての自我に目覚めたのだ。

「HEYさん、お願いします!」

 何度も愛果の猛攻を凌ぎ、スタミナを大幅に削られ棒立ち状態のサユリーナに、彼女はフィニッシュを決めようとパートナーのHEY-ZONEへ、進入する譲治の足止めを指示すると素早くコーナーポストを駆け上がり、身体を捻って眼下のサユリーナへと体当たりした。ダイビング・クロスボディが見事に決まり、レフェリーがフォールカウントを取るが惜しくも三つ目がカウントされる前に、HEY-ZONEのガードを振り切った譲治によって阻止されてしまう。拳でマットを叩き悔しがる愛果。
 今度はサユリーナが反撃する番だ。愛果の腕を掴みロープへ投げ飛ばし戻って来た所へ、両足を綺麗に揃えバネの利いたドロップキックを胸板へ叩き込みダウンさせると、彼女の身体をうつ伏せにさせ脚で右腕を固め、残った左腕を自分の腕でしっかりと固定し力一杯弓形に反らせた。腕や肩はもちろん上半身も捻られ伸ばされ、しかも反対の腕も固定されていて、逃げる事が出来ない愛果は足をばたばたさせて激痛に喘ぐ。HEY-ZONEが慌ててカットに入るが、そうはさせまいと譲治は顎部狙いのトラースキックで彼の出足を挫いた。サユリーナの変形羽根折り固め《フェアリーズ・ボウ(妖精の弓)》が完全に極まり、愛果はもはやタップするしかなかった。レフェリーが彼女にギブアップの意志を確認し、20分近くも行われた激戦は譲治&サユリーナの勝利で幕を閉じたのだった。

「ねぇ愛果ちゃん、本当に大丈夫? 息できる?」

 さゆりが心配そうな表情で、愛果のピンクのニットセーターの上から脇腹を撫でる。コールドスプレーと湿布の匂いに覆われる彼女は少し顔をしかめたが「平気です」と言って笑顔をみせた。
 《商店街プロレス》終了後、四人は打ち上げとばかりに譲治なじみの焼き肉店で食事をしていた。座敷席もある個人経営の店で、店の壁にはこの店に食事に来た有名人のサイン色紙と並んで、譲治の勇姿が映る大きなポスターも貼られている。

「うんうん、よく頑張ったまなちゃん! じゃあ一緒に飲むか」

 早くも飲んでいい気分になっている、HEY-ZONEこと平蔵はビールをグラスに注ぎ愛果の前に差し出すが、慌ててさゆりがそれを奪い取った。

「ちょっと平さん……彼女、まだ未成年だから!」

 平蔵に注意したさゆりが、手にしたビールを喉を鳴らしてぐっと飲み干すと、その「男前」な飲みっぷりに男性陣一同がおおーっ! と歓声を上げる。

「――でも愛果ちゃん、今日の試合凄く良かった。俺たちが宣伝活動で飛び回ってしばらく見ないうちに成長してるね」

 ぱちぱちと脂が焼けて、いい頃合いとなった肉を口に頬張りながら、譲治が今日の愛果の試合ぶりを褒めた。彼曰く技と技との繋ぎがスムーズになっていて、以前は次の行動に移るまでの間の長さが気になっていたが、今日の試合では彼女が次に何をするかちゃんと理解していて、止まっている時間が短くなっているのだという。

「そう、わたしも思った! ちゃんと胸を突き出して攻撃を受けるし、技の仕掛けも段違いに速くなってるの。いっぱい練習してるんだね、愛果ちゃん」

プロレスの先輩たちから今日の試合を褒められ、照れ臭さと嬉しさで愛果は少し顔を赤らめた。しかし慢心はせず、現時点での評価として真摯に受け止める。

「さゆりさんと一緒に水澤さんの試合を間近で見て……やっぱりプロレスは素晴らしいんだな、この素晴らしさを伝えるにはもっと自分が頑張らなきゃ、って。今まで対戦相手任せの部分が大きかったですが、自分でも試合を引っ張っていかなきゃと思い時間がある日は道場で、さゆりさんから教わった事を何度も復習してました」

 愛果の優等生じみた回答だが、それを嫌味を感じる事なく聞けるのは彼女の人柄や真面目にプロレスに打込む姿勢を、ここにいる皆が知っているからだ。約十か月前に愛果が初めて《こだまプロレス》に来た時からずっと、練習や実践を通じてプロレスのイロハを指導してきたさゆりは、彼女の力強く頼もしい言葉を聞いて何か達成感みたいなものを感じた。

「あとは愛果ちゃんが自分の身体に合ったスタイルを見つけ、鍛錬して、“愛果ゆう”のプロレスを創り上げなさい。なーにキャリアが長ければいいってもんじゃないわよ。自分の持っているもの全てを使って、結果的に相手を倒せればそれに越した事はないわ――これで仮に、わたしがいつ退団しても大丈夫ね」

 “退団”という単語を聞いた途端、涙目となる譲治を見てさゆりたちは大笑いした。

「ダメですよさゆりさん! 代表が泣きそうになってるじゃないですか~」
「代表をちゃんとなぐさめてやってよ、さゆりちゃん」

 皆に囃し立てられたさゆりが、叱られてしょげた子供のように身を小さくさせて、ひとり寂しく焼肉を頬張る譲治の側へやってくると、自分の胸に彼を引き寄せてやさしく頭を撫でて安心させようとする。その奇妙な光景がまた、普段の譲治からあまりにもかけ離れて過ぎていて皆の笑いを誘うのであった。

『――来週は強い寒波がこの地方を覆い、場所によっては雪が降るかもしれません……』
 カーラジオから聞こえてくる天気予報に、帰路に就くため車を走らせていた譲治は少し顔を曇らせた。もしかしたら降雪の予報が大会当日と重なるかもしれない、いくら側にバス停もあり比較的立地条件の良い場所に建っている試合会場とはいえ、ここは冬に入れば降雪する割合の高い場所柄。そうなれば当然客足も鈍り最悪チケット代の払い戻しも考えなければならない。
 打ち上げ後酔いが回り、助手席で居眠りをしていたさゆりが目覚めた。

「――あれ? 寝てた。ごめんね譲治くん」
「いいって。もうちょっとで家に着くから」

 彼女は大きく欠伸をし、固まっていた身体の筋を伸ばす。窓の外を見れば家の窓からは既に灯が消え、等間隔で並ぶ街灯のオレンジ色の明かりだけが黒く塗り潰されたこの世界を照らしていた。

「――飲み会での話の続きだけど、わたしがもし《こだまプロレス》を退団する事になったら、譲治くん……泣いちゃうかな?」

 唐突かつ子供じみたさゆりの質問に、譲治は思わずぷっと吹き出してしまう。少し間を開けた後譲治が口を開いた。

「泣かないよ。だってさゆりさんが決めた事だもん、何があっても応援し続ける。何処に行っても」
「嘘、譲治くん痩せ我慢して見栄張っているだけ。本当は胸が張り裂けそうな位辛く悲しいはず――わたし分かるもん」

 譲治の胸の鼓動が大きく波を打つ――図星だったからだ。言葉で表わさなくても、態度や顔色ひとつで胸の内が相手に分かってしまう、自分の単純さを譲治は恨んだ。
 黙り込む彼の側へ、さゆりがシートから上半身を乗り出し耳元で小さく囁く。

 わたしもあなたと離れたくない。

 譲治の目からぽろりと一滴、涙の粒が零れ落ちた。ストレートなこの言葉だけでさゆりの、自分に対する想いが痛いほど伝わってくる。彼はわざと汗を拭うふりをして腕で目を擦った。そんな照れ隠しなど全てお見通しなさゆりだったが、何も言わず窓の外に映るモノクロームな世界を、微かな車の振動に身を委ね眺めた。

     

 そして大会当日――
 前日には今年初めてこの地方にも雪が降り、冬の寒さも一段と厳しくなったにも係わらず、コンサートや大相撲の地方巡業でも使用されている半円型の屋根をした、中規模クラスの公営体育館前には長蛇の列が並び、今回興行をプロモートする《こだまプロレス》所属の若手選手たちは来場客たちの誘導に追われていた。
 ゴー☆ジャス譲治がぶち上げた、メジャー団体・太平洋女子プロレスとの一騎打ちが各メディアで発表されるや新規ファンはもちろんの事、神園さゆりが活躍していた頃に観ていたオールドファンからの問い合わせも殺到し、全国にいる現在そして過去の女子プロレスファンたちからこの“世紀の一戦”に注目が集まった。そして《こだまプロレス》選手たちによる、連日にわたる各方面へのチケットの懸命な手売りやプロモーター・譲治と大会の主役のひとりであるさゆりとの、テレビやラジオなどの公共電波を使用しての宣伝活動が功を奏したのか、プレイガイドなどの委託販売分を含め用意したチケットはほぼ完売する事が出来た。この客足だと若干数用意した当日券もすぐに売り切れるだろう。入口から本館ロビーに至るまで、ぎっしり埋まっている観客たち全てが客席に辿り着くまでには、もう少し時間が掛かりそうだ――

 ――凄いっ! こんなに入ってるなんて……信じられない

 関係者以外立ち入り禁止の通路の隅でさゆりは、リングサイドやホール席、それに二階席に至るまで続々と観客が埋まっていく光景に感動していた。太平洋女子に所属していた少女時代は、多ければ多いほど自分の雑務が増えて鬱陶しく思っていた客の入り具合だが、一度プロレスを辞め社会人も経験し自分が興行に関わるようになった時にやっと、客が多い事の有難味が身に染みて理解できるようになった。

「これが俺たちのビジネス――ってやつさ。有り難いね、さゆりさん」

 後ろから声がしたので振り返ると、まだマスクも被っていないジャージ姿の譲治がさゆりの真後ろに立っている。彼の声もどこか感動に打ち震えていた。信じられないくらいの客の入り具合を目の当たりにして、今日までの苦労や努力が頭をよぎり柄にもなくセンチメンタルな気分になっていたのだった。

「頑張ったもんね……わたしたち」
「ああ。自分の試合が組まれている・いないに係わらず、みんなよくやってくれたよ」

 譲治は身を預けるように、さゆりの肩へ両腕を回し抱きしめた。彼の温もりを背中に感じ、さゆりの内に抱えていた心身的な重圧がすーっと消えて無くなっていく。

「そうね。後はわたしが最後――お客さんに納得してもらえるような試合を観せるだけ。でしょ?」 
「うん――勝っても負けても」

 “負けても”という言葉が気に入らなかったのか、さゆりは肩に乗った譲治の手の甲を軽くつねって威嚇する。大袈裟に手を降って痛がる仕草をする譲治を見て彼女は笑った。ちょうどそこへ体育館の中を駆け回り、譲治を探していた愛果が通りかかった。

「何してるんです、おふたりさん! そりゃ二人きりでいられる時間が少ないかも知れませんが――ってそうじゃなくて、テレビ局の方が代表を探しておられますよ? 一緒に来てください!」

 来場客の誘導で忙殺されテンパってしまい、言っている事も支離死滅になりかけている愛果に、譲治は手を合わせ「ごめん」と謝まると、彼女の誘導で通路の奥へと慌ただしく消えていく。ひとり残されたさゆりは一瞬寂しそうな表情をみせたが、すぐに気持ちを入れ替えて来たるべき大一番に備え、自分の両腿をぴしゃりと叩き気合を注入すると選手控室へと戻っていった
 体育館の中ではリングアナウンサーによる会場での禁止事項等のインフォメーションが放送され始め、否が応にも観客たちの期待は高まっていく。

 始まりを告げる鐘(ゴング)が打ち鳴らされる中、館内照明が急に消え一面が暗闇に包まれた次の瞬間、観客席の中央部に設置されたリングへど派手なBGMと照明による演出が飾りつけられ、体育館の中は我々が生活する日常から遠く離れ、此より争いし者たちが約6メートル四方の舞台(リング)へと集い、互いの優劣を決する異空間へと変貌する――無事定刻通りに《太平洋女子vsこだまガールズ 全面対抗戦》の火蓋は切って落とされた。

 試合は全部で6試合組まれており、前半4試合は太平洋女子の選手同士、またはこだまプロレスの選手同士の試合を交互に披露した。それぞれの団体を贔屓にしているコアなファンたちは実際に生で観る、太平洋女子の若くキュートな選手たちによる感情剥き出しな白熱した攻防や、こだまプロレスの安定したコミカルかつストロングな男女混合マッチに徐々に引き込まれていき、観戦前は罵り合っていた両ファンも文句のひとつも頭に浮かばないぐらいに、双方の団体による提供試合を楽しんでいた。

「みんな、決・め・る・ぞぉ!」

 コーナーポストに昇ったゴー☆ジャス譲治が、人差し指を周りの観客たちに向けるとそれに呼応するように館内に大歓声が響き渡る。好反応に大変満足した彼は真上に飛び上がると、真下でダウンする対戦相手へ目掛けて身体を預けるように肘をボディへと突き刺した。譲治の全体重が乗っかったダイビング・エルボードロップを喰らった対戦相手は悶絶しそのまま果ててしまい、自分の耳元で敗北へのスリーカウントを聞く事となった――ゴー☆ジャス譲治のめったに決まらない必殺技がずばりと決まり、特に地元・こだまプロレスのファンは、レア度が高いこの光景に大興奮するのであった。

 ――あとは任せたよ、おふたりさん!

 通路側にいる観客たちとハイタッチをして、勝利を共に祝い退場する譲治は、太平洋女子の若手選手たちがマットの掃除やリング調整をする姿を横目で見ながら、休憩明けに行われる大一番《太女 vs こだまガールズ全面対抗戦》に出場する愛果ゆうと神園さゆりへ思いを巡らせる。

 15分間の休憩の後に始まった《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》の第一ラウンドである“同世代アイドル対決”と銘打たれた、《最も危険な果実》愛果ゆう(こだまガールズレスリング)と《ラブキャッチャー》来生綾女(きすぎ あやめ / 太平洋女子)の試合は壮絶を極めた「潰しあい」となった。
 現在も大学とプロレスとの二重生活を送っている愛果とは違い、高校を中退しプロレス界入りした来生は彼女よりも実戦経験が多く、年齢的には《同世代》とはいえ修羅場を潜ってきた数が全く違う。ゴングが鳴り試合が開始されるや来生は、《太平洋女子育ち》という誇りとプライドを相手の身体に叩き込まんばかりに、大舞台に場馴れしておらず浮き足立ってしまった愛果に対し一方的に殴る蹴る、もしくは寝技でガンガンと攻めたてる。対戦相手の力量も何も考えない我儘な攻撃に、出鼻を挫かれた格好となった愛果は反撃の糸口も掴めず、ただ悲鳴を上げ相手の為すがままになっているだけだった。愛果への、こだまプロレスファンからの応援よりもさらに多い、大多数の太女ファンからは来生への声援と共に、彼女を小馬鹿にしたような野次までが飛ぶ始末だ。
 愛果はロープを背にし、レフェリーからのブレークの指示で来生が離れていくのをみると、深く深呼吸して気持ちを落ち着かせる。飛んでくるの自分への野次を耳にした彼女は、今までに味わった事の無いアウェイ(敵地)感に背筋がぞくぞくと震え、絶望や恐怖よりも次第に己の気持ちが高揚していくのを感じていた。

 ――太平洋女子の誇りとプライド? そんなもん関係ねぇよ。こっちだって太女の元エース神園さゆりから指導を受けているんだ。お遊戯でプロレスやってるんじゃねぇ!そっちがその気ならやってやるよ!

 覚悟を決め目の色の変わった愛果は、試合が再開されるや来生の胸板へ鋭い肘打ちを叩き込んだ。己の怒りや苛立ちを凝縮させ爆発させた彼女のエルボーバットの乱れ打ちは相手を怯ませるのに十分だった。打撃と打撃との間隔が短く来生は全く手が出せずにいたが、何も出来ないフラストレーションが頂点に達した瞬間、起死回生の張り手が破裂音と共に愛果の顔を抉る。
 しかし彼女は全く動じない。
 それどころか来生の髪の毛を乱暴に掴み、フルスイングの頭突きを何度も何度も喰らわせ、相手の意識と闘争心を徐々に削っていく。端へ端へと追い込まれコーナーを背に、来生がぺたりとマットに尻餅を付いた時レフェリーは、愛果にブレークの指示を出した――今度は愛果が嗤う番だ。

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天気のいい日はプロレスでも――【第4回】

2018年01月30日 | Novel

 自分の挑発にまんまと乗ってきた、さゆりの姿を見て水澤はほくそ笑んだ。相手を同じ壇上に立たせただけでもひとまず成功と言えよう。だがそれでもまださゆりの“意志”は固く、次の段階へ進むには難しそうだった。

「わたしはね、一度プロレスを引退して自分の故郷であるこの街に戻ってきた「只のおばさん」なの。こんな年増女に、眩いばかりのオーラを放つ若い貴女の“引き立て役”が務まると思って?……止めておきなさい。貴女の輝かしいキャリアに傷が付くだけだから」

 先程とは違い、静かな口調で諭すように語りかけるさゆり。しかし無礼千万な水澤の“口撃”は更に続いた。

「年増女ねぇ。その事については否定はしないけど、じゃあどうしてその「只のおばさん」がこんな現役バリバリの私よりもカメラのフラッシュを浴びているのか? それは今なお、アンタがスターの輝きを放っている他無いじゃない!」
「水澤。《スター》っていうのはね、本人の持っている能力もそうだけど、それ以上に周囲の人間の思惑と世に出るタイミング、それに運が奇跡的に合致した時に生まれるものだと思うの。わたしは貴女ほど身体能力は高くない、だけどスター選手としてたり得たのはその“方程式”が上手い事作用したからよ。時代がわたしを求めていた――ただそれだけの事」

 さゆりがそう言った直後、突然水澤はマットを片足を振り上げ、ばぁん!と白いキャンバスを力一杯に踏みつけ不快感を表した。顔には焦りの色が浮かんでいて後にこの日取材に来た記者の話によれば、リング上であれほど感情を露わにした水澤はこれまで見た事が無かったという。これが只の試合後のマイクアピールなどではなく、言葉を武器としたおんな同士による真剣勝負(シュート)だった事が窺い知れよう。

「 時代? タイミング? そんなもの糞喰らえよ。私はもっと今以上の存在になりたいっ! そのためにはどうしてもアンタ――《神園さゆり》という最高の相手が必要なんだ」
「貴女……言っている事が無茶苦茶ね。太平洋女子OGで未だに現役を続けている《スター選手》は他にもいるでしょ? 《天空闘姫》樋野すばる先輩や《アジアの重鎮》ガムラン獅子尾(ししお)、《トリックスター》喜屋武恭子(きゃん きょうこ)とかね。彼女らには対戦要望したの?」

 空中戦と変幻自在のスープレックスが売りだった樋野、巨体から繰り出すパワー殺法で対戦相手を圧殺してきた獅子尾、そして天性の明るさで幅広い層から人気のあった喜屋武……太平洋女子の《黄金時代》を彩ったスター選手たちの名前がさゆりの口から飛び出ると、直接は彼女らの全盛期を目撃していないが、ネット上に転がっている試合動画や回顧録などで見聞きし、“知識”としてその名を知る、若い観客たちから大きなどよめきが湧きあがった。だが彼女たち《レジェンド》の名を聞いても水澤の反応は薄いものだった。

「……興味が無いね。一度も表舞台から姿も消さず“昔の名前”にしがみ付き、のうのうと現役生活を送っている先輩方には失礼だけど、以前ほどの輝きが感じられない。仮に闘って勝ったところで「峠の過ぎた選手に勝利した」だけで自分の価値が上がるわけじゃない――幸いアンタは、選手として一番いい時期にこの業界から姿を消し、誰に知られる事も無く何年も音信不通だった。そしてつい最近……細々ながらも現役を再開させている事が全国の茶の間に知れ渡った。見た目も体型も、そして技の切れも当時に近いあの頃のままの神園さゆりが。私はそんなアンタと是非一戦交えて……勝ちたいんだ、よろしくお願いします!」

 最後はきっと素の自分なのだろう、きわめて真摯に深々と頭を下げる水澤。こんな自分にここまで礼を尽くしてくれている――彼女の想いが、痛いほどさゆりの胸に突き刺さる。女子プロレスの一線級から離れて幾年月、こんなに闘志が熱く滾るのはいつ以来だろうか? さゆりの心の中は、水澤と持てる力を駆使して闘いたい気持ちと、いち地方の兼業レスラーのまま力尽きるまでプロレス人生を過ごすかとで大きく揺れ動いていた。眉間にしわを寄せさゆりは大きく悩む。

「――ただし、水澤との対戦はあなたがうちに入団しないと出来ませんよ? 前にも言いましたが当団体へ入団の暁には、それ相当の権限をあなたに与えましょう。どうです? 神園さん」

 せっかくいい流れになって来た所で、“助け舟”を出すべく気の逸った緒方がリングインし、援護射撃をするのだが観客たちからは本気のブーイングが自然発生する。《夢の一戦》に向けて、両者の間で繰り広げられていた熱い討論を社長・緒方が《企業の論理》を持ち出した事により、完全に水を差す格好となってしまった。
 リングの上では怒る水澤と緒方が激しく言い争い、そのリングの中へは不快感を露わにした観客たちから物が次々と投げ込まれる――完全に修羅場と化した試合会場を、鎮静化するにはかなりの時間を要すと思われた。

 ――わたしがここで「イエス」と言わなければこの混乱は収拾しない、しょうがないか……

 物と怒号が飛び交う客席の中、ついに覚悟を決めたさゆりはマイクを口に近付け、話し始めようとしたその時――雑音混じりの、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。

「ちょっと待ったぁぁぁ!」

 会場の一番奥から、選挙活動で使うような大きなワイヤレスメガホンを肩に掛け、付属のマイクでがなり立てながら一人の大男が威風堂々と歩いてくる

「ゴー☆ジャス譲治だ!」
「ゴー☆ジャス! ゴー☆ジャス!!」

 観客の一人がおなじみの赤い覆面を被った彼に気が付くと、今度は《ホームタウン・ヒーロー》ゴー☆ジャス譲治に対し会場の、彼を知る全ての人たちから盛大なコールが贈られた。

「ご、ゴー☆ジャスだぁ? どうやってここに入った?!」

 驚きと怒りで、顔を真っ赤にした緒方が叫ぶ。

「心配なさんな。ちゃんとチケット買って入場してるよ! しかも前売りでな。そんでもっていろいろグッズも買わせてもらったし、いい客だろ俺って!」

 そう言うとリングにいる水澤をはじめ、可愛い娘揃いの太平洋女子の選手たちのポートレートを高々と掲げ見せびらかした。団体社長兼プロレスラーであると同時に、筋金入りの女子プロレスマニアでもある譲治の面目躍如だ。
 彼がリングにほど近い、さゆりの居るリングサイドの招待席までやってきた。さゆりは久々に間近で見る譲治の勇姿に、団体の主として、また男性として頼もしさを感じ胸がきゅんとときめいた。何を話しかけて良いものかと戸惑っていると、何と譲治の方から声を掛けてきたではないか。

「……待たせてごめん、さゆりさん」

 声を聞いただけで鼻の奥がつんとし、涙が出そうになるのを必死で堪え、彼の脇腹を肘で小突く。

「もう、公の前では《サユリーナ》でしょ」

 お互いが顔を見合わせ笑いあうふたりに、緒方のイライラは最高潮に達していた。気が付けばゴー☆ジャスと《こだまプロレス》に会場を乗っ取られた格好となり、支配欲が強い緒方にとって非常に許し難い状況だ。

「まだ分かんねぇかな? アンタの一言が全てを台無しにしてしまったんだよ、このハゲっ!……かといってサユリーナはウチにとっても大事な看板選手。茜ちゃんがどーこー言っても「はい、そうですか」といって簡単に移籍させる事なんて出来ない」

 「茜ちゃん」と軽々しく下の名で呼ばれ、ビックリする水澤へ譲治の話はまだ続く。

「だけど水澤茜とサユリーナの新旧スターの対決、みんな観たくないか? なぁ観たいだろ! そして闘ってみたいだろ? 茜ちゃんもサユリーナも!」

 ノイズ混じりで不明瞭なワイヤレスメガホンから発信される、譲治の熱い魂の叫びは、確実に観客たちの心を捉えていた。会場の至る所で「観たい!」と彼女らの一騎打ちを要望する声が上がり出し、それはいつしか「水澤」「サユリーナ」コールへと形を変え、声を枯らさんばかりの大声でそれぞれがリング上の、そしてリングサイドのふたりに浴びせかけた。

「そこでだ。おい、緒方! 次の巡業で太平洋女子、ここの隣りの街へ興行に来るだろ? あんたの所の営業に確認したぞ」
「あ、あぁ」
「その興行権、興行主(プロモーター)さんから無理を言って譲ってもらった。もちろん多少の金額も払ったがな。そこで《こだまプロレス》プレゼンツとして、水澤茜 vs サユリーナ……いや、神園さゆりの夢の一騎討ちを行う事にした! どーだ、参ったかこのヤロー!!」

 この朗報に観客たちは、会場が壊れんばかりの大絶叫で歓喜した。水澤もさゆりも少々強引だが、問題の着地点を見出だせた事にほっとし、笑顔が自然と浮かぶ。だが面白くないのは緒方だ。自分の知らない所で話が進められ、あと一歩と迫った「神園さゆり引抜き計画」も、ゴー☆ジャスの登場でおじゃんとなってしまったからだ。

「なぁに、何も心配しなさんな。あんたの所の懐は何も痛まないから、緒方社長。会場費用から移動費に宿泊費、選手のギャランティまでぜーんぶウチが支払ってやるんだ。文句ないだろ?」

 得意気に笑うゴー☆ジャス。だが素人目に見ても莫大な金額が発生する事は、容易に想像できる。果たしていち地方の零細企業である《こだまプロレス》に支払う能力があるのか? さゆりは心配で堪らず譲治の耳元で囁いた。

「ちょっと! 威勢のいい事言っちゃってるけどお金、本当にちゃんとあるの?」

 それに対し譲治は指で丸を作り、大丈夫とアピールするだけだった――実際の所、水澤茜ほか参加選手のギャランティに関しては太平洋女子のフロントに、かつて大学時代に譲治と《神園さゆりファンクラブ》を一緒に運営していた仲間がいて、その彼に掛け合い何とか最低ラインの金額に抑える事が出来た事。会場費や宿泊・移動に関する諸経費に関しては《こだまプロレス》に企業広告を出している協賛企業数社へ譲治自らが出向き、何度も頭を下げ協力してもらいどうにか調達する事が出来たのだという。逆にこの興行が成功しなければ《こだまプロレス》は解散、譲治も多額の借金を背負わなければならず、正に社命を賭けた大博打だ。

「と、言うわけだ。それじゃあ一月後また逢おう諸君!……帰ろうサユリーナ、愛果ちゃんっ!」

 ゴー☆ジャス譲治は得意満面の笑みで、観客からの「頑張って!」の声援に手を振って応えるさゆりと愛果を引き連れて、出入口に続く通路をファンたちの「こだまプロレス」コールを背に悠々と会場を引き上げていく。 しかし突然の譲治の乱入によって更にヒートアップした会場の大騒乱は、彼らが去った後も暫くは収まりそうになかった――

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 エアコンの送風音が狭い車内に鳴り響く中、ふたりは無表情のままただ黙ってシートに身を委ね、灯りの消えた暗く寂しい道を走り過ぎていく。五分前に愛果を自宅前で降ろしそれからしばらく経つが、彼らの口からはひと言も発せられていなかった。
 時折咳払いや溜息が漏れるものの、会話の無いひどく重苦しい車内の雰囲気――だが見覚えのある家々の配置が譲治の目に飛び込んできた。もうすぐさゆりの住んでいるアパートに着く。彼女を無事送り届ければ、まるで心理戦でもしているかのような変な重圧から解放される、はずだった。
 アパートの手前で譲治は、エンジンを切り車を停める。

「着いたよさゆりさん。じゃあ今日はこれで」

 助手席に座っているさゆりに家に到着した事を告げるが、シートベルトも外さず顔を下に向けたまま彼女は動かない。譲治は恐る恐る肩を揺すってみたものの、それでも降りる気配は全く無く、彼は困惑の表情を浮かべる。

「ったく冗談がキツイなぁ、さゆりさんは。本気にしちゃいますよ俺――」

 冗談で言ったつもりの譲治の一言が、さゆりの心にスイッチを入れた。彼の肩を掴み、泣きそうな顔で頭を振って拒否反応を示したのだ。欲しい物が手に入らず駄々をこねている少女のような彼女の表情に、必死に保ってきた譲治の理性は崩壊寸前となる。

「いや……まだ一緒に居たい。連れてってよ、譲治くんの所へ」

 譲治がまだプロレスラーになる以前から応援し、憧れ、尊敬してきた女性から潤んだ瞳で「一緒に居たい」と懇願される。これを男性として断る理由があるだろうか? 譲治は自分の肩に乗ったさゆりの手に、自分の大きく厚い掌で包み込むとエンジンをかけ、車を自宅の方へ向けて発進させる――備え付けの時計のデジタル表示を見れば既に午後十一時をとうに越えていた。

 典型的な男の子の部屋――自宅に到着し、真っ先に譲治の部屋に通されたさゆりは、男性経験はそれなりにあったが「最後の砦」というべき部屋(プライベートルーム)まで入った回数はさほど多くはない。だが雑然と置いてある衣服や無駄に飾り立てられたガラクタなど、目に飛び込む情報で直感的にそう思ったのだ。譲治はさゆりの歩く先頭で、床に散らばっている服を片付けながら空間を作っていく。
 未だ緊張が解けず固くなっていたさゆりだったが、家中に充満する譲治の匂いで安心したのか、次第に表情も和らぎ落ち着きを取り戻していく。彼女は側にあった譲治の本棚を適当に漁っていると恥ずかしくも懐かしい物が出てきた――十代最後の年に海外で撮影した最初の写真集だ。本を手に取り厚い表紙を開けると、白い表紙裏に記された自分のサインが目に入った。許可なしで勝手に自分の“宝物”を見ているさゆりを発見した譲治は、慌てて彼女の傍に飛び込んでくる。

「な、な、何勝手に俺の本見てんスか、さゆりさんっ!」

 尋常でない彼の慌てっぷりに、さゆりはとうとう笑い出した。

「いいじゃないっ!――でも懐かしいな。初めてサイパンかどこかの海外に連れて行ってもらって、しかもビキニ着せられて似合わない悩殺ポーズ取ってさ。いやぁ笑顔がぎこちないっ!」

 ベッドの縁に腰を掛け膝に写真集を置いて、ページを一枚一枚捲りながら譲治に、当時の思い出話を聞かせるさゆり。それを聞いた譲治は、この本を試合会場のグッズ売り場でサインの順番待ちを緊張しながら待っていた事を話すと、さゆりはまた笑った。

「あの時のファン層は、わたしと同じくらいか年齢高めのおじさまが多かったから、こういう写真集は需要があったのよねぇ……緒方も非常に乗り気でさ、どんどん写真の内容が過激になっていくのよ――という事は「あれ」も家にあるのかしら?」

 「あれ」と言われた瞬間、譲治は急におろおろと挙動不審となった。まるで突然部屋に踏み込まれた母親に、隠していた成人雑誌を捜索されるような苦々しい気分だ。至って正常な反応をする譲治に満足したさゆりは再び立ち上がり、本棚を漁り出した。目的の品は数秒も掛からないうちに発見され白日の下に晒されてしまう。黒い表紙でアダルトチックな雰囲気の写真集――彼女が現役時代最後に出した写真集だ。タイトル文字の隙間からちらりと、彼女の裸が見える表紙のレイアウトからも分かる通り、大胆にも全編フルヌードに挑戦した意欲作であった。掲載されている写真の多くは、人気が最高潮に達し「ひとりの女」として一番脂の乗った状態であった、さゆりの乳房や尻、そして薄らとアンダーヘアの茂る下腹部まで全て曝け出していて、ファンはもちろん、普段女子プロレスなんて観ない一般層までもがこの写真集を買い求め、一部書店では品切れ状態になったほどだった。噂によるとさゆりの写真集で得た多額の印税で、太平洋女子は新たに移動用バスを一台購入したとも言われている。

「ねぇ、これ見て何回わたしを「オカズ」にした?」

 思いがけない質問に、譲治がぷっと吹きだした。

「な、何言ってるんスか? そんな事言えるわけ――」

 途中まで言いかけた譲治だったが、突然身体のバランスを崩しベッドの上に倒れ込んだ。仰ぎ見る視線の先にはさゆりの顔が――そう、彼女がわざと譲治をベッドに押し倒したのだ。これはどういう事なのか? 頭の中が混乱して思考が定まらない。

「こ・た・え・て?」

 悪戯っぽく微笑むさゆりの、吸い込まれそうなほどに黒く澄んだ瞳に見つめられ、催眠術にかかったように譲治の口が勝手に動き出す。

「5回、いや10回かな……もう勘弁してくださいよ」

 吐く息が頬に触れるほどに接近する彼女。戸惑う譲治に対しさゆりは強引に顔を重ね彼の唇に吸い付いた。舌は歯や歯茎を刺激しながら口内へと侵入、彼女の舌と譲治の舌とが絡み合い己の奥底に眠っていた官能が、舌先から脳に伝達される衝撃で覚醒する――譲治の思考は完全に停止した。
 永遠とも思える長い時間、互い同士貪りあっていた唇が離れ、つーっと一本唾液の糸がふたりの間を繋ぐ。室内照明に照らされ輝くそれは、まさに“蜘蛛の糸”のように映った。
 やがてふたりは、体内で燃え上がる欲情を解放させるかの如く、理性と共にそれを押え込んでいた衣服や下着を毟り取るように脱ぎ捨てた。夢にまで見たさゆりのあられもない一糸纏わぬ姿に譲治は言葉を失う。あれほど夢にまで見た彼女の真っ裸がいま目の前に存在する――これ以上の驚きがこの先あるだろうか? そう考えただけで緊張と興奮で身体が震えだす。
 そんな譲治の心の内を見透かしたさゆりは、自ら譲治の分厚い胸に腕を巻き付け身体を密着させた。人肌の温かみやリズム良く刻まれる心音、そして彼女の体臭が強張った彼の身と心を次第に解していく。「安心した?」と言葉でなく、表情で尋ねるさゆりに対し譲治は返事の代わりに口で唇を塞ぐと、そのままふたりはベッドの土台を軋ませて倒れ――夜が明けるまで互いの身体を貪り合ったのだった。

 朝――
 ぶかぶかでサイズの合っていない部屋着用のロングTシャツを被り、下はショーツのままのさゆりがすぐ隣のキッチンで朝食の支度をしている――なんて光景が未だに譲治は信じられない。自分はまだ夢の中にいるのではないか? とベタな確認方法だが彼は自分の頬を思いっきり抓ってみる事にする……痛い。当然夢などではなかった。

「何してんのよ? 朝ごはん冷めちゃうわよ」

 そんなバカをやっている最中、さゆりが膳に乗せて味噌汁や焼いたアジの開き、それに出汁巻など朝食のおかずを運んできた。電気炊飯器から炊きたてのご飯が、大振りの茶碗によそられると譲治は慌てて姿勢を正し、着席したさゆりと共に「いただきます」と手を合わせ食事を開始した。まずは湯気の立った暖かい味噌汁から口にする。

 ――う、うめぇ!

 味噌汁は油揚げとワカメだけのシンプルな具であるが、何処にあったのか家主の譲治でさえ、その存在を忘れていた粉末の鰹出汁で仕立てられた味噌汁は、自分で時々思い出して作ったものより何倍も美味しかった。譲治の表情だけで、自分の作った料理の良し悪しを判断できたさゆりは「美味しい?」と感想を尋ねる事も無く、彼の幸せそうな顔を見てとても満足気だ。
 料理は女性が作るもの――と言う気はないが、さすがにさゆりの料理はどれも譲治を満足させてくれた。どれだけ今まで自分が適当に食事を作ってきたか痛感した。食材自体の旨みプラスそれを活かす調理方法、それに食してくれる人への愛情……とても彼女には敵わない。
 黙々と食事を進める譲治にさゆりが尋ねる。

「――これから、大変だね?」
「ああ。試合が行われる一月後まで、いろいろと雑務で追われる事になるなぁ」

 譲治は少し暗い顔をしたまま、味噌汁をずずっと啜った。とにかく融資してくれた方々にお金を返す為には、限られた時間の中でチケットを売って売って売りさばき、試合会場を満員にしなければならない。それにはこの《水澤茜vs神園さゆり》を昨夜試合会場にいた観客たち、メディアを通じてこの試合を知る事になる女子プロレスファンの他、普段はプロレスを見ない、または過去にプロレスを見ていた一般層にも知ってもらい、会場に足を運んでもらう以外他はない。

「わたしも手伝うよ、譲治くん」
「いや、さゆりさんは茜ちゃんとの試合に向けて集中してもらわないと……」

 さゆりは譲治に協力を申し出るが、意固地になって拒む彼に対し「目の前にある現実を見ろ」とばかりに叱咤する。

「何遠慮してるの? ウチの団体が存続できるか無くなるかという一大事に、ただ練習だけして平気な顔していられるわけないでしょ! それに《ゴー☆ジャス譲治》という安定のブランドネームに加えて、全国区のアイドルレスラーだったわたしが一緒に付いて廻ればチケットもすぐに完売よ……きっと」
「本当にすみませんっ!俺の勝手なわがままのせいで」

 テーブルに顔を擦りつけるほど深く頭を下げ、涙声で感謝する譲治の姿に母性本能がきゅんと疼いた。いくら人前やカメラの前では強がっていても、自分の前だけでは弱い部分も全て見せてくれる――それがさゆりには嬉しくてたまらない。

「わたしの事を想っての行動でしょ? 責任の半分はわたしにあるんだし手伝うのが筋じゃない。それにあのまま会場の雰囲気に引き摺られて、緒方の所へ移籍した方がよかったかしら?」

 移籍と聞いて譲治は思わず、何度も首を横に振って拒否の意示を表わす。さゆりはお椀を口に付け「でしょ?」と言わんばかりの視線を彼に送り、残りの味噌汁を平らげた。

 顔を洗い着替え終えたふたりは、車に乗り込み《こだまプロレス》道場へと向かう。スポーツ紙や情報サイトでは既に発表されている《太女 vs こだま全面対抗戦》の件について、所属選手全員に自らの口で話しておかなければならないと思い、皆に召集をかけたのだ。
 道場に近付くにつれ、ネガティブな思考が譲治の頭の中に次々と湧いては消え、覆面で隠れて見えないが不安な面持ちでハンドルを握っていた。助手席のさゆりは彼の腿に掌を乗せて、不安でたまらない譲治の気持ちを落ち着かせると「大丈夫」と目配せをする――さゆりの後押しのおかげで、彼は自信を取り戻しつつあった。人前で《ゴー☆ジャス譲治》として振る舞えるだけの自信を。

 
 ――変だな? 集合時間はとうに過ぎているのに誰もいない。
 室内照明も灯っていない道場の中は薄暗く、普段であればこの時間でも選手の誰かがやって来ては練習に励んでいるはずなのに、どこを見渡しても人の気配が無い。
 この異常事態に、譲治とさゆりは顔を見合わせて不思議がった。
 道場の中で聞こえるのは、寂しく響く自分の靴音だけ。視線をあちこちに動かし誰かいないか捜してみるが見当たらない。

「ねぇ、集合時間を打ち間違えたんじゃない? 譲治くんたまにポカするから」
「なっ……! さゆりさんより俺の方が電子機器の扱い、上手いと思いますけどねぇ」

 告知の不備について互いが言い争う内に、エスカレートしたさゆりが譲治の口に手を入れ思いっきり頬肉を抓った。プロレスにおいてもれっきとした反則技であるこの攻撃に、あまりの痛さで彼の目から涙が滲む。

「どの口が言う、どの口が?」
「痛ててっ!く、口の中に指突っ込まないでくださいよ!」

 ……くすくすくす

 どこからか堪えるような笑い声が聞こえた。やはりこの中に誰かいる。ふたりはじっと目を凝らし、声が聞こえた方角に目をやった。練習器具の物陰に身を隠しこちらを見ている人物の姿が――それは昨晩一緒に会場にいた、団体最年少女子レスラーの愛果ゆうだった。

「おふたりさん、いつからそんなイチャイチャし出したんですかぁ?」 

 意地悪く笑う愛果に、ふたりはどろもどろになって言い訳を探すが、混乱した頭から無理矢理捻り出す言い訳はどれも決め手が無く、疑念はますます深まるばかりだ。

「ほら、ゴー☆ジャス代表もさゆりさんの腰に手なんて回しちゃって――もう、付き合っているのバレバレですよ? みんなにも」
「みんな……にも?」

 愛果がぱちんと指を鳴らすと室内の電気が灯され、それまで笑いを必死に堪えて隠れていた《こだまプロレス》所属の男子&女子レスラーたちが一斉に現れ、祝福の拍手や冷やかしの指笛をふたりに浴びせる。周りが自分たちを祝って「くれている」のは理解できるのだが、次から次へと湧いてくる疑問に笑う事も怒る事も出来ないふたり。

「ようやく引っ付いたか、おふたりさん」
「前の秋祭の時で決着(けり)が着くと思ったのにな、全く遅ぇよ代表」
「今度はいつふたりが結婚するか賭けよっか、みんな?」

 外野に散々好き放題言われ、ようやく怒りに火の付いた譲治は大きな声で怒鳴り散らした――はにかんだ笑顔で。
「お前ら! そんな事する暇があったらとっとと練習しやがれ、コノヤロー!」

 腕を振り上げて、笑いながら逃げる選手たちを追いかけ回す子供のような譲治に、さゆりはひとつ咳払いをして彼に「本来の目的」を遂行するよう促すと、ぴたりと足を止め真剣な表情で、自分の周りへ輪のように集まる選手たちに話しだした。

「みんなもスポーツ新聞やネットで目にしたと思うが、来たる一か月後にウチのサユリーナと太平洋女子の新世代エースの水澤茜との試合をメインとする《太女 vs こだまガールズ全面対抗戦》を、我が《こだまプロレス》の主催で行う事にした」

 道場内は譲治の発言に静まり返る。物事が突飛すぎて想像が追い付かないのだ。しかし対抗戦を行う事には誰も異を唱えない。

「図々しくもあちらさんは、我が団体の女子部の柱である彼女をヘッドハンティングするため接触し、挙句の果てにマスコミや観客を使って彼女を取り囲んで移籍を迫り、イエスと言わざるを得ない状況を作るに至った。これは非常に許し難い事態である」

 会場で一部始終を目の当たりにしていた愛果が、両方の拳を握り彼の話に頷く。

「みんなにはギリギリまで秘密にしていて申し訳ない。どうしても俺ひとりでサユリーナ……さゆりさんを守ってやりたかったんだ」
「――ホント水臭ぇよ、代表」

 坊主頭の巨漢レスラー――団体最年長である“HEY-ZONE”こと里中平蔵がぶっきら棒な口調で、譲治の話に割り込んできた。人生に於いても、またプロレスラーとしても大先輩の平蔵に譲治は深々と頭を下げ謝った。

「平蔵さん、本当にすみません」
「チケット――売るんだろ? 俺たちが頑張ってあるだけ捌いてきてやっからよ、代表とさゆりちゃんは興行の成功の為、時間ある限り宣伝活動してこいよ。頼んだぜおふたりさん!」

 選手たちからは、平蔵の意見に賛同する声が次々とあがった。《こだまプロレス》を守る事、そしてさゆりが代表となってメジャー団体のエースと闘う、この興行を成功に導くために皆一丸となって「闘う」事を決めたのだ。彼らの心意気に譲治は感激で胸が張り裂けそうだった。こんなヘタレなリーダーでも黙って付いてきてくれる所属選手たちには感謝してもしきれない。
 譲治の隣りでは、彼の着ている濃紺のジャケットの裾を掴み感涙するさゆりの姿があった。既に譲治のパートナーとしての「貫録」を漂わせて。

 ――わたし、やっぱりここに残ってよかった。 

 それは自分の判断が、決して間違っていなかった事を確信した瞬間であった。

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天気のいい日はプロレスでも――【第3回】

2018年01月30日 | Novel

 ――はぁ、もうつまんない。

 スマートフォンを耳に当てるのも面倒になり、シーツに置いてスピーカー機能にして会話を続けたが、いつ終わるとも知れない緒方の話にさゆりは辟易としていた。何でそんなに話す事があるの? というくらい、彼が口にする話題はいろいろな方面に広がっていて、話の内容が核心に迫って来たかと思うと別の所へ飛んでいったり、またはその逆だったりして聞く者の気持ちを惑わせる。気の短い相手だったら怒って途中で電話を切ってしまうか、言い分をさっさと聞き入れて話を終わらせようとするかどちらかだろう。
 緒方の話の八割は近況報告で、自分の団体の経営状況や現在推している自選手の紹介など、旧知の仲である彼女が話相手だからかいい事や悪い事、包み隠さず全てさゆりに聞かせた。団体経営という激務からくるストレスを彼女に吐き出す事で解消するかのように。
 いきなりシビアな問題を突きつけられるのか? と最初、強く警戒していたさゆりは終始、こんな調子での電話に正直拍子抜けしてしまった。

「ニュースで観たけどさ、さゆりちゃんあんまり体型変わってないよね? よかったよかった」
「そりゃあ……まぁ、適度にトレーニングはしてますもんで」

 そうなのだ。フルタイムのプロレスラーとしての活動はとうに停止しているが、ほぼ月イチでリングに上がっているさゆりは、現役時代とはその内容も所要時間も比較にならないが、それでも怪我をしない身体作りのためのトレーニングは欠かしていない。

「以前ウチにいた《天空闘姫(てんくうとうき)》樋野(ひの)すばるみたいに倍近く肥えちゃったら、もう見る影ないからね」

 その全盛期には、モデルを思わせるような顔立ちの良さとスレンダーな身体で、長い黒髪をなびかせながら空中殺法と、各種スープレックスで男性ファンたちを魅了していた、さゆりにとっては直近の先輩である樋野の話題に、自分でも「その通り」だとは思っていてもさすがに声を出して笑えない。

「――それで結局わたしに何の用なんです? 太平洋女子時代の話を久々に出来て楽しかったけど、まさかそれだけじゃないでしょうね……緒方さん?」

 とうとう痺れを切らしたさゆりは核心に迫った。

「大方の内容はゴー☆ジャスくんから聞いた通り、いまウチは大変なスター不足に悩んでいるんだ。今いるエース級の選手たちが全く駄目というわけじゃないが、太女ファン以外のプロレスファンたちにもその名が届いているか?と言えば首を傾げざるを得ない。もっと団体という枠を突き抜けて、業界全体にその名を轟かせるような選手が欲しいんだよ」

 彼が口にする救世主(スター)願望は、どこの団体経営者も一度は思うはずだ。仮にひとりでもそんな存在がいれば、自分の所はもちろん、この業界全体に注目が集まりそれによって市場は活気付き懐具合も潤うだろう。だが実際は《プロレス》という特殊な競技の中において、現在《女子プロレス》は更に狭いファン層からしか相手にされていない。そんなミニマムな市場の中で、大小様々な団体が数少ない観客たちを奪い合っているのが現状である。だからこそ――この閉塞的な状況を打破できるようなスター選手を緒方は誕生させ、老舗・太平洋女子プロレス此処に有り! という事を知らしめたいのだ。

「スター不足って……随分贅沢な悩みね。今太女でメインを張っている水澤茜(みずさわ あかね)ちゃんじゃ不満なの? あの娘、結構いいセンスしてると思うけど」

 さゆりは現在太平洋女子でトップの座に君臨する、《マーメイド・スプラッシュ》と呼ばれ男女問わず人気のある水澤の名を口にした。まるでティーンズ向けファッション誌に登場するモデルのようなビジュアルや、他の所属選手と比べ頭ひとつ抜けたテクニックは、全盛期のさゆりや過去に太女マットを彩ったスターたちと比べても何の遜色もない、まさに《スター》と呼ばれるに相応しい逸材である。
 だがそんな彼女でも、緒方にはまだ「何か足りない」と感じているようだ。

「僕が“一番いい時代”に“凄い選手”たちと共に過ごしたからかも知れないけれど、スケール感っていうのかな? 輝き方が足らないように思うんだ。カリスマ性、人間力、運動能力、舞台映え……それが何だか分からないけど、とにかく僕にはそう感じる」
「それで――わたしにどうして欲しいのよ? 」
「その“スターの原石”である茜を、プロレス界に“電撃復帰”した元スター・神園さゆりが、対戦なりタッグを組むなどして、彼女を本物のスターへレベルアップさせるために手を貸して欲しいんだ。もちろんそれなりの待遇はする」

 ついに本題に入ったか――さゆりは身を固くする。だけど歳も重ねて今の社会人としての生活もある現在、近隣会場へのスポット参戦ならともかく、おいそれとプロレスだけをするために中央へ戻る事なんて簡単には出来ない。彼女はその旨を緒方に伝えたが、グッドアイデアと信じている彼はなかなか引き下がらない 

「とにかく一度会場に来てくれないか? 近々だと……今月中頃に君の住む街にある市民ホールで興行がある。だから絶対に来てくれ、歓迎するよ」

 そういうと長かった緒方との電話はやっと幕を引いた。静かになったスマートフォンを見て気が抜けたさゆりは、ふわりと脱力しそのままベッドへ横になった。

 ――変な感じ……物事が急に動き出して現実感がまるで無いわ。今までの生活が壊されそうで何だか怖い。

 強く目を瞑って、強引に眠りに付こうとするさゆり。全てが夢なのだと自分自身に思い込ませるように。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「あれっ、今日は譲治くん来てないの?」

 天井の照明に照らされそのボディを鈍く輝かせる、ウェイトトレーニング用マシンに腰を掛け、上半身を捻ってストレッチをしている《こだまガールズレスリング》での“教え子”愛果ゆうにさゆりは尋ねた。彼女は今日、仕事が休日でまる一日空いているので、トレーニングをするために朝から道場へ顔を出していたのだった。

「はい、朝からまだ一度も顔を見てませんが」
「何やってんだか……まったく弛んでるわね」

 怒っているような口調でひとり文句を垂れた後、さゆりは備え付けのシートに座りマシンのハンドルを握ると力を込めて上下に動かした。外気の寒さに触れ縮んでいた筋肉と血管がみるみるうちに拡張していき、ボディラインがはっきりと出るノースリーブ型フィットネスウェアの胸元や顔からじわりと汗が滲みだした。呼吸をリズミカルに出し吐きし、鍛えたい部分を重点的に負荷を掛け徹底的に身体を虐め抜いていく。

「サユリーナさん。代表、昨夜も夜遅くまで商工会のおエライ様と会食していて、最近お疲れ気味なんすよ」

 トレーニングに励むさゆりたちの前を、シャワー室で汗を流し終えさっぱりした顔で通りすぎようとしていた、同僚の男性レスラーが彼女の存在に気付き譲治の近況を知らせた。いつもなら必ず道場に居て、顔を合わせればバカな事を言い合う「居て当たり前」な存在である譲治の姿が無いという、得も言われぬ寂しさといったらない。

「そう……また何かでっかい事企んでいるのかしらね。身体壊さなきゃいいけど」

 そう呟くと、さゆりは再びマシンとの格闘を再開しはじめた。一定の拍子を刻んでいく器具の可動音に意識を没頭させ、まるで雑念を追い払うかの如く一心不乱にトレーニングに励んでいく。彼女の隣りで同じマシンを用い練習をする愛果は、そんなさゆりの姿に何処か痛々しさを感じるのであった。

 数種類のマシンを使用した本日のトレーニングも終了し、道場を後にし目抜き通りにくり出したふたりは、さゆり行き付けのカフェでティータイムを楽しんでいた。道路沿いに面する、開放感のある大きな窓の側の席に座った彼女らは、暖かいダージリンティーと甘ったるい香りのするシフォンケーキを交互に口へ運びつつ、多種多様な内容の会話に花を咲かせる。時には真剣な眼差しを向け、または周りに憚らず大爆笑したりと、彼女たちは一秒たりとも同じ表情には留まらない。

「そうかぁ、大学生もいろいろ大変だね。わたしなんて頭が全然良くなかったから、高校中退してプロレスの道に入っちゃったけど」

 愛果が楽しそうに話すキャンパスライフに、さゆりは自ら途中で高校生活を辞めてしまった事をちょっぴり後悔する。愛果は愛果でさゆりの話す過去のプロレスラー生活に興味があり、彼女に対しいろいろと質問をぶつけてみた。新人時代の合宿所生活や地方巡業、そして他のスター選手の裏話など――さゆりは隠す事もぼかす事もせず、自分が直接体験、見聞きした事を笑いも交えて愛果に聞かせるのだった。

「……まぁ、それなりに大変な事もあったけど、そんな“時代”があったからこそ今の《神園さゆり》があるって自信を持って言えるの」

 愛果の瞳はきらきらと輝いていた。これまでにも何度かさゆりから同様の話は聞いているが、自分の知らない、華やかな彼女の現役時代の思い出話は、いつ聞いても愛果の想像力を刺激させ――未来への夢をかき立てる。

「愛果ちゃんは――プロレスラー志望だったっけ?」
「はい。今もここで月に一~二回上がらせてもらったり、大学のプロレスサークルで試合をしてますけど、やっぱり将来はフルタイムで活動したいです」

 一点の曇りも躊躇もなく、自分が抱いている将来の夢を嬉しそうに語る彼女を見ていると、さゆりは若者だけの特権である「根拠のない自信」を羨ましく思うと同時に、ここでのプロレス活動で何かひとつ成果を残せたのではないか、という気分にさせてくれる。

「それじゃあ……さ、今度ここに来る太平洋女子の大会、一緒にいかない?」
「さゆりさんチケット持ってるんですか? 是非お供させてください!」

 思わずテーブルに手を突き、身を乗り出す愛果。いくら緒方が「人気低迷」だの何だのと言っても、やはり地方においては太女のブランドの威力は絶大である。

「偶然知り合いから招待席のチケットをいただいたの。でもよかった……愛果ちゃんが喜んでくれて」
「当然ですよ、何てったって生で水澤茜の試合が観られるんですよ? 雑誌や動画でなく実際に目の前で!」

 ――ほぉ、やっぱり水澤の人気って凄いじゃない。

 元選手やマスコミからの評価でなく、実際にファンの意見を直接聞いたさゆりは、やはり水澤茜は自分や、同時期を生きた選手たちに続く、《スター》と呼ぶに相応しい逸材である事を認識するのだった。

「昔の選手からの質問だけど、水澤のどこに魅力を感じるの?」
「そうですねぇ……ビジュアルや空中殺法ももちろん魅力ですけど、どんな相手でも一歩も引かない度胸の強さや、エースとして団体を引っ張っているリーダーシップでしょうか」

 なるほど、と感心しながら愛果の語る水澤評を、黙って聞くさゆり。実際には雑誌の記事や人伝てで彼女の噂を聞くだけで、見た事も会った事も無い。彼女の話を聞いている内にだんだんと水澤に興味が沸いてきた。

「もし……もしもの話よ? わたしと水澤とが闘う事になったら、愛果ちゃんどう思う?」

 一瞬びっくりした表情になる愛果だが、すぐに冷静さを取り戻し顎の下に指を当て、少しの間熟考する。

「うーん、“知り合い”が闘う事については素直に嬉しいと思いますけど、女子プロレスファンの目で見れば……新旧スター同士の対決は一度きりで十分かな? 仮にその試合でインパクトを残すようだったら、次もその次も見たくなるかも知れないですが」

 純粋なファン目線からの意見に、さゆりは黙って耳を傾ける。やはり《名前》があれども体力的に旬の過ぎたおばさんに、太平洋女子の現エース様のライバル役には無理があろうというものだ。その辺は自分も、緒方から話を聞いた当初からの意見と同様である。一番身近なファンからの意見――それが大多数の意見だと仮定しても、自分と水澤との「世代間ライバル抗争」があまりにも失敗に近い事が分かり切っているのに何故、緒方は自分を必要とするのか? やはり当日会場で直接確かめなければならないようだ。

 店を出たその後に「大会当日に現地集合」と愛果に告げ、ふたりは最寄のバス停で別れると、さゆりは自宅までの道程を徒歩で帰る事に決め、軽やかな足取りでぶらぶらと散策しながら繁華街を歩く。今日は天気も良く、朝晩と比べれば幾分過ごしやすい気温ではあるが、それでも街を歩く人たちの服装は暖かいものへと変わっているし、コンビニエンスストアやドラックストアに設置されているチラシは、クリスマスケーキやおせち料理の予約を謳い、季節の移ろいを視覚的に実感させた。さゆりは街に立つアルバイト学生から、金融業者の広告が入ったポケットティッシュを受け取っている最中、信号待ちしている沢山ある車の中に見覚えのある顔を発見する。

 ――あれ……譲治くん?

 目の部分が大きく開いた商談用マスクを被り、落ち着いた色のスーツに身を包んだ譲治が、何か考え事をしているのか両腕をハンドルに、そのまた上に顎を乗せてぼおっとしていた。車内の彼の姿から察するに少々お疲れ気味の様子だ。信号が赤から青へと移り変わったがしばらく気も付かず、停車させたままの譲治へ後続車からクラクションを鳴らされて、はっと我に返り慌てて発進させる彼の姿を見ていると、さゆりはかれこれ数日間も自分と顔を合わせない譲治への苛立ちと、オーバーワークによる健康面の心配で、何だか胸が締め付けられるような思いになるのだった。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 真っ白い塗装がまぶしく輝く、近代的な風合の市民センターの中では本日興行を行う太平洋女子プロレスの若手選手らが、自分たちが試合をするリングやグッズ販売をする売店などの会場設営に追われていた。そんな慌ただしい最中にさゆりと愛果は、緒方の厚意で設営途中の会場へ入れてもらっていた。特に見る物全てが新鮮な愛果は終始興奮し放しで、グレーのスーツを着たさゆりに対し逐一質問をし苦笑させた。

「――紹介するよ。これがうちを代表する選手、水澤だ」

 緒方に連れられ団体支給のジャージ姿で現われた、現在の太女のトップエベンター・水澤茜はやはり他の人間とはレベルが違う。会場ですれ違う幾多の選手たちからはないオーラというものがびんびんと感じられる――さゆりは水澤を目の当たりにしてそう思った。
 緒方の隣で水澤は、ぶっきらぼうな表情で視線を下から上へと動かし、さゆりをじっくり観察するとふん、と鼻で笑いつまらなそうに感想を述べた。

「へぇ……随分と普通なんスね、神園さゆりさんって。以前にウチん所のスター選手だったと聞いていたから、凄く期待してたんスけどね。ちょっとがっかり」

 横柄な口の利き方に困惑する緒方を余所に、自分はメジャー団体・太平洋女子プロレスのトップを取っている、という自信の表れなのか、さゆりに対し先輩を先輩とも思わぬ見下したような態度を取る水澤。これにはさゆり当人よりも“愛弟子”である愛果が反応した。

「ちょっと! 失礼じゃないですか、大先輩に向かってその口の利き方はないじゃないですか?!」
「ん? 誰よあなたは。のこのことくっ付いてきただけの“お味噌”は黙っててよ」

 女子プロレスラーの卵だとは事前に、緒方からは簡単に聞かされていたが、正直彼女の事など1ミリも知らない水澤は、「お前なんて眼中にない」とばかりに鬱陶しそうに愛果を邪険に扱った。顔色がみるみる変わっていく彼女を見てこのままではまずいと判断したさゆりは、怒り心頭で今にも殴りかからんばかりの愛果の首根っこを掴み、無理矢理自分の後ろに下げるといいから落ち着けと叱った。緒方は緒方でこのちょっとした“衝突”で、さゆりとの“交渉”が破談になるのではないかと気が気でならない。

「水澤、お前いい加減に――」

 そう言いかけた途中、水澤は緒方の顔を手で遮って気を逸らした。喉元まで出掛かった彼女への注意を遮られた緒方は、その傍若無人さに空いた口が塞がらない。

「わかってますよ、社長。それじゃあ私はこれで――」

 水澤は憮然とした表情のまま、ほんの一瞬さゆりに一瞥をくれた後、くるりと踵を返し早足で控室の方へ戻っていく。最後まで礼節を弁ない横暴な態度でさゆりに接した、彼女の我儘さに怒り心頭の愛果とは対照的に、当の本人はそんな彼女を「面白い奴」とばかりに不敵な笑みを浮かべていた。

「――まぁ仮にもトップを張ってるんだし、あれくらい我が強くなけりゃやっていけないわよね」

 すっかり白けきったこの場の空気を一変させようと、さゆりはわざと大きな声でこう言って笑った――もちろんここにいない、水澤にもしっかり届くように。

 腹の底まで振動が伝わってくる音響効果に目映いばかりの華やかな照明。高性能・最新鋭の舞台装置に彩られ、まるでコンサート会場と間違わんばかりの会場の雰囲気にさゆりは、資本の豊富なメジャー団体とそうでないローカル団体との圧倒的な差を、自分の眼や耳そして肌で直接感じた。野外オープンでの興行の多い《こだまプロレス》は全年齢を対象とし、分かりやすいキャラクター作りやレスリングの内容で、誰がいつ観ても楽しむ事が出来るドサ廻りの大衆演劇的な感じだが、今観ている太平洋女子プロレスはさゆりの活躍していた時代から、経営陣が世代交代したのか“娯楽”という日本語よりも、“エンターテインメント”というカタカナ語がピタリとはまるくらい洗練されており、周りの観客たちも自分よりも高年齢の客は招待客以外はあまり見られず、むしろ愛果くらいのハイティーンから三十代前後までの若い層で占められていた。
 それよりも、さゆりが気になっているのが記者の多さだ。単なる地方巡業のひとつであるにもかかわらず、専門誌をはじめスポーツ紙やWebメディアなど、知っている名前から初めて目にする会社まで様々な場所からこの地に集まっていたのだ。

 ――緒方の奴、わたしが、水澤の挑発から逃げられないように取り囲んだわね。

 外堀を埋めていくような緒方の狡猾な手口に、さゆりは思わず渋い顔を見せる――既に全て手配済み、というわけだ。昔から自分の「商品価値」には全く無頓着だったさゆりであるが、この大袈裟に思える程のお膳立てには、さすがに自分が元・人気アイドルレスラー……約十五年前の人気絶頂時、ブロマイドやビデオなど関連グッズの売り上げが他のどのレスラーよりも多く、またテレビのバラエティ番組に何度も顔を出し一般層にもその名が知れた《奇蹟の女子プロレスラー》神園さゆりである事を自覚せずにはいられなかった。

「――本日のメインエベント、三十分一本勝負を行います。青コーナーよりビアンカ・レヴィン選手の入場ですっ!」

 モデル然とした容姿の、美人リングアナウンサーがリングの中央でコールすると、入場ゲートに設置された炭酸ガス噴射装置が作動し、勢いよく白いガスが吐き出される中、青い光を浴びてモヒカン気味の金髪を振り乱し、鍛え上げられた筋肉の装甲に固められた《装鋼麗女》《北欧の核弾頭》ビアンカ・レヴィンが雄叫びを上げて登場する。彼女は持ち前のパワー殺法でいろいろな団体や国を渡り歩き、その活動はプロレスだけに留まらず、度々総合格闘技のリングにまで上がる強者である。
 ビアンカがリングに上がり、ぐるぐると周りを旋回し観客を威嚇している最中、急に会場の照明が落とされ漆黒の闇に包まれる。そしてピンスポットが移動しリングアナウンサーに当てられ――観客たちが待ちに待った《マーメイド・スプラッシュ》水澤茜がコールされた。
 彼女の熱く燃える情熱を表現するかのような赤色のスポットライトが、ファンたちの声援に応えながら入場通路を歩いている水澤を追っていく様は、まるで活火山の溶岩のように見えた。スピーカーで大増幅された、入場曲の激しいビートを己の体内に共鳴させ彼女のテンションは会場の興奮と比例するようにますます上がっていく。
 これが太平洋女子プロレスの、新世代メインエベンターなのか――彼女の内から湧き上がるカリスマ性と舞台装置の効果が相まって、持っている以上の輝きを放つ水澤の姿に、さゆりは思わず立ち上がりつい見惚れてしまっていた。そして同時にこうも思った。
 すっかり緒方に騙された、スター不足なんて全くのデタラメだったんだ――と。
 水澤がリングサイドを周回しリングインする直前、フェンスを間に挟んだ僅か数メートルの距離でさゆりと一瞬目が合った。視線を感じ我に返ったさゆりは、口を一文字に固く結び背筋を伸ばして彼女を見つめると、にやりと口角を上げて笑っただけでそれ以上の展開は無く、再びリングサイドの観客たちとハイタッチを行いながら、闘いの舞台へと歩みを進めた。
 両者へのコールも終わり、レフェリーによるボディチェックも済んだ後、理性という鎖で縛られていた闘争心を解き放つように、試合開始のゴングが鳴らされた。
 まずはビアンカが、トップギアで水澤にめがけて一直線に突進する。槍のようなタックルを放ち彼女を一瞬宙に浮かせるとそのままマットへと叩き付けた。決して気を抜いていたわけではないが、それ以上にビアンカのスピードは速く水澤は対応が遅れてしまったのだ。頭を強く打ち付け苦悶の表情を浮かべる。
 フィニッシュへの序章的な技で使用されるスピアーを、試合開始早々に繰り出したビアンカは明らかに早期決着を狙っていた。彼女は日本での巡業の直後に米国で開催される、総合格闘技のビッグイベントに出場するために数か月も前から、格闘技仕様のファイトスタイルへとチェンジすべく猛特訓を積んでいた。それ故にプロレスでなく、相手の攻撃になるべく付き合わず「倒して殴る」総合格闘技に近いファイトとなり一気に試合の緊張感が高まった。
 ダウンした水澤の身体へ馬乗りになり、ビアンカはグローブのような大きな掌を左右の腕から彼女の顔を狙って振り下ろす。パンチではなく掌打なので反則のカウントは取られないが、それでもヒットすれば頭部への衝撃は相当なもので、水澤は前腕を前に出しガードするのが精一杯でビアンカの攻撃に成すがままとなっていた。リング上の惨劇に、ファンの女の子たちの悲鳴が客席から飛んだ。
 このまま圧倒的なパワーの前に水澤は屈してしまうのか……? さゆりはじっと目を凝らし試合の成り行きを見守った。奴の非プロレス的な動きに何も対応出来ず、ただ負けてしまうのであれば「それだけの選手」だったとファンは思うだろうし、逆に負けたとしても何かひとつ、相手に爪痕のひとつでも残す事が出来たら彼女の商品価値は今より更に上がるはずだ。

 ――さぁ、ここが正念場よ水澤。

 悲鳴と声援が混じり合う、会場の喧騒にこのさゆりの呟きは、隣りにいる愛果はもちろん、他の誰にも気付かれる事なくかき消されてしまう。
 何度となく重量級の掌打を放つものの、懸命なガードによって頭部への攻撃がままならないビアンカは次第に焦りだした。そして攻撃の精度も落ち始めたその時、水澤は不意に放った掌打のひとつをキャッチすると、自分の脚を彼女の首に絡め一気に締め上げる――三角締めの体勢に入った。普段は派手な空中殺法ばかりが目について少々水澤の事を舐めていたビアンカだったが、総合格闘技の素養もある事に驚きパニックを起こし暴れ出した。だが動けば動くほど彼女の脚や自分の腕が、首を締め付け意識はどんどん薄くなっていく。
 この危機的状況に抗うため、そして自分自身に活を入れるため奥歯を強く噛み締めビアンカが叫ぶ。

「ウガァァァッ!」

 見えないエンジンをフル稼働させて身体中にエネルギーを送り込み、何と水澤をぶら下げたまま持ち上げ立ちあがったビアンカ。この信じられない光景に会場中にどよめきが走った。ウザったい水澤を自分の身体から引き剥がすべく、《装鋼麗女》は彼女を掴み高く持ち上げマットに叩き付けようとするが、身体が最高地点まで達したその瞬間、水澤は自ら技を解きくるりと後方回転して着地すると、間髪入れずに顎狙いのドロップキックを敢行した。下から突き上げるような彼女の飛び蹴りは見事顎にヒットし、ビアンカの巨躯が音を立ててマットに沈んだ。

「よっしゃ、いくぞぉーっ!」

 水澤は喉が張り裂けんばかりの大声で、会場の隅々まで自分の優位性をアピールするとまだ足元のおぼつかない、《装鋼麗女》の髪を掴んで無理矢理立たせフルスイングで彼女の頬を張った。どこにこの細い身体に力が宿っているのか、頬を張られたビアンカの顔は圧力で歪み大きく首を反らせる。
 この一発で目の覚めた北欧の女巨人は拳を握り、反則のパンチを右へ左へと繰り出すがすっかり覚醒してしまった天才・水澤茜の敵ではなかった。面白いように彼女の打撃は全てスルーされ逆に掌打のコンビネーションを喰らう羽目になってしまう。水澤はビアンカの腕を掴むと対角線上のコーナーマットに目掛け、彼女の身体をハンマー投げのように振り飛ばすと、がしゃん! という金属音が聞こえたかと思うと背中をコーナーマットに強打したビアンカはゆっくりと腰を下ろしていき、顔を痛みで歪めマットへ仰向けに寝そべった。
 この場にいる、全ての人たちの視線は鉄柱に昇る水澤を追っていた。これから何が起きるのか、さゆり以外の観客たちは既に分かっているが、それでも皆期待せずにはいられない。最頂点まで登り終えた彼女は不安定な足場にも拘わらず、バランスを保ったまま直立し目下の標的を確認すると指で拳銃の形を作り、自分のこめかみに当て発砲する仕草を見せた後、背を後ろに向け宙へ舞った。身体を伸ばした状態で二回転捻りして落下する水澤は、目測を誤る事無く正確にビアンカの身体へ胸から着地をした。エドガー・アラン・ポーの小説の名を拝借した、後方伸身二回宙返り二回ひねりの高難度の必殺技《メエルシュトレエム》がずばりと決まった瞬間、頂点まで登りつめた観客ひとりひとりの興奮が遂に爆発し、大歓声となって会場全体が激しく揺れたような感覚に陥った。
 レフェリーはすかさずマットを三度叩き、水澤のピンフォール勝ちを高らかと宣言した――試合時間は10分にも満たなかったが、それでも序盤の総合格闘技のような緊張感のある攻防や、誰もが待ち望んでいた必殺技の《メエルシュトレエム》が見れた事で気にもならなかった。コーナーポストに昇り、全身を使って勝利の歓びアピールする水澤に皆、賞賛の拍手を惜しみなく贈り続けた。

「すごい!凄いですよね、やっぱり水澤茜は」

 目は潤み顔を紅潮させて、興奮した様子でさゆりに話しかける愛果。開場前に起きた水澤との悶着などすっかり忘れ、いち女子プロレスファンに戻っている彼女にさゆりは只々苦笑するしかなかった。水澤茜の実力を目の当たりにしたさゆりは、彼女こそが新世代のスター候補であるという確信を得たと同時に、何故旬の過ぎた自分がそんな彼女の“ライバル候補”として太女からピックアップされたのか? という疑問が頭の中で渦巻いていた。
 リング下からマイクロフォンが、スタッフによって水澤に手渡された――さゆりの胸の鼓動が急に速度を上げ始める。いよいよここからが“本番”だ。

「愛果ちゃん――」
「はい?」

 ふいに自分の名を呼ばれた愛果はさゆりの方を向くが、彼女はリング上を見据えたまま動かない。

「これから――何が起きても、決して慌てないでね?」

 静かにそう言い放ったさゆりに愛果は、どういう意味なのか理解できず、イエスもノーも返せないまま彼女の姿を見つめる他は出来なかった。

「――ご来場の皆様。本日はお忙しい中太平洋女子プロレスに足を運んでくださいまして、まことにありがとうございました。こうして皆様の声援のおかげで勝利する事が出来たわけでありますが、まだ自分には足りない要素がある事がわかりました。それは――この団体以外、女子プロレスファン以外の人々にも自分の名を広く知らしめる事が出来る“知名度(ポピュラリティ)”です!」

 観客たちからはおおーっと、重低音のどよめきが起こる。

「本日対戦したビアンカは、地上波のテレビでも放映されている、総合格闘技の試合に度々出場していて「プロレス」という枠を超えてその名前が知られていますが、私がいくら数千人規模の会場を一杯に出来ても、結局その場にいる数千人しか私の凄さが伝わらないのが悔しいのです。だから今回、この会場に私の名を更に高めてくれるであろう人物をお招きしました――往年のアイドルレスラー……《フェアリー・ファイター》神園さゆり、出てこいっ!」

 水澤が名を叫んだ瞬間、さゆりの座っているリングサイド席にスポットライトが照射され、彼女の姿は白い光に包まれる。同時に各マスコミが派遣したカメラマンから一斉にフラッシュが焚かれ、それはまるで青白い花火のように見えた。
 思いがけない突然の“ビッグネーム”の登場に、《こだまプロレス》でその名を知っている地元民や、近隣の土地からこの会場に駆け付けた女子プロレスファンたちは、大きな歓声と拍手で歓迎の意志を表わす。
 一体何が起こったのか、まったく思考が追い付かず目を白黒とさせる愛果をよそに、さゆりは手渡されたマイクを持ち静かに立ち上がり――リング上の水澤に向かい叫んだ。

「それが……それがわたしをここに呼んだ理由なのか? 水澤ぁ!!」

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天気のいい日はプロレスでも――【第2回】

2018年01月30日 | Novel

 何の前触れもなく登場したミニサイズのHEY-ZONEに、会場は一瞬どよめいた。ケーブルテレビの告知CMでも見物客が手にしているチラシにも、巨漢のマスクマンとして紹介されているのでいきなりのサイズダウンに皆驚くばかりだ。

「誰だよ、お前は?!」

 コーナー上のゴー☆ジャス譲治が激しい口調で、リング下の謎のマスクマンに質問をする。もちろん正体は分かっている――先程まで本人とテントの中で打ち合わせもしている。だが、それでも観衆の見ている前だと反射的に正体を尋ねてしまうのはプロレスラーとしての悲しい性、「伝統芸」といってもいい。

「うるせぇ! 誰だっていいんだよ。それよりお前、ぶっ倒れる覚悟は出来てるか?」

 ミニHEY-ZONEが譲治へ自らが手にしているマイクを使い、わざと声色を変えた喋り方で応戦する。口元には穴が無く薄いメッシュ地で覆われているので、マスクのデザインと相まって喋る姿は一層不気味に感じる。短いマイクアピールを終えた途端謎のマスクマンは、オリエンタルな柄が刺繍された、当人とはサイズ違いなロングガウンをなびかせて、いきなりリングに向かって一直線に駆け出した。
 うろたえる譲治をよそに滑り込むようにリングイン、彼のタイツを掴みコーナーポストから無理矢理引き摺り落とすと、胸や腹へストンピングを何十発も叩き入れ一時的に戦闘不能にする。あまりに素早い行動と辛辣な攻撃に、見物客たちはブーイングを飛ばすタイミングを失い放心状態となっていた。
 コーナーでぐったりする譲治に一瞥もくれず、ミニHEY-ZONEは両手を大きく広げリングの中央でぐるりと回りギャラリーの視線を引くと、おもむろにマスクに手を掛けその“正体”を自ら明らかにした――サユリーナだ。前の試合で激しい闘いを繰り広げていた小さな女子選手……それも悪党(ヒール)仕様での再登場に、皆薄々は中身に気付いていても驚きの声が沸き起こる。
 サユリーナは羽織っていたロングガウンを脱ぎ去ると、今度はそれを譲治の頭の上から被せて視界と呼吸を一時的に奪い取り、スタミナを消耗させようとボディーを狙ってパンチの連打を浴びせる。《ホームタウン・ヒーロー》の劣勢に、状況を理解したギャラリーからはやっとブーイングが飛ぶようになり、それと同時に年少のファンからは「がんばれ!」と応援の声もあげられ始めた。

「うふふ、皆が譲治くんの応援をし始めたよ。“男”ならこれに応えられなきゃ、ね?」

 攻撃を加えながらサユリーナ――というよりも素顔のさゆりが、ふたりだけにしか聞こえないような小さな声で話しかけながら、固く握った拳を一発、また一発と彼のボディーに叩き込む度に実に嬉しそうな顔をする。本人にはその自覚はないが譲治に対して奥底に隠れていたSっ気が発動したようである。
 譲治はじっと耐える。ギャラリーの声援が最高潮になるまで我慢して、反撃のタイミングを窺っているのだ。ロングガウンを頭から被せられ閉塞感で息苦しくなる中、薄らと聴こえるリングの上に飛び交う自身への声援をエネルギーへと変えていく。
 今だ!――ギャラリーからの要求と、己の気力が満タンになった事を感じ取った譲治は、一気にガウンを振り払った。そしてサユリーナの腹部にキックを入れ身体を屈ませると、間髪入れず背中に重いハンマーパンチを打ち下ろし彼女をマットに這いつくばらせた。《ホームタウン・ヒーロー》の大復活に、空気が割れんばかりの大歓声が彼らのいるリングの上を被う。
 腕に力を込め地団駄を踏んで、リングの周りの見物客たちに向けて己の「怒り」を表現した後、サユリーナの髪を摘んで引っ張り起こす。大きく口を開け「信じられない」という表情の彼女に向け、譲治は胸元へ鋭いチョップを水平に打ち込む。ぱぁん!という大きな破裂音と共に、ヒットした部分がみるみる内に真っ赤に染まりとても痛々しく見えた。続けて譲治は二発三発と立て続けにチョップを打ち、攻撃の圧力によってサユリーナの身体はリングの隅へと徐々に追いやられていく。
 何故避けないのか?――プロレス観戦の初心者はそう思っただろう。しかもサユリーナはれっきとした女性で、攻撃を避けたとしても誰も非難の目は向けないはずだ。だがサユリーナ=さゆりは「まだ試合は始まったばかりで、今は逃げるタイミングではない」と客観的に試合の流れをみていた。何倍も体重のある男性レスラーの攻撃を、患部がみみず腫れになろうとも歯を食いしばって受け切る自分の姿をみて、見物客が容赦ない譲治の攻撃力とサユリーナの耐久力の凄さを感じてもらえればそれでいい、という考えである。
 だが、あまり長く続いてもいくら“悪党”とはいえ、女性への過度な攻撃は時として反感を買う恐れもある。いつどこで止めるのか? 譲治のプロとしての力量が問われる場面だ。そしてサユリーナの背中にリングを囲うロープが触れた瞬間、彼はぱっと手を離し攻撃をストップさせた――ロープブレークだ。攻撃が止んだ途端サユリーナは、サードロープへ腰を掛けてぐったりとした。コスチュームのトップスに覆われていない部分にある患部は、真っ赤に腫れて所々皮が捲れている箇所もある。直に触れると飛び上がりそうに痛いはずだが、試合中はアドレナリンが過剰に放出されているのでさほどでもない。

「よっしゃぁ、いくぞ!」

 ギャラリーから大発生する“ゴー☆ジャス”コールに、拳を固めた右腕を突き上げて応える譲治。だが不意にサユリーナに背を向けたその時、攻撃を受け続けてグロッキー状態ながらも、一瞬のチャンスを窺っていた彼女の鋭いドロップキックが彼の大きな背中に突き刺さった。完全に気を抜いていた譲治は勢いよく吹き飛ばされて顔からマットに倒れ込む。身長差やウエイト差があり、かつ筋肉量の異なる男性相手では、普段通りのファイトをしていたら勝負にならない。なるべく相手とは組み合わず、ヒット・アンド・アウェイ方式で隙を見ては打撃を加えてスタミナを削っていき、丸め込み技でフォール勝ちを狙うしかない。
 怒りの形相で立ち上がった譲治は再び水平チョップを喰らわさんと大きく腕を振るが、今度はサユリーナも攻撃を受けずに全て避けていく。彼女は小回りの利くミニマムな身体を駆使して、縦横無尽に動き回りゴー☆ジャス譲治の判断力と平常心を奪っていった。真正面に現れたサユリーナを迎撃すべくミドルキックを放つも、射程範囲を掻い潜りスライディングして背後に回った彼女は、腰に自分の肘を叩き入れると両膝を彼の背中に当て、顎を掴み上体を反らせそのまま体重を掛け後方に倒れた――バッククラッカーが決まり譲治の背骨が悲鳴をあげる。身体を貫くような痛みに、背中を押えたままで動けない彼に、容赦なく蹴り続けるサユリーナへはギャラリーから、敵意のこもったブーイングが浴びせられるが全く怯むことなく、むしろ涼しい顔をして珍しい悪役を楽しんでいた。善玉(ベビーフェイス)としての彼女しか知らない地元《こだまプロレス》ファンたちは、はじめて見せる妖艶な悪の魅力に思わずどきっとした。リングを周回しながら、ギャラリーに睨みを利かせ煽っていくサユリーナ。
 彼女は倒れている譲治のマスクを掴み強引に起こすが、途中で目覚めた彼は顔にかかる不愉快なサユリーナの手を払いのけるとフルスイングで張り手を見舞った。破裂音とともにサユリーナの顔が大きく歪む。

「痛ってーな!」

 負けじとサユリーナも張り返す。力が劣るこちらは二発。こうなればお互い意地の張り合いだ――両者は数えきれないほどの張り手を喰らったが一向に引く気配がない。頬は痺れ張り手の圧力で内の肉が歯に当たって切れた頃、耐え切れなくなった譲治は渾身の力で放つサユリーナの攻撃をかわし空振りさせると、背後を取って後方へ反り投げた。投げっ放しジャーマンスープレックスによりマットへ後頭部を打ち付けたサユリーナは、それまでのダメージの蓄積によりすぐに立ち上がれずにいた。今度は譲治がお返しにと強引に立たせる番だ。足はふらつき背筋もまっすぐ伸びていない、それでも「まだやれる」と噛みつかんばかりの視線で睨み、真っ向勝負を諦めていない。
 譲治が腕を掴んでサユリーナをロープへ飛ばす。そして戻って来たところを狙いショルダースルーで彼女を宙高く舞い上げて再びマットに叩き付ける――と計画していたが予想に反し、サユリーナは空中に舞った後に背中からではなく両足で見事着地し、驚いて一時的に硬直してしまった譲治にフライング・ニールキックを胸板へ叩き込んだ。でかい音を立ててマットへ倒れる彼をサユリーナは、頭を持って引き起こし逆に譲治をロープへ振る。硬いロープをしならせ自分の元へ帰って来た所へサユリーナは身体に組み付くと、反動と勢いを利してノーザンライト・スープレックスの体勢で自分より重い譲治を見事投げ切った。
 レフェリーのフォールカウントが開始される。しかし2カウント目を数える前に譲治は必死の形相で体勢を崩して事無きを得た。全くの無傷なのだろうか?――いや、高い軌道を描いて頭からマットへ落とされ、首から肩にかけて痺れが走りダメージがかなり身体を蝕んでいるようだ。首筋を押さえふらふらと立ち上がるが、そこにはもうサユリーナの姿はなかった。何処だ? と目を必死で動かし彼女を探す譲治。

「おっしゃ、いくぞぉー!」

 彼女はコーナーポストの上にいた。
 両手を挙げて手を鳴らして見物客たちに手拍子を要求すると、彼らも手を大きく打ち鳴らしてこれに応える。軽快な手拍子の中、サユリーナの中で技を仕掛けるタイミングが決まった瞬間、両手を翼のように大きく広げてコーナー上から飛び出し、目下のゴー☆ジャス譲治目掛けて約3メートルの高さから体当たりをした。このまま全体重を預け押し潰し、フォール勝ちを決めたいサユリーナだったが簡単に事は運ばなかった。衝撃が予想よりも強過ぎた為、体当たりを受け止めた譲治の身体が反転し逆に彼女の上に覆い被さってしまった。
 サユリーナの唇に何かが触れた――勢い余って身体が一回転した際に偶然にも、譲治の唇と接触したのだった。目の前いっぱいに映る彼の顔……マスク越しだが嬉しそうな表情が丸分かりだ。

(ちょっと……当たってるって!)

 困惑した表情で、周りに聞こえないような小さな声で譲治に注意するが、「え? うん」と生返事を繰り返すだけで離れる気配が感じられない。サユリーナはとうとう業を煮やし、大声で怒鳴った瞬間彼はぱっと顔を離した。普段よりも何倍も大きく見える譲治の姿に、鼓動は一段と激しくなり視界も霞み、見慣れた彼の顔もぼやけて見える。
 普段は目にする事の無い、真下から覗き見る譲治の姿に“対戦相手”ではなく、つい“男性”を感じてしまったサユリーナは口を開けたままで、「いい加減にしてっ!」から先の文句が言えず戸惑っていた。そんな彼女の迷いを察知した譲治は、まだ勝利していないのに何故か満足気な表情だ。

(いやぁ~、偶然とはいえラッキーだなぁ。ごっつぁんですっ!)

 譲治が、嬉しさに溢れた弾むような調子で彼女に感謝の意を口にする。だが今は大事な試合中、ましては多くの人々が自分たちの行動を目の当たりにしている事――実際は何が起きているのか誰も分からないが――が気になりサユリーナは恥ずかしくて仕方がなかった。このままだと埒があかない、と考えた彼女はこの試合を終了させるべく強硬手段に出る事にした。

「いつまでくっ付いてるんだよ、このスケベ!」

 サユリーナは周りにも聞こえるような大声で、譲治を恫喝すると思いっきり張り手をぶちかました。ふたりのコミカルなやり取りにどっと見物客から笑いが発生する最中、ダメ押しとばかりに彼の急所に膝を入れて悶絶させ、そのまま首と脚を抱え体を入れ替えてガッチリと固めるとフォールの体勢に入った。

「……ツー、スリィッ!」

 譲治が下腹部に拡がる鈍い痛みに襲われる中、無情にもレフェリーのカウントが三つ入り結局、急所打ちからの丸め込みでこの《異色対決》は女子選手であるサユリーナの勝利となった。さゆり本人としてはもう少し、しっかりと勝負を見せてから勝つなり負けるなりしたかったのだが、アクシデントが影響して試合に再び集中できず、強引な幕引きを図った事を悔んでいた。それでもギャラリーが皆笑って楽しんでいる様子なので万事OKだ。

「ってぇな……おいレフェリー、反則じゃねェのかよ!」

 レフェリーに詰め寄り抗議する譲治。だが判定が覆るはずもなくマットを両手で何度も叩き悔しがる彼を余所に、既にリングを降りたサユリーナはリングサイドにある本部席でマイクを奪うと一方的にまくし立てる。

「やかましい、この変態っ! 女の敵っ!! 金輪際あんたとは絶対闘わねぇからな……馬鹿っ!!!」

 そう言うとマイクを譲治目掛けて投げつけ、ぷりぷりと怒って彼女は控室へと消えていった。 リング上で患部を押さえ、情けなく腰を折って突っ立っている《ホームタウン・ヒーロー》の成れの果てとは対照的で、“勝者”サユリーナに対するギャラリーからの熱い歓声はいつまでも止む事は無かった――

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  

 一週間後――
 神園さゆりはもうひとつの“職場”である、コンビニエンスストアでの仕事に精を出していた。試合後数日は対戦相手の、ゴー☆ジャス譲治による厳しい攻めによって腫れてしまった顔を人前に晒したくない為、顔の下半分が隠れる程の大きなマスクを付けて仕事をしていたが、幾分か腫れも引いたので今日からはマスク無しで行動している。
 珍しく来店客がほんの二・三人しかいないまばらな店内で、久しぶりに顔を合わせた同僚の女子高生から意外な言葉を頂いた。

「さゆりさんがプロレスしてる所、テレビで観ましたよ~」
「えっ、やってたの?……ローカルニュース枠で流れてたんだ、へぇ~知らなかった」

 彼女がいかにも今どきの子な風貌にも拘わらず、家でニュース番組を観ている事も驚きだが、自分も出場した《こだまプロレス》の大会がテレビ撮りされていた事を、今の今まで知らなかったさゆりはびっくりして、棚へ商品を補充していた手も思わず止まってしまった。

「わたし、プロレスの事はよく分かんないけど、これだけは自身持って言えます――さゆりさん、マジカッコいいです!」

 自分がバリバリの現役選手だった頃、数多の女性ファンから言われていた「格好いい」の一言を年齢を重ねた今になって、若い同僚の口から久しぶりに聞いた彼女は、嬉しいやら恥ずかしいやらで照れまくった。

「えっ、あんたって秋祭の時にゴー☆ジャスと闘っていた人なの?」
「凄ぇ! 握手してください」

 女子高生の言葉をきっかけに、店内にいるお客からも次々と声を掛けられ始め、店内業務もそこそこにさゆりは彼らへの対応に追われるはめとなった。降って湧いたような歓迎ぶりに彼女は戸惑いながらも笑顔で応対する。もうかれこれ三年ぐらい前から地元《こだまプロレス》へ出場しているさゆりだが、ここまでの反応の良さは一度も無かった。普段めったに自ら「女子プロレスラー」と名乗らないので大会が終わった直後でも、レジ打ちをしている彼女と前日リングで闘っていた彼女とが同一人物である事に気付くものは少ないが、この地域のコマーシャルに何本も出演し、ローカル情報番組にもちょくちょく顔を出す有名人・ゴー☆ジャス譲治とシングルで対戦した事、それに限られた範囲ではあるが地上波のテレビで彼女の闘っている様子が流れた、という事が非常に大きい。

「ちょっとさゆりちゃん、裏に入って在庫確認お願いできるかな?」

 次々と握手やサインを求めてくる来店客に当惑する彼女に、「助け船」を出すべく店長は中へ引っ込むように指示をだすと、その言葉に甘えてさゆりは店長と女子高生に手を合わせ、「ごめんね」と言って店の奥へと消えていった。

「はぁ、久しぶりにスター選手の気分だわ……時間と環境ってホント残酷よね」

 狭い商品倉庫の中でさゆりは、置かれていたビールケースの上に腰を掛けひと息ついた。まだアイドル的人気を誇っていた十代後半から二十代前半の頃は、多くの男性ファンを相手に何の疑問も苦労も無くファンサービスをしていたが、所属団体を辞め故郷であるこの街に戻ってきてからは、両親や親族、それに会社関係での付き合い以外で人と接触する機会はゼロに等しく、ましてや見知らぬ人間から声を掛けられるなんて絶対に無い。自分がかつて《奉られていた存在》だった事は、いい思い出として懐かしむ事はあっても、現在の自分が《普通の人》になってしまった事を残念だと思った事はない。それはプロレス界から自らの意思でいちどは身を引いている、という思いがあるからだ。これが現役に未練たらたらで辞めていたらこの境地には達しなかっただろう。
 少し休んだ後、仕事に取り掛かろうと立ち上がった時、制服のポケットに入っているスマートフォンが騒がしいアラームと共に揺れだした。さゆりはパールカラーのケースに保護されている端末機をおもむろに取り出し、液晶画面を確認すると入ってきたのは電話ではなくLINEのメッセージだった。送り主は譲治だ。

【お疲れ様です。仕事が終わったらいちど事務所へ寄ってください、待ってます】

 ――時期的に次の大会の打ち合わせかな?

 短絡的にそう考えたさゆりは「了解」と手短に文字を入力して送信すると、気持ちを切り替え収納棚の商品を数え始めた。まだ定時までは十分時間がある、仕事が終わるまでは普通のパート従業員でプロレスラーというもうひとつの顔を表に晒すのはその後でいい――

 仕事を終えたその足でさゆりは道場へと向かう。秋祭のあと朝晩はめっきり冷え込んで寒くなり、着る服も生地が厚くなり量も一枚増えた。彼女は頬をかすめる風の冷たさや、自分の吐く息が白くなっているのをみて、季節の移り変わりの速さを直に実感する。
 道場へ到着すると灯油の香りがさゆりの鼻孔に触れた。日増しに寒くなっていく道場内に耐え切れず今年もとうとうストーブを出した模様である。彼女は練習をしている選手たちに軽く挨拶をし、建物の奥にある事務所へと向かう。

「代表、入りますね」

 ドアを軽くノックし中へ入ると、次大会のスケジュールがびっしり書き込まれたホワイトボードを背後にし、ラップトップパソコンに向かい表計算ソフトと格闘中の譲治がいた。さゆりの声を聞いた彼は、キーボードを打つ手を一旦止めて返事をする。

「おーさゆりさん、お疲れ様」

 さゆりは手にしている膨れた白いレジ袋を彼のデスクの上に置き、自分も傍にあった事務椅子に腰を掛けた。譲治はさっそく袋を開け、中に入っていたおにぎりと清涼飲料水を取り出すと、すぐさま封を切りそれらを口に運んだ。さゆりは事務所へ寄る用事がある時はこうして、自分の店で出た賞味期限切れ間近の食品を独り身の譲治へ持っていくのだ。

「ん、うめぇ。いつもありがとうございます……でもたまにはさゆりさんの暖かい手料理、食べたいなぁ」
「何バカな事言ってんのよ。それで用事って何なの?」

 自ら和やかな空気を断ち切って、さゆりは彼に本日の用件を尋ねた。そのままだと何だか「大事な」話がはぐらかされそうな気がしたからだ。

「そうそう、実は……」
「ちゃんと口の中、空にしてから喋りなさい」
「厳しいなぁ」

 500ml入りペットボトルの飲み物を一気に口に流す。

「ふぅ。実はさ、今日さゆりさん宛てに電話があったんだ」
「誰から?」

 何を躊躇っているのか、どこか会話の歯切れが悪い譲治。次の言葉を待つ時間がさゆりにはじれったく感じて堪らなかった。そんな煮え切らない態度の譲治に怒りをぶつける。

「はっきりして! 冗談だったら怒るよ?」
「……緒方さん。さゆりさんが以前いた団体ところの広報部長だった人。今社長やってるんだって」

 緒方宏行(おがたひろゆき)――日本に数多とある女子プロレス団体の中でも、歴史の長さや人材レスラーの豊富さ、それに興行数においてもトップクラスにある《太平洋女子プロレスリング》の現社長である。かつて神園さゆりが所属していた時期には、団体や選手たちのパブリシティーを行う広報部長として辣腕を振るい、業界全体において「キレ者」と評される数少ない人物であった。

「緒方さんがわたしに何の用なの?」
「それは……」

 譲治は数時間前に電話口で聞いた、緒方からの話を説明し始めた――かつて太平洋女子で人気を誇っていたスター選手たちが、年齢や気力低下などを理由に次々と団体を去ってしまい、現在では彼女らと比較して知名度が数段落ちる年齢の若い選手ばかりで、固定客が見込まれる小会場での興行はまずまずだが、ホールやアリーナといった大会場ではここ最近苦戦を強いられているのだという。そこで若手の“強化”を図るため名の知られた外部の選手を“敵(エネミー)”として定期参戦、場合によっては所属選手となってもらおうという良く言えば招聘、悪く言えば引き抜きであった。
 だが、そんな話を聞かされても「何で?」とさゆりは不思議がるだけだった。第一ウチにはそんな《全国区》な選手なんていないじゃない、と全く思い当たる節が無い。疑問符を頭の上にいっぱい浮かび上がらせている彼女へ、譲治は指を突きつけた。

「さゆりさん、全く自分の価値に気付いてないっ! あなた十数年前までは押しも押されぬ太平洋女子のアイドルレスラーだったでしょうが」
「そうだけど……でも十数年前だよ? 何で今頃になって声掛けてくんのよ?」
「……観たんだって、俺とさゆりさんが闘っている秋祭のテレビ映像を」
「ウソっ?! あれローカルニュースじゃなかったの」 

 まさかの話に驚くさゆり。同僚の女子高生からはローカルニュースだと聞いていたのに、実際は《各地の秋の話題》として全国放送の枠で放映されたらしい。

「それで緒方さん、あれを観て久しぶりに会いたくなったから連絡下さい、ってさ。さゆりさんにとっていい話であるといいね」

 譲治は電話の件を伝え終えると、仕事を再開すべくディスプレイへ目を向けるものの、さゆりにパソコンの蓋を閉じられてしまい作業が出来ない。首を上げて彼女の顔を見るとその目は笑っていなかった。

「わざわざご報告感謝します、代表……でもそれって、わたしへの電話で事が済みますよね? 一体何がしたいわけ? 譲治くん」

 譲治は何も言わない。さゆりの迫力に気圧されてしまい口が開けないのだ。

「どうしていいか分からないから、わたしに判断を仰ぎたいっていうんでしょ? でもあなたはいつだってそう、“さゆりさんがやりたいようにやればいいよ”って言って済ませちゃう。でも本当にそれでいいの? もしかしたらわたし、出て行っちゃうかもよ? わたしを……神園さゆりの事を本当に大事に思っているならあいつに向かって“ふざけるな、俺の女に手を出すんじゃねぇ”って啖呵切ってよ!」

 ふたりの間に漂う、非常に気まずい空気。
 ずっと内に秘めていた、譲治への不満がつい口から出てしまったさゆりは、我に返ると急に恐ろしくなり、がたがたと身体の震えが止まらない。まともに彼の顔が見られなくなった彼女が取ったお互いにとって最善の方法――それは事務所から出ていく事だった。

「……一度電話する。どうなるか分からないけどこれだけは言っておくね。わたしは大好きな人がいるこの街を、小さいけど夢溢れるこの団体を愛している。此処から離れるなんて絶対考えられない」

 そう言い残すと、さゆりは静かにドアを閉じ去っていった。
 事務所にひとり残された譲治はもう、自分の仕事の事などどうでもよくなってしまい、空になったペットボトルを感情に任せて壁に投げつけた。ぶつかって床に落下したボトルは軽い音をたてて転がるが、譲治はそれを拾いもせず事務椅子に身体を預けたまま、目だけを動かしそれを追いかけていた。

 ――ったく、どうして俺はこんな肝心な時に、さゆりさんに何ひとつ言い返せないんだろう? 「俺の元に居てくれ」、「此処から出ていかないでくれ」……こんな当たり前で簡単な言葉なのにな。情けねぇぜ、ゴー☆ジャス譲治。

 部屋の中では、ファンヒーターの送風音だけがむなしく鳴り響いていた。

 染みひとつない、真っ白なシーツが被せられたベッドの上にスマートフォンを置いたまま、寝間着姿のさゆりは何十分もにらめっこをしていた。時折座る体勢を変えて気分転換を図ってみるが何の効果も得られない。譲治には「一度電話する」と見栄を切って事務所を出ていったものの、いざ自宅に戻り部屋でひとりになるとなかなか踏ん切りが付かない。

 ――どうしよう、無視してこのまま逃げちゃおうか? いや、どうせまた譲治くんの所に電話かかって来るんだろうし、一回緒方さんと話さなきゃダメか。

 ベッドの上へ大の字になり背中から倒れると、置いてあったスマートフォンが弾んで宙に浮き、床に落下する間一髪の所でさゆりは慌てて受け止めた。

「……」

待ち受け画面に映る《こだまプロレス》メンバーとの集合写真をしばらく眺めた後、気持ちの整理が付いたさゆりは、遂に覚悟を決めた。端末の《電話帳》に消去せず残してあった太平洋女子の番号をクリックすると、驚くほど僅かのコール数で目的の相手が電話口に出てきた。

「――久しぶりですね、神園さん」

 古巣・太平洋女子の現社長である緒方だ。最初の現役時代には、マネジメントなどいろいろと骨を折ってくれた恩人である。

「まさか、この歳になって太平洋女子様からお呼びが掛かるなんて、思ってもみなかったわよ」

 さゆりは皮肉って言ったつもりだったが、残念ながらそうは捉えていなかった緒方は「またまたご冗談を」と笑うだけだった――

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天気のいい日はプロレスでも――【第1回】

2018年01月30日 | Novel

 気持ちがよい程に青かった空が、徐々にその明度を落とし、等間隔に設置されている街灯に明かりが点り始める午後六時前、店の裏にあるごみ置場に両手一杯の、容量ぎりぎりで膨れ上がった半透明のごみ袋を置き終えた神園(かみぞの)さゆりは、このコンビニエンスストアでの勤務時間が終了する為、帰る準備に取り掛かる。ちょうど店のバックヤードに学校の制服姿のまま入ってきた、この後のローテーションに入る女子高校生がさゆりに声を掛ける。

「さゆりさん、お疲れ様で~す」
「ありがとう……ってどうしたのよ、制服のままで?」
「いや、こないだのテストで赤点取っちゃって……補習で残されてたんですよぉ」

 ばつの悪そうな彼女の表情。だが声のトーンから察するに、悪い点数を取った事についてはあまり堪えていない様子だ。

「電話かLINEを送ってくれれば、そのまま仕事を続けたのに」
「いえ、さゆりさんに迷惑は掛けられませんから。真面目なんです、こう見えてわたし」

 胸をばんと叩き「任せておいて」と云わんばかりのどや顔を決める女子高校生。《真面目》という言葉がゲシュタルト崩壊した瞬間である。

「はは、君が頑張りやさんなのは分かったから、急いで着替えて店に出てくれないか?」

 そこへ商品の在庫確認を終えたばかりの、黒ぶちメガネを掛けた40歳代後半の恰幅の良い男性――このコンビニエンスストアの店長が彼女たちの前に顔を出した。バイトの女子高校生は彼の顔を見るや「ヤバい!」と云わんばかりの表情で、慌てて奥のロッカー室へ消えていった。
 さゆりは彼女が消えたロッカー室の方向を見てにこりと微笑むと、呆れ顔の店長に声を掛けた。

「店長……私これで失礼します」

 軽く会釈をするさゆりに店長は、彼自身の人柄が滲み出るような笑顔でこれに応える。

「お疲れさん――これからトレーニングかい? 頑張るねぇ」
「ええ、大会も近いですし。それでその日は仕事を休む事になりますが……申し訳ないです」
「本音を言うと残念だけどね。それでも――さゆりさんの闘っている姿、店で接客している時の何十倍も魅力的で好きだな、僕は」
「違った形の《接客業》ですよ、この仕事と何も変わりませんって。でも――嬉しいです」

 さゆりは不意打ち気味に彼から「魅力的」と言われ、湯気が上りそうな程に顔を真っ赤にして照れ、その恥ずかしさから顔を上げられず俯いたまま店を後にする。既にレジ打ちを開始した同僚の女子高校生は、そんな「少女」のようなさゆりの姿を横目で見て笑うのであった。

 既に辺りは暗闇に包まれ、点在する住宅の柔らかいオレンジ色の灯りと、街灯の青白い光だけがさゆりが歩く道を照らしていた。パート先のコンビニエンスストアを出てから数分、彼女は中小規模の工場や資材倉庫が立ち並ぶ一角にある目的地――《こだまプロレス》道場に到着した。
 団体が旗揚げして既に十年、「地域の活性化」をスローガンに掲げるローカルプロモーションが色々な土地で誕生したが、資金難や選手不足など様々な理由でその多くは消滅を余儀なくされたが、幸いにもこの団体は地元民に愛され、そして彼らの熱いバックアップもあってどうにか潰れずにここまでやって来ることができた。神園さゆりはそんな「日本一熱い」ローカルプロレス団体に所属する女子選手である。
 出入口のドアを開け中に入ると、既に玉のような汗をかいて数名の選手が練習を始めていた。スクワットや腕立てなど基礎体力練習をしている者もいれば、数種類の《金属の塊》を使いウェイトトレーニングに励んでいる者もいた。彼ら選手の年齢層は下は二十代から上は五十代とばらばらで、皆|《こだまプロレス》の選手とは別に他の職業で働いている云わば「セミ」プロレスラーたちなのだ。とはいってもよくありがちな「素人によるプロレスごっこ」等ではなく、学生時代に「学生プロレス」でリングに上がり、その興奮が忘れられず社会人になった後にここで練習して「非常勤プロレスラー」となった者や、いちど他団体でデビューしたものの、体力的限界や家庭の都合等何らかの事情でリタイアしたが「もう一度リングに上がりたい」と、地元にあるこの小さな団体でプロレス活動をする「元」プロレスラーなど「本気」の輩が集まっている正真正銘の「プロレス団体」なのだ。

「ほらぁ、もっとしっかり受身取って!でないと怪我しちゃうよ!」

 リング上で実戦形式の激しいスパーリングをする選手のひとりに、少し離れた場所から注意をする赤い覆面の男。黒いタンクトップから突き出る丸太のような日焼けした太い腕、まるでドラム缶を思わせるようなその体躯は、どこからどう見ても「プロレスラー」そのものだ。

「お疲れ様です、譲治代表っ!」

 さゆりが赤覆面に大きな声で挨拶をする。くるりと首を彼女のいる後方へ向け、存在を確認すると彼は身体を百八十度回転させ、145センチとレスラーとしては小柄なさゆりと向き合った。それまで若手選手への指導でぴりぴりとした空気が彼の周りに漂っていたが、彼女を見た瞬間からそれが薄れ、リラックスした温和な空気へと変化した。心なしかマスクの下からのぞく口元も緩んでいるように見える。

「おぉ、サユリーナ!やっと来ましたか。お仕事の後で大変でしょうが頑張ってください!」
「そんな……ウチのトップレスラー兼団体代表の《ゴー☆ジャス譲治》さまに煽てられるなんて私――悪いもの食べました?」
「いえいえ。だってずっと先輩じゃないですか、この業界の」
「ふ~ん。そうやって年寄り扱いするんだぁ? ひとつしか歳は違わないのに」

 正直彼の発言に対し気分など害してはいないが、ちょっとからかいたくなった彼女はわざと凄みを利かせて下から睨みつけてみた。すると譲治は尻餅をつき大きな身体を縮ませて「本気」で怖がった。そんなふたりのやりとりに、道場のあちこちからそれまで張り詰めていた緊張感が解け明るい笑い声が発生した。
 神園さゆりは譲治の言うように、元は本職の女子プロレスラーであった。また彼女もここにいる選手たち同様、何らかの理由があってフルタイムのプロレス活動が困難となり、いちど業界からリタイヤした身であった。しかし生活環境が変わり身辺も落ち着き始めた頃、もういちどリングで受身を取りたいと思い始めた時期に、地域振興の一環としてプロレス活動を行っていた《ホームタウン・ヒーロー》ことゴー☆ジャス譲治から直々に誘われて《こだまプロレス》に参加し今では、選手数こそ少ないが団体の女子部である《こだまガールズレスリング》のエース兼コーチでもある。さゆり自身、かつて所属していた大規模の女子団体でフルタイムの選手生活をしていた時よりも、もっとプロレスが好きになり今の兼業レスラー生活にやりがいを感じていたのであった。
 さゆりは黄色の柄無しTシャツに黒色のジャージ下という動きやすい格好に着替え終わると、さっそくストレッチを開始した。身体中の筋肉という筋肉を丹念に伸ばし解きほどき、時間を掛け徐々に全身を弛緩させていく。こうする事で余分な力が身体に加わらず最小限に怪我を防ぐ事が出来るのだ。こうして自分の身体と対話でもするように、調子を確認しながら三十分近くじっくりと、柔軟運動に費やしたさゆりの全身からは大粒の汗が吹き出し、着ているTシャツは水を被ったようにずぶ濡れとなって、生地がぺたりと素肌に貼り付き下着の地色が薄ら透けて浮き出てしまっていた。近くで練習していた男子選手――特に女性経験に乏しい若い選手たちは彼女の艶姿を無視する事も出来ず、そんな事も気にせず真剣になって練習に励んでいるさゆりに、どう声を掛けて良いものか戸惑っている所へ、譲治は黙って自分の持っていた大きなバスタオルをさゆりの肩へ被せる。白い柔らかなバスタオルに包まれ彼女の下着も――シャツが密着して露わになったボディラインも、一瞬にして隠れ見えなくなる。
 突然の事でいまいち状況の呑み込めないさゆりに、当の譲治が耳元で小さな声で説明する。

「……見えてますよ、下着が! これじゃあ童貞クンには目の毒ですので急いで着替えて来てくださいっ!」

 彼から言われて、ようやく自分の状況と周りからの視線を理解したさゆりは、顔を真っ赤に染めて俯いた。だが極端に恥ずかしがるとまた《童貞男子》に刺激を与えかねないと判断した彼女は、ぎゅっとバスタオルの裾を掴み下着が見えないように隠すと、何事も無かったかのように更衣室へと姿を消した。
 しばらくして、別のシャツに着替え終えたさゆりはリングに上がると、本日練習に参加している――今度の週末に行われる試合に出場する女子選手三名を集め、青いキャンバスの上で自らが率先して受身の練習を開始した。前回りや後方への受身など比較的簡単なものから始まり、倒立しての受身やロープの一段目に上り高い位置からの受身へと次第にその難易度高めていく。他の三人もさゆりと同じく兼業レスラーであるが、彼女が要求する様々な動きに音を上げる事も無く、皆さゆりの指示に付いていく。練習に参加している女子選手の中でも一番若い――十九歳の大学生は半年前には後ろに倒れるのが怖くて半べそを掻いていたものだったが、さゆりの熱心な指導の甲斐もあって今ではこのレベルなら難なくこなせるし、他のみんなも同様で「学業や仕事の片手間にやるプロレスなんて……」と《パートタイム・レスラー》否定派の観客から馬鹿にされない程度の試合を行う事が出来るまでに成長した。
 その後、さゆりは三人を相手にスパーリングを交互に行い、各選手の動きをじっくりとチェックする。ロックアップからはじまりヘッドロックからの首投げや袈裟固めに移行するのをヘッドシザースで防ぐという序盤の攻防、ロープを使用した素早いハイスパートの攻防などいろいろなシチュエーションを想定しての基本の“型”を練習する。少しでもおかしな動作があるとすかさず注意を出して、各選手の動きがスムーズになるまで何度もやり直しをさせ理想形に近付けていく。一対一のスパーリングでもかなりの時間を費やすのだが、三人分の指導とあって熱のこもった指導は、道場の使用終了時間ぎりぎりまで続けられた。週末に開催が迫る、市が催す祭事で行われる大会において、下手くそな試合を見せたくない、《こだまガールズレスリング》エースである神園さゆりの「元プロ」としての責任感である。

 夜十時を過ぎ、帰宅の途につく《こだまプロレス》の選手たち。次の日が休日や祝日であれば何名かは街の飲み屋に繰りだし、酒を片手にプロレス談義に花を咲かせるが、残念ながら平日であるため皆一目散に道場を後にし自宅へと向かう。

「……ご飯まで奢って貰って悪いわね、譲治代表」
「当然の事ですよ。それと此処では《代表》なんて呼ぶのは止めてください、軽~く《ジョージくん》でいいですから――いつものように」

 道場から車で走って約10分の場所にある、さゆりの住むアパートの前で車を停車させ、ふたりは話をしていた。道場では覆面を被っていた譲治だったが今は素顔で、イケメン……は言い過ぎだがそれなりに整った面構えをしていて、今でこそ冷蔵庫のような体格をしているが中高生の頃は、同じクラスの女子から結構好かれたであろうと想像に難しくない、中々の元・二枚目ぶりだ。

「バカじゃないの? あーあ、譲治くんがそんな事言うからへんな汗かいちゃったじゃない」

 さゆりは恥ずかしくなって、彼の剥き出しの腕をバシバシと叩き照れ隠しをする。既にアラサーの彼女であるがその様子は何処か《少女》をイメージさせて、譲治は骨まで到達せんばかりの衝撃にも笑顔で耐え、彼女の仕草に胸をときめかせた。

「でも……いつもありがとう。すごく感謝している、譲治くんの事。現役の時はいちファンとして応援してくれて、今は第二のプロレス人生をサポートしてくれてホント感謝してる」
「何言ってるんですか。あなた――《神園さゆり》という存在がいたからこそ、ここまで頑張ってこれたんですよ。プロレスラーになる、という目標も《地元密着のプロレス団体》を作るという夢も。「もうひとりの俺」であるゴー☆ジャス譲治は、あなたの存在なしでは決して生まれ得なかったです」

 酒の席で幾度となく聞いた譲治の話。だが車内という薄暗く狭い空間にふたりきり、という特殊なシチュエーションは、その意味合いが普段とは異なって聞こえてしまう。これは譲治からの「告白」なのかも、と勝手に解釈したさゆりは急に怖くなり慌ててドアを開け車の外に逃げ出してしまう。
 突然の事で状況が理解できない譲治。めっきり冷たくなった外の空気に触れ、落ち着きを取り戻したさゆりは手を合わせて彼に謝った。

「ご、ごめん。別に譲治くんの事が嫌いとかそういうのじゃないの――わたしは団体のいち選手で譲治くんは団体の代表で……そんな関係になるのっておかしくない、ねぇ?」

 さゆりの支離死滅な言い訳に、譲治は「まいったな」という表情をして頭を掻きながら笑った。彼にも全く下心が無いわけではないが、この状況に乗じて彼女に男女の関係を迫ろうなどという考えはこれっぽっちも無かった。面白すぎる彼女の行動は譲治を笑わせてくれるがその一方で、憧れの女性から自分自身が「男」として見られていない事が分かって少し寂しくもあった。

「それでは今度の日曜日の試合、一緒に頑張りましょう! くれぐれも怪我だけには十分に注意してくださいね。ではおやすみなさい」

 そう言って譲治が車を走らせて去った後、さゆりはしばらくの間自分の部屋にも入らず、錆びた金属製の階段に腰を下ろし、全身を包む微かな冷気の中ぼんやりと星空を眺め、昂っていた感情をクールダウン――実際はすでに落ち着きを取り戻してはいたが、譲治に対して取った自身の行動を反省していた。
 どうしてあの時、逃げ出してしまったのだろう? あの余計なひと言が、もしかして彼の心を傷付けてしまったのではないか? そして――いつも自分に対し、誠心誠意に尽くしてくれる譲治の事を、本当の所わたしはどう想っているのだろう……?
 何度思考を巡らせても、明確な答えには辿り着かない。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 数分歩いただけでも汗ばむほどの陽気となった日曜日の午後――市役所にある広い駐車場の中では模擬店のテントとならんで《こだまプロレス》のリングが設営されており、現在リングの上では女子選手四名によるタッグマッチが行われていた。今や熱心なファン以外はテレビでも目にする事の無くなった《女子プロレス》の試合に、初めて目にする若者やかつて絶大な人気を誇っていた頃を記憶する中高年の見物客たちは、《サユリーナ》のリングネームで出場する神園さゆり他三人が繰り広げる熱い闘いに引き込まれ、知らず知らずのうちに声援を送っていた。

「お前ら、よぉく見とけよ!」

 ショートカットの茶髪で丸い体型の、「往年の女子プロレスラー」を思わせるビジュアルの悪党レスラー・ヴァルキリー小松がリング中央で、彼女とは正反対でアイドル的容姿の女子大生レスラー・愛果(まなか)ゆうの長い髪を掴みギャラリーに大声でアピールすると、そのままリングの端の方まで放り投げた。女子プロレス特有の技であるヘアーホイップに見物客は驚きの声をあげる。小松と相方のディーゼル久保田の悪党チームによる、愛果ひとりに対する執拗な攻撃はかなりの時間にわたって続き、そのビジュアルの良さで彼女を応援している客たちのフラストレーションは募るばかりだ。
 自分のコーナーで何をする事も出来ず、黙って相棒がやられている姿を見せられて苛々しているサユリーナを余所に悪党チームは、巧妙にレフェリーの死角を付いて仕掛ける反則攻撃や、パンチやキックなどのラフ殺法で体力を削っていきフォール勝ちを狙うが、見た目に反して根性のある愛果は足元がおぼつかなくなりながらも、ツーカウント以上は絶対に許さない。この彼女の底知れぬ根性に当初諦めムードだった客も肩を上げる度にヒートアップし、一部の集団からしか出ていなかった声援も「女子プロレス初観戦」と思わしき人たちの口からも溢れ始め、気が付けば多種多様の声援がリング周辺を覆い尽くすようになっていた。
 小松が勝負を決めるべく放ったクローズラインを、愛果は寸前でしゃがんで回避するとこれまでのお返しとばかりに、突き上げるようなドロップキックを小松の顎にめがけて撃ち込んだ。強烈なキックの衝撃で吹き飛ばされた彼女は、「ばんっ!」と軽快な音を立てて背中からリングの上に落ちる。

「愛果ちゃんっ、頑張って!」

 サユリーナが自軍のコーナーから必死に手を伸ばして交代を迫る。
 ダメージの蓄積で疲労困憊な愛果は膝をつきながらも必死に前進し、ありったけの力を振り絞りさゆりにタッチする事に成功した。この瞬間ギャラリーから大きな歓声が湧きあがり、この試合一番の盛り上がりを見せた。立ち上がって体勢を整えようとしていた小松に向かって再びドロップキック一閃、慌てて助けに入る久保田にはボディスラムで迎撃するという、今まで溜めた鬱憤を全て吐き出すかのようなサユリーナの攻撃に見物客は拍手喝采で喜んだ。スポーツライクな格闘技色の強いプロレスがマニアの間で好まれようとも、やはり勧善懲悪・起承転結のはっきりした従来のプロレスの方が分かりやすいし、どんな客層年齢層も安心して試合に没頭できるというのが良い。小難しい理屈は一切いらない、リングの上で繰り広げられる肉体のスペクタクルに人々は魅了されていく。 
肉と骨が鈍重な音を立ててぶつかり合う。小松とサユリーナは互いのプライドを賭けエルボーを一心不乱に叩き込む。肘や上腕が首筋を、胸板を抉る度に痛みによって自然と呻き声が溢れ出るが、それでも彼女らは絶対に攻撃を止めようとはしない。そう、どちらかがマットに這いつくばるまでこの「意地の張り合い」は続くのだ。恵まれた体格でこのまま「エルボー合戦」を押し切るかと思われていた小松だったが、小さな身体からは想像できない圧力とスピードで、息を整える暇を与えず打撃を叩き込むサユリーナが遂に打ち勝ち、患部を赤黒く変色させた小松は自軍のコーナー付近で力尽きダウンした。
 小松から勝負を託された久保田は、脱兎のごとくロープから飛び出しサユリーナにパンチの連打を浴びせ攻撃の勢いを断ち切る。そして首根っこを脇に挟むとそのままDDTで顔面をマットにめり込ませた。せっかく廻ってきた勝機をこのまま逃してなるものか、と久保田は続けて無理矢理サユリーナを立たせると、腰に手を回し軽量の彼女の身体を一気に持ち上げ、自身の必殺技(フィニッシャー)であるパワーボムの体勢に入った。これが決まればスリーカウント間違いなしの大技だ。だがサユリーナはこの瞬間を待っていた。上半身が頂点まであがったと同時に彼女は久保田の頭を脚で挟むと、背筋で自分の身体を真下へ大きく反らし、股の間を潜るようにして相手を投げ飛ばした。逆転技のヘッドシザース・ホイップだ。
 サユリーナはちらりとコーナーの方を見た。待機している愛果がロープを強く握りしめ、まるで挑むような視線で自分を見つめている。最後は自分がフィニッシュを決めたい――と、そう言っているかのように。サユリーナは彼女に対し覚悟はあるのか? と言葉ではなく視線で問うてみると、愛果は力強く首を縦に振った。その自信に満ちた目力にサユリーナは、相棒に勝負を託す覚悟を決めるとマットの上でダウンする久保田をヘッドロックをしたまま強引に起こし自分のコーナーまで引っ張っていき愛果にタッチをすると、相棒の必殺技をお膳立てするために今度は、羽交い絞め(フルネルソン)で相手を固定しリング中央付近まで下がる――準備は整った。

「いくぞぉ!」

 試合権利のある愛果は、コーナーポストの最上段でスタンバイしていた。そして下していた膝をゆっくり伸ばし直立すると、何の躊躇も無く両手を広げて大きく飛び上がった。久保田も、サユリーナも、そしてギャラリーの誰もが|《こだまガールズレスリング》のアイドル・愛果ゆうの、黒髪をなびかせて空中に舞うフォトジェニックな姿に目を奪われる。
 どすっ! と長身の久保田に愛果の身体が覆い被さると、彼女の体重プラス落下する際の重力で生じた衝撃に耐え切れず、マットに向かって水平に倒れてダウンした――フライング・ボディアタックが決まりそのままフォールカウントが始まる。レフェリーがふたつカウントをマットへ叩き入れ三つ目に突入しようとした時、フォール負けを阻止せんが為に小松が鬼の形相でリング内へ突入してきた。愛果の邪魔はさせない! とサユリーナは小松に向かって突進すると、綺麗な回転のフライング・ニールキックで迎撃し彼女をリングの外へ排除する事に成功する。そして最後のカウントが数えられた瞬間――サユリーナ&愛果ゆう組の勝利が決定した。レフェリーからふたりの手が挙げられると、ギャラリーからは祝福の歓声と拍手が絶え間なく送られ、これが自身初勝利となった愛果は感激のあまり汗と涙で顔を濡らして泣いていた。傍で彼女の様子を見ていたサユリーナも、かつて《若手》と呼ばれていた時代の自分とオーバーラップさせ、思わず感慨に浸るのであった。
 会場全体がハッピーな雰囲気に包まれたまま、こうして女子プロレスの試合は幕を閉じた。この後は《こだまプロレスリング》団体エースのゴー☆ジャス譲治が登場するメインエベントが待っている。だが「興行は生もの」とよく言われているように、いつも物事が平穏無事に進むわけではなかった――予期せぬトラブルが発生したのだ。

「へ、平蔵さんっ! 大丈夫ですか?!」

 選手控室用の大テントの中では、メイン出場予定である謎の黒覆面・HEY-ZONE(ヘイ ゾーン)こと里中平蔵(さとなか へいぞう)が、180センチ以上もある大きな身体を折り曲げてブルーシートの上でうずくまっていた。顔はひどく青褪めており、突然の“ベテラン選手”へのアクシデントに、若手選手たちはどうしていいのか分からず、ただ声を掛けるのが精一杯だった。

「どうしたんです?……只事じゃないみたいですね」

 試合を終え、幕一枚挟んだ向こうの女子控室で休んでいたさゆりが緊急事態を聞きつけやって来た。試合時間も近いというのに覆面はおろか、リングコスチュームにも着替えていない平蔵の姿に疑問を感じた彼女は、事態が楽観視出来ない事を直に感じた。

「ああ、昨晩何処かの飲食店で食べた晩飯が原因で――夜中からずっと腹痛と嘔吐が続いていて。水も一滴も飲めなくてもうフラフラだ……」

 さゆりに状況を説明し終えた平蔵は、再び激痛に襲われて苦悶の表情を浮かべて身を縮ませた――彼の入った飲食店では当時来店した、客の多くが食中毒で運ばれていた事が後で新聞の報道によって分かった。
 連絡を受けた秋祭のスタッフが病院に電話を入れたので、数分後には救急車が到着して平蔵を搬送してくれる事になったが、問題は誰が譲治の相手を務めるのか? という事だった。現在ここに残っているのはデビューして僅か一~二年の《実戦経験》に乏しい選手たちばかりで、彼とまともに闘って「いい勝負」ができる技術(テクニック)と根性(ハート)の持ち主は残念ながらいなかった。いや、キャリアの長い譲治の事だから「試合」として成立させる事は可能かもしれないが、客目線でみれば彼が対戦相手を「一方的に攻めている」か「手加減している」様にしか見えない危険性もあり、マニアはともかくとして普通の観客が見て楽しめるものではないだろう。

「……代表」

 不安の表情がマスク越しからも見て取れる譲治に、さゆりが話しかける。普段からは想像もできない程に緊張していた彼は、返事をする事なく彼女の方へ顔を向けた。

「どうしたんです、さゆりさん? そんな思いつめた顔をして」
「わたし……代表と闘います」
「まぁ、サユリーナのエッチ♡」
「な、何言ってるのよ! この変態っ!!」

 さゆりとの冗談交じりの会話に、徐々に緊張もほぐれてきた譲治。考えてみればファン時代から数えて彼とさゆりとは長い付き合いで、プロレスのキャリアも彼女の方が上。これ以上はない《対戦相手》である。

「じゃあ、わたしが譲治くんに合わせるから……」
「いえいえ、ここは私めがサユリーナに。何せ先輩ですからこの業界の」
「……試合中覚えてろよ」

 遂に試合時間がやって来た。銀色のマントにお飾りのチャンピオンベルトという、いかにもヒーロー然としたコスチュームを身に着けたゴー☆ジャス譲治が、勢いよくテントから飛び出たかと思うと一目散にリングに向かって駆けていく。もちろん差し出されたお客さんの手に向かってハイタッチをするのは忘れない。それが《地域密着型ヒーロー》である彼自身の信念だからだ。ロープを飛び越えリングインし、颯爽とコーナーに昇り見栄を切るとギャラリーから大きな歓声が沸き起こる。長年故郷である地元で頑張ってきた成果、地元民との信頼関係の賜物である。リングアナウンサーからコールを受ける彼の勇姿を見て、さゆりは急いでコスチューム――出場予定だったHEY-ZONEのマスクと彼のガウンを纏い、マイクを片手にゆっくりとテントから出てリングへ続く通路へと歩きだした。

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【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら?~後篇~

2017年06月16日 | Novel

 メインエベントを今まさに裁かんとするレフェリーによって、女神像をイメージした金色のプレートが貼られた紫色をしたベルト――東都女子プロレス認定王座《プリンセス・オブ・メトロポリタン》が高々と掲げられ、会場天井からのライトに照らされ《団体の象徴》は眩いばかりの輝きを放っていた。そして彼を挟んで両サイドではその光り輝くベルトを我が物にせんと、じっと見つめるふたりの女。
 《唯我独尊》浦井冨美佳と、《能天気ダイナマイト》小野坂ユカだ。
 観客の「本気の」ブーイングを浴び憎々しく笑う浦井は、紫色のワンピース型コスチュームに黒のロングシューズという女子プロレスの“王道”ともいえる出で立ちで、ふてぶてしい態度と相まって威圧感を周りに漂わせ、自分こそがリングの女王であるという事を無言でアピールしていた。
 一方のユカは二年半ぶりの浦井とのシングル戦に加え、タイトルマッチという環境からくる緊張なのか、普段なら入場時に観客からの声援に対して、入場通路やリングサイドを周回しながら明るくハイタッチなどをする彼女だったが、今日は入場ゲートに登場するや否や一目散にリングへ向かって駆け込んだので、彼女とのスキンシップを楽しみにしていたファンたちは少々戸惑った。それにコスチュームも自らが「チンドン屋」と称するレインボーカラーでなく、親友・赤井七海のイメージカラーである赤でコーディネートされており、彼女の覚悟の程が窺い知る事ができる。
 昨夜リリースされた、突然のPOM王座返上と、それに伴うユカの決定戦出場のインフォメーションは、今夜の興行にも少なからず影響をおよぼし、カードの不満を訴えチケットの払い戻しを求める客が数十人もいたという。それに昨日の浦井の例の件もあって試合会場も、八百人の定員のところが六割程度しか席が埋まっていないのが現状だった。だからこそ、ユカは大先輩であり強敵である浦井を下し、東都女子のエースの証であるチャンピオンベルトを奪取する事こそが使命であり、カード変更にも拘わらず足を運んでくれたファン達へのお礼なのだと、そう考えていた。
 リングの中央で、レフェリーがふたりに対し握手をするよう求めた。しかし浦井は手をひらひらと振り、埃を払いのける様なゼスチャーを見せこれを拒否。それを受けてユカも舌を出しあかんべえをして応戦する。《王座決定戦》だというのに普段通りな両者のコミカルなやり取りに、場内は明るい笑い声に包まれ、肩に力が入っていた観客たちもリラックスする事ができた。そしてリングサイドに設営されている本部席では団体代表の元川が、その隣りには「怪我の為」今大会を欠場した前チャンピオンの七海が着席して、リング上における事の成り行きを、息を飲んでじっと見守っている。
 試合開始を告げる、甲高いゴングの音色が会場中に響き渡った。

「よっしゃぁぁぁぁぁ!」
「来いっ!」

 両者はそれぞれ、自分を奮い立たせるために、そして己という存在を会場中にアピールするために大声で叫んだ。腹の底から吐き出した気合は、そのまま活力源となって身体中にみなぎっていくのが自分自身でも分かる。浦井が右手を高く掲げる。ユカに対して「力比べ」を要求しているのだ。それに応えて彼女も右手を差し出すが身長差が大きいので組む事が出来ない。余裕の笑みを浮かべる浦井とどうしてもコンタクトしたいユカは、ジャンプをしたりといろいろ試みるが、彼女の右手が自分の手の届くところまで下りてくる気配もない。いらいらの募ったユカはマットに仰向けに寝そべり足をバタバタとさせて、小さい子供のように駄々をこねてみた。彼女の《王座決定戦》を争っているとは思えないこの可愛らしい動作に、観客たちはついつい笑ってしまう。

「あいつは何をしてるんだ?」

 いつものコミカルテイストの試合と変わらないじゃないか――リング上でのパフォーマンスに対し、苦虫を潰したような顔で元川は呟いた。静寂の中で行われる、緊張感に満ちた序盤の攻防を想像していた彼には、ふたりが神聖なタイトル戦を馬鹿にしているとしか思えなかった。しかしこれが彼女の普段通りの闘い方であり、決してふざけているわけではない。
 完全に相手を見下した浦井が腰を屈め、駄々っ子状態のユカを覗きこむ。彼女はこの瞬間を待ち構えていたように素早くヘッドスプリングで跳ね起きると、自分の目の高さにいる浦井に大きなスイングで顔を一発張った。突然の「反撃」に、打たれた頬を押さえ呆然とする浦井の周りを、ぐるぐると腕を回して笑顔で走り回るユカに「子供かっ!」とファンのひとりから突っ込まれると、それに呼応するように発生した拍手と爆笑が会場中を覆った。

「この野郎っ!」

 怒りがこみ上げてきた浦井は、叫びと共にクローズラインをユカの喉元へ叩き込もうとするが、動作の大きな彼女の攻撃はユカにはお見通しで、すぐさま身体を捻りこれを回避する。攻撃目標を失い空を切った腕の下を潜り抜け正面のロープに向かい駆け出したユカは、反動を付けて加速し再び浦井の元へと舞い戻り、背面式ドロップキックの体勢で彼女の胴へ跳び付いた。更に自分の上半身をバウンドさせ勢いをつけ体を反り起こすと、腕を取り浦井をリングの外へと投げ飛ばす。【カサドーラ】というルチャリブレの技だ。勢いのついた彼女の身体はリングを被うキャンバスの上を滑らせて、リングの周りを囲むように敷かれた、青い保護用マットの上へ落ちた。
「来いっ!」リングの上では、ユカが膝をつき手招きをして浦井を挑発する。
 大喜びの観客たちは「ユカ」コールの大合唱で彼女を全面的に支持した。この居心地の悪さにマットを叩いて不快感を表した浦井は、あろう事かレフェリーが場外カウントを数え続ける中、ユカが待つリングに背を向けて控室へ帰ろうとするではないか。
 最初は誰もが彼女の、いつもの「客いじり」だとそう思い込んでいた――普段だと観客に自分へのコールを要求し、発生すると満足してリングへ戻っていく「お約束」だがそれもしない。白けた表情の浦井と、リング上で平然を装うがにじみ出る焦りの色は隠せないユカから、観客たちはこれが「アクシデント」である事を察し、皆の顔から“笑い”が消える。
 試合開始からまだ幾分も経っていないにも拘わらず、さっさと「試合放棄」を決めこんだ浦井の自分勝手な行動に、席から立ち上がり口ぐちに怒りの声をあげた。
 こんな試合を見に来たんじゃないぞ。何度俺たちを裏切るつもりだ? もう辞めちまえ――思い付くままの罵詈雑言が通路を歩く浦井に浴びせられるが、そんな事は意に介しない彼女は下を向いたまま進んでいく。このまま順調にカウントが進むと浦井の「リングアウト負け」でユカの勝利が確定するが、観客の誰もがそんな「負け方」を望んではいないし、ユカ自身もそんな「勝利」は欲しくない。何よりもそんなメイン戦を――王座決定戦を行えばファンやマスコミからは茶番と非難され、団体の評価は取り返しのつかない程底に落ち、今後の運営が厳しくなる事は明らかだ。

 あいつ、とんでもない事をしやがる。

 本部席の元川は額に手を当て目を閉じる。まさか今日に限って試合放棄はしないだろう、と高を括っていたが見事に裏切られて彼はパニック状態に陥った。そんなに東都女子ここが嫌いなのか? じゃあ何故オファーを受けた? 処理できない疑問が元川の頭の中をぐるぐると駆け回り、真っ青な顔からは脂汗が滝のように滴り落ちた。
 誰か、助けてくれ! と心の底から、救いを求める声が喉元まで出かかったその時、隣りで座っていた七海が目の前の、テーブルに誇らしげに置かれているPOM王座のベルトを持って立ち上がった。

「浦井さんっ! このベルトが欲しくないんですか?!」

 七海の、悲痛なる叫びを聞いた浦井は、ぴたりと立ち止まるとゆっくり後ろを振り返る。彼女は今にも泣き出しそうな表情だったが、それでも必死に歯を食いしばり、金色に輝くベルトを高々と掲げ挑むような視線で睨みつけていた。

「このベルトは――あなたが突然いなくなった後に私やユカ、それに残った者たちが必死になって団体を盛り上げ、回復の兆しが見え始めた頃に設立した、私たち東都女子に関わる者全ての想いが詰まったベルトなんです。途中で逃げたあなたには、何の思い入れの無いタイトルかも知れませんが、最後まで私たちを馬鹿にする気ならばこのベルト、綺麗にかっさらって格好つけてから去って下さい!」

 心底嫌いなはずの浦井だったが、思いの丈を言葉にし吐き出していく途中に、心の何処かでは彼女を慕っていた事に気が付き、七海は三年前のあの日――プロレス界での生き方・・・を導いてくれると思っていた矢先、まだ右も左も分からない自分たちの前から突然彼女が退団してしまい、恐怖と不安で一杯だった頃の記憶が、幾度となく繰り返し再生され涙が止まらなかった。

「浦井さん、お願いします!」「浦井さんっ!」

 セコンドとしてリングの周りを囲んでいた、所属選手たちが一斉に浦井の方を向き、ひとりひとりが彼女の名を叫び懇願する。かつて一緒に汗を流した当時の練習生、それに自分がここを去ってから入ってきた若い選手――知ってる顔も知らない顔も、みんな私の事を慕ってくれている。浦井は彼女たちの熱い想いを受け、かつて自分が、この団体を牽引する“長女”の立場であった事を思い出した。
 団体代表の元川よりも更に立場が上である、“プロレス”をよく知らない経営陣たちとの軋轢によって「方向性の違い」という“言い訳”を用い道半ばで離脱してしまったが、十六歳でプロレスラーとして誕生デビューして以来、初めて“リーダー”として迎えてくれたこの団体を、ここに残ってくれた選手たちを嫌いである筈など無い。浦井は再び、ユカの待つリングへと歩み出した。かつての“長女”としての責任と、ベルトを狙う「侵略者」としての誇りを胸に抱いて。

「子憎たらしいったらありゃしない……七海もすっかり皆の“お姉さん”ね、安心したわ」

 顔を涙でぐしょぐしょにして、それでも本部席で自分を睨み続ける七海を、横目で見ながら呟いた。今の浦井には東都女子に対する恩讐の念などない。あるのは故郷に帰ったような懐かしさと心地好さ。リングの上では、ユカが笑顔で浦井の“帰還”を待っていた。

「待たせてしまってごめんなさい。さぁ続けましょうか?」

 深々と謝罪する浦井の前に、ユカは両手を差し出した。

「今度こそ――握手、してくれますよね?」

 彼女の「お願い」に、浦井は照れ臭そうに微笑むと、無言で――力強く両手で握り返しこれに応じた。彼女たちや、その一部始終を静かに傍観していた、周囲の観客ひとりひとりの心の中で、再び試合開始のゴングが打ち鳴らされた。
 どちらからともなく前に踏み出すと、二本の腕を互い同士絡みつけロックアップの体勢に入る。全身の筋力を駆使し自分に有利なポジションを確保しようと、どちらも表情は険しく、組み合ったまま硬直した状態がしばらく続く。観客たちはじっと固唾を飲んで、両選手の次の一手を見守った。
 先に動いたのは浦井だった。
 彼女は素早くユカの腕を取り後ろに回ると、L字に曲げてハンマーロックの体勢に入った。腕を逆方向に捻りあげられ、肘や肩の関節にかけて激痛が走る。しかし身体を前方や半身に屈ませユカは必死に“逃げ道”を探り、ホールドが緩んだ隙をみて逆に体を入れ換え同じ技で返してみせた。先程とは逆に、次は浦井が脱出経路を思考する番だ。腕の痛みに喘ぎながらちらりと目線を配り相手の隙を探ると、素早く股の下からユカの脚を引っ張り、強引にマットへ引き倒し技を解除させるとそのままグラウンド式の爪先固め(トーホールド)へと移行する。またしてもユカは“振り出し”に戻されるが、キャリアの浅い新人選手とは違う彼女は慌てふためく事もなく、落ち着いて身体をずらし自分の足を攻めている浦井の、腕を掴むと空いている方の脚を相手の首に乗せ、ぐっと腰を突出し腕を引っ張って彼女の肘靭帯を伸ばさんとする。腕ひしぎ十字固めの体勢にとられた浦井は極められてなるものかと、今にも伸ばされそうな腕を掴んで必死にブロック、近くにあるサードロープに足を掛けてロープブレークをし事無きを得た。
 ふたりによる基本的ベーシックなレスリングの攻防に、観客たちは暫し声をあげるのも忘れて見入っていたが、レフェリーによる「ブレーク!」の声と共に両者が再び距離を取った瞬間、「おおっ!」というどよめきと拍手が一斉に湧きあがる。浦井の真面目なレスリングには勿論だが、普段は《コミカル担当》で派手な動作で笑わせ驚かせているユカが、堂々と彼女と重厚なレスリングで渡り合っている事の方が、彼らにしてみれば大変な驚きであった。
 場の空気を一転させるような、乾いた破裂音がざわつく会場内に響き渡った。試合は地味な関節技の攻防から一気に激しい打撃戦へと、ふたりの闘いは次の展開へと移り変わる。何十発という張り手の嵐が両選手の間を飛び交い、それら全てがスルーされる事なく確実に、そして的確に頬を張っていく光景に観客は戦慄を覚えた。
 浦井から、強烈な張り手をもらったユカの顔が圧力で歪む。
 身長の足りないユカは、浦井へ腹部蹴り(ガットショット)を叩き入れ身体を屈ませると、お返しとばかりに彼女の首筋に向け、鋭角な肘打ちエルボースマッシュを何度もぶち込んだ。ユカの見た目とは違い、意外に衝撃の重い肘打ちは浦井の体力を確実に削っていく。そして浦井の手首を掴むと、ユカ自身が転倒しそうな勢いで対角線上のコーナーへと彼女を振り投げた。リングを囲むロープを固定している金具を被う、協賛企業の名前が印刷されているコーナーポストへ浦井は背中から強く激突し、その衝撃によりロープが上下に揺れる。
 いくぞぉ! と腕を上げて叫び、拍子を付けてリングを踏み鳴らし観客たちを煽ると、今度は自分自身が、浦井のもたれ掛かっているコーナーポストへ全速力で駆けていき、彼女の顔目掛けてドロップキックを撃ち込んだ。ユカの両足は綺麗にヒットし、ダメージを受けた浦井は崩れるようにずるずると腰を落とした。

「攻めろユカ!」「浦井を休ませず畳み掛けろ!」

 自分の目下で荒い呼吸をして座っている、浦井の長い黒髪をユカは強引に掴み、引き起こして頭を脇に抱えフロントヘッドロックのような体勢を取ると、大きく円を描くようにロープを一気に駆け上がり、マットに浦井の頭を突き刺そうと真下へ体重を掛けた。身長のないユカがロープを利して、旋回による遠心力プラス重力によって相手の頭部を叩き付けるスイング式DDTを敢行したのだ。技は見事に成功し、顔からマットに落ちた浦井はうつ伏せのまま動かなくなった。
 ユカは彼女の身体を仰向けにセットし、上半身に覆い被さりフォールの体勢に入った。レフェリーは力一杯マットを叩きカウントを取るが、ツーカウントを数えた所で、浦井が必死の形相で肩を上げ惜しくもフォール勝ちとはならなかった。残念そうな表情をみせるユカだが落ち込んでいる場合ではない。彼女は頭部を持って浦井を無理矢理起こすと自ら背後のロープへ向かい走る。腕を下げふらふらと立っている浦井に対し、ロープの反動により勢いの増したユカは彼女の首に跳び付き、再び頭部をマットに突き刺さんとする。
 しかし二発目のDDTは浦井がきっちり予測していた。首をホールドされ真下に向かい引き込まれるのを、浦井は軽量であるのユカの身体を掴みこれを阻止。そのままブリッジし彼女の頭部を、今度は逆にマットへ叩き付ける。可愛い後輩に対し先輩の意地をみせた反撃だ。痛む頭を押さえながら自力で立ち上がるユカ。
 ショートヘアを振り乱し怒りの形相で向かってくる、小さくも強力な敵に対し浦井は、待ち構えていたかのように胴を掴み、大きく横に回転させると自分の膝へ彼女の腰を叩き付けた。風車式背骨折り(ケブラドーラ・コン・ヒーロ)がベストなタイミングで決まり、腰を押さえて七転八倒するユカへ今度は浦井がフォールの体勢に入る。片足を持たれ海老反りの状態で体重を預けられているので、フォールを返し辛い体勢であるにも拘らず、ユカは意地と気合でカウントワンでこれを跳ね返した。驚きと苛立ちの表情をみせる浦井。彼女の頭の中では既に《小野坂ユカ》は後輩である、という感傷に浸る余裕などはなく、倒すか、倒されるかの選択詞しか存在しない、ベルトを懸けて争うに相応しい強敵だと認識していた。だから起き上がり再び自分の前に立ちはだからんとする憎き相手に対し、容赦ない張り手や蹴りを休みなく加えていく――二度と相手が自分に歯向えないように!
 ユカの腹に浦井の膝蹴りが突き刺さり、小さな身体が真上に浮いた。吐き戻しそうな苦しみに襲われるが、それでもユカは彼女の目から視線を外さず、反撃の肘打ちを顎へ何度も何度も叩き込む。言葉にならない声をあげながら、汗で濡れた頬に髪を貼り付け一心不乱に、相手へ攻撃を加える姿は決して格好良いものではないがおんなたちの、互いの意地と意地のぶつけ合いを期待する観客たちには、それが十分に美しく感じられた。
 気迫のこもったユカの打撃に押されて、マットを踏ん張る足が次第に後方へと退いていき、定位置をキープする事が厳しくなってきた浦井は、ぐっと歯を噛みしめ力を入れ、僅かな間をついて形勢逆転を狙った平手打ちをユカの顎に目掛けて叩き入れた。
 ――――!
 目が覚めるような破裂音が会場中に響き渡るや観客たちは、騒ぎ立てるのを止め、まるで時間が停止したかのように静まり返る。この強烈な一撃でユカの両足から力が抜け、体重を支えられなくなった彼女はまるで操り人形の糸が切れたように、その場にぐしゃりと倒れてしまう。
 リングサイドの本部席から七海が親友の名を絶叫する。しかし意識朦朧として座り込んだままユカは動かない。
 浦井は、金色に染められたユカの髪の毛を掴み、強引に身体を引き起こすと自分の方に首を向けさせた。しっかりと目は対戦相手を捉えているユカだったが、その瞳の奥には輝きが無かった。浦井はまだユカに“闘う力”が残っているかどうか確かめたく、ロープへ向けて彼女の身体を振ってみた。力が残っていればきちんと背中でロープを受け、自分の所まで走って戻ってくるはずだからだ――しかし、やはりというべきか、ユカは身体を押された途端、数歩前に動いただけで膝をかくんと折り、再びマットへ倒れてしまう。
 激しく呼吸をし、四つん這いとなりながらも必死に起き上がろうと努力するユカ。
 浦井はふぅと息を吐き残念そうな表情をすると、大きく足を振り上げ彼女の背中にストンピングを叩き入れ、再びマットへ這いつくばらせゴミを扱うかの如く、彼女の身体をリングの外へ蹴落とした。
 レフェリーによる場外カウントが無情にも数えられる中、青色のセーフティマット上にくの字になって倒れているユカの周りに、雑務でリング周辺に待機していた選手たちが集まり囲んだ。各自それぞれが、彼女の名を口に出して励まし奮い立たせようとするが、ただ腹を上下させて大きく呼吸するだけで、ユカからの反応は返ってこなかった。

「ユカ、もういいよ。動かないで!」

 先程まで本部席に座っていた盟友・七海が、気が付けばユカの側までやってきて彼女の身体を起こすと、自分の膝に座らせて強く抱きしめていた。七海の目からは止めどなく涙が溢れ、泣き濡れて眼球が赤く充血している。
 試合とは全く関係ない七海が、試合権利のあるユカに触れた事を問題視したレフェリーは注意しようとするが、浦井はそれを遮り事の成り行きをリング上から見守った。仮に七海がユカを無理矢理リング内に、押し戻したとしても文句は言わないつもりでいた。そうなれば戻ってきた事を心底後悔させるほど、激しい攻撃を加えてやろうと思っていたからだ。
 七海の涙交じりの呼びかけに、ようやくユカは反応した。まだ表情の固さは残るものの、それでも笑顔を七海にみせて安心させた。

「――行かなきゃ。浦井さんが待っている」

 ダメージが完全に癒えておらず、おぼつかない足取りで立ちあがりリングへ戻ろうとするユカの手を、七海は掴んで離そうとしない。

「何故? あれだけ対等に渡り合えれば、もう十分じゃない?」
「駄目よ。わたしはまだやれる、闘えるの! それに――」じっと七海の瞳を見つめ、ユカは語り続ける。

「あの人に勝ちベルトを奪取して、あなた……赤井七海という《絶対的な存在》を超えたいのよ!」

 初めて耳にするユカの「欲望」。今まで笑顔と冗談だらけの発言で決して、己の胸の内を明かす事のなかった彼女の、熱く燃える情念や自分に対する嫉妬など、見てはいけないものを目の当たりにしてしまった七海は嫌悪感よりも、親友の自分に感情を全てさらけ出してくれた事を、何よりも嬉しく思った。
 ユカの手首から、七海の手が力なく解けていく。「ごめんね」と小さく口の中で呟くとユカは、剥き出しの腿をぴしゃりと叩き気合を入れ直し、床をしっかり踏みしめて下半身に力が入る事を確認すると、ロープを握り自分の身体をリングへ滑り込ませる。
 リングの中では厳しくも――どこか安心したような表情で、浦井が腰に両手をあてて待ち構えていた。

「場外カウントは止めておいたわよ。迷惑だったかしら?」

 あくまでも己のキャラクターを崩さず、上から目線な浦井の発言にユカは思わず苦笑いする。こうでなくては面白くない!ユカは頬を数度張り気合を注入すると、大きく振りかぶって浦井の胸にチョップを叩き込んだ。強烈な音と共に、被弾した部分の肌が瞬時に真っ赤になり、抉られるような痛みが彼女の身体に走る。浦井も負けずに膝を鋭利な武器と変化させ、ユカの腹に突き刺し身を屈ませると追い撃ちとばかりに首筋へ肘を落とす。頸椎に電流が走るがユカは意地でもマットへ這いつくばろとしない、必死になって全身に力を入れ体勢を持ちこたえさせ、下から浦井を睨みつける。
 突然、互いが申し合わせたかのように、反対側のロープへ走り出した。
 どちらも反動を利してスピードを加速させ、打撃技の威力を倍増させる事を考えていたようだ。ショルダータックル合戦か、ドロップキックの相討ちか?――観客たちは定番のムーヴを予想していたが、ユカの動きは彼らの予想を遥かに超えていた。クローズラインを狙っていた浦井の胸を蹴ると、相手の補助無しにそのままバック宙したのだ。普通ならばコーナーポストで行う威嚇技の空中回転(サルト・モルタル)を、人体で行うウルトラC級の技に観客たちは信じられない!と驚嘆の声をあげ、技を受けた浦井本人も自分の身に何が起こったのか理解できずにいた。
 相手の隙を突いてユカは、顔面へめがけて打点の高いドロップキックを敢行する。思考停止して反射神経が鈍っていた浦井は、防御する事を忘れ目の高さまで舞い上がった彼女が放つ飛び蹴りを、もろに喰らいリング下まで勢いよく転がり落ちていった。
 「行くぞぉ!」リング中央で四方の観客に叫ぶとユカは、場外へ向かって駆け出していく。
 頭を振りダメージの回復に努めていた浦井は、リングの周りを照らしている照明が一瞬、暗くなった気がしたのでふと天井を見上ると、そこには鳥の翼のように大きく手を広げた、人間らしき物体が自分の方へ落下してくるのが見えた――ユカだ。彼女はリング内外を仕切るロープを階段のように駆け昇り、真上に跳び上がると眼下の敵を標的に飛び込んでいった。ユカの体重と落下で加わった重力が、衝撃となって一気に浦井の身体に襲いかかり、耐えきれない彼女は、ユカの身体もろともセーフティマットに激突してしまった。
 地鳴りのような、驚愕と歓喜の低い叫び声が会場いっぱいに響き渡り、観客ひとりひとりは目の当たりにした光景に対し、湧き上がる興奮を押さえられずに打ち震えた。
 先に起き上がったユカは、仰向けに倒れている浦井の腕を掴み、無理矢理起こすとリングの中へ身体を押し入れた。ルール上ではリングアウト勝ちでもベルトの移動はあるものの、どうしても彼女と「完全決着」を付けたいユカは敢えて危険を犯してまで、この思い切った行動に出たのだった。膝をつき、四つん這いになって呼吸を整えている浦井を、リングのエプロンステージでトップロープを固く掴み、じっと見つめ攻撃のチャンスを窺うユカ。
 リングに垂れ下がる長い黒髪を蠢かせ、浦井が顔を上げた。「今だ!」ユカは意を決してトップロープへ跳び乗り深く腰を落とす。スワンダイブ式ドロップキックを狙っている様子だ。しかしチャンスを窺っていたのはユカだけではなかった。突然浦井は立ち上がると、ユカの乗っているロープの方に向かって走り出し身体を衝突させたのだ。黒く硬いロープが前後に揺れバランスを崩した彼女は前方へ回転しマットへ落ち背中を強打してしまう。やはりユカには“メイン”という舞台は荷が重すぎたのか? キャリアも試合経験も豊富な分、浦井の方へ少しだけ有利に事が運んだようだ。
 この僅かな勝機を逃がしてはなるものかと、浦井はユカの両手首を掴むや巴投げ(モンキーフリップ)で後方へ投げ、もう一度ダメージを負わせるとすぐさま相手の腕を曲げ、自分の脚を交差させた腕の間へ通して、足四の字固めの要領で一気に締め上げた。普段は相手への屈辱と観客を煽るための「見せ技」として使用している【熟女式グラビア固め】と表される技だが、いざとなれば立派にギブアップを奪える拷問技(サブミッション)と化す。裏返った肘と肘とが重なり合い、絞り上げられる事で鋭い痛みが脳天まで突き刺さり、ユカは思わず悲鳴をあげた。
 観客たち全てが、この小さく勇敢な女闘士に声援を送る。
 リング下の七海も、エプロンステージを両手で叩いて彼女の名を叫び続けた。
 彼らの声援によって生まれた“見えない力”が、エンプティーランプの点っていたユカに注ぎ込まれた。浦井に腕を極められたまま、疲労で重くなった身体を引き摺りどうにか左足をサードロープへと乗せて、ロープエスケープに成功するのだった。そんなユカに、観客たちは「よく頑張った」と割れんばかりの拍手を送り労った。
 「そんな……」浦井がぼそりと呟いた。この技で勝負を決めるべく全身全霊を込めて放っただけに、仕留めきれず逆に逃げられたという“現実”を正直受け入れられない。浦井の気持ちがマイナスへと傾いた、僅かな瞬間を見逃さないユカではなかった。素早く彼女の腕を掴みロープへと振ると、自らも反対側へと走り加速を付けた。三本のロープを大きく揺らし、リング中央付近に浦井が返って来た所へユカは、ロンダート(側転からの1/4捻り)で高く跳び後ろ向きに彼女の肩に乗ると、右腕を持ったまま身を捻り後ろに反って宙ぶらりんになった。首に留まったままの太腿と自分の右腕が頸動脈を圧迫し、浦井の意識は次第に遠退いていく。サブミッションにはサブミッションをと、ユカもオリジナル技である【ミステリオ・ラナ式三角締め】で応戦した。
 血流が遮断され徐々に視界がぼやけていく中、浦井は残っている力を振り絞り叫び声と共に、ユカの身体を高く持ち上げ、鉄製のワイヤーが中に入っているリングを取り囲むロープへと、彼女の後頭部を強く打ち付けた。割れるような頭の痛みに、決して離すまいと必死で絞めていた太腿が外れてしまい、ユカはマットへと落下してしまう。
 双方が死力を尽くし“魂の削り合い”を繰り広げてきた結果、どちらも体力は残り僅かとなり、あとは気力と意地と見栄だけで彼女らはリングに立っていた。

 あとひとつ、大技が決まれば勝負はつく――攻守の入れ替わりが激しく息つく暇もない、最高の“王座決定戦”を本部席から見守っていた元川は、ペットボトルの水を喉へ流し込み喉の乾きを癒すと、テーブルに手を付いて身を乗り出し、リング上でどちらが勝負の女神から寵愛を受けるのか注目した。

 浦井はユカの背後を素早く取ると、腰に腕を廻し後方へのスープレックスを狙い持ち上げる。しかしこれを読んでいたユカは足をばたばたとさせ重心をかけ、絶対に投げられまいと必死になってこれをディフェンスする。力を入れ過ぎた浦井の手が一瞬緩むやこの期を逃すまいと、今度はユカが背後に回った。同じく彼女もスープレックス狙いだったが、これも肘打ちによる抵抗により不発に終わっってしまう。最後のチャンスを掴むべく浦井は、ユカの足を踵で踏みつけ隙を作ると再度バックに回った。

 ――今度こそ、今度こそは絶対に。

 呪文を唱えるように、ひとり口の中で浦井は呟いた。何をしても、どんなに攻撃を加えても次には必ず立ち上がり反撃をしてくる《小野坂ユカ》というレスラーにどうしても勝って、彼女ら東都女子プロレスの選手たちが渇望する《団体の象徴》POM王座を手中に収めたいという、その一念が浦井を突き動かしていた。マットを踏みしめる両足に力を込め、胴に回した腕をしっかりと握り直し再びユカを持ち上げる――だが腕に重量が掛かるだけで彼女の身体は一向に上がる気配がない。ユカは浦井の脚に自分の脚を絡め、投げられないように防御していたのだ。
 自分の胴を掴んで離さない、浦井の腕を強引に剥がすとユカは素早く体を廻し、彼女と正面に向き合った。突然の事で何がどうなっているのか状況が理解できず、混乱気味の浦井の脇に頭を入れ両腕を胴体ごとしっかりとホールドすると、ユカは低い軌道を描いて彼女ごとブリッジをする。北斗原爆固め(ノーザンライト・スープレックス)が決まったのだ。両腕を固められており受身を取る事が出来ず、浦井は頭からマットに突き刺さった。レフェリーがマットを叩きフォールカウントを数える声がぼんやりと耳に入る中、彼女はどうにかして肩を上げこれを停止させたかったが、マットにめり込んだ首から身体中に広がるダメージが酷く、もう指一本すら動かす事も出来なかった。三つ目のカウントを叩き終えた瞬間――小野坂ユカは遂にこの試合の勝者となった!
 観客たちの祝福の歓声と拍手が一斉に、リング上で膝をついて呆然としているユカに贈られた。大の字になって側で寝そべっている浦井の姿と、お客さんからの祝福の声を耳にした事で彼女は、やっと「自分が勝ったのだ」と実感しユカは、拳を握りしめた両腕を天に突出して、観客たち全員に歓びの感情を表現するとその瞬間、会場は今夜一番であろう凄ましい程の湧きあがり方をみせた。彼女は敬愛する先輩・浦井冨美佳に勝てた事の喜びと、他団体へ王座を流出させる事無く自らが奪い取り、そして無事東都女子の至宝を守り抜いたという安堵感で胸がいっぱいになっていた。
 改めてレフェリーから勝ち名乗りを受けた後、ユカは団体代表の元川から《至宝》メトロポリタン王座のベルトを授与された。親友・赤井七海の腰で輝いていたこの《エースの証》をずっと隣で、またはリングの下で羨望の眼差しで見つめていた彼女にとって念願の戴冠だ。これまで自由奔放な性格ゆえ《エースの責任》という重圧を押しつけられるのを恐れ、しっかり者の七海に任せっぱなしだったが今では違う。団体の危機を目の当たりにし覚悟と責任が芽生えたユカにはもう怖いものなどなかった。

「悔しいけど――最高にカッコいいよ、ユカちゃん」

 浦井が握手を求め手を差し出す。結果には若干悔いが残るものの、試合内容には大変満足しておりその表情は晴れ晴れとしていた。ユカは彼女からの握手の申し出を受け、両手で握ると深々と頭を下げ感謝の意を表した。実は彼女の目には感謝と感激の涙が浮かんでおり、浦井に見られるのが恥ずかしく顔を上げられないのだ。

「ありがとうございます。浦井さんが対戦相手で本当良かったです!」

 涙声で感謝の弁を述べるとユカは浦井に抱きついた。環境の変化で変化せざるを得なかったユカの、浦井に対する“気持ち”は根っこの部分では全く変わっておらず、彼女の体温を直に感じた瞬間三年前の、団体旗揚げに向けてみんなが切磋琢磨していたあの頃の自分に還ってしまうのだった。それは浦井も同じで、試合中はどうしても倒したい好敵手ライバルだった彼女が今では、デビューを夢見て自分の後を付いて回っていた可愛い後輩に戻っていた。そして誰かひとり自分の側にいない事に気が付く――七海だ。彼女は親友の勝利の瞬間、祝福をしようと無意識にリングに上がってきたが、浦井とふたりで健闘を讃えあっているのを見て声を掛けるタイミングを失い、リングの中をうろうろと歩き回っていたのだった。

「七海――」

 そんな彼女にユカは声をかけ手を握る。

「ここでいうのはちょっと照れくさいけど……ありがとう、応援してくれて」
「親友でしょ、あたりまえじゃない。それに今のユカ、何だか別人に見えるよ?」
「今だけだよ――明日になればまた普段のわたしに戻るわ」

 ユカは自分の元へ、七海を手繰り寄せると感謝のハグをした。なかなか“男前”な行動だがふたりの身長差が妙な違和感を生み出し何処か可笑しい。そして彼女は何も言わず、掴んだ手をそのまま浦井へと渡した。七海は無言になり表情に緊張が走る。今まで嫌いだ、許さないと言ってきた相手を目の前にし、恐怖と嫌悪が入り混じる複雑な感情が彼女の心を支配する――しかし初めて彼女に本音をぶつけ“対等”に向き合えた今日、そんな“負の感情”は以前よりもずっと薄まった感じがした。元の関係に戻るまであと一歩だ。

「七海……昨日はごめんね、感情的になって私が上手く試合をリードしてあげられなくて。そして、これまで東都女子を支えてくれて本当にありがとう」 

 浦井からの謝罪と感謝の言葉――彼女が退団した後も、この狭い業界内で顔を合わせる機会は幾度とあった。しかし頑なにそれを拒み続けていた七海だったが、「あの頃」のようなリラックスした雰囲気で彼女から直接言葉をかけられ、長年自分の心を縛り付けていた不信感が音を立てて瓦解する。
 七海は浦井の胸に顔を埋め号泣した。思いの丈を言葉にしようとするが口が上手く動かず、ただ泣き続けるばかりの彼女を浦井は、かつての“長女”の役目として黙って抱きしめた。これこそが最高のハッピーエンドじゃないか!――ユカは抱き合うふたりを間近で見ながらそう思った。

「何だか、旗揚げ当時に戻った感じだな?ユカ。さて、僕も冨美佳と――」
「元川さんはダメだと思いますよ」
「そうかぁ……残念だ」

 ユカと近寄ってきた元川とが談笑する。観客たちが一部始終を見ている事もすっかり忘れ、リング上は和やかな雰囲気に包まれていた。自分たちは蚊帳の外であるにも拘わらず、東都女子の現役選手とOGによる謝罪と修復のドラマを目の当たりにできた彼らはそれでも満足だった。
 浦井にチャンピオンベルトを締めてもらい、七海が肩車でユカの身体を担ぎ上げてリング上をひと回りし、会場にいるひとりひとりに《新チャンピオン》のお披露目をする。東都女子と浦井との関係が最悪だといわれていた頃には、とても想像できなかった光景がいま観客たちの目の前に広がっているのだ。
 親友でライバルの七海は、必ず彼女のタイトルに挑戦してくるはずだ。
 浦井だってこのまま負けっぱなしで終わるとは思えない。
 小野坂ユカはこの先に待ち構えているであろう、更に激しくなる闘いに胸躍らせるのであった。この試合で新たに芽生えたエースとしての誇りと責任を胸に抱いて――

 終

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【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら?~中篇~

2017年05月18日 | Novel

 一週間後――
 試合は既に終了したにも拘わらず、怒り冷めやまぬ観客から発せられる、失望と落胆の怒号がいつまでも止まない《東都女子プロレス旗揚げ三周年記念大会》会場の、選手控室はまるで通夜のように重い空気が漂っていた。闘い終えたばかりの赤井七海は顔に手を当て、声を殺しながらずっと泣いたままで選手たちは誰ひとり声を掛けられず、彼女を囲むように距離を置き、下を向いて呆然と立ち尽くしていた。いつもはどんな事があっても努めて明るく振る舞っているユカでさえも、口を震わせて泣く大親友に冗談など言えるわけもなく、ただ側に寄り添い優しく肩を抱いて、彼女の気持ちを落ち着かせようとするのが精一杯だった。
 この日のメインエベントは東都女子のエースである七海と、約三年ぶりに古巣に“里帰り”した元エース浦井との《遺恨清算マッチ》と銘打たれた三十分一本勝負のシングル戦で、積年の恨みを晴らそうと七海は相当に気張っていた。対する浦井も、彼女の想いを理解し場の空気を読んでいれば、熱の入った激しい試合になる――はずであったがそうはならなかった。
 浦井は序盤から七海の、怒りのこもった激しい攻撃に一切付き合う事なく、ことごとくスルーし彼女や観客たちを苛立たせた。

「何やってるんだ、赤井!」「浦井、ちゃんと試合しろ!」

 セミファイナルまではユカや他の選手たちの頑張りもあり好勝負が続き、メインに向けて観客たちの興奮も上がりっぱなしだった会場だったが、開始五分も経過しない内に場内の空気が急に冷めていくのが分かった。この日の観客は、過去と現在のエースによる激しいぶつかり合いや意地の張り合い、願わくばふたりの“和解”までを期待していたのだが、一方的に浦井が七海の代名詞である打撃技を避けまくり、時折帳尻合わせとばかりに組み合うもののそれ以上の進展はなく、無駄な時間が刻々と過ぎていくだけだった。一方的な七海の熱い想いとは裏腹に、極力彼女との接触を避けまくり“逃げ”のレスリングに終始する浦井――視察に来たオーナー他役員たちは三周年記念興行の目玉として、大きな期待をもって招聘した彼女の、あまりの身勝手さに頭を抱えるしかなかった。結局試合は残り時間が僅かに迫った所で、神経をすり減らしすっかり集中力の落ちた七海を、いとも簡単に丸め込みスリーカウントを奪って試合終了とした。
 結局七海は、必殺技の二段回転蹴りはもちろん、尻餅(シットダウン)式パイルドライバーであるファルコンアローも一度たりとも出せず、只々退屈なだけの試合に観客たちは当然怒り狂った。怒りの捌け口を求めて投げるごみがリング上を飛び交う中、力なく若手に肩を担がれ退場していく七海を尻目に、満足そうに薄笑いを浮かべる浦井は、リングの中央で大きく両手を広げその存在を誇示するものの、誰のひとりも彼女を支持する者などいなかった。堕ちた女王――彼らはこう呼んで元エースを罵った。

 いつもは女子選手たちを憚って、滅多に控室へ入る事をしない元川も、七海の様子をスタッフから聞いて慌てて駆け付けた。

「ちくしょう、こんな事になるのが分かっていながら……すまない、僕にオーナーや役員たちを説き伏せるだけの力が無かったばかりにっ!」

 いつまでも下を向いてすすり泣く七海を前にして、膝を折り床に頭を擦りつけんばかりに謝る元川。こんな重苦しい試合後の控室は初めてだ――ユカには大親友と信頼する“仲間”が沈んだ顔で、ネガティブな修羅場と化したこの場の空気にとても耐えられなかった。彼女はリングコスチュームを着たまま控室を飛び出し、自然と足は会場地下の駐車場へと向かっていた。確証はなかったがまだこの場所に浦井冨美佳がいる、そんな気がしたのだ。どうしても彼女にひと言文句が言いたいユカは、埃と排気ガスの残り香が漂う地下駐車場を隈なく捜してみた。
 浦井はすぐに見つかった――彼女は、退団後新たに立ち上げた自身の団体の、男性スタッフに誘導されながら、エンジンをかけて待機する黒色のワゴン車へと向かう最中だった。

「こんな試合で満足ですか、浦井さんっ!」

 約百メートルも離れた場所から、ユカは腹の底から思いっきり叫んだ。自分の名を呼ぶ声に気付いた浦井は、ふと足を止める。そしてユカの姿を見つけると試合後から、ずっと硬かった表情を崩しリラックスした表情で笑みを浮かべた。それは相手を小馬鹿にしたような嘲笑ではない、懐かしさから出た自然な笑顔だった。

「――久しぶりね、ユカちゃん」

 移動を促す複数の男性スタッフを制し、浦井はコスチューム姿のユカに話しかける。怒りで頭に血が上っていた彼女だったが、大先輩に声を掛けられた途端に気持ちは過去の自分に戻ってしまい、思わず会釈をしてしまう。団体と親友に対する“仕打ち”には心底腹が立ってはいるが、「浦井冨美佳」個人に対してユカは七海や元川のように、「顔も見たくない」ほど嫌悪しているわけではないのだ。

「ご無沙汰しています。だけどわたし今、穏やかに話せる状態じゃないですよ?」
「知ってる。だけど逢えて嬉しいわ――これは私の嘘偽りのない気持ちよ」

 ふたりの間にはかなりの距離はあるが、彼女たちの意識の中では無いに等しく、互いの感情が直接心にびんびんと伝わってくる。

「七海の……七海の気持ちを踏みにじるような試合を何故? あれじゃお客さんだって納得いかないですよ!」

 しばらく浦井は、銀色のダクトが縫うように走るコンクリートの天井を仰ぎ、ユカへの返答をいろいろと頭の中で探し出してみる。

「確かに七海はいいレスラーになったわ。だけど私だって“殺る気満々”な相手に付き合う程馬鹿じゃない。ぼろぼろになってひと時の名声を貰うよりも、貶されても次もその次も試合に出られる方を、私は選んたのよ――間違ってるかしら?」

 浦井の出した答えは、プロレスラーとして至極当然な発言だ――ユカは思った。だからといってキャリアも技術のある彼女の事、もう少し《試合》として成立させる術があったのではないか? 全部が七海のせいにされてしまっては、親友として納得がいかない。

「分かります……だからって仮にも“プロ”を名乗る以上、もう少し違った方法があったんじゃないんですか?」
「笑わせないでよ。わたしは高額のギャラを頂いた見返りとして、ここのリングに上がっただけの事。それだけでも“プロフェッショナル”の義務は十分に果たせたんじゃなくて?」

 まるで、リングに登場するまでが今日の“仕事”で、後は相手任せのような言いぶりにユカは遂に怒り出した。

「……そうやっていつも自分の事だけ考えて、周りの事なんて一切気にしない。みんながどれだけ浦井さんに振り回され、苦労させられてると思ってるんですかっ! わたし、あなたの事絶対に許せませんっ!」
「へぇ、じゃあどうしてくれるっていうの? 《旗揚げ三周年記念大会》はあと一戦残っているわ。今日の敗戦ですっかり心の折れた甘ちゃんを、また私にぶつけるつもり? それとも――」

 会話の途中で、それまでじっと待機していた男性スタッフが、助け舟を渡すかのように彼女に急いで車へ乗るよう催促する。クラクションを何度も鳴らして急かす車の方へ、やや強引に連行され離れていく浦井の後ろ姿に、ユカは構わず叫び続けた。彼女が聞いていてもいなくても知った事ではない。今ここで自分の“意見”を伝えなければ後悔すると思ったからだ。

「わたしが浦井さんと闘いますっ! まだ《格》じゃないかもしれないけど……愛する団体が舐められたままで終わりたくないっ!」

 叫ぶユカの目は少し潤んでいた。自分の本心を曝け出す事が怖かったのかもしれない。しかしその“心の叫び”は浦井の耳に十分届いたようで、取り囲む男性スタッフたちの隙間から覗く、彼女の顔はどこか嬉しそうで、それまで表に立つ事を極力避け、自分の“欲”など二の次だったユカの、初めての“自己主張”に喜んでいるかに見えた。
 浦井の乗せた車が排気ガスを吹かせ走り去っていく音が駐車場から、完全に聞こえなくなるまでユカは、その場で呆然と立ち尽くしていた―― 

「もし七海が、このショックから立ち直れない場合、明日のタイトルマッチは中止するしか――」

 《旗揚げ三周年記念大会》第二戦では、現在チャンピオンである赤井七海の持つ、東都女子プロレス認定のプリンセス・オブ・メトロポリタン(POM)王座を懸けて、浦井冨美佳とのタイトルマッチが組まれていた。自団体の看板を懸けて闘う、という只でさえプレッシャーの掛かる試合は“団体”としても危険であるが、何よりも今日の“失態”で観客の前で闘う事に、自信を失いかけている七海が昨日の今日で普段通りのファイトを見せてくれるとは、元川には到底思えないのだ。《プロレスラー》のプライドで「絶対にタイトルマッチは行う」と、間違いなく彼女は言い出すだろう。しかし団体の長としてタイトルよりも何よりも、七海を守ってやる事が最も重要である――彼はそう決めた。覚悟を決めて、虚ろな目をして首を垂れたままの七海にその旨を伝えようとした瞬間、吹き飛ばさんばかりの勢いで控室の扉を開けてユカが入ってきた。

「待って、元川さんっ!」

 控室にいる全員が、一斉にユカの方を向く。

「ユカ? 今までどこへ行って――」

 元川は彼女に尋ねようとするが、手を前にかざしてそれを強く拒否するユカ。

「タイトル戦中止だけは止めてください。これ以上お客さんの期待を裏切れば、取り返しのつかない事になるわ」
「しかし、七海の事を考えればとても闘える状態じゃ」
「わかってます。七海は闘わなくていいんです」
「……どういう事だ?」

 ユカの発言が理解できない元川や、七海の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。

「七海がベルトを一旦返上して、《王座決定戦》を行えばいいんですよ!」

 その発想は頭になかった―― 元川はなるほど!とばかりに手を打った。これなら無理をしてまで七海を、もう一度浦井冨美佳と闘わせなくても済む。しかし問題は、七海に匹敵する程の実力を持つ選手が東都女子に存在するかだった。実力の見合わない選手が決定戦に出場した場合、それもまた非難の対象となってしまう恐れがある、と元川は考えていた。

「いい《代案》だと思う……だが、誰が浦井と闘うというんだい?」
「わたしです!」 

 不安げな彼の質問を、ずばっと断ち切るように即答したユカの瞳には、自信だけが満ち溢れ迷いなど一切ない――団体を背負って闘う覚悟を決めた彼女の、全身から漂う威圧感に元川は思わず腰が引けてしまうと同時に、遂に覚醒した《実力者》小野坂ユカをこれほど頼もしく思った事はなかった。彼は意志確認の為、もう一度彼女に問うてみる。

「本気なんだな、ユカ?」
「やります! 絶対勝ちますっ!」

 ユカの揺るぎない意志に、満足そうに口角を吊りあげ微笑む元川。
 バシッ!
 突然、ユカの頬に張り手が飛んできた。それまでずっと沈黙していた七海が、彼女の発言を聞いた途端咄嗟に反応したのだ。平手打ちの乾いた音がまだ耳に残る中、再び場の空気が凍りつく。

「――遅い、覚悟を決めるのが遅すぎるよ。いつだってユカはそう」

 目を見張り顔を強張らせたまま、暫く睨み合うふたり。だがすぐに七海の方が先に表情を崩し、目に涙を溜め再び泣き顔へと変化させた。それはさっきまでの悔し涙ではなく、ユカに対しての感激と感謝の嬉し涙であった。

「ごめん七海……あの時の約束、いま果たすよ」
「うん。明日の王座決定戦、必ず勝ってね。東都女子のため――ううん、私のために」

 自分よりも小さなユカに、大きな身体を折り曲げ彼女の胸に顔を埋める七海。ユカは上を向いたままで、一向に彼女の顔を見られずにいた。それは今下を向くと絶対に、大粒の涙がこぼれ落ちそうだったからだ。

 東都女子プロレスはこの日の夜、公式ホームページ及びSNS上にて「赤井七海が怪我の為、本人の申し出によりPOM王座を返上し、当初予定されていた防衛戦を中止。代わりに浦井冨美佳と小野坂ユカのふたりによる王座決定戦を行う」と発表した。

 普段であれば、誰もいないはずの真夜中の道場。
 昼間はうら若き所属選手たちの、活気に満ちた声でいっぱいなこの場所も、道場外の廊下に設置されている自動販売機のモーター音だけが響き渡るだけ――明日の王座戦を前に、神経が高ぶってなかなか眠れないユカは気持ちを落ち着かせるべく、ひとりこの場所にやってきたのだった。
 彼女はリングの上にのぼり、紫色をした東都女子のジャージの上着を脱いだ。そして黒のショートタンクトップ一枚になると、普段のイメージとは大きくかけ離れた、厚みのある「プロレスラーの証」ともいうべき、筋肉で覆われた身体が現れる。日ごろの鍛錬で作られたその鋼の肉体はユカの、プロレスラーとしての誇りをひと目で表していた。
 彼女はふぅと息を吐くと、おもむろにリングに向かって垂直に前方回転した。背中とマットが接触するとリングは揺れ、大きな音を道場内に響かせる。間髪入れず続いて後方や時には捻りを加えたりと様々な入り方で何度も受身(バンプ)を取った。どんな体勢から投げられ落とされても、肉体への負担を最小限に抑え怪我を防ぐために、プロレスラーにとって受身の習得は重要視される。特に身体の小さなユカにとっては、周りのほとんどの選手が自分より身長が高く、怪我をするリスクが最初から大きかったので、自分の身を護ると共に相手から受ける技の衝撃を、見た目と音で試合会場にいる隅々の観客に分からせる受身は絶対に必要だった。そしてユカは最後の仕上げとばかりにコーナーポストへ駆け上がり、リングの中央へ目掛けてふわりと前転ダイブした。水平に落下した身体がリングに沈むと、自分ひとりしかいない道場に今夜一番大きな衝撃音を響き渡らせる。

 はぁ、はぁ、はぁ……

 裸の腹を上下させ、LED照明が取り付けられている天井を仰ぎ見たまま、ユカはマットの上で大の字に寝そべっていた。そして瞳の中では、かつての先輩である浦井との、練習中でのやり取りがリプレイされていた――

 それはユカが東都女子の旗揚げ前、“エース”浦井冨美佳をコーチに自分や七海を含めた練習生たちが、デビューに向けてトレーニングを受けていた時期。初めてコーナーからの前方受身が成功した時の事だった。

「痛かった、ユカちゃん?」

 マットに着地し寝たままのユカに向かって、浦井が声を掛けた。コーナーポストのあまりの高さに、落ちるのを何度も躊躇し、決心するまでかなりの時間が経過した後のチャレンジで、身体に伝わる衝撃の強さに目を丸くするユカ。

「痛かった……というよりビックリしました」
「よしよし。これがスムーズに出来るようになれば、すぐにでもお金を取れるようになるからね」

 浦井はユカをマットから立たせ、背中を優しくさすって激励する。ユカはそんな彼女の心遣いがとても嬉しかった。普通ならスター選手であれば後輩など――ましては入門したての練習生には自分の威厳を誇示するため厳しく接するものだが、浦井に限っていえはそれはなかった。それは彼女自身の人柄なのかもしれないが、昔ながらの“師従関係”ではなく“トレーナーと生徒”という、結びつきがそれほど深くない関係を、新しく入門した女の子たちに望んでいるようだった。
 
「浦井さん。どうして七海たちにはもう技を教えているのに、いつまでもわたしだけ受身や、マットレスリングの基礎ばかりを指導するんですか?」

 別の場所では同期入門の七海や他の子たちが、別のトレーナーから本格的にプロレス技の指導を受けているのを見て、ユカは恐る恐る浦井に尋ねてみた。もしかしたら怒られるかもしれない――そう思っていたが浦井はその理由を分かりやすく彼女に説いてみせた。

「小さい子は小さいなりのレスリングをしないと、せっかくの個性が埋没しちゃうからね。じゃあ聞くけど、同じだけの格闘スキルを持った大柄の選手と小柄な選手、予備知識なしに見てどちらが強そうに見える?」
「お、大きい方です……」
「そうよね。仮に相手がデクの棒でもそう見えちゃうよね? だから小さい方は大柄の選手と同じ事をやっちゃダメだと思うの、身体の大きさの違いで“表現”も変えなくちゃね。だから小さい選手はいっぱい動いて相手の技をいっぱい受けて、自分という存在をお客さんの目に止まらせる。これが理想よね」

 浦井が身振り手振りを交えて語る、彼女自身の考えるプロレスリング理念に、ユカは次第に引き込まれていく。

「それには、どんな攻撃にも耐えきれる受身の習得は必須科目だし、関節技を中心としたマットレスリングは“自分が一番強い”と勘違いして、舐めてかかる相手のために覚えておいた方がいい。試合ごとによって戦士(ウォリアー)と道化(クラウン)の顔を巧みに使い分けられる選手こそ、最も理想的なプロレスラーだと私は考えているの――その才能のあるユカちゃんにはそれが出来ると信じてる。迷惑だったかしら?」

 ユカには断る理由なんてなかった。たとえそれが嘘でも“雲の上の存在”であるスター選手が、自分の事を気に掛けてくれている、いう事が堪らなく嬉しかった。彼女は以後しばらく――浦井が自己都合で退団するまでの僅かの間、全体練習が終わった後にマンツーマンで、プロレスリングのイロハを教わったのだった。
 この浦井による《プロレス教室》は実際デビューした時に大変役に立ったし、彼女が去った東都女子で残った若手同士やロートル選手を相手に、退団前と変わらず熱の入った試合を観客に見せる事が出来たのは、全て浦井の教えのおかげだった。だから今でも彼女の事は元川や七海とは違い、心底嫌いになれずにいる。

「――それでね、さんざん〝小さい、小さい”って馬鹿にしてた相手をボコボコにした後、上から見下ろしてユカちゃんはこう言ってやるの、“小さいだけじゃダメかしら?”って。これはウケるよ~!」

 そういって笑っていた、かつての浦井の顔が未だに脳裏に焼き付いて離れない――

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【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら?~前篇~

2017年05月10日 | Novel

 小野坂(おのさか)ユカはふわりと宙に舞った――

 自分よりも倍以上あろう体躯を持った対戦相手から、重量感のあるタックルを真正面で喰らった彼女は、まるで交通事故の如く軽々と吹き飛ばされたのだ。リングの四方からその“惨劇”を目撃した観客たちは、その「飛びっぷり」の良さに驚きの声をあげる。まだ二試合目だというのに、三百人も入れば超満員マークの付く小さな公営体育館では、大柄の対戦相手よりも小さいながらも技の受けっぷりがよい、女子プロレスラー・ユカへ注目が集まり、既に熱狂の渦に包まれていた。
 ユカは歯を食いしばりふらふらと立ち上がると、壁の如く立ち塞がる目の前の敵に向かって、ありったけの力を込めエルボーバットを何度も叩き込んだ。肘を相手の胸元へ打つ度に彼女の、脱色したショートヘアーが実年齢よりも幼い顔を隠すほど大きく揺れ、その小さな身体からは信じられない程強い“圧力”に対戦相手は、圧倒されてしまいポジションをじりじりと後退させていった。
 「頑張れ!」「攻めろ!」叫ぶような観客たちの声援がユカに集中する。
 いける!と踏んだ彼女は大きく叫び気合を入れると、自ら反対側のロープへ向かい走り出す。背中全体で硬いロープを受けて反動をつけスピードアップさせ、敵の顎へ目掛け“肘爆弾”を叩きつけるべく腕をフルスイングさせた。だがこのユカの攻撃を既に読んでいた相手は、身を屈めて難なく回避すると今度は自分がロープへと走りリバウンドした後、一撃必殺のクローズラインを逆に彼女の喉元へヒットさせる。
 加速プラス、ウェイトの十分に乗った相手選手の攻撃を、再び喰らったユカの身体は、着衣しているコスチュームに附属するフリルを波打たせて木の葉のように回転し――そのまま頭からマットへ落下した。意識が朦朧とする中、自分の上半身にずっしりと重くのし掛かる、対戦相手の体重を感じながらユカは肩を上げることも出来ずに、黙って敗北へのスリーカウントを聞くのであった。

 今夜の大会も何のトラブルもなく無事に終了し、決して大きくはない会場内の控室では、帰り支度をする選手たちで一杯になっていた。リング上を彩っていた窮屈なコスチュームも脱ぎ、すっかりリラックスした彼女たちは下着姿である事も気にせず、まるで修学旅行での旅館のように騒ぎながら、シャワーの順番待ちや差し入れのつまみ食い、そしてスマートフォンを使ってのツイッターやブログ更新の《情報発信》など個々に忙しく活動している。控室の外では唯一の男性である団体代表の元川瑛二(もとかわえいじ)が中にも入れず、廊下に掛かっている壁時計を見ながら泣き顔で、迫る体育館の撤収時間を気にしていた。

「ユカさん、今日はありがとうございました」

 薄い青色の下着姿のままくつろいでいたユカに、大柄の女性が礼儀正しく挨拶をする――先ほどの対戦相手だった。どうやら彼女はユカの後輩らしく、リング上ではあれほどパワフルなファイトを見せていたにもかかわらず、第三者からは見えない“上下関係”の壁なのか、身体を縮ませてユカに接している姿が何だか可笑しい。

「今日のファイトも最高だったね! この調子で臆せずどんどんいけばきっとすぐトップを張れるよ、わたしが保証するって!」

 数分前に自分を“負かした”相手だというのに、ユカはそんな事も関係なく目の前の後輩を褒め称え励ます。彼女にとっては勝ち負けなどは大した問題ではなく、自分たちの試合を見て、会場にいる観客が喜んでいるかどうかの方に関心があるのだ。

「ほらぁ、みんな早く着替えて着替えて! 遅くなると追加使用料が発生するから、外で待ってる元川さん涙目だよぉ!」
 
 控室中に響き渡るほど大きく掌を打って、遅々として進まない帰り支度を催促するのは、本日の興行でもメインを務め上げたこの団体のエースである《レッド・ストライカー》赤井七海(あかい ななみ)だ。170㎝近い高身長という恵まれた身体に加え、格闘技の経験もあり正に《女子プロレスラー》になるべくしてなった“逸材”である。ここにいる他の誰よりも、選手歴の長い七海の言葉に誰も反論するわけはなく、皆スイッチが入ったようにてきぱきと身支度のスピードを早めだした。

「ユカ、あんたも急ぐの! みんなより年上なのにいつも一番遅いんだから全く」

 急に“お小言”が自分の方に向いてきて、すっかり意表を突かれたユカは長椅子から立ち上がると、急いでTシャツを羽織りだした――七海の話はまだ終わらない。

「それで支度が終わったら、いつもの店で集合ね。待ってるから」

 そう言い終えると彼女は足早に控室を後にする。ひとり残されたユカは七海の去った方向を見つめたまま、黙々と着替えを進めるのであった。

 「三ツ星」「行列のできる」という女子受けしそうなキーワードとは縁遠い、何の変哲もないごく在り来たりな、商業ビルの一階に設置されている古ぼけた小さなレストラン――ここが彼女たちふたりの“集合場所”だ。団体が管理する彼女らの住む選手寮から一番近く、あまりお金の無かった練習生の頃から、自由に使えるお金がちょっとだけ増えた現在に至るまで事あるごとに利用する、地方出身者であるふたりにとっては《実家》のような安心感のある店なのだった。 
 最寄りのバス停から走ってきたのか、息を切らせてユカが入店すると壁側の一番隅っこの席に座っていた七海が、大きく手を振って彼女を呼んだ。

「お疲れぇユカ。ささ、水でも飲んで」

 差し出されたコップ一杯の水を、ユカは立ったまま一気に飲み干すと、ふぅ~っと大きく息をつき七海の正面の席へ座った。ふたりの顔に笑顔が宿る。
 頃合いを見計らってテーブルに料理が並べられていく。七海は大根おろしが雪のように肉の表面を覆う和風ハンバーグ、ユカは具が大きなビーフシチューだ。料理から発生する熱と匂いが試合後でお腹の空いた彼女たちの食欲をそそる。欲に負けたユカは備え付けのロールパンを少し千切ると、熱々のシチューに浸し口いっぱいに頬張った。シチューに溶け込んだ牛肉の旨みが、口から鼻へと抜け彼女は幸福感に浸る――と同時に、急いで口に入れた為に料理の熱で、少し舌を火傷してしまった。

「バカね、急いで食べるからよ。水いる?」

 七海から渡された水を飲み口の中を冷やすユカ。ころころと変わる彼女の表情を見ていると、同期であり親友である七海はいつも癒されるのであった。

「七海、今日もメインご苦労様」
「いやね、ユカがしっかりと身体を張ってお客を沸かせているからこそ、こんな私でもどうにかカッコついてるのよ。礼を言うのはこっちよ」

 謙遜し合うふたり。それはお互いが真にそう思っているからこそ、自然と口から感謝の言葉が出る。「私が一番」な個人主義的なレスラーの多いなか、彼女たちのような《立場》に対して欲がない選手というのは珍しいかもしれない。それはふたりが必死になって、ゼロの状態から団体を盛り立てていったから他ならない。
 メジャー団体を退団した元スター選手を担ぎ出して旗揚げした、ふたりが所属する団体《東都女子プロレスリング》だったが、数カ月も経たないうちに「方向性の違い」を理由に彼女ほか数名のスタッフが離脱、最大の《目玉商品》を失った団体はいきなりピンチを迎えてしまう。そこでデビューして間もないユカと七海はいろんな団体へ《出稼ぎ》を行い、そこでふたりは闘ったり組んだりして自団体の知名度と自分たちの《商品価値》を高めていき、「半年で潰れる」と揶揄されていた東都女子もなんとか三年目を迎え、ようやく彼女たちの頑張りが女子プロレスファンの間にも認められ、団体にも固定客が付くようになったのだ。

「ただね――ユカの“本当の”実力も、そろそろ見せていい頃じゃないかと思うの。いつもいつも有望な選手の“引き立て役”やコミカル路線ばかりで本当に満足?」

 今夜初めて見せる七海の浮かない表情。彼女とは長い付き合いだからこそ、自ら進んでやっているとはいえ、現在のユカのポジションにはあまり納得がいかない様子だ。彼女の繰り広げるコミカルな試合は決して嫌いではない。生真面目な自分には出来ないからこそ、彼女に尊敬の念を抱いてもいる。だからその情熱を少しだけ、トップ盗りにも向けて欲しいなぁと七海は思うのである。

「うん? 楽しいよ。下の子がどんどん試合数を重ねて上手くなっていく姿を見てるとね、こっちもすごくやりがいを感じるんだ。トップに上がりたくないわけじゃないけど、小っこいのが団体のチャンピオンってカッコつかないじゃない? 在るべき人が在るべきポジションに付く。それが筋ってもんでしょ」

 しかし何度説得してもいつもユカの“答え”は同じ。欲が無いのか自信が無いのか、東都女子の“広告塔”には喜んでなれども、看板を背負う気などこれっぽっちも無いようだ。

「でも、もし七海がピンチになった時――その時は“助太刀”させてもらうから、それまでエースのお努め頑張ってね」 
「また調子のいい事を……本気にしちゃうわよ?」

 一瞬だけ真剣な表情に変わった彼女に、七海は淡い期待を寄せてみた。だがユカはやっぱり楽天家のままだった。

「いいよ。下の子が伸びてきたらその子に全部任せちゃうから」
「もーっ、そうやって責任から逃れようとする!」

 したり顔のユカを前に、七海は呆れて笑い出してしまった。だけどちゃんと分かっている、決して彼女は逃げたりはしない事を。それは長年の付き合いと実際に、練習や試合で肌を合わせた彼女だけが持てる“自信”だった。
 ふたりだけの楽しい夕食会は、料理の皿が空になっても一向に終る気配は無かった――


 東都女子の道場には、大きな悲鳴が響き渡った。
 「何事か?」と遠巻きに恐る恐る見つめる者もいれば、「あぁ、またか」と“惨状”を知っていても見向きすらしない者もいる。両極端な態度の違いがそのまま、この団体におけるキャリアの差となっているのだった。フロアの真ん中付近に設置されているリングの上では、寝技中心のスパーリングが延々と行われていた。悲鳴を上げたのはデビューを目指している練習生で、上げさせているのはあの小野坂ユカだ。まだ線が細いとはいえ長身の彼女を、いとも簡単にテイクダウンさせ、押え込み動けなくして関節を決める一連の動作には、一切の無駄がなく美しくすら感じる。スパーリングが開始されてからまだ三分も経たないうちに、練習生の彼女は既に汗まみれで疲労困憊となっているのに対し、ユカの顔にはまだまだ余裕の笑顔が浮かんでいた。マットレスリングの強さ――これが《能天気ダイナマイト》小野坂ユカの隠し持っている“実力”だった。

「わかったでしょ? レスリングの強さは身体の大小に関係ないって事を――ユカもそろそろ止めてあげなって、大人げないわよ」

 リングに上がり両者を分ける七海。手も足も出せないまま、ひたすらユカの餌食となっていた練習生は、体力を奪われてしまい「稽古」を付けてもらった礼も言えず、どうにか頭だけ下げると同じ年頃の子に肩を借りてリングを降りて行った。いつも笑顔で誰とでも公平に接している彼女なだけに、この「もうひとつの顔」は入門して間もない練習生にすれば“恐怖”以外何物でもないだろう。“遊び相手”がいなくなり、リングを囲む黒いロープを蹴ってつまらなそうにしているユカに、七海が声を掛けた。

「私で良ければ相手になるわよ、どう?」

 彼女の提案を聞いた途端、ぱあっとユカの表情が明るくなる。

「うん、やろうやろう!」

 余程嬉しかったのか、茶髪のショートヘアを浮かせて跳ね回る元気娘。そんな彼女を正面にして、拳を軽く握りアップライトで構える七海。道場内に緊張感が走り、各々練習していた他の選手や練習生たちがリングを囲むように集まった。
 七海の隙のない立ち姿に、興奮を隠せないユカはぺろりと舌を出すと、低い姿勢で彼女の周りを移動しテイクダウンを奪おうと隙を窺った。対する七海も縦に横にとフットワークを使いながら、時折蹴りを出し威嚇してユカを自分の間合いへ入れないようにする。
 突然、それまで細かく動いていたユカが仰向けになって寝転がった。驚いた七海の足が一瞬止まると、ユカの脚が下から這い上がるように絡みつき、気が付けばマットに倒されていた。そのままユカは相手の足を脇に挟み固めると、関節が曲がらない方向へと一気に捻る。踵固め(ヒールホールド)を完全に決められた七海は、最早痛みから逃れる術もなく、ユカの腿を叩いてギブアップせざるを得なかった。ユカは得意気な表情で人差し指を一本突き出し、七海に対し「一本先取」した事をアピールした。
 親友とはいえ、先にギブアップを奪われて面白くない七海は、もう一度構え直しユカとのスパーリングを再開した。一本先取している事で気持ちに余裕のあるユカは、意地悪にも七海の痛めた方の脚に向かってタックルを仕掛け、もう一度関節技で一本勝ちを狙う。マットを這うような低い片足タックルが彼女の脚を捉えるが、七海は逆にユカの身体に覆い被さり彼女の動きを止めた。背中の上からは重圧がかかり、胸の下には腕が回され固定されてしまい逃げる事が出来ない。焦るユカをよそに七海は、彼女の背中の上で体勢を変えると、足を股に引っ掛けて四つん這いの体勢を崩し、空いていた首筋に素早く腕を巻き付け締め上げた。
 べたんと腹這いに寝かされ尚且つ裸締め(スリーパーホールド)を決められてしまっているので、力の入れ処も無いユカは無念にも、マットを叩いてギブアップを宣言する。これで両者は1体1のイーブンとなった。

「うぉぉぉっ!」

 悔しさで一杯のユカは立ち上がると、七海の腕を掴むと思いっきり正面のロープへ振り飛ばした。バウンドして戻ってきた彼女に高く鋭いドロップキックを放ち、七海は胸元に被弾し大きく後方へ倒れる。胸を押さえ痛がる大親友の髪を掴んで無理矢理立たせると、今度はそこへエルボーバットを二発三発と叩き入れる。
 押されっぱなしでたまるか! と七海は四発目のエルボーを腕でブロックすると、逆に肘をユカの顎へと思いっきりぶち込んだ。体重の乗った、彼女のエルボーバットはたった一発でユカの動きを止める。ダメージを受けふらふらと左右に揺れるユカのどてっ腹へ向かて、今度は七海が連続でミドルキックを叩き入れていく。一発また一発と打ち込まれる度にユカの身体が浮き上がる。そして止めとばかりに七海は、彼女の頭部へ目掛けてハイキックを発射した。だが彼女の技を読んでいたユカは体勢を低くして、大きく弧を描く七海の蹴り脚を避けた――はずだった。実はこのハイキックはフェイントで、かわされた七海は顔色一つ変える事も無く、身体を捻ると今度はニールキックを中腰の状態でいたユカの顔へヒットさせた。《レッド・ストライカー》赤井七海の必殺技のひとつ、二段回転蹴りだ。
 顔を両手で押さえ痛がるユカの元へ七海が駆け寄った。

「大丈夫、ユカ?……えっ」

 七海が側へ近寄った途端、ユカはヘッドスプリングで起き上がると、状況が把握できず棒立ち状態の彼女に跳び付き、太腿で頭部を挟み後ろへ反り返ってそのままマットへ突っ込ませた。今度はユカによる縦回転の脳天杭打ち(パイルドライバー)ともいうべき難度の高い技、フランケンシュタイナーがずばりと決まった。ユカと七海による、試合さながらの激しいスパーリングは、リングの外で見ている後輩や、まだデビューも決まっていない練習生たちの心を熱くさせていき、次第にふたつの陣営に分かれ声援を送りはじめる。さながら道場は小さな試合会場と化していた。

「そこまでだユカ、七海。ホラみんなも練習に戻って戻って」

 “女の園”に闖入するひとりの男性――団体代表である元川だ。彼は手を叩いて選手や練習生に注意を促しながら、ユカと七海のいるリングへ歩んでいく。
 まだ年齢も四十台と若いがプロレス団体のスタッフ歴は長く、チケット売りから移動バスの運転手にリングアナウンサー……出来る事は何でもやった。その熱意が認められた結果、三年前に複数のプロレス団体を運営するマネージメント会社から、新しく設立した東都女子の代表に任命されたのであった。旗揚げ三ヶ月目でスター選手やスタッフの大量離脱という憂き目にあったが、それでも安易に団体を畳む事なく、新人の中でも頭角を現してきた赤井七海と小野坂ユカに未来を託し、二人三脚――いや三人四脚で東都女子の名を世間に知らしめるために奔走した、「選手と代表」という枠を超え彼女たちの《同志》ともいえる人物だ。元川の姿を見て、それまで激しく闘っていたふたりが、どちらからともなく手を離しスパーリングを中止した。

「どうしたんですか、元川さん? 珍しいですね道場まで来るなんて」
「あっ、もしかしてスパーリングの相手になってくれるとか? それとも夜の方かな?……なんちゃって」
「ユカ、そういう冗談はシャレにならんから言うな。仮にも女子プロ伝統の『三禁』を謳ってるんだから、練習生たちに示しが付かないじゃないか――ってそうじゃなくて」

 真面目な話をしようにも、七海はともかくユカにいつも冗談ではぐらかされ、なかなか本題に入っていけない元川であるが、今度ばかりはそうもいっていられない様子だ。ユカの顔にトレードマークの笑顔が消える。

「マジっすか」

 こくりと首を縦に振り返事をすると、彼はふたりの間に入り話し始めた。

「――今度の」

 幾度もあった経営危機の時にも、自分たち選手の前では決して見せなかった元川の苦々しい表情に、七海たちは只事でない事を直感する。

「《旗揚げ3周年記念シリーズ》に彼女の参戦が決定した……」

 ――!!

 “彼女”という単語ワードを発する時の、彼の嫌そうな表情を見てふたりは即座に誰だか理解した。浦井冨美佳(うらい ふみか)――団体設立当時の看板選手であり、この東都女子に最大の危機をもたらした、三人からすればあまり良い感情を持っておらず、出来れば関わりを避けたいくらいの忌まわしき人物であった。

「何でですか? 何故自分で見限って捨てた、この団体にあの人が上がるんです?」

 信じられない、と言わんばかりの表情で七海は元川に喰ってかかるが、返答に窮していた彼は黙って彼女に身体を揺すられる他なかった。

「お、オーナーからの指示なんだ。アニバーサリー・ゲストと言う事らしい……感情よりも観客動員を優先する、という事で僕の反対意見は無視されたよ」

 何も言わず、黙ってリングから飛び出し道場を後にする七海。
 “正義感”の強い彼女には未だ三年前の、冨美佳による身勝手な行動を許せずにいた。頼るべきリーダーが突然、自分たちの前から姿を消すという出来事は、当時まだ駆け出しだった七海には心身的なショックが大きく、その衝撃は今でも深く心に刻みついたままだった。
 リング上に取り残されたユカは、七海の行動に対しどう対処すればよいか分からず、彼女の消えた方向を元川とふたりでただ黙って眺めているしかなかった。

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蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【最終回】

2017年04月30日 | Novel

「明日、とうとう帰っちゃうんだね。ちょっと寂しいなぁ」

 手に持ったグラスの中の僅かに残ったビールを、ぐるぐると揺らしながら目の前のRINAに呟く、ちょっぴり感傷的な気分の絵茉。
 《角力祭》が終了したその夜、初居大人をはじめこの祭に参加した選手やスタッフなどが集まり、祭の成功と参加者たちの労をねぎらう《打ち上げ会》が繁華街にある居酒屋にて開催された。初居による挨拶と乾杯の音頭の後、闘いの重圧から解放された女武芸者の面々は思いのまま飲み、テーブルに並べられた美味しい料理を食したりして、この楽しい“束の間の休息”を十二分に味わっていた。グラスを片手に彼女たちは武芸やプライベートなどを話題に、熱の入ったガールズトークを繰り広げ、話す側も聞く側も皆笑顔になって心地の良い時間を過ごしている。

「はい。そろそろ冬休みも終わっちゃいますし……」

 絵茉の言葉に、控えめに笑うRINAだったが、本当の所はまだ絵茉や遥たちと一緒にいたいと思っていた。だけど自分は此処の住人ではなく余所から来た只の旅行者に過ぎないし、地元へ帰れば高校生活や大好きな“彼氏”との日常が待っている――彼女たちとの別れを“大人”であるふたりよりも、恐れ寂しがっているのが実は彼女であった。

「でもまぁ、学生だから仕方ないよね。もし機会があったら――そうだ、春休みにでもまたおいでよ!今度はあたしん家に泊めてあげるからさ」

 絵茉はRINAの方へ、ぐいっと身体を密着させ自分の妙案をまくし立てた。しこたま飲んでいるのか、彼女の息がちょっと酒臭い。
 RINAが苦笑いを浮かべ返事に窮していると、横から絵茉の視界を遮断するようにビアンカが現れた。絵茉はつまらなそうな顔をしてRINAの側から一時退却する。

「よぉ、スクールガール! 目一杯飲んでるかい?……ってソフトドリンクをだけどね」
「あ、はいビアンカさん。十分に楽しんでいます」

 ふたりは互いに手にしているグラスを重ね合わせる。ビアンカはレモン割りの焼酎、RINAはコーラだ。

「――それで大丈夫なんですか、旦那さん?」
「ああ、リナが心配する事じゃないって。みんなダーリンが悪いんだ――女の恨みは鬼より怖いのよん」

 満面の笑顔のビアンカを、あの時の光景がフラッシュバックし複雑な想いのRINAは、只々彼女に“同意”するしかなかった。
………………

 祭が終わりすぐの事――ビアンカは傷の手当てもそこそこに、参加したRINAをはじめとする女性集団の前に、既にボロボロとなっているケンジを引き摺って連れてきた。顔は青痣だらけ、目は死んだ魚のように虚ろな彼は恐怖に顔を引きつらせ“最強の嫁”の側で小さくなって、女武芸者たちの蔑んだ視線に晒されていた。

「や、やめろよビアンカ。昨夜だって散々伯父貴に搾られたんだ、もう……勘弁してくれよぉ」

 情けない声で懇願する旦那にビンタを食らわす《装鋼麗女》。試合でも十分決定打となりうる彼女の平手打ちをもろに受け、意識を“此処ではない何処かの世界”へ飛ばすケンジ。

「ダメよ! リナに全身全霊をもって死ぬ気で謝罪しなさいっ!! ひとりの少女の人生を狂わせかけたって自覚、ちゃんとあるの?!」

 そういうとビアンカは、ケンジを強引に跪かせると足で頭を押さえつけ、額をぐりぐりと地面に擦り付けた。擦れる痛さと彼女の重さに耐え切れない彼は、目の前のRINAに泣き叫ぶように許しを乞うた。

「うぅっ、ごめんなさい……ゴメンナサイ……ごめんなさいぃぃぃっ! 」

 これが自分の“貞操”を奪わんとした男の末路なのか――殺しても殺し足りない程憎い相手のはずなのに、この醜態ぶりを見せつけられると馬鹿負けするというか、何だかこんな輩を相手にする事自体無駄なような気がしてきたのだった。だからRINAはすうっとケンジの視線まで下りていき

「……わかりました、あなたの謝罪を受け入れます。だから――二度と私の前に姿を現さないでください」

と冷たく言い放ち、くるりと背を向けてその場を離れた。
 許された――と安堵するケンジだったが、意外な所から“第二波”が襲ってこようとは夢にも思わなかった。

「わたし、この人にエッチな事されそうになったよ」

 《旋風夜叉》ソンヒだった。話を聞けば数年前に町で声を掛けられ、強引にラブホテルに連れ込まれかけたとの事で、もちろんビアンカとは結婚済みの時期である。わなわなと口を震わせているケンジに更なる余波が直撃する。

「それだったら私もよ。ジムでトレーニングしてる時に彼が寄ってきて、“練習見てやるよ、こう見えても俺格闘技やってんだぜ”なんて言って、ひとの身体をべたべたと触ってさ。あまりにもしつこいんでチョークスリーパーで締め落として逃げてきたけどね」 

 今度はジェシカの“爆弾発言”だ。たて続けに露にされるケンジの“悪事”に、奥方であるビアンカの顔色が徐々に変わっていった。

「それじゃあ“犯罪者予備軍”じゃなくて、正真正銘の“犯罪者”じゃない。ダメじゃん!」

 絵茉が叫んだ。怒りと蔑みの視線がおんなたち全員から、一斉に向けられるケンジ。我慢ならなくなったビアンカは軽々と彼の身体を、頭の上までリフトアップすると力一杯地面に叩き落とした。身体を強く打ち付け苦悶の表情を浮かべるケンジに、休む間もなくRINA以外の女武芸者たちからは蹴りが降り注がれる。痛みと恐怖で動く事の出来ない彼は悲鳴を上げ、ただ蹴りの雨嵐を受け続けるしかなかった。

「女の敵!」
「この変態っ!」

 家にはこの鬼より怖い《装鋼麗女》が、そして地元の名士である最強の伯父貴が常に自分を監視しており、仮にこの土地を逃げおおせても伯父貴の一声で、武林の好漢たちとその弟子たちが草の根を分けて追ってくるという絶望的な状態にケンジは、自分の軽率な行動を悔やみ涙と鼻水で顔を濡らし泣いた――

………………

「それでビアンカさん、これからどうするんですか?」

 RINAが尋ねる。《装鋼麗女》はグラスの中身を一気に飲み干すと淡々と語り始めた。

「ん? 離婚は――しないよ。これまでも、そしてこれからもダーリンと一緒に生きていく。確かにダメな旦那だけどいい所だってちゃんとあるし、そこに私は惹かれたの。だからちゃんとダーリンを叱り、時々なだめて“真人間”にみえるよう上手くコントロールし、彼の妻として生きていくのよ」

 恥ずかしさか飲み過ぎか、原因は分からないけど頬を赤らめて嬉しそうに語るビアンカに、彼への愛情を十分に感じ取ったRINAは、地元にいる“彼氏”の事をふと思い出してちょっぴり妬けた。

「リナぁ、もう帰っちゃうの~? センセイは寂しいぞぉ」

 ビアンカがこの場を離れると、入れ替わるように今度はジェシカとソンヒが現れた。すっかり出来上がっている彼女たちはお互い肩を組んでけらけらと笑っている。誰から見ても“別嬪さん”なこのふたりだが、武林では《旋風夜叉》《碧眼魔女》という恐ろしい通り名で知れ渡る、女武芸者である事が俄かには信じ難い。

「はい。名残惜しいですけれど……」
「うん。あなたとの試合はとってもエキサイティングだった。この先の格闘人生に於いても二度と経験できないようなね。これからは今日の試合で味わった、スリルや興奮を求めて闘っていくんでしょうね、きっと私は」

 RINAの手を両手で包むように握り、興奮ぎみに語るジェシカ。試合時に施していた、ゴスロリ風の隈のようなアイメークを落とした彼女は、“善人丸出し”なとても穏やかな顔をしていた。

「リナ、今回貴女とは闘う機会がなかったけど、来年こそは対戦出来るよう初居センセイにお願いしておくからね!」

 いや、来年の事はわからないんですけど――そう言おうとしたRINAだったが、ヤル気満々のソンヒに何言っても聞かないだろうなぁ、と思って口に出すのを止めた。

「それでね、今日絵茉と闘って決めたんだ。私――もっと外に敵を求めようと思うのよ。だから、ジェシカが所属するチームに入って総合格闘技に挑戦するんだ。今の私よりもっと強くなるために!」

 《目標》を定めたソンヒの目は輝いていた。誰が何処で自分と同じく、女性で武芸を修練している人物がいるのか分からず、孤独感を感じていた彼女が同じ地域に、しかも複数人存在している事を知り、実際に拳を交し合った今、目先が内から外へと向くようになり、もっといろんな武芸者たちとボディ・コミュニケーションを取ってみたくなったのだという。

「そうですか! 頑張ってください、ソンヒさん。私も陰ながら応援しますね」

 RINAはソンヒの手を取り、笑顔で握手を交わす。《旋風夜叉》はそんな彼女の優しさがたまらなく嬉しくてつい、ほろりと一粒涙をこぼした。

「――お疲れ様、リナちゃん」

 ソンヒを強引に引き連れ、何だかよく分からない奇声を発して“次の標的”に向かうジェシカの後、RINAの“本命”であった遥が側にやってきた。彼女はあの全員が集まった舞台上を最後に、一度も会話をしていない。だからあの時、何故自分に対し“敵意”のような熱視線を向けたのか? その真相を聞きたかったのだ。だが遥は、無言でビールを飲み、皆が楽しく騒いでいる様子を眺めているだけで何も言わない。自分で見えない“壁”を作ってしまい、誰からの干渉も寄せ付けないようなムードを漂わせている彼女に、RINAはなかなか話しかける事が出来ないでいた。
 ふたりの間にだけ、重く気まずい時間が流れていく――この硬直状態を打開すべくRINAが口火を切った。

「なんで……ですか? 私、遥さんの気に障るような事しましたか? 至らない所があれば――」
「全然そんな事ない。むしろリナちゃんは十分すぎる程出来た子よ」

 彼女が話を終える前に、割り込むように遥がこれに応える。だがRINAは彼女の言葉をそのまま受け取ってよいのか、と考える――“答え”はまだまだ見つからない。

「でも若いのに大したものだわ、こっちが発信した“ラブコール”にちゃんと気付いているもの。武林の評判は伊達じゃないって事ね」

 やっぱり彼女は私に闘いを挑んでいる!――ようやくRINAの頭の中で、全ての情報の欠片(ピース)が繋ぎ合わさった。
 遥がすっと《蹴撃天使》の耳元へ口を近付ける。

 …………っ

 誰にも聞こえないような小さな声で語りかけた。
 RINAはこくりと首を縦に振り、「了解」の意思表示をするともう一度だけ遥と睨み合った。何が彼女を突き動かしているか知る由もないが、この闘いだけは避けるわけにはいかなかった。特に尊敬する“先輩”からの申し出であれば尚の事、だ。
 離れた場所にいる妹分の絵茉から声が掛かると、遥は何事も無かったかのように周りに笑顔を振りまき、普段通りの様子で彼女の方へ向かった。一方、重く圧し掛かるプレッシャーから解放されたRINAは、大きく安堵のため息をつき、グラスに残ったコーラを乾いた喉へ一気に流し入れる。手の中で温められ、すっかり炭酸が抜けたグラスの中のコーラは、只の砂糖水へと成り果てていた。

 

 早朝九時――
 温泉旅館『白鶴館』の駐車場に、一台の軽トラックが止まった――絵茉だ。彼女は、温泉街の中心部にある、高速バスが発車する大型バスターミナルまでRINAを送っていく為、投宿先であるこの旅館へとやってきたのだ。
 外気に触れ冷たくなった手を擦りながら、旅館の待合室ラウンジに入るとさっそく彼女の姿を捜した。しかしそこには他の客もおろか、部屋の掃除をしている数名の仲居さんしかいなかった。
 絵茉の姿に気付き、旅館の女将が小走りで近付いてきた。

「あら絵茉さん、おはようございます。どうなさったんですか? こんな朝早くに」
「ええ、リナちゃんを町のバスターミナルまで送っていこうかと――彼女、まだ部屋ですか?」

 女将は、彼女の言葉に不思議そうな顔をする。

「リナちゃん……? 今朝早々――三十分ほど前ですかね、チェックアウトされて既に出て行かれましたけど。てっきり彼女、絵茉さんと何処かで落ち合うとばかり」

 絵茉の顔が蒼白となる――もしやあの娘、また“トラブル”に巻き込まれたのかも? 不安が胸の中で大きくなり抑えきれなくなった彼女は、居ても立ってもいられなくなり、慌てて旅館を飛び出していった。

 ――リナちゃん、一体何処へ行ったのよ?!

 山と木々に囲まれた辺りの景色を、慌ただしく目で追いRINAの姿を捜すが、既にこの場所にはいないと感じた絵茉は、アテはないがとにかく広範囲を捜索してみようと、逸る気持ちで軽トラックを疾走させた。

 冷たい雪がちらつく中、山間にある野原へ黒い軽自動車が進入してきた。こんな早朝に、しかも観光地でもないこの場所に人がやって来る事自体異状であった。降り積もる粉雪で白く染まった枯れ草の上に、轍を描いて車が停まると中から女性がふたり降りてきた。
 遥とRINAだ。
 彼女たちは横並びになり、白い息を口から吐き出しながら野原の中央付近へ向かい歩いていく。その間一切無言で視線も合わさない。鉛色の寒空の下、ふたりしかいない山間の景色は何処か“異世界”を感じさせずにはいられなかった。
 遥がぴたりと歩みを止めた。
 RINAは側を離れると、2m程の距離を取った後彼女と向かい合う。
 互いの、鋭い眼光がばちばちっと交錯する。

「――リナちゃん、覚悟はいい?」

 遥の問いに、目の動きだけで返答するRINA。
 着用していた上着を脱ぎ、地面へと放り投げ戦闘に備える両者。地面に積もった雪を踏み固めながら、じりじりと間合いを詰めていく。
 彼女たちの頭の中で、“試合開始”の号令が聞こえた瞬間、ふたり同時に胸部へ向けて前蹴りを繰り出す。防御など一切考えていなかった彼女たちは、相手の蹴りをもろに喰らい、大きく後ろへと転倒した。
 患部を押さえ苦々しい表情の両者。
 相手より、一歩でも優位に立ちたい彼女らは表情を元に戻し、背筋力を使って跳ね起きると今度は、顔を狙っての回し蹴りだ。これも高く上がった脚同士が交差しダメージを与える事が出来なかった。
 一度ならず二度までも、攻撃に失敗し苛立つ女武芸者ふたり。《蹴撃天使》の通り名を頂く彼女たちらしく、蹴りを中心とした攻撃のロジックが似通っているので、“合せ鏡”のような展開となっていた。
 遥は停滞する闘いの流れを変えるべく、相手にない技術――レスリングで勝負を決めようと、地面を蹴ってダッシュするとRINAに、矢のような胴タックルを敢行した。スピードと体重差による衝撃の強さで、人形のように宙に浮いたRINAは、そのまま落下し雪原へ身体を激突させる。
 背中を押さえ悶絶する《蹴撃天使》。突破口を開いた遥は間髪入れず、彼女の腕を取ると腕ひしぎ十字固めの体勢に入る。しかし極められまいと上体を起こして、必死で腕を掴みこれを防御する。だが遥の「引く力」は異常に強く、最強女子高生といえども、命綱ともいえる腕のグリップも保つ事も厳しくなってきた。このままだと確実に、肘の靭帯が伸ばされ自ら「敗北」を口にしなければならない――想像しただけでも我慢ならないRINAは、技が掛かっている状態ながら無理矢理立ち上がると、真下となった遥の顔を力一杯踏みつけ“関節地獄”から脱出した。
 技からは逃れられたものの、極められていた方の腕に力が入らず苦悶の表情のRINAに、遥は追い討ちを掛けるべく患部を容赦なく蹴り続け“潰し”にかかった。片腕が利かないとなると拳打による攻撃はおろか、防御にも支障をきたしてしまう為彼女にとっては死活問題だ。遥の蹴りが腕を直撃する度に骨まで響くような痛みに襲われ、無事な方の腕のみで必死で防御するもののどこか心許ない。相手の猛攻にRINAは次第に追い詰められていく。
 がつっ!
 ガードを固めていた腕を、力で押し切って遥の蹴りが側頭部へヒットする。とうとう腕一本での防御にも限界が来た。 RINAはダメージを受けよろよろと身体を揺らすが、意地と気合で何とか踏み止まり地面へ倒れる事を拒否する。遥はもう一度――今度は確実にダウンを奪うべく渾身の一撃を放った。
 RINAのポニーテールが宙を舞ったと同時に、遥の腹部に激痛が走る。彼女の目にも止まらぬ速さ後ろ蹴りが、ずばりと肚に突き刺さったのだ。蹴り脚を廻り切る途中でストップさせられ、耐え難い痛みで身体をくの字に曲げる遥に、休む暇なくRINAの黒いタイツで覆われた膝頭が襲い掛かる。突き上げるような飛び膝蹴りは無防備の顎へヒットし、推進するRINAの身体と一緒に遥は、雪に覆われた大地へと転倒した
 身体を重ね合い、胸を上下に動かし苦しそうに呼吸するふたり。
 止む事なく降り続く雪が、彼女たちの身体を白く染めていく。RINAは痛む身体を起し、遥の身体から身を剥がすと横並びになって大の字に寝転がり、天から舞い落ちる粉雪を仰ぎ見た。

 ――何やってるんだろ? わたしたち

 興奮で熱くなっていた頭の中が、雪の冷たさと外気の寒さでクールダウンされて、次第に冷静さを取り戻していくと、RINAは闘っている事が馬鹿馬鹿しくなってきた――何もかも無意味なのだと、そう思えたのだ。遥との闘いには何の“テーマ”があるのか? この闘いの果てに達成感なんてあるはずがない、あるのは相手に対する失望と後悔だけだ。どちらが勝っても負けても!

「もう……やめません? こんな事」

 《闘い》は一方が闘争心を失った時点でそれは《暴力》となり、「対戦相手」から「加害者と被害者」という関係へと移り変わる。だからRINAは闘いの中止を求めた――遥とはいつまでも好敵手ライバルでいたいから。
 黙ったままの遥。はぁはぁとリズミカルに発せられる呼吸音だけが、この《ふたりの世界》で唯一聞こえる音だった。
 そして――ようやく口を開いた。

「――どうやらここが“武芸者”と“獣”との境目のようね。わかったわ、この勝負“無し”にしましょう」

 彼女もこの重圧から解放され安堵したのか、上体を起こし胡坐をかいてリラックスした体勢を取る。厳しかった表情から一転、いつもの温和な遥の顔に戻り、それを見てRINAは安心する。
 再び沈黙が続く――だが居心地はそんなに悪くない。遥が次に口を開くまで少女はじっと待つ事にした。

「上手く説明はできないけど感覚的に“何かが足りない”って気がしたのよ」

 天を仰ぎ見ながら、ぽつりぽつりと語りだす遥。

「《角力祭》でビアンカと闘った事で、ある程度の手応えは掴めたと思う。だけど――再び闘いの世界へ身を投じるには“もうひと押し”が必要だった。ぽんと私の背中を押してくれる人が」

 彼女の言葉に、黙ってこくりと頷くRINA。

「それがわたし――だと。それで遥さんの期待に応えられたのでしょうか?」

 RINAに問われると、遥はいろいろな感情が入り混じる微妙な笑顔を見せた。

「まぁね。こちらの一方的な“ラブコール”を受けてくれた事は本当、感謝している。実際にリナちゃんとの闘いは、十分すぎる程私にいろんな事を思い出させてくれたわ。闘う歓びもダメージを受けた時の痛みも――相手への嫉妬心もね」
「…………」
「闘っていてね、気付いたの。あの時私をトップの座から蹴落とそうとした、同期の子と自分はいま同じなんだ、って。自分を超える“才能”を持つ、一番近くにいる人物に嫉妬し憎み、己の能力の限界を認めず自分の前へ歩んでいく事を良しとしない――自分が一番嫌っていた、なりたくないと思っていた人間に成り果てようとしていた――ありがとう、リナちゃん。大事な事を思い出させてくれて」

 遥の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 格闘家として純粋に闘える歓びとは逆に、相手への憎しみや嫉妬という相反する感情がせめぎ合い、暴走する一歩手前で自ら退いてくれたRINAには感謝してもしきれない

「遥さん……あなたと闘えた事は正直嬉しかったし、同時に怖かったです。途中で致命傷を負い、“一生闘えなくなるんじゃないか?”と思うぐらい厳しい攻めでした。わたしから闘いを降りたのは、そうする事が後輩としての役目だと思ったから――間違っていましたか?」

 遂に感極まった遥は、RINAを力一杯抱きしめた。
 ごめんね、ごめんね、ごめんね―― 
 感謝、謝罪、後悔、慙愧――あらゆる感情が涙の粒となって頬を伝い流れる。彼女の腕の中に包まれながらRINAは「これでよかったんだ」と安堵の表情をみせた、目には薄らと涙を溜めて。
 土手の上を白い軽トラックが、軽快なエンジン音を響かせて走ってきた。――絵茉の車だ。彼女は慌てて停車させるとドアを開け、雪原にいるふたりに大声で叫んだ。

「遥姉ぇ! リナちゃんっ!」

 一刻でも早く彼女たちに接近したい。絵茉は逸る気持ちで土手を下っていくが、途中で雪に足を取られ転倒。そのまま真下まで雪煙をあげて転がり落ちていった。
 あまりにも突然の事で、抱き合ったままぽかんと口を開け唖然とする遥とRINA。
 しばらくして身体の回転は止まり、ベージュ色のロングコートに貼り付いた雪を払い落すと、絵茉は立ち上がり雪原のふたりに腕を広げて飛びついた。
 彼女の勢いに押されて、一緒に雪の上へ大の字に倒れる遥とRINA。自分たちの、あまりにも滑稽な姿についおかしくなって、RINAが声をあげて笑い出した。見栄や虚勢も張っていない、あまりにも自然で年相応な、女の子らしいRINAの姿に、“姉”ふたりもつい釣られて笑ってしまった。痺れるような寒さの中、雪原の上は暖かい笑い声で溢れ返った。

「あー可笑しい……でも絵茉、よくここが判ったわね?」

 遥は不思議そうな顔で絵茉に尋ねた。彼女に言わせれば別に難しい事ではなく、幼い頃から自分たちはこの野原を遊び場や練習場としていたし、遥が多感な時期には、何か心配や不安等があるといつもひとりでここに来て、何時間も考え事をしているのを見ていたので今回ももしかして――と思い、自然とここへ車を走らせたというわけだ。

「まったく――行動パターンが昔っから変わんないね、遥姉ぇは。それで結論は出たの?」
「うん……もう一度プロレスラーに戻ろうかな、って。無理を言ってリナちゃんと闘ってみて、やっぱり私は“闘う側の人間”なんだって気付いたの」

 再び“修羅の道”へ歩み出す事を決意した、遥の表情は心底明るかった。絵茉がこんな吹っ切れた遥の顔を見たのは、プロレスラーを目指して上京する前にふたりで会った時以来だった。

「頑張ってください遥さん!わたし、応援しますから――」

 RINAが言いかけた途中、悪寒と共に鼻の奥から、むずむずと耐え難い生理現象が湧き上がってきた。こうなると出来る事といえば、口に手を当て身体を縮ませるしかない。
 はくしょんっ!
 小さな身体からは想像できないくらい、大きなくしゃみが勢いよく飛び出した。驚いた“姉ふたり”の視線を一手に浴びて、RINAは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに下を向いた。

「あはははは! それじゃあ私ん家に戻ろっか?このままだと皆風邪引いちゃいそうだしね。リナちゃん、高速バスの時間までまだ大丈夫だよね?」

 遥の問いに、RINAはこくりと首を振って返事をする。

「遥姉ぇ、あたしカフェラテ飲みた~い」
「はいはい。リナちゃんは?」
「わたしは……ミルクティーをお願いします」

 絵茉とRINAは遥を挟むように寄り添うと、彼女は大きく両手を広げ嬉しそうな顔で、ふたりの肩を抱き自分の方へ引き寄せる。遥や絵茉、そしてRINAもこの幸福な時間がいつまでも続けばいいな、と蕩けんばかりの空気の中で願った。しかしもうしばらくすれば彼女たちも――そして自分も、忙しい“現実”の世界へ戻っていかなければならない。ならば一瞬だけでも、目一杯この素敵な時間を楽しもうじゃないか。RINAは自分の頬に、遥の体温を感じながらそう考えていた。

                                                                                                                            終


                           

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蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【第十回】

2017年04月30日 | Novel

 続けてふたつも、“女性の範疇”を超える激しい《奉納角力》を見せられた、見物客たちの興奮度は最大限に達していた。例年行われている男衆による、“喧嘩”に近い原始的(プリミティブ)な角力を楽しみにしていた地元の“常連さん”たちも、個々の思想・理念や培った格闘技術をぶつけ合う、武芸高手たちによるクオリティの高い闘いに満足し《奉納角力》も新たな時代が到来した事を実感する。
 同時にこの《イベント》の勧進元・マッチメーカーである初居御大も、地元民や遠方からの見物客たちの、熱戦に次ぐ熱戦で興奮し紅潮した顔をみて、今大会の成功を確信していた。

 ――あとは遥が、上手い事締めてくれればいいんだがなぁ

 初居は白くなった短髪を撫でつけながら“大トリ”の事を考えていた。もちろん今井遥との“付き合い”は長く、彼女がどんなファイターなのかも熟知しているが、なに分“勝負”というものは水物で気候に体調、そして精神状態の好不調で勝敗が左右されるし、十年間の空白期間が格闘能力にどう影響しているのか全くわからない。まぁ絶頂期の半分でも動ければ御の字だろう――と彼は思った。
 遥自身も、日々の喫茶店経営の合間を縫って、《武芸者》としての基礎トレーニングは欠かさず継続していたものの、実戦経験は十年前の――あの忌まわしき最後の試合以来行っておらず、その点を問題視していた。妹分の絵茉や“二代目”を継承するRINAが見せた、レベルの高い試合をテントの中から観戦し往年のファイティングスピリットは戻りつつあるが、その精神に見合うだけの動きが実際に出来るのか?何度も自信と不安が交錯する。

 ――情けないなぁ。こんなくだらない事を、いつまでも考えているなんてわたしらしくもない。勝ち負けなんて二の次じゃない? 当たって砕けろ、よ!

 ぴしゃりと自分の頬を打ち気合を注入する遥に、普段着へ着替え終えた絵茉が近付いた。

「次の遥姉ぇの試合……セコンドに付かせてもらうわ」
「どうぞご勝手に。でも、側なんかにいたら気軽に観戦なんかできないわよ……本当にいいの?」

 姉貴分からの問いに、絵茉は黙って縦に首を振った。

「あたしはね、ずーっと遥姉ぇの近くにいたいの。それで遥姉ぇと一緒にドキドキしたいの!……ダメかな?」

 自分と同じ視線の高さに彼女がいる筈なのに、遥の目には最初に出逢った頃――まだ小学生だった頃の絵茉の姿が映っていた。ひとりぼっちで泣き虫で……そしていつも遥の後ろにくっ付いて行動していた彼女が鮮明に脳裏に蘇る。

 ――変わらないね。大きくなったのは背丈と態度だけ、ってか

 遥は両手で絵茉の手を握りしめた、何処にも行かないようにしっかりと強く。

「セコンドは任せたわ。一緒に……一緒に闘おうね、絵茉」
「うん、おねえちゃん!」

 “最高の相棒”と手を繋ぎ、並んで決戦の場へと向かう遥と絵茉。彼女の心にはもう一片の迷いも無かった。そして神楽殿の舞台上では《装鋼麗女》が腰に手を当て、対戦相手が上ってくるのをじっと待っていた。

「ふん。逃げずによく此処まで来たな、ハルカ!」
「当然でしょ? とにかくあんたを一発ぶん殴らないと気が治まらないのよ」

 お互いが、先制攻撃である“憎まれ口”を叩く。ほんの挨拶程度ではあるが会場は大いに盛り上がった。しかし遥は彼女の言葉のトーンに違和感を覚えた。昨夜のビアンカの激昂ぶりとは全く違っていたからだ。あの時の“憎しみ”が継続していれば、もっと“憎まれ口”にパワーがあり心に突き刺さっている筈なのに、今のビアンカの言葉はプロレスの“マイクパフォーマンス”以外の何物でもなかった。
 どこか居心地の悪さを感じたままの遥に、欧州最強の女が無言で接近する。気が付けば胸と胸を突き合わせ、これ以上ない程至近距離で睨み合っていた。
 顔の彫りが深い彼女の、暗闇から覗くような鋭い眼光で見つめられると、普通なら恐怖で身がすくんでしまいそうだがそこは“ファイター”である遥の事、しっかりと「メンチを切」って応戦する。

「……昨夜はすまない。私の勘違いだったようだ」

 突然ビアンカが他の誰にも聞こえないよう、小さな声で謝罪をした。

 ――えっ?

 一瞬耳を疑う遥。あまりにも唐突過ぎて現実味がなく、素直にこれを“謝罪”と受け取ってよいものか彼女は戸惑った。

「全て初居センセイから話を聞いた。うちのダーリンがトラブルの原因だという事を」

 なんだ、ちゃんと全部判ってるじゃん――遥は今日のビアンカから、“怒り”が感じられなかった理由をやっと理解した。

「あはは、まんまとあんたの組んだ“アングル”に乗せられた、というわけね」
「こうでもしなきゃハルカと闘えないと思ったから。こんな私を軽蔑するか?」

 彼女の言葉に、やはりビアンカ・レヴィンは闘うに値する女だと、元・人気女子プロレスラーの胸は騒いだ。

「いや、逆に感謝しているわ。正直ね――退屈してたのよ、今の生活に」

 自分だけに打ち明けてくれた、遥の“偽らざる本心”にビアンカは「やっぱりね」とニヤリと笑った。個人差はあれど一度でも“闘いの世界”に身を投じると、アドレナリンが大放出されて生まれる独特の高揚感は、なかなか忘れられないらしい。
 《装鋼麗女》は健闘を誓い合うべく、すっと短く拳を前に突き出した。客の前でおおっぴらにやると悪玉(ヒール)VS善玉(ベビーフェイス)の対立構造が崩れてしまうので、人目に触れずこっそりと行う――遥より幾分若いのに“昔気質”な考え方のビアンカであった。そんな彼女の意を汲んで遥も、自分より大きな身体のバッドガールを睨みつけたまま、拳をこつんと小さく当てて“挨拶”をした。
 行司から「離れるように」と注意され、ふたりはそれぞれ対角線の先へと一旦分かれる。

「――遥姉ぇ、あいつと何話してたのよ?」

 絵茉が、自分が待機している舞台の角に戻ってきた遥へ、不安げな表情で訊ねる。姉貴分は、そんな彼女に向かって「心配ない」とばかりに、優しい笑顔を見せた。

「あいつは“策士”だね。すっかり彼女の描いたストーリーラインに乗せられちまった」
「え?」

 話がさっぱり分からない、絵茉の頭の上に「?」マークが点灯する。

「“心配するな”って事よ――もしもの事があったら頼むわね?絵茉。わたしに不測の事態が起こった時も、逆に起こしそうになった時も」

 随分ヒドイ事言ってるなぁ――最後のひとことが気になったが「遥姉ぇらしいなぁ」と、彼女の発言をいつも通り、あたり前のように受け入れてしまう絵茉であった。
 遥が、赤いジャージ上のファスナーに手を掛け、ゆっくりと下に降ろす。中から現れたのは桜の柄がプリントされた、ワンピースタイプのリングコスチューム……絵茉は見覚えのあるこのコスチュームを見てはっと息を飲んだ。それは十年前に彼女が、あの「最後の」試合の時に着用していたものだったからだ。遥は沈黙を守った十年の時を経て、再び「あの時の」続きをやろうという覚悟の表れだ――敗北も屈辱も全て自分の中で消化して。
 金色と黒で配色された、ダークなイメージのリングコスチューム姿のビアンカが、一足先に舞台中央へ戻って“強敵”今井遥を待ち構えている。

「――始めぃ!」

 縦に手刀を切り“戦闘開始”を知らせる行司。その瞬間、一気に身体から開放された野獣の如き闘気に慄いて、慌てて彼女たちの側から離れた。

 うぉぉぉぉぉ!!
 「結びの一番」の開始に、会場の至る場所から声援が飛び交った。見物客をはじめ、対戦相手であるビアンカに至るまで誰もが《悲劇の女子プロレスラー》今井遥の“復活劇”に期待していたのだ。
 両者は円を描くようにゆっくりと舞台上を周回し、徐々に距離を詰め自分の“攻撃範囲”へ誘い込もうとする。近付いたと思えば一旦離れ、また離れたと思えば接触可能な距離まで近付き、相手の見えない保護壁(バリアー)を少しづつ削っていく。
 差し出した腕と腕が蛇のように絡み合い、それぞれの首筋や肘へ纏わりつき、相手を自分の有利なポジションへ手繰り寄せようと、ロックアップの攻防が始まった。両足をしっかりと床に付けて腰を落とし踏ん張ると、今持っている全ての筋力をこの“力比べ”に集中させる。
 腕や首など、全身にビアンカの体重がずっしり重くのし掛かり、遥は身体の自由を奪われて、前へ押す事も後ろに引く事も出来ない。みるみるうちに彼女の身体は、《装鋼麗女》の攻撃範囲内へと引き摺り込まれていった。
 大木のような太い腕が遥の頭に巻き付いた――ヘッドロックを取られてしまった!
 常人を超えたパワーでビアンカは、顎下から頬骨の辺りをぐいぐいと締めあげる。前腕部の硬い部分が顔の骨と密着して発生する、激しい痛みが遥の頭部を襲う。日常茶飯事にこの技を喰らう“現職”ならば、痛みに耐えつつ次の“展開”を考える事が出来るが、十年の間“一般人”をしていた彼女には酷な状況だ。《装鋼麗女》の腕と脇との間に、頭部を挟まれている遥の顔が既に真っ赤になっている。
 どかっ!どかっ!!
 ビアンカの鳩尾へ肘を叩き入れた。
 身体の奥に眠っていた、プロレスラー時代の記憶が遥を動かしたのだ。驚いて咄嗟に離してしまった相手の腕を掴み、背負い投げで床へ投げ飛ばすと今度は反対に、突き立てた膝を支点にし腕を力一杯引っ張った。ロックアップからのヘッドロック、そして切り替えしてのアームロックというプロレスリングの基本ムーブに、見物客たちからは大きな歓声が一斉にあがり、これからの試合展開を更に期待する。
 ビアンカは身をよじって、逆方向に曲げられていた自分の腕を取り立ち上がると、掴んだまま離さない遥の腹部へ二度三度とトーキックをぶち込んだ。凄まじい威力に彼女の身体は浮き上がり、衝撃に耐えきれず遂には手を離してしまう。
 両者の身体は一度離れ、それぞれが次の攻撃への機会チャンスを窺った。
  遥を捕らえようとビアンカが再び手を伸ばした。しかし足で蹴っ飛ばしてこれを防御する。ぴりっと走る痛みに顔を歪める《装鋼麗女》。
 今井遥の猛攻が開始された。
 急接近して蹴りを、腿や膝の裏へ入れれば一旦距離を取り、また近付いては蹴るといった「ヒットアンドアウェイ」戦法で、相手の体力・集中力を徐々に削ぎ落としていく。
 キックが決まるや、ぱちんと乾いた炸裂音がビアンカの脚から発生し、その都度彼女の顔が苦痛に歪む。遥の蹴り自体も、攻撃が成功する度にスピードや切れがアップしていくのが、傍目でも分かったし自身も足応えを感じていた。

 ――いける、いけるわ! 身体が自分の意思通りに動いてるっ!

 右や左に、ローからミドルへと蹴りを打ち分けて《装鋼麗女》の体力を奪う遥。往年の《蹴撃天使》ぶりを思い出させる攻撃に、「彼女の“完全復活”だ!」と会場から大きな歓声が湧きあがる。

「いけっ、遥姉ぇ!」

 この蹴撃ラッシュに絵茉も、縁から身を乗り出して声援を送る。このまま好調をキープできれば“欧州最強の女”から勝ちを奪えるかもしれない、いや絶対勝てる!――そう思った。
 しかし、ダウンを奪うべく渾身の蹴りを放った途端、軌道をしっかり読んでいた《装鋼麗女》にキャッチされてしまう。蹴り足を脇に挟まれ、不安定な状態の遥へビアンカがにやりと笑ってみせると、自慢の剛腕で短距離からのクローズラインを、殴りつけるように彼女の首筋に叩き入れた。喰らった瞬間、ぐらっと意識が一瞬遠退き、遥は無防備の状態で頭から硬い床板へと激突した。
 ビアンカは頭を抱えうずくまる遥を見下ろすや、顔色ひとつ変えず彼女の胸や腹へ、重いストンピングを連続で叩き込む。無抵抗の遥は蹴られる度に、陸に打ち上げられた魚のように大きく身が跳ねた。
 陽から陰へ。見物客の歓声が、一気に悲鳴へと変わる――「相手が強過ぎる」と誰もがそう思った。やはり十年のブランクからの“復帰戦”の相手が、リングに上がる回数が全盛期に比べ減ったとはいえ、未だ現役女子プロレスラーのビアンカ・レヴィンである事が、遥に対して勝手に抱いていた「勝利という幻想」を打ち砕くのに十分すぎたのだ。
 目の前の惨劇に、思考が停止し呆然としていた絵茉だったが、状況を把握するや大声で遥の名を絶叫した。

「遥姉ぇ……おねえちゃんっ!!」

 自分の拳を、荒ぶる感情のまま床をどんどんと強く叩く。周りは何も見えない、彼女の網膜にはダウンする遥の姿しか映っていなかった。
 ビアンカが醜く口を歪め、首をかっ切るポーズをみせた。早くも試合終了フィニッシュを周囲の観衆にアピールすると、グロッキー状態の遥の身体を引っこ抜くように、自分の頭の高さまで軽々と持ち上げる。この場にいた熱心な女子プロレスファンには、《装鋼麗女》が必殺技のラストライド(高角度パワーボム)を敢行する事は十も承知だった。もしこの荒業を喰らえば、今度こそ遥は一溜りもないだろう、とも。
 自分が舞台の上へ飛び出して、彼女を助け出してあげたいという感情をぐっと我慢して、尊敬する最愛の“姉”の姿を見つめる絵茉。
 あああああああああっ!
 見物客たちが悲鳴をあげた。
 遥の身体をグリップした腕が、勢いよく振り下ろされいよいよ“死への滑降”が始まった。絵茉は“最悪の結末”が目に浮かび思わず目を閉じてしまう。

「……させるかよっ!」

 誰もが“負け”を覚悟していたその時、遥が肚の底から叫んだ。そして脚をビアンカの首に引っ掛けると、落下する力を利用して股下へ向かって反り返る。惰性のついた《装鋼麗女》の身体は大きく、前方へ回転した。逆転技のウラカン・ホイップだ。驚きの喜びの入り混じった大きな歓声が、“諦めムード”で冷え切っていた会場に再び沸き起こる。
 ふらふらと立ち上がるビアンカに遥は、胸にパンチの連打を叩き入れ、上下へ鋭く重い蹴りを撃ち込んでいく。打撃の猛ラッシュでビアンカの身体は少しづつ後ろへ退いていった。突如遥が跳ね、全身をぐるりと傾けた瞬間、大きく勢いのついた脚が鉈で刈るように《装鋼麗女》の肩口へ突き刺さった。必殺の胴回し蹴りが決まり、彼女の巨躯はもんどり打って倒れる。
 打撃がヒットした箇所に力が入らず、苦悶の表情を浮かべるビアンカ。
 これが最後のチャンスかもしれない――そう直感した遥は目の下にいる“雌熊”の頭部を狙って蹴りを放った。が、同じく勝利への執着心の強いビアンカは蹴り足をキャッチし、非可動域に捻じ曲げながら持ち上げた。パワー系サブミッションであるアンクルホールド(足首固め)が極まった。
 こいつを忘れていたなんて――遥は自分の爪の甘さを、足首の痛みと共に実感したが、悔やんでいる場合ではない。ここまで来たら“勝利”へ向かって前へ突き進むしかないのだ。
 片足を掴まれている不安定な状態で、バランスを取りながら立ち上がると飛び上がり、空いている片方の脚でビアンカの頭部を蹴った。彼女の踵がこめかみにヒットし、その瞬間視界がぐらりと揺れ、足首を掴んでいた手を離してしまう。
 ダメージが重く、よろよろと左右に傾く《装鋼麗女》。
 遥は気合一閃飛び上がり回転すると、大きく脚を開き、己のふくらはぎを相手の喉元へ、巻き付けるように打ち込んだ。現役時代には毎試合のように使用し、ニックネームであった《蹴撃天使》のイメージを、ファンに決定付けた彼女の“代名詞”的な技、フライング・ニールキックがずばりと決まった!
 ビアンカの巨躯は大きく後方へ飛ばされ、大音量の衝撃音を響かせて床板へと仰向けに倒れる。
 寝転がる《装鋼麗女》に追い打ちを掛けるべく、遥は彼女の上に跨ると顔に肘打ちを連続で叩き入れる。打撃によってビアンカの額が切れ出血すると、見物客のボルテージは更に上がり、社の外まで聞こえんばかりのボリュームで騒ぎ叫んだ。

「いけぇ遥っ!」
「どんどん攻めろ!!」

 だがビアンカも押されっぱなしで終わらせる気はない。攻撃する相手の腕をキャッチし、勢いに任せて身体を反転させると今度は彼女が逆襲に転じた。固めた拳を鉄槌のように振り下ろし、遥の顔をめちゃめちゃに殴る。優勢と劣勢が交互に入れ替わるスリリングな攻防に、見物客たちも勝敗の行方を気にする事を忘れ、ただリズミカルに相手を殴打する様に酔いしれた。
 息をするのも惜しい程に、ふたりの打撃戦をじっと見守る絵茉。
 グラウンドでの攻防でも決着が付かず、痺れを切らした両者は立ち上がりスタンドでの勝負へ切り替え再び打ち合いを開始する。
 遥の肘や足が、ビアンカに突き刺さる度に被弾部分へ痛みが走る。
 《装鋼麗女》の重量感のある拳撃が、遥の身体にダメージを堆積していく――攻撃と受難を交互に繰り返し、お互いの体力は残り少なくなっていた。
 膝に手を置き、はぁはぁと肩で息をする両者。
 先に動いたのは遥だった。
 “勝利”への執念を込めた肘打ちを全力で放つ元祖《蹴撃天使》。これが己の最高速度ではないものの、ヒットすれば確実に仕留められる自信はある――しかし渾身の一撃は、彼女の想いとは裏腹に空を切ってしまった。
 身体に堆積された疲労が、前へ一歩踏み出した膝を折り遥のバランスを崩してしまったのだ。
 ああ、やっぱ駄目だったか――ゆっくりと下りていく視線は、歯を食いしばり自分へ向かっていく好敵手ライバルの姿を捉えていた。
 黒い影が唸りをあげて接近する。それはビアンカの腕に巻かれているサポーターの色だった。額から鮮血をたれ流し凄い形相で駆けてくる《装鋼麗女》最後の武器である、クローズライン系の打撃技《ヴァルキリー・ハンマー》を、下からすくい上げるように遥の顎の下に叩き付けた。
 顎から脳天へ衝撃が突き抜け、四股から力が失われた遥は勢いに流されて後方へ回転する。一旦惰性の付いた彼女の身体は、最早自分の意思で止める事もできず、みるみるうちに神楽殿の縁へと転がっていった。
 絵茉が口を押さえ絶句する。
 騒がしかった見物客たちの声援はフェードアウトし、この場所だけが時が止まったかのような錯覚を覚えた。
 どすっ
 物体が地面に落下した音がした――それは遥の身体だった。この瞬間、《装鋼麗女》ビアンカ・レヴィンの勝利が決まった。
 落胆の溜息が、大勢の観衆の口から一斉に吐き出される。が、瞬時に暗いムードを一掃するように、勝者ビアンカを讃える拍手が自然発生的に、ずっとふたりの“死闘”を目の当たりにしていた人々から沸き上がった。
 ゆっくりと地面から身を起こして、顎を手で押さえ無事を確認する遥へ、舞台の上からビアンカが手を差し出した。

「――やっぱりあなたは“最強の女闘士”だったよ、ハルカ」

 彼女が差し出した手を遥は、躊躇なく握り舞台の上へと引き上げてもらう。

「いや強いのはビアンカ、あんただよ。結果はあんな負け方だったけど、どうあがいても「勝てる」見込みはなかったわ。今日の所はわたしの完敗ね」
「今日の所は……? まだわたしに勝つ気でいるつもりなの?」
「あれっ、そう言わなかったっけ?」

 取組中の険しい表情とは違い、ようやく“戦闘モード”から解放され笑顔になったふたりは、どちらからともなく抱き合い互いの健闘を讃えあった。
 遥は、舞台の下で目を潤ませて拍手をしている絵茉に、「上がってこい」と目で合図すると嬉しそうな顔で靴を放り脱ぎ、ふたりのいる場所へ駆けあがる。間近で無事に闘い終えた遥の姿をみて安心したのか、それまで必死で堪えていた涙が彼女の目から溢れ出た。

「泣くんじゃないわよ、絵茉。本当に小さい頃から変わんないんだから……」

 指で涙を拭ってあげる遥。彼女も強がってはいるものの、擦れ気味な涙声だけは隠せない。

「いいもん。今までも――ずっとこれからも遥姉ぇの“妹”でいるんだからっ」

 遥は「馬鹿っ」と軽く絵茉の肩を拳で小突くと、彼女の身体を掴み自分の胸元へ寄せて抱きしめた。
 この感動的なふたりの抱擁が引き金となり、試合を終えテント内で休憩していた、RINAをはじめとする《角力ノ儀》の参加者たちがぞろぞろと現れ舞台へと上がり、全員が対戦相手ならびに他の選手の健闘を讃えあい労う。
 RINAが参加者たちと、にこやかに握手や抱擁を交わしている最中、焼けるような熱い視線を感じて急に振り返る。
 視線を向けていたのは遥だった。
 しかし、今まで接してきた彼女とは明らかに違う、まるで鋭利な刃物のような気配を強く感じる。遥の意図はわからないが――只事ではない事だけは“格闘女子高生”も察していた。
 胸の中では早まる鼓動と共に、“危険”を知らせるサイレンがけたましく鳴り響いていた。

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