金粉が出た081103
昭和61年7月28日 日曜日 午後2時から約1時間。
浄土宗総本山。京都の知恩院で、音楽法要を執り行った。
総本山のことゆえ、本堂では、のべつまくなく、全国各地からの信者さんの先祖供養が行われているのに、知恩院のご厚意で、その供養をこの時間帯は中止して、我々だけが行う音楽法要のみが行われた。
圧倒されるような大伽藍。 御影堂で、私が書いた式次第にのっとって、厳かに音楽法要は始まった。歌い手は10人からなる女声合唱団である。
お詣りの人々や観光客のざわめきもどこ吹く風で、我々は黙々と音楽法要を演奏し続けた。
浄土宗の本山であれば、浄土宗の勤行式次第にのとるのは当然のことではあるが、私は万教同根の思想を持っているから、御仏を道場に迎え、香華灯明をたむけ
日頃、我々の舌身意で作ったもろもろの罪科を懺悔し、仏の教えに帰依する菩提心を表明し、御仏の限りない慈愛をほめたたえ、しかる後に回向、終わりの言葉をのべて儀式を終わるという形式をとった。
なにしろ漢語1本槍のお経は、何を言っているのか、理解できず、眠いばかりで、自ら積極的にお経の世界に入ろうとしない自分を反省して、いったい何をやっているのか。誰にでもわかるようにするために、和語を先に漢文を後に回して、メロディーをつけて、おいた。
堂内には、ピアノもオルガンも運びこまず、代わりに、スピーカーとアンプを持ち込み、前もって作っておいたカラオケを伴奏に演奏開始した。
「恭うやしく、御仏を礼拝し奉る。」
オルガンの荘厳な響きが広い伽藍の隅々に、しみ通っていく。流れるように、スムーズに曲が進行し、終の曲を迎えた。
「願わくば、この功徳を持って、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを」「願以此功徳普及於一切、我等与衆生皆求成仏道」
で、終わった。
指揮をしながら式の進行を進めていた私は、にじんだ汗に、気付く前に、ほっと安堵の息をもらした。
お経そのものを日本調西洋音階に乗せて作曲し、勤行式次第にのっとって、合唱団が、ご宝前に進み、歌に乗せた。お経を合唱するなんていうことは、おそらくそう度々あることではなく、それだけに、緊張し、体をこわばらせていた私は全身から力が抜けるような思いがした。
「やった。」という成就感と開放感に包まれながら、ご宝前に進みでた私は、神仏に、心から本日の御礼を申しあげた。
そして、私にこのようなチャンスを与えてくださった。知恩院に心から感謝しお礼に私の作詞作曲による「知恩院」を全員で合唱し本堂を出た。
三門に向かいあって、和順会館は建っている。その和順会館で、緊張から解き放たれた我々は、なによりも、空腹を感じた。
前日に予約しておいた食事に飛びつきながら、今日の歌の出来栄えを話している最中に、コーラスのメンバーの一人が、
「先生、また金粉が出ます。」とびっくりして、大声を上げた。
正直なところ、これで金粉の出現は、彼女たちは2回も経験することになる。
前回は、富山市郊外にある泉光寺で、インドから請来された。石彫仏伝図完成
慶讃法要に、お経「舎利礼文」を4人の女声コーラスで奉納したときにも、4人の女性、全員が経験した。
全員、手のひらにぴかぴか光る砂金のような金粉がこびりついている。なんと不思議なことが起こるものだと私は驚いた。思いあたることといえば、ただ無心になって、神仏に歌に心を載せてお供えたことだけである。
歌を供え、心を供えたら、なぜ手のひらに金粉が出るのか、不思議。ただ不思議である。
今回もまた彼女たち全員に、泉光寺と同様、金粉が出た。全員に、である。
出た人あり、てなかった人ありというアンバランスがない。
いったいどういう現象が起こっているのだろうか。体内から出たのか、それとも、体内と外部との何物かが化学変化を起こして金粉が現象となったのか、果ては神仏の世界から降ってきたものなのか。
巷の説によると、金粉は仏、銀粉は神(金粉銀粉神仏どちらでもいいのだが)が喜んでおられることの表れだという。
それならば、私の心の奥底にある崇仏敬神の思いが、彼女たちの歌にのって本当に届いたのであろうか。
不可解な疑問を次々と頭の中に思い浮かべながらも、私は、巷の説を額面通りに受け止めて、神仏およろこびのしるしと解釈した。
ひょいと金粉出現の話をしたら、ある人が手紙をくださった。
信じん深い、その人の言葉によれば、彼女はよく、どことなく金粉現象を経験するという。その人の場合は経机に金粉が現れるらしい。
金粉現象は、私たちだけが経験したのではない。この現象はあちこちで色々な人が経験しているということを私は知った。
不思議なことが起こるものである。現代科学の解明のメスが及ばず、未解明の部分がまだまだ我々の身の周りにあることを思い知らされた。
金粉現象を見て私はそう思う。
昭和61年7月28日 日曜日 午後2時から約1時間。
浄土宗総本山。京都の知恩院で、音楽法要を執り行った。
総本山のことゆえ、本堂では、のべつまくなく、全国各地からの信者さんの先祖供養が行われているのに、知恩院のご厚意で、その供養をこの時間帯は中止して、我々だけが行う音楽法要のみが行われた。
圧倒されるような大伽藍。 御影堂で、私が書いた式次第にのっとって、厳かに音楽法要は始まった。歌い手は10人からなる女声合唱団である。
お詣りの人々や観光客のざわめきもどこ吹く風で、我々は黙々と音楽法要を演奏し続けた。
浄土宗の本山であれば、浄土宗の勤行式次第にのとるのは当然のことではあるが、私は万教同根の思想を持っているから、御仏を道場に迎え、香華灯明をたむけ
日頃、我々の舌身意で作ったもろもろの罪科を懺悔し、仏の教えに帰依する菩提心を表明し、御仏の限りない慈愛をほめたたえ、しかる後に回向、終わりの言葉をのべて儀式を終わるという形式をとった。
なにしろ漢語1本槍のお経は、何を言っているのか、理解できず、眠いばかりで、自ら積極的にお経の世界に入ろうとしない自分を反省して、いったい何をやっているのか。誰にでもわかるようにするために、和語を先に漢文を後に回して、メロディーをつけて、おいた。
堂内には、ピアノもオルガンも運びこまず、代わりに、スピーカーとアンプを持ち込み、前もって作っておいたカラオケを伴奏に演奏開始した。
「恭うやしく、御仏を礼拝し奉る。」
オルガンの荘厳な響きが広い伽藍の隅々に、しみ通っていく。流れるように、スムーズに曲が進行し、終の曲を迎えた。
「願わくば、この功徳を持って、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを」「願以此功徳普及於一切、我等与衆生皆求成仏道」
で、終わった。
指揮をしながら式の進行を進めていた私は、にじんだ汗に、気付く前に、ほっと安堵の息をもらした。
お経そのものを日本調西洋音階に乗せて作曲し、勤行式次第にのっとって、合唱団が、ご宝前に進み、歌に乗せた。お経を合唱するなんていうことは、おそらくそう度々あることではなく、それだけに、緊張し、体をこわばらせていた私は全身から力が抜けるような思いがした。
「やった。」という成就感と開放感に包まれながら、ご宝前に進みでた私は、神仏に、心から本日の御礼を申しあげた。
そして、私にこのようなチャンスを与えてくださった。知恩院に心から感謝しお礼に私の作詞作曲による「知恩院」を全員で合唱し本堂を出た。
三門に向かいあって、和順会館は建っている。その和順会館で、緊張から解き放たれた我々は、なによりも、空腹を感じた。
前日に予約しておいた食事に飛びつきながら、今日の歌の出来栄えを話している最中に、コーラスのメンバーの一人が、
「先生、また金粉が出ます。」とびっくりして、大声を上げた。
正直なところ、これで金粉の出現は、彼女たちは2回も経験することになる。
前回は、富山市郊外にある泉光寺で、インドから請来された。石彫仏伝図完成
慶讃法要に、お経「舎利礼文」を4人の女声コーラスで奉納したときにも、4人の女性、全員が経験した。
全員、手のひらにぴかぴか光る砂金のような金粉がこびりついている。なんと不思議なことが起こるものだと私は驚いた。思いあたることといえば、ただ無心になって、神仏に歌に心を載せてお供えたことだけである。
歌を供え、心を供えたら、なぜ手のひらに金粉が出るのか、不思議。ただ不思議である。
今回もまた彼女たち全員に、泉光寺と同様、金粉が出た。全員に、である。
出た人あり、てなかった人ありというアンバランスがない。
いったいどういう現象が起こっているのだろうか。体内から出たのか、それとも、体内と外部との何物かが化学変化を起こして金粉が現象となったのか、果ては神仏の世界から降ってきたものなのか。
巷の説によると、金粉は仏、銀粉は神(金粉銀粉神仏どちらでもいいのだが)が喜んでおられることの表れだという。
それならば、私の心の奥底にある崇仏敬神の思いが、彼女たちの歌にのって本当に届いたのであろうか。
不可解な疑問を次々と頭の中に思い浮かべながらも、私は、巷の説を額面通りに受け止めて、神仏およろこびのしるしと解釈した。
ひょいと金粉出現の話をしたら、ある人が手紙をくださった。
信じん深い、その人の言葉によれば、彼女はよく、どことなく金粉現象を経験するという。その人の場合は経机に金粉が現れるらしい。
金粉現象は、私たちだけが経験したのではない。この現象はあちこちで色々な人が経験しているということを私は知った。
不思議なことが起こるものである。現代科学の解明のメスが及ばず、未解明の部分がまだまだ我々の身の周りにあることを思い知らされた。
金粉現象を見て私はそう思う。