振興銀行の破綻
小泉竹中のもとで、アドバイス役をつ とめた木村が振興銀行の会長になったが、結局銀行法違反で逮捕された。
思うに評論家とか学者だとか識者と言われる連中は、言葉でしゃべったり論文を書いたりする程度以上のことはしてはいけない。というのは彼の説に当てはまらない見えない部分が実際に経営をしてみると、現実の問題として浮かび上がってくる。経済の状況なんて読み切れる物ではない。そこに落とし穴がある。
記憶は遠のいたがかって一橋大学の教授が自分の経営理論を実践して会社をつぶしてしまった事があった。そのときに僕はその教授のどこに失敗の原因があるのか考えたことがあるが、経営というのは理屈で行う物ではなくて、人格や人生観を含めて人間の総体で行う物で頭だけで考えて出来る物じゃない。どんなに理論が正当で精緻な物であっても
経営には自分以外に多くの人が関わるので、その人達が自分の思うように動いてくれなければ、それだけで経営は立ちゆかなくなる。その辺のことが学者にはわからないのだ。
だから自説を信じて経営するのだが、時々刻々変わる経済情勢などとうてい読み切れる物ではない。
今回の木村の場合もそうである。世間知らずの男が経営できるのか。僕は最初から彼のことをぎもンに思った 。どんな奥の手があるのだろうか。僕の関心はこの一点にあった。結局彼には奥の手は全くなかった。巧言を吐いた手前、苦し紛れに違法を承知しながら部下に命令を出したのだ。
聴いていたら竹中の説ももっともだとは思ったが、彼は賢い。現場には手を出さなかった。手を出して何かを経営しよう物なら、木村と同じ運命をたどったことだろう。経営とか経済というのはある意味で神の御手による物で人間には読み切れない部分がある事を知って謙虚になる事が大切だ。
自信を持つことはいいが、レッセフエールである限り人知の及ばないことがあることをこの銀行破綻は教えてくれた。もし彼のやる様なことが絶対に儲かると言うのなら、彼がやる前に3大バンクが手を出したに違いない。手を出さなかったことを見ると、経営経験から危ないと踏んだからである。はっきり言えば学者や評論家が考えているほど世の中は甘くないと言うことだ。
小泉竹中のもとで、アドバイス役をつ とめた木村が振興銀行の会長になったが、結局銀行法違反で逮捕された。
思うに評論家とか学者だとか識者と言われる連中は、言葉でしゃべったり論文を書いたりする程度以上のことはしてはいけない。というのは彼の説に当てはまらない見えない部分が実際に経営をしてみると、現実の問題として浮かび上がってくる。経済の状況なんて読み切れる物ではない。そこに落とし穴がある。
記憶は遠のいたがかって一橋大学の教授が自分の経営理論を実践して会社をつぶしてしまった事があった。そのときに僕はその教授のどこに失敗の原因があるのか考えたことがあるが、経営というのは理屈で行う物ではなくて、人格や人生観を含めて人間の総体で行う物で頭だけで考えて出来る物じゃない。どんなに理論が正当で精緻な物であっても
経営には自分以外に多くの人が関わるので、その人達が自分の思うように動いてくれなければ、それだけで経営は立ちゆかなくなる。その辺のことが学者にはわからないのだ。
だから自説を信じて経営するのだが、時々刻々変わる経済情勢などとうてい読み切れる物ではない。
今回の木村の場合もそうである。世間知らずの男が経営できるのか。僕は最初から彼のことをぎもンに思った 。どんな奥の手があるのだろうか。僕の関心はこの一点にあった。結局彼には奥の手は全くなかった。巧言を吐いた手前、苦し紛れに違法を承知しながら部下に命令を出したのだ。
聴いていたら竹中の説ももっともだとは思ったが、彼は賢い。現場には手を出さなかった。手を出して何かを経営しよう物なら、木村と同じ運命をたどったことだろう。経営とか経済というのはある意味で神の御手による物で人間には読み切れない部分がある事を知って謙虚になる事が大切だ。
自信を持つことはいいが、レッセフエールである限り人知の及ばないことがあることをこの銀行破綻は教えてくれた。もし彼のやる様なことが絶対に儲かると言うのなら、彼がやる前に3大バンクが手を出したに違いない。手を出さなかったことを見ると、経営経験から危ないと踏んだからである。はっきり言えば学者や評論家が考えているほど世の中は甘くないと言うことだ。