人生無常。命の問答
1,「化野の、露が消えるるということもなく、鳥辺山の火葬の煙が立ち去るということがないように、人間が永久に行きながらえるならわしてあったとしたら、どんなにか物事の情趣がないことであろう。」
それはそうだ。現在100才を超えてしている人が、何万人と、この日本に住んでいるが、戸籍の不備、もあって、150歳ぐらいの人もいるらしい。もちろん彼はとっくにこの世を去っているはずだが、戸籍上は存在している。近頃こういうことが話題になっている。
人にもよるが、100才でオトナの健康と正常な感覚も持って生活している人はほとんどいない。
誰かのサポートによってやっと生きているというのが現状だ。それを考えると、人の世話になったり明らかに老醜をさらす状態が表に出てきたら、やはりここに至るまでに、この世を去るのが本人のためにも、社会のためにも良いことだと思う。
しかしこればかりは天命で、自分や周りの人達の思うようにはならない。
どうしようもないことである。ただ人間として生きていくと言うのには前提があってそれが崩れたらこの世を去るのが望ましい。つまり本人も納得の上でむやみやたらと延命工作しないことである。
2,「命を欲しいと思ったならば、千年を過ごしても、一夜の夢のように会ってない気がする。しょせんは永久に住み押せることのできない人生に、年をとって醜い姿になるまで、生きながらやってなにになるだろう。」
千年過ごしても、一夜の夢のように思うというのはちょっと違う。百才も近くなると自分で我が身の見繕いをするのも大変で、本人も生きていることに苦痛を感じているのではないか。一夜の夢とに思う余裕はないだろう。
医学の進歩のおかげで平均寿命が80代になってきた。人間という観点から見れば好ましいことである。
しかし、医学は、人間的な感覚を失ってもつまり、植物人間になったとしても生かしていく方法をとっていく。
それが果たしていいものかどうか。この点が難しい。人間的な正常な感覚を失ったからといって、それを放置して死に至らしめることが良いことか悪いことか。医学が未発達の時代の時はすべてこの問題は自然にゆだねられていた。がそこに人間の知恵が働くようになって、こういう問題を惹起するようになった。
3,「それを過ぎると、恥ずかしく思う心をなくし、人中に出ておつき合いをしようと思い、沈みかけた夕陽のように余命少ない身で子や孫を愛し、その栄ゆく未来を見届けるまでの命を乞い願い一途に、世俗的な欲望をむさぼり求める心ばかりが深くなって物事の情趣もわからないようになっていくのは情けないことだ。」
恥ずかしいと思う心をなくす余裕がないのが現状だと思う。それに老人が人前に出ることは引きこもりをするよりはよいことだと思う。沈みかけている命ならばこそ子や孫の行く末を案じるのである。人間として当然のことの様の思うが、、、
むさぼる心ばかりが肥大して、というのは元気のある間だけの話である。平均年齢を超える頃になるとむさぼることより明日の我が身を考えるのではないか。
法師の無常論やむさぼる心の克服などには一定の理解を示しつつも、現代の状況から見ると違和感がある。
長生きして子や孫の行く末を見届けたいと言う希望が明日の我に元気を与えているように僕は思う。
1,「化野の、露が消えるるということもなく、鳥辺山の火葬の煙が立ち去るということがないように、人間が永久に行きながらえるならわしてあったとしたら、どんなにか物事の情趣がないことであろう。」
それはそうだ。現在100才を超えてしている人が、何万人と、この日本に住んでいるが、戸籍の不備、もあって、150歳ぐらいの人もいるらしい。もちろん彼はとっくにこの世を去っているはずだが、戸籍上は存在している。近頃こういうことが話題になっている。
人にもよるが、100才でオトナの健康と正常な感覚も持って生活している人はほとんどいない。
誰かのサポートによってやっと生きているというのが現状だ。それを考えると、人の世話になったり明らかに老醜をさらす状態が表に出てきたら、やはりここに至るまでに、この世を去るのが本人のためにも、社会のためにも良いことだと思う。
しかしこればかりは天命で、自分や周りの人達の思うようにはならない。
どうしようもないことである。ただ人間として生きていくと言うのには前提があってそれが崩れたらこの世を去るのが望ましい。つまり本人も納得の上でむやみやたらと延命工作しないことである。
2,「命を欲しいと思ったならば、千年を過ごしても、一夜の夢のように会ってない気がする。しょせんは永久に住み押せることのできない人生に、年をとって醜い姿になるまで、生きながらやってなにになるだろう。」
千年過ごしても、一夜の夢のように思うというのはちょっと違う。百才も近くなると自分で我が身の見繕いをするのも大変で、本人も生きていることに苦痛を感じているのではないか。一夜の夢とに思う余裕はないだろう。
医学の進歩のおかげで平均寿命が80代になってきた。人間という観点から見れば好ましいことである。
しかし、医学は、人間的な感覚を失ってもつまり、植物人間になったとしても生かしていく方法をとっていく。
それが果たしていいものかどうか。この点が難しい。人間的な正常な感覚を失ったからといって、それを放置して死に至らしめることが良いことか悪いことか。医学が未発達の時代の時はすべてこの問題は自然にゆだねられていた。がそこに人間の知恵が働くようになって、こういう問題を惹起するようになった。
3,「それを過ぎると、恥ずかしく思う心をなくし、人中に出ておつき合いをしようと思い、沈みかけた夕陽のように余命少ない身で子や孫を愛し、その栄ゆく未来を見届けるまでの命を乞い願い一途に、世俗的な欲望をむさぼり求める心ばかりが深くなって物事の情趣もわからないようになっていくのは情けないことだ。」
恥ずかしいと思う心をなくす余裕がないのが現状だと思う。それに老人が人前に出ることは引きこもりをするよりはよいことだと思う。沈みかけている命ならばこそ子や孫の行く末を案じるのである。人間として当然のことの様の思うが、、、
むさぼる心ばかりが肥大して、というのは元気のある間だけの話である。平均年齢を超える頃になるとむさぼることより明日の我が身を考えるのではないか。
法師の無常論やむさぼる心の克服などには一定の理解を示しつつも、現代の状況から見ると違和感がある。
長生きして子や孫の行く末を見届けたいと言う希望が明日の我に元気を与えているように僕は思う。