死後の世界が問題だ
バカみたいな話だが、何か気になるので書いてみる。
この肉体肉体の存在する現世、それは仮の宿、通りすぎる宿である。という考え方は、洋の東西を問わず、実に根強い思想となっている。
ギリシアの哲学者ソクラテスは、「死は言うまでもなく、肉体よりの開放に、ほかならず、」という。また、
ガンジーは、「生は死から生ずる。芽吹く為には、種子が死なねばならない。」とも言う。
元来はインドのバラモン教の思想であるが、仏教もその考えを受け継いでいる。
ギリシャのピタゴラスの学団も、同じような思想を持っていた。
この考え方の根底には、人間には、肉体と魂がある。と言うことだろうと思うが、
通常で用いる死という概念は、肉体の死を意味して、魂のことには触れていない。
思うに、肉体は死んでも魂は生き続けるという考えではなかろうか。だとすれば、肉体の死後に生き続ける魂のあり方である。
生きている魂は一体どこのそれと世界に住むのであろうか。これには輪廻転生の考え方を導入して何とか道筋をつけたいものだ。
どんな人が、どんなことを言おうとも、誰一人として、死を免れる人はいない。
そこで問題になるのは、死後の世界がどうなるかということである。
死後の世界において、輪廻転生するが、しないのか、誰も実証できないことだけに、その分自分の考えを加味して、言うならば、それが信じるか、信じないが、その一点で、答えを出す以外にはないだろう。それで、お前は?と聞かれると、「信じている。」ではなくて、「信じたい」と答えたい。
信心が足りないと、言われたって、日替わりメニューで、輪廻転生を信じたり、信じなかったりしている現状からすれば、確信をもって信じきれるわけでもないから、「信じたい。」と言って、輪廻転生を前向きに考える方が、何かにつけて好都合である。そして信じる事と言うのは有る種のロマンではないだろうか。
今仮に輪廻転生を信じるとすれば、
死んであの世(‘簡単に’あの世と言うけれど、どこを指すのか実態は判らない)に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることだという、輪廻転生はヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。
輪廻は動物などの形で転生する場合も含み(六道など)、転生の一語のみの用法は人間の形に限った輪廻転生(チベット仏教の化身ラマなど)を指すニュアンスで使われることが多いといえる。僕の感覚では6道のある転生が輪廻転生だと思うが。
キリスト教などにおける「復活」の概念は「一度限りの転生」と見なすことも出来よう。ただし、復活の場合はより狭く、生前と同じ人格を保ったままの転生である。
元来はインドのバラモン教の思想であるが、仏教もその考えを受け継いでいる。
ギリシャのピタゴラスの学団も、同じような思想を持っていた。
輪廻転生は、日本では、人間(あるいは、すべての生命は)、死んだ後、また、別の人間(あるいは別の生き物)に生まれ変わる、という思想であるが、
お経に「人身受け難し、今すでに受く、、、」と言うところを見ると、日本では6道に生まれ変わると考えられているようだ。
先ほど、魂の存在ということを問題にしたが、それは実証できないのであるから。あくまで仮定の話だろう。
我々が肉体をもって人間界に生まれ出たのは、魂を磨くためだと推測される。輪廻転生を繰り返して、魂を磨くことによって、それは浄化がされ、純化され光り輝くように、神々しくなる。そうなると解脱して、つまり輪廻転生の輪から外れて常住極楽の世界に到達する。
こうなればしめたもので、もう輪廻対象の間には戻ることがない。そこに到達してこそ人は永遠の眠りにつくことができる。そうなればしめたものだが、その方法たるや全く判らない。今後そのハウツウを探そう。
バカみたいな話だが、何か気になるので書いてみる。
この肉体肉体の存在する現世、それは仮の宿、通りすぎる宿である。という考え方は、洋の東西を問わず、実に根強い思想となっている。
ギリシアの哲学者ソクラテスは、「死は言うまでもなく、肉体よりの開放に、ほかならず、」という。また、
ガンジーは、「生は死から生ずる。芽吹く為には、種子が死なねばならない。」とも言う。
元来はインドのバラモン教の思想であるが、仏教もその考えを受け継いでいる。
ギリシャのピタゴラスの学団も、同じような思想を持っていた。
この考え方の根底には、人間には、肉体と魂がある。と言うことだろうと思うが、
通常で用いる死という概念は、肉体の死を意味して、魂のことには触れていない。
思うに、肉体は死んでも魂は生き続けるという考えではなかろうか。だとすれば、肉体の死後に生き続ける魂のあり方である。
生きている魂は一体どこのそれと世界に住むのであろうか。これには輪廻転生の考え方を導入して何とか道筋をつけたいものだ。
どんな人が、どんなことを言おうとも、誰一人として、死を免れる人はいない。
そこで問題になるのは、死後の世界がどうなるかということである。
死後の世界において、輪廻転生するが、しないのか、誰も実証できないことだけに、その分自分の考えを加味して、言うならば、それが信じるか、信じないが、その一点で、答えを出す以外にはないだろう。それで、お前は?と聞かれると、「信じている。」ではなくて、「信じたい」と答えたい。
信心が足りないと、言われたって、日替わりメニューで、輪廻転生を信じたり、信じなかったりしている現状からすれば、確信をもって信じきれるわけでもないから、「信じたい。」と言って、輪廻転生を前向きに考える方が、何かにつけて好都合である。そして信じる事と言うのは有る種のロマンではないだろうか。
今仮に輪廻転生を信じるとすれば、
死んであの世(‘簡単に’あの世と言うけれど、どこを指すのか実態は判らない)に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることだという、輪廻転生はヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。
輪廻は動物などの形で転生する場合も含み(六道など)、転生の一語のみの用法は人間の形に限った輪廻転生(チベット仏教の化身ラマなど)を指すニュアンスで使われることが多いといえる。僕の感覚では6道のある転生が輪廻転生だと思うが。
キリスト教などにおける「復活」の概念は「一度限りの転生」と見なすことも出来よう。ただし、復活の場合はより狭く、生前と同じ人格を保ったままの転生である。
元来はインドのバラモン教の思想であるが、仏教もその考えを受け継いでいる。
ギリシャのピタゴラスの学団も、同じような思想を持っていた。
輪廻転生は、日本では、人間(あるいは、すべての生命は)、死んだ後、また、別の人間(あるいは別の生き物)に生まれ変わる、という思想であるが、
お経に「人身受け難し、今すでに受く、、、」と言うところを見ると、日本では6道に生まれ変わると考えられているようだ。
先ほど、魂の存在ということを問題にしたが、それは実証できないのであるから。あくまで仮定の話だろう。
我々が肉体をもって人間界に生まれ出たのは、魂を磨くためだと推測される。輪廻転生を繰り返して、魂を磨くことによって、それは浄化がされ、純化され光り輝くように、神々しくなる。そうなると解脱して、つまり輪廻転生の輪から外れて常住極楽の世界に到達する。
こうなればしめたもので、もう輪廻対象の間には戻ることがない。そこに到達してこそ人は永遠の眠りにつくことができる。そうなればしめたものだが、その方法たるや全く判らない。今後そのハウツウを探そう。