日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

中学生の伊達直人君7-47

2011年01月12日 | Weblog
中学生の伊達直人君


中学生が、お正月にもらったお年玉を使って、施設の子供たちへのプレゼントとして包みを警備員に手渡した。包の中には文房具が入っており警備員が少年に名前を尋ねると、名前きかないでくださいと言って立ち去った。という。うれしい話じゃないか。
実にさわやかな行為である。この少年のことを思うと、心がほのぼのと温かくなる。
自分のお年玉を自分のために使わないで、恵まれない施設の子供たちにプレゼントしようという心がけは、見上げたものである。思っていても、なかなか実行に移すことができないこの種のことを、よくぞやってくれたと喝さいを贈りたい。
今日はこの種の運動が全国に広がったということである。
人の善意はどんな形であれ、共感を呼ぶと思う。
警察に届けた人もいるらしい。警察はこれを拾得物として取り扱わなければならない役所だから、どうしたものか困ったことであろう。しかしそこに届けた人の善意は何としても、素直に受け取ってほしいものだ。
新聞の見出しにはこの種のプレゼントを受け取るのに戸惑いがあると書いてあるが、確かに立場によってはそうだろう。しかしこの行為はあくまで温かい人間の善意なのだ。
素直に、喜ぼうじゃないか。それだけではない。これをした人も自分の心に温かいものを感じているのだ。送り主の名前は伊達直人というらしいが、このほかの名前を使っても、いろいろな場所で、いろいろなものをプレゼントしている人が、全国にいるということを知っただけでも、心うれしくなるものだ。
善人ぶってだとか、偽善者かというような見方をする人がいるが、そういうことを言う前に、自分の胸に手を当てて考えてみたまえ。批判をする前に、君自身がやってみたらどうだ。
みんな素直にこの善意を喜ぼう。そしてお互いの連帯感も強く感じよう。そこに人間的な温かみが感じられて、血が通うのだ。僕は単純にこの贈り物をした中学生や、姿を現した人や、現さなかった人達を心から祝福したい。おそらくこの善意は神にも届き、神はにっこりほほえまれることだろう。

タイガーマスク運動

2011年01月12日 | Weblog
タイガーマスク運動

先月クリスマスに、前橋でランドセル10個、 伊達直人が児童用施設にあらわれて、プレゼントをした。それが最初だったが、ひっそり、ともした暖かい灯火がいつの間にか「運動といえる」広がりを見せている。

殺人だの事故だの、毎日暗いニュースばかり報道されているご時勢。
このさやかで、ほのかな心温まる、善意のプレゼントが、どれほど人の心を暖めるか。
それはプレゼントをもらった子供たちだけでなく、ニュースで知る僕も、心の中に暖かい灯をともすだけでなく、人の善意の盛り上がりに、日本人はまだまだ捨てたものではないと、勇気つけられる。

プレゼントはランドセルばかりではない。現金、文房具、スポーツ観戦招待券、米や野菜なと、施設にとってはありがたいものだし、それに温かい励ましの手紙を添えてある。
この善意を受ける子供たちはきっと、この世にタイガーマスクがいると信じるのではなかろうか。
そういう人間的な連帯感が、今一番欠けていると言われているから、なおのこと、人々は暖かいものを感じるのだろう。そして個人も暖かい心をランドセルに乗せて、手紙をそえて届け、心をつないでいくのだろう。

プレゼントするのは余裕のあるお金持ちだけじゃなくて、年金生活者、もいるらしい。
善意の行動をするのに、何も遠慮することはない。時には堂々と名乗って行動するのもよい。そしてそういう姿を見つけたら、みんなで彼を祝福しようではないか。それが人の心を温め、人との絆を太くすることにつながる。

また高度成長のおかげで、心がものに集中して、忘れていた人間らしい心をとり戻すチャンスにでもなれば、もっけの幸いである。

自分の名前を隠してこのように善意の行動をするのは、まさに陰徳だ。
この世に神様がいるならば、おそらくこれらの善意を、素直に善意を善意としてほめられることだあろう。

願わくば、このような善意の運動が、施設だけでなく、もっと身近に根を張って、社会全体に連帯感が、よりいっそう広がって人間の心との砂漠化を
食い止めることが出来れば、このタイガーマスク運動は消え失せた、日本人魂をふたたびよみがえらせることになるだろう。この小さくても、点じられた善意の灯が、少子高齢化で斜陽に向かう日本に、国民的な連帯感を巻き起こし
その連帯感で難局を乗り切ることにつながれば、と願わずにはいられない。