日々雑感

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徳について考える

2011年01月21日 | Weblog
徳について考える



陰徳とは他者が喜ぶような行為はしても、決してそれを表面にださないで、明かさないし、他人にも自慢しないで、自分ひとりの胸の内に秘めてるおいて、善行をしたという自覚もない。というも種類のものであろう。
そこにあるのは人の役にたてた、喜んでもらったということから来る、自分の喜びを、神や仏に感謝することだと僕は理解している 。
人間って浅ましいもので、ちょっと社会的に役立つことをしようものなら、大いに公表し、宣伝し自慢の種にする。ひどいときには善行をつんでいないにもかかわらず、あたかも善行であるかのごとく、言いふらし目立ちたがる人もいる。
陰徳は直接的には、ひとにかくして徳を積むことを意味する。社会的に役立つことして、それをした人の名前や業績を表面に出すならば、それは陰徳とは言わない。それは陽徳という。陰徳と陽徳には違いがある。
だいたい陰徳を積むということは、だれに積むのか。
人間社会に対してと、いう意味と同時に神仏に対してという意味がある。そのどちらに重きを置いて徳ということの意味を考えるか。
もともと陰徳というのは、仏教用語である。それを考えると、神仏に対しても済むというのが、本来の使いかたであろう。
先日新聞に大阪駅前の歩道橋を寄贈など、社会貢献を進めていた松下電器産業の社員が[これまでの企業の社会活動は、明らかにしない方が美しい隠匿の世界だからそれではいけない]
と説明した。松下幸之助が在世であれば,歩道橋を作る趣旨が、自社のPRをするためのものであるとするならば、そこに大きく宣伝文句をつけ加えたはずである。
にもかかわらず、歩道橋にはそのような宣伝文句は見当たらない。ということは彼の真意は素直に解釈すれば,徳は積んでも、それは陰徳で、という意向ではなかったのだろうか.
。だとすれば、この社員の発言は,真意とは異なった発言になる。どうでもいいようなことだけれども、社会的に貢献したことを、声高く貢献するというのは今まで使ってきた日本の慣習にそぐわないのではないだろうか。、
企業の社会的貢献などというものは、当たり前の話しで、それを声高に言うというのは、あくまでコマーシャリズムである。そこには徳を積むという精神が脱落している。この 1社員の発言は、真意はともかくとして、陰徳の意味がわかってるのかどうか、もう一度尋ねてみたい発言である。