文藝春秋 最後の証言集山田耕筰
私たちが出会った20世紀の巨人
團伊久磨述
山田先生に初めてお会いしたのは、1938年。僕が14歳の時、
「作曲家になりたい。」と言い出した息子に手を焼いた父親が、赤坂にある先生のお宅に僕を連れて行った。日本一の作曲家に判断を仰ごうというのです。父と先生は旧知の仲でした。
自作の曲の楽譜を手に、僕は胸をどきどきさせていた。暫く話をした後、「こっちに来なさい。」と、先生がぼくに、手招きをする。薄日が差す廊下に出ると、先生は、両手で、僕の頬はさみ鋭い目で、僕の顔を見つめました。こっちも思わず睨みかえしました。そして、
「伊能さん。この子には作曲をやらせましょう。」と大きな声ではっきりとおっしゃった。ことのほか、大きな声に聞こえましたね。その一言で、僕の運命が決まったんですから、、、、。先生はぼくが持参した楽譜は一切ごらんにならなかった。
目つきや、音楽に対する考え方でお決めになったんでしょう。
「あれは大ヒットだった。」と死ぬまで御自身の判断を自慢しておられた。光栄なことだと思います。
じつは、これには裏話があって、お宅に向かう前日の晩、父はこっそりと先生に電話を入れ、作曲志望を断念させてくれるよう頼んでいたのです。先生も、「ようがす」。と軽々しく承たくしたというのです。その顛末はかなり後になってから聞きました。
裏切られた父は怒ってました。「あの人は天才かもしれないが、人間的には尊敬できない。あんな人に音楽を習ってはいかん!」とぷんぷんして、「あいつは信用できない、おかげでひどい目にあったよ。」って死ぬまで言い続けました。
42年、念願がかなって、僕は東京音楽学校の作曲科に入学しました。在学中から先生のお宅にはちょくちょく呼び出され、すき焼きを何度も御ごちそうになった。肉をビールで煮る。山田流特性すき焼き。そればっかり。先生とは妙に馬があったんです。話はおもしろいし、若々しい。先生の方でも、年代を越えた親しみを覚えてくださったようです。以下略
要するに山田流作曲才能判別法なるものは、作品を聞いたり、作品を見たりすることによって、才能の有無を判別するという常識的なものではなかったのである。
人間一人一人が持つ運命みたいなものを、人相とか骨相とかあるいは姓名判断などと組み合わせて、それに直接第一印象から受ける直感を働かせて誰もまねの出来ない、先生独自の方法を見いだし、音楽才能の判別法を身につけておられたようである。
後々になって人伝えに聞いた話であるが、あるバイオリン志望者は声楽家に転向することを進められ、その通りにされて大成されたとか、あるピアニスト志望の弟子は、先生に勧められて作曲家に転向をして成功を収めたとか言う話は列挙にいとまがない。
全く同じ方法で僕をいろいろな角度から調べられた先生の口からまず
「ホホー」と感嘆詞が出た。続いて「君には素晴らしい作曲才能が有る。心の中に美しいメロデーを持っているから、それを作曲して外に出しなさい」と言うのが今でも僕の作曲活動の原点になっていますし、その言葉に支えられて、今日まで作曲活動を続けてきました。
私たちが出会った20世紀の巨人
團伊久磨述
山田先生に初めてお会いしたのは、1938年。僕が14歳の時、
「作曲家になりたい。」と言い出した息子に手を焼いた父親が、赤坂にある先生のお宅に僕を連れて行った。日本一の作曲家に判断を仰ごうというのです。父と先生は旧知の仲でした。
自作の曲の楽譜を手に、僕は胸をどきどきさせていた。暫く話をした後、「こっちに来なさい。」と、先生がぼくに、手招きをする。薄日が差す廊下に出ると、先生は、両手で、僕の頬はさみ鋭い目で、僕の顔を見つめました。こっちも思わず睨みかえしました。そして、
「伊能さん。この子には作曲をやらせましょう。」と大きな声ではっきりとおっしゃった。ことのほか、大きな声に聞こえましたね。その一言で、僕の運命が決まったんですから、、、、。先生はぼくが持参した楽譜は一切ごらんにならなかった。
目つきや、音楽に対する考え方でお決めになったんでしょう。
「あれは大ヒットだった。」と死ぬまで御自身の判断を自慢しておられた。光栄なことだと思います。
じつは、これには裏話があって、お宅に向かう前日の晩、父はこっそりと先生に電話を入れ、作曲志望を断念させてくれるよう頼んでいたのです。先生も、「ようがす」。と軽々しく承たくしたというのです。その顛末はかなり後になってから聞きました。
裏切られた父は怒ってました。「あの人は天才かもしれないが、人間的には尊敬できない。あんな人に音楽を習ってはいかん!」とぷんぷんして、「あいつは信用できない、おかげでひどい目にあったよ。」って死ぬまで言い続けました。
42年、念願がかなって、僕は東京音楽学校の作曲科に入学しました。在学中から先生のお宅にはちょくちょく呼び出され、すき焼きを何度も御ごちそうになった。肉をビールで煮る。山田流特性すき焼き。そればっかり。先生とは妙に馬があったんです。話はおもしろいし、若々しい。先生の方でも、年代を越えた親しみを覚えてくださったようです。以下略
要するに山田流作曲才能判別法なるものは、作品を聞いたり、作品を見たりすることによって、才能の有無を判別するという常識的なものではなかったのである。
人間一人一人が持つ運命みたいなものを、人相とか骨相とかあるいは姓名判断などと組み合わせて、それに直接第一印象から受ける直感を働かせて誰もまねの出来ない、先生独自の方法を見いだし、音楽才能の判別法を身につけておられたようである。
後々になって人伝えに聞いた話であるが、あるバイオリン志望者は声楽家に転向することを進められ、その通りにされて大成されたとか、あるピアニスト志望の弟子は、先生に勧められて作曲家に転向をして成功を収めたとか言う話は列挙にいとまがない。
全く同じ方法で僕をいろいろな角度から調べられた先生の口からまず
「ホホー」と感嘆詞が出た。続いて「君には素晴らしい作曲才能が有る。心の中に美しいメロデーを持っているから、それを作曲して外に出しなさい」と言うのが今でも僕の作曲活動の原点になっていますし、その言葉に支えられて、今日まで作曲活動を続けてきました。