パワースポット
パワースポット。時々マスコミに登場してお目にかかる言葉である。そこに行けば身も心も癒されて、リラックスすると同時に、力をもらう場所とされている。
それでは一体どこがその場所なのだろうか。?
よく言われるところは、お寺や神社など、聖地や霊地であり、また大木や山や岩や
水辺など神聖なスポットや、神聖なものに生気・精気を感じて、そこをパワースポットとしている場合が多い。
僕は かなり昔になるが 、あるお寺で体験したことがある。
そのお寺は、最近建てられたもので、かなり大きい寺だった。本堂にまつられている慈母観音像に両手をかざすと、虫が這いずるように手のひらがむずむずする。
観音像から手を遠ざけると、むずむずは感じなくなる。本当にエネルギーが発射されているのか、試そうと思って、手をかざすと、またむずむずしたり、じーんと何か刺激を感じるので、かつぐ訳じゃないけれど、何か不思議なエネルギーが放射されているのではないか、とまじめに考えたことがある。
その寺は本堂の前が、広場になっていて、向かって左端の方は、たくさんの石の地蔵さんが真っ赤なよだれかけをかけて安置されている。
その地蔵菩薩はインドから招来されたものと聞いた。デカン高原の硬い石で彫像されたものであり、姿形は異国情緒を漂わせていたが、ちょっと見には、何の変哲もない、どこにでもあるような地蔵さんである。
地蔵菩薩の首にはすべて真っ赤なよだれかけがかけられていた。それとその脇には、おもちゃのような赤と黄色の羽を持った、かざ車が建てられ、風にちっちゃな音を立てて、回っていた。
数は数えたことはないが、何百体かあったように思う。菩薩は30cmほどの台座に小さな体を乗せていた。
よく見ると、よだれ掛けには、金粉がぴかぴか光っている。これは不思議なことであった。
もとをただせば、この寺にお参りにきた訳じゃない。
風の噂に、この寺にくれば、金粉が見えるということに、好奇心が踊ったから、大阪から4,500kmの道のりをものともせず、車ですっ飛ばしてきたのである。
来てみると、確かに噂通りに金粉を見ることが出来た。
これに味を占めて、たしか三回ほど地蔵菩薩を見に行った記憶があり、そのうちの一回は涎掛けの金粉をかき集めて、ひとつまみほど手のひらにのせ、塵紙に包んで家に持ち帰り
枕の下に敷いて寝たことがある。別に罰があたったという記憶はないが、それにしても不思議なスポットである。
本当に不思議なこともあるものだ、という思いをそのままにして、今日にいたっているが、今から思えば、パワースポットではなかったか。そんな気がする。
おそらく今でも、あの涎掛けには金粉が出て、ぴかぴか光っていることだろう。ひょっとしたら、デカン高原の石の中に、金粉が含まれていて、それが風化によって、表面に現れ風に乗って、涎掛けにたまったとも考えられなくもないが、それだったら、あの観音像に、手かざしした時のむずむずは、なんだったんだろう。
僕の頭では、説明がつかない。ここは聖地霊地でパワースポットだと解釈するのが一番無難な解釈だろうと思う。そしてこの結論は謎が解けないままの今は、正しいとも思う。
今年の夏あたりもう一度、今なお金粉が出ているのか、確かめに富山まで車で走りたい。
パワースポット。それは週刊誌に乗せられて、若い女の子が騒ぐだけあって、なかなか面白いスポットだ。そしてそれは確かに、この地上に存在すると、僕は信じている。
パワースポット。時々マスコミに登場してお目にかかる言葉である。そこに行けば身も心も癒されて、リラックスすると同時に、力をもらう場所とされている。
それでは一体どこがその場所なのだろうか。?
よく言われるところは、お寺や神社など、聖地や霊地であり、また大木や山や岩や
水辺など神聖なスポットや、神聖なものに生気・精気を感じて、そこをパワースポットとしている場合が多い。
僕は かなり昔になるが 、あるお寺で体験したことがある。
そのお寺は、最近建てられたもので、かなり大きい寺だった。本堂にまつられている慈母観音像に両手をかざすと、虫が這いずるように手のひらがむずむずする。
観音像から手を遠ざけると、むずむずは感じなくなる。本当にエネルギーが発射されているのか、試そうと思って、手をかざすと、またむずむずしたり、じーんと何か刺激を感じるので、かつぐ訳じゃないけれど、何か不思議なエネルギーが放射されているのではないか、とまじめに考えたことがある。
その寺は本堂の前が、広場になっていて、向かって左端の方は、たくさんの石の地蔵さんが真っ赤なよだれかけをかけて安置されている。
その地蔵菩薩はインドから招来されたものと聞いた。デカン高原の硬い石で彫像されたものであり、姿形は異国情緒を漂わせていたが、ちょっと見には、何の変哲もない、どこにでもあるような地蔵さんである。
地蔵菩薩の首にはすべて真っ赤なよだれかけがかけられていた。それとその脇には、おもちゃのような赤と黄色の羽を持った、かざ車が建てられ、風にちっちゃな音を立てて、回っていた。
数は数えたことはないが、何百体かあったように思う。菩薩は30cmほどの台座に小さな体を乗せていた。
よく見ると、よだれ掛けには、金粉がぴかぴか光っている。これは不思議なことであった。
もとをただせば、この寺にお参りにきた訳じゃない。
風の噂に、この寺にくれば、金粉が見えるということに、好奇心が踊ったから、大阪から4,500kmの道のりをものともせず、車ですっ飛ばしてきたのである。
来てみると、確かに噂通りに金粉を見ることが出来た。
これに味を占めて、たしか三回ほど地蔵菩薩を見に行った記憶があり、そのうちの一回は涎掛けの金粉をかき集めて、ひとつまみほど手のひらにのせ、塵紙に包んで家に持ち帰り
枕の下に敷いて寝たことがある。別に罰があたったという記憶はないが、それにしても不思議なスポットである。
本当に不思議なこともあるものだ、という思いをそのままにして、今日にいたっているが、今から思えば、パワースポットではなかったか。そんな気がする。
おそらく今でも、あの涎掛けには金粉が出て、ぴかぴか光っていることだろう。ひょっとしたら、デカン高原の石の中に、金粉が含まれていて、それが風化によって、表面に現れ風に乗って、涎掛けにたまったとも考えられなくもないが、それだったら、あの観音像に、手かざしした時のむずむずは、なんだったんだろう。
僕の頭では、説明がつかない。ここは聖地霊地でパワースポットだと解釈するのが一番無難な解釈だろうと思う。そしてこの結論は謎が解けないままの今は、正しいとも思う。
今年の夏あたりもう一度、今なお金粉が出ているのか、確かめに富山まで車で走りたい。
パワースポット。それは週刊誌に乗せられて、若い女の子が騒ぐだけあって、なかなか面白いスポットだ。そしてそれは確かに、この地上に存在すると、僕は信じている。