ダークダックス
あの美しいハーモニーを聞かせてくれた、男性コーラスグループが解散してから久しい。
メンバーのうちの一人が先日なくなった。いよいよ生の歌声は聞かれなくなった。本当に寂しくなった。これに変わる男性コーラスはまだ日本にはまだ出ていない。
ダークダックスについては、思い出がある。彼らは慶応ボーイだが、彼らを指導したのは小島正男といって早稲田の出身である。
僕が働いていた進駐軍のベースキャンプには、フルバンドが入っていた。小島正男とオールブルコーツというフルバンドだった。小島さんはそこでタクトを振っていた。バンドマスターは小原重則さんで、彼はベースマンだった。なぜか開始も終わりも、ムーンライトセレナーデだった。しばらくしてバンド名は小原重則とオールブルーコーツになって小島さんは見えなくなった。
余談になるが、当時はミサゴタダアキと東京キューバンボーイズや、原信夫とシャープアンドフラッツ、などが活躍していた。僕はそこが職場だったから、毎晩彼らの演奏を聴くことが出来た。常設はブルーコーツだったが、時々違うバンドが来て楽しかった。
ペギー葉山なんかが出演して英語で歌を歌っていた。当時それがどういう意味の歌詞か全然わからなかったが、ポールアンカのダイアナやテネシーワルツが盛んに演奏されていた。話が横道にそれたので、この辺にしておいて、小島さんの話に戻そう。
小島さんのお兄さんは朝日新聞のロンドンの特派員でインテリの間では名の知れた人だった。その小島さんが山田耕筰先生の病気見舞いに、ダークダックスのメンバーを連れて、大きな犬のぬいぐるみを先生の慰めにプレゼントしたらしい。
ところが先生は大の犬嫌いだと言うことを聞いて、冷や汗をかいたという話を耳にしたことがある。
音楽大学に出身者でない人達が、世界にも通用する、コーラスグループを作り上げた。まさに早慶出身者が作り上げたたまものである。
当時(昭和三〇年代の前期)小島さんは50代だとお見受けしたし、ダークダックスのメンバーも20代後半だったから、もうリタイアーしてから久しく、世を去った人も出てきている。
我が青春時代のあの美しい歌声を慶応ボーイの明るさで、世界の名曲を歌った歌はレコードやCDでしか聴けない。時代が遠のいたのか、時が移り変わったのか、後ろを振り返るとはるばるやってきたという感じはしないのだけど、時は確実に流れている。
あの美しいハーモニーを聞かせてくれた、男性コーラスグループが解散してから久しい。
メンバーのうちの一人が先日なくなった。いよいよ生の歌声は聞かれなくなった。本当に寂しくなった。これに変わる男性コーラスはまだ日本にはまだ出ていない。
ダークダックスについては、思い出がある。彼らは慶応ボーイだが、彼らを指導したのは小島正男といって早稲田の出身である。
僕が働いていた進駐軍のベースキャンプには、フルバンドが入っていた。小島正男とオールブルコーツというフルバンドだった。小島さんはそこでタクトを振っていた。バンドマスターは小原重則さんで、彼はベースマンだった。なぜか開始も終わりも、ムーンライトセレナーデだった。しばらくしてバンド名は小原重則とオールブルーコーツになって小島さんは見えなくなった。
余談になるが、当時はミサゴタダアキと東京キューバンボーイズや、原信夫とシャープアンドフラッツ、などが活躍していた。僕はそこが職場だったから、毎晩彼らの演奏を聴くことが出来た。常設はブルーコーツだったが、時々違うバンドが来て楽しかった。
ペギー葉山なんかが出演して英語で歌を歌っていた。当時それがどういう意味の歌詞か全然わからなかったが、ポールアンカのダイアナやテネシーワルツが盛んに演奏されていた。話が横道にそれたので、この辺にしておいて、小島さんの話に戻そう。
小島さんのお兄さんは朝日新聞のロンドンの特派員でインテリの間では名の知れた人だった。その小島さんが山田耕筰先生の病気見舞いに、ダークダックスのメンバーを連れて、大きな犬のぬいぐるみを先生の慰めにプレゼントしたらしい。
ところが先生は大の犬嫌いだと言うことを聞いて、冷や汗をかいたという話を耳にしたことがある。
音楽大学に出身者でない人達が、世界にも通用する、コーラスグループを作り上げた。まさに早慶出身者が作り上げたたまものである。
当時(昭和三〇年代の前期)小島さんは50代だとお見受けしたし、ダークダックスのメンバーも20代後半だったから、もうリタイアーしてから久しく、世を去った人も出てきている。
我が青春時代のあの美しい歌声を慶応ボーイの明るさで、世界の名曲を歌った歌はレコードやCDでしか聴けない。時代が遠のいたのか、時が移り変わったのか、後ろを振り返るとはるばるやってきたという感じはしないのだけど、時は確実に流れている。