日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

さあ何かを始めよう。

2010年09月15日 | Weblog
さあ何かを始めよう。

人はないが面白くて生きているのだろうか。通勤電車の人たち。疲れた顔、押し黙った人々元気がよく威勢よくはしゃいでいるのはガキばかり。

皆死んでいるのであろうか、、、、、。黙って目を閉じている。
目を開けた人はうつろな目で一点を見つめている。笑いもしない、泣きもしない。
皆退屈しているんだよなぁ。

さあ何か面白いことを始めよう。胸のすくような、胸がワクワクするような何事か、何でもいい。始めよう、始めよう。座して死を待つ愚は後悔の種。

民主党代表選

2010年09月14日 | Weblog
民主党代表選

菅さんが勝った。が小沢さんも地域主権による現在の官僚政治の変革を主張した。
個人的な考えでは小沢氏の方が迫力があり、実行力が有りそうだった。
しかし戦いは決着が付いた。

小沢さんが本気で官僚政治を改革してくれるのなら、党員の一人として、官僚政治打破に先陣を切って貰いたい。それでこそ民主党切っての実力者と評価されるだろう。

いずれにせよ最も望ましいのは国民との約束を実行することだ。諸般の事情からそれが難しいなら、説明が必要だが、近頃の円高は中小企業には待ったなしである。なんとか知恵を絞って、両者協力してこの経済的苦境から脱却する道筋を付けてほしいものだ。

そこでは反小沢、反菅という次元は無いはずだ。苦しんでいる国民のために一命をなげうって、実行して貰いたい。

2010年09月13日 | Weblog


久しく旅に出かけない。今年の夏は特別に暑かった。とはいえこれは日本のことであって、タイバンコクは4月には、もっと気温が高い日が続く。それでも10kgの荷物を背負ってバックパッカーをしていた。バックパッカーだから35度以上の気温があっても、宿にはクーラーはなく天上からつるした大きな扇風機が音をたてて廻っているだけである。暑さしのぎと言えば、水シャワーを浴びるくらいのことだ。

そんな悪条件にもめげず、自分との戦いだと独り言を言いながら、旅を重ねた。しかし最近は外に出ることなく、旅には出ない。旅にでなくなると旅の良さが見えてきた。
旅は目に触れるもの、耳に聞こえるもの、総じて五感にふれるものが脳をある種の興奮状態を呼び起こす。目先の景色が変わるのと同様に、アイデアが次々に生まれる。明らかに脳は活性化している。

何かを作ろう、見いだそうとしている僕には、旅こそが創作の源泉である。
ある本で読んだが、芭蕉は東海道を何回も往復したものでないと、俳諧は出来ぬとまで言い切っている。

旅と言っても僕の場合は何かを創作したいという気持ちが根底にあるので、人間味のある、あるいは感じられる旅が前提になる。
例えば近代的なホテルは避けて、出来るだけ庶民の匂いのする木賃宿に泊まる。そして何でも見てやろう、なんでも聞いてやろう、と貪欲なまでに神経をそばだてる。自分の専門とは違う人と出会うことによって、なにがしかの収穫を得ようと勤める。
マーケットに行くと、そこにはその土地の人々の味嗅覚の中に、独特なものをみいだすように、神経をそばだてる。

このようにして僕は二冊本を書いた。売れるように製本したけれど、誰も買ってくれない。当たり前の話だ。本書いたことを知っているのは僕だけだから。宣伝や広告をしないから、世の中に僕の本の存在を知る人はいない。

売れない本を作っても仕方が無いじゃないかと、突っ込まれるとぐの音もでないが、それでも僕は旅を続けて創作活動をしようと思う。
国内旅でも外国旅でもどちらでも良い。生涯旅には憧れをもって生きたいものだ。

振興銀行の破綻

2010年09月12日 | Weblog
振興銀行の破綻

小泉竹中のもとで、アドバイス役をつ とめた木村が振興銀行の会長になったが、結局銀行法違反で逮捕された。
思うに評論家とか学者だとか識者と言われる連中は、言葉でしゃべったり論文を書いたりする程度以上のことはしてはいけない。というのは彼の説に当てはまらない見えない部分が実際に経営をしてみると、現実の問題として浮かび上がってくる。経済の状況なんて読み切れる物ではない。そこに落とし穴がある。
記憶は遠のいたがかって一橋大学の教授が自分の経営理論を実践して会社をつぶしてしまった事があった。そのときに僕はその教授のどこに失敗の原因があるのか考えたことがあるが、経営というのは理屈で行う物ではなくて、人格や人生観を含めて人間の総体で行う物で頭だけで考えて出来る物じゃない。どんなに理論が正当で精緻な物であっても
経営には自分以外に多くの人が関わるので、その人達が自分の思うように動いてくれなければ、それだけで経営は立ちゆかなくなる。その辺のことが学者にはわからないのだ。
だから自説を信じて経営するのだが、時々刻々変わる経済情勢などとうてい読み切れる物ではない。
今回の木村の場合もそうである。世間知らずの男が経営できるのか。僕は最初から彼のことをぎもンに思った 。どんな奥の手があるのだろうか。僕の関心はこの一点にあった。結局彼には奥の手は全くなかった。巧言を吐いた手前、苦し紛れに違法を承知しながら部下に命令を出したのだ。
聴いていたら竹中の説ももっともだとは思ったが、彼は賢い。現場には手を出さなかった。手を出して何かを経営しよう物なら、木村と同じ運命をたどったことだろう。経営とか経済というのはある意味で神の御手による物で人間には読み切れない部分がある事を知って謙虚になる事が大切だ。

自信を持つことはいいが、レッセフエールである限り人知の及ばないことがあることをこの銀行破綻は教えてくれた。もし彼のやる様なことが絶対に儲かると言うのなら、彼がやる前に3大バンクが手を出したに違いない。手を出さなかったことを見ると、経営経験から危ないと踏んだからである。はっきり言えば学者や評論家が考えているほど世の中は甘くないと言うことだ。

器量

2010年09月12日 | Weblog




人はその器量に従って花を咲かせるから咲く花はいろいろである。
1. 毒々しい原色の花
2. 清楚な白百合
3. 平凡そのものの花
4. 泥沼をかいくぐり抜けて清い蓮の花
えんま様はその花をごらんになって地獄行き、極楽行きを決められるのだろうか 

押尾事件

2010年09月11日 | Weblog
押尾事件

この事件が大きく報道されるまでは、ぼくは彼が俳優であると言うことも知らなかった。元々芸能人には余り関心がないので、裁判がどっち向こうが自分には関係ないと割り切っていた。

ところが裁判が進行する中で、
この裁判は裁判員裁判で普通の人が彼の罪状を裁く事に成ると言うことをしって、俄然関心を持つようになった。どんな結論が出るのだろうか。

僕はつぶさに新聞報道を読み、テレビ報道に耳を傾けた。
死人に口なしと言えばそうだが、瀕死の状態の女性を前に、救急車の出動を頼まなかったという事実には、これには何か裏、つまり救急車を呼ぶと彼には不都合なことが起こるからだという思いが強くなった。

彼は彼女が麻薬を自分にわたして服用したと主張しているが、これは証人出廷の出廷によって 覆された。
予断を持って発言すれば、真実は彼が麻薬を持っていて、それを彼女に飲ました。ところが服用後、彼女の容体が急変して、彼は救命措置を講じないまま放置して死に至らしめた。

何故救急車を呼ばなかったのか。それは麻薬使用がばれる怖れがあったからだ。つまりばれるのが怖くて救急措置をしていれば助かったかも知れない命をみすみす死に追いやった。これはもう完全な犯罪である。
全て自分の予断と偏見でものを言ったが、あながちでっち上げたストーリーだとはおもわない。おそらくこういう筋書きが真実に近いだろう。

それにしてもいかなる理由があろうとも、生命の危機に立っている人を前に素人である自分なりの救命措置をしたというのは、嘘だろう。じゃ何故死後でも良い、消防署なり、警察に連絡しなかったのか。連絡したのは死後何時間たって友人が連絡したと言うじゃないか。いくら彼が自己正当性を主張してもすっきり信じるわけにはいかない。そこには疑問が残る。
この僕がえがいたストーリーと裁判員の見方とが一致するのかどうか。
有罪は間違いないと思うが、保護責任遺棄についてはどうのように認定されるか。
彼の罪状よりは裁判員達の判断に僕の関心は向いている。

湧出したエネルギーによって

2010年09月10日 | Weblog
湧出したエネルギーによって

貧乏人の国ほど人々はエネルギッシュに生きている。三十五度を越す中50-60キロもあろうかと思われるドンゴロス袋入りの穀物を担いでトラックに積み降ろししている。

夏の盛りに肉体労働をすることのつらさは若い時に十分経験済みである。

頭を使うか肉体をを使うかだけど、まあよくやるなあと眺める。極限に近い生活状態の中からは、見事なエネルギーが湧出するものだ。
その湧出したエネルギーによって人はこんなに過酷な労働も厭はないのだろう、
バンコクのチャイナ・タウンの雑踏の中でフット思った。

時代の流れ

2010年09月09日 | Weblog
時代の流れ


鈴木宗男の有罪が確定した。本人がどう思おうと、これで彼の政治生命は多分終わりになるだろう。
多弁で行動力があり、庶民の気持ちを察するに敏なこの男のサポーターやフアンが多いところをみると、犯罪とは別の次元で人気があるのだろう。

それは一体何なんだろうか。こういうタイプの政治家の系譜をたどると田中角栄、小沢一郎に連なる何かを感じる。行動力、説得力、すごみがあり、情で人心を絡め取る術に長けている。

悲しいかな彼らは金の力を借りて自己主張を通そうとする。そして必要な金を捻出するために、違法だと疑いをかけられたり、違法そのものであったりする行動に出る。田中にしても鈴木にしても地位を利用した収賄罪にひっかかっている。

思うに彼の哲学は人は金によってどうにでも成ると言う信念があるみたいだ。そして裁判にかけられて有罪になると、俺は悪くない、検察や裁判所が悪いと自己責任を棚に上げて、相手側へ罪をなすりつけ、相手を悪く言うことによって自分は正義であるとほのめかす。

鈴木の場合は時代の流れを読み違えているかわかってないか、のどちらかだ。田中時代の庶民の政治感覚と現代の一般人の政治感覚は随分違っている。そうでなければ、今回の民主党代表選で小沢のいわゆる豪腕と言われる実行力に期待が集まりながらも、いまいち現職を大きく引き離す結果にはなっていない。やはり政治と金の問題が暗雲となって影を落としているのである。

田中時代には少々の後ろめたいことがあっても、実行力を見せつけさえすれば何とかしのげたが、あれ以来政治と金は常に問題になり、クリーン政治が人々の欲するところになってきている。鈴木にとっては都合の悪い方向に世論は動いている。そしてそれを当然のこととして、その部分がクリーンでなければ、世間は受け入れない状況が生まれつつある。これこそ時代の流れというものであろう。

人生とはそんなもの???

2010年09月08日 | Weblog
人生とはそんなもの???

近頃はメールで手紙を書いて送ってしまうので、手書きの手紙は嬉しい。

身辺騒々しう、外憂内患有り霊の声を求めることや切であります。煩悩ますますさかん、その行くところを知らず、、、
と書いてある寺の和尚さんから手紙をいただいた。山寺で悠然とお過ごしかと想像していたが、これじゃ下界と同じじゃないかと苦笑した。
思うに人間は命果てるまで煩悩にまとわり付かれて、日々を過ごしている。
比叡山の千日回峰をやったお坊さんは生き神様と崇められて、満願の最終日には、修行者が一人一人の頭上を、数珠でなでて、厄払い、鬼祓いをする。
そのご利益を受けようと大勢の人が比叡山に登ってくる。
そんなこともあろうが、普通のお寺さんは一般人より修業は積むものの、それが坊さんの人格形成にどれほど役立っているのかと突き詰めると、欲を吹っ切った人は少なく、山寺の和尚さんのように煩悩断ち切ろうともがきながら、現実は煩悩の渦の中でもがいている。
徒然草の作者吉田兼好は一刻を争って仏道に入るべしと説いているが、その意味、未だ判りかねて、無為の日々を過ごしている。庶民の生き方はこれでよいのだろう。決して開き直りではなくて、ただ漫然とそう思う。
明日は何か良いことが起こるかも知れないと、期待して何時も裏切られているから慣れっこになって、夢は裏切られて当たり前だと表面は割り切っている。
万事塞翁が馬だから、天に任すほかはな。人生とはそんなもの???

 恐れないで前に進もう

2010年09月07日 | Weblog

       恐れないで前に進もう


熱い思いを持っているとそのハートが燃えるのが呼び水になって原動力が生まれる。
そのためには興奮すること、燃えること、が大切である。

今までブレーキを踏みすぎていたかもしれない。

恐れないで前に進もう 

毎日殺人事件が

2010年09月06日 | Weblog
毎日殺人事件が

昨日は名古屋で81才の女性が包丁で刺し殺され、今日は大分で看護婦の絞殺死体が発見された。
人権が叫ばれるようになって、余計に殺人事件が増えたみたいだ。
昭和時代にはこのように連続殺人事件は起こっていなかったように思う。近頃は毎日どこかで殺人事件が起こっている。従って日本は治安の良い国だとの評判は地に落ちた。

我が生きんが為に強盗殺人を働く場合は追い詰められた人間の哀れな姿も想像できるが、近頃の殺人事件は、訳が分からないものが多い。その上カンタンに人を殺す傾向が目立つ。

世の中がゆるんでしまえば、人の心にも緩みが生じ、命を命とも思わない行動に走りカンタンに人を殺してしまう。

一体どうすれば数を減らすことが出来るのだろうか。一旦ゆるんだり、失ったりした道徳心を元に戻すことは大層困難なことだが、社会全体を引き締める事以外には無いようだ。その一環として、厳罰主義を採用するのも良いだろう。

恣意的に他人の命を奪ったものは、自分の命と引き替えになる。つまり問答無用で死刑に処する。それも即座に社会的報復として行う。こうすることで殺人事件がすぐに減るとは思えないが、見せしめの効果は期待できるのではないか。勿論命の尊さについての教育は更に強化して行うのは言うまでもないことだが。
殺人事件が日常化されると、社会に「仕方がない」というあきらめがでて更に無関心が広がる。こうなると悪い奴はやりたい放題の悪事を働くだろう。
何とか手を打たなければ。近頃つくづくこんな事を思うようになった。

感性の方を選ぶかな

2010年09月05日 | Weblog


感性だけで何となくお粗末に思え、一段下へ置いていた。

知性の固まりのような作品は無味乾燥ですぐに飽きた。

程良く両者のバランスがとれているのがもっとも望ましいのだが、それが一番難しい。

どちらかを選ばなければならないとすればやはり

感性の方を選ぶかな。

少なくとも知性と感性を、同じウエートを置いてみる必要がある。とは思いつつも


小沢一郎首相

2010年09月04日 | Weblog
小沢一郎首相

代表戦がはじめって両陣営はさかんに選挙活動しているが、ウエイトは議員に置かれサポーターの比重はものすごく軽いものである。と言うことは国民の意思は重く反映されない。
昨日彼の主張を聞いた。口先だけの説得では限りある。
彼は言う「国家権力で捜索して犯罪的なものは何もなかったのだから政治と金の問題には決着が付いていると。
しかし国民は彼の言い分には納得しない。だから小沢というと政治と金の問題で心ゆくまでの説得は受けていない。逆に国民はこの問題について釈然としないものを持っている。そして僕はこの庶民の釈然としない気持ちこそ正鵠を得ていると思っている。
ところで彼が首相に選ばれたとき、検察審査会が再捜査という結論を出した時、国民からそのような目で見られている人が日本を代表する人物として、海外からはどのように見られるだろうか。
昔から彼の政治手法は豪腕だと言われている。今日の閉塞情況から彼が豪腕ぶりを発揮して現状を変革してくれると言う期待が彼にはある。だから首相になる確率は50*50だという。どちらがなっても良いだろうが、今日の経済状況を早く変えてほしい。

対決

2010年09月03日 | Weblog
対決

民主党代表選挙が始まった。両者の言い分はアウトラインは記者会見や、新聞報道で判るようになった。

面白いのは外国例えばアメリカ、イギリスの小沢に対する見方である。政治家としての小沢に「スキャンダルにまみれた陰の実力者」とニューヨークタイムスは報じ
ウオールストオリートジャーナルは「日本国民の多くは彼が否定的な国民世論に、出馬をあきらめると予想していた。」 と否定的に報じている。
英国のフイナンシャルタイムスは「彼は日本の首相になるべきではない」と言っている。海外から見れば小沢像はそのように把握されている。こういう見方は米英の国益に添った見方だとは思えない。それを抜きにして客観的に評しているように僕には思える。

彼につきまとう豪腕とは一体何なのか。もしこれを政治力だと言うなら、それは彼の師匠田中角栄の手法だろう。
田中には政治と金がつきまとった。この金権体質が小沢の政治力になると言うのならそれは余りにも世論をバカにした話だ。
政権交代をした段階で金権政治は払拭されたはずだ。自民党の金権政治からの脱却が政権交代の意味だったから。

小沢の援助や指導の下に当選してきた国会議員は小沢を選ぶと思われるがそれは義理人情の話で国民代表としてはいかがなものであろうか。

一方菅総理に付いて言うならば、何せ決断が遅い。雇用が第一だという。それは判る。だが雇用する側がデフレや円高でへたっているのだから、まずデフレから脱却する、円高を食い止める手立てが喫緊の課題ではないのか。どうもその辺が釈然としない。町工場見学は単なるパホーマンスとしてしかうつらない。

もう経済政策でやるべき事は全て手を打ったとわおもわれないし、全てをやり尽くしたというのであれば、日本沈没しかあり得ない。
小沢はスネに傷を持つ信用できない人物であり、菅は先手必勝の経済政策をとるとも思えない。なんと歯がゆいことか。

童謡

2010年09月02日 | Weblog
童謡


私の感覚で判断すると、以前うたわれていたような場、幼稚園では、価値の高い童謡が歌われなくなった。したがって、幼児は、芸術的童謡に、触れることがなくなった。
そして、それは無理もない話である。 近ごろの幼稚園の先生は、芸術的童謡、を知らないからである。加えて、先生に、音楽性がない。
そこで私は、ひとこと言いたい。
教師となって、いろんな子供の心に、音楽いう色を塗るのなら、何色が、この子の生涯にとって良いものか研究してほしい。
つまり、童謡の研究をしてほしい。そして自分が、芸術的な質の高さを持つ童謡と、流行歌、童謡との、差をはっきり認識して、価値の高い唄を会得して欲しい。
作曲家に付いて言うならば、山田耕筰、中山晋平、大中恩 寅二 など詩情あふれる芸術作品がたくさんある。こういうハイレベルの芸術作品いわゆる本物を幼児達に教えてほしい。