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■【きょうの人】 1224 ■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 ■ 沢庵 宗彭 生誕

2020-12-24 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1224 ■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 ■ 沢庵 宗彭 生誕

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及


 いっこう しゅんしょう
 暦仁2年1月1日(1239年2月6日)-- 弘安10年11月18日(1287年12月24日)


 鎌倉時代の僧侶で、伝記に謎が多く、生没日も定かでなく、実在すらが疑問視されていましたが、考古遺物により、存在が証明されました。

 伝承によりますと、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野氏の草野永泰の第二子に生まれたとあります。

 俊聖(一向上人)は、寛元3年(1245年)に、播磨国の書写山にある圓教寺に入寺して天台教学を修めることとなり、建長5年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。

 翌年夏には書写山を下り、奈良の興福寺、鎌倉の蓮華寺(光明寺)をはじめ各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏を修し、道場を設けるまでに至りました。

 一遍と並んで浄土系遊行聖となり、各地を回り踊り念仏を広めました。

 弘安七年、近江蓮華寺を立てて開基となりました。49歳で同寺で最期を迎えたといわれています。

 

■ 沢庵 宗彭 生誕


 たくあん そうほう、澤庵
 天正元年12月1日(1573年12月24日)- 正保2年12月11日(1646年1月27日)


 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、諡は普光国師、号に東海・暮翁などがあります。

 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。

 8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。

 天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得ました。

 天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しています。

 天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。

 文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名しています。

 慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交がありました春屋に住職の派遣を依頼しました。

 春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。

 慶長12年(1607年)、沢庵は、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。

 元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入りました。

 寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。

 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説があるようです。
 

 

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 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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■【きょうの人】 1223 アークライト,リチャード 英国人、水力紡績機を発明

2020-12-23 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1223 アークライト,リチャード 英国人、水力紡績機を発明

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■ アークライト,リチャード 英国人、水力紡績機を発明


 Sir Richard Arkwright
 1732年12月23日-1792年8月3日


 イギリスの発明家で、1771年に、水車を動力とする水力紡績機を発明しましたが、その特許は後にくつがえされてしまいました。

 生の木綿から繊維の整った塊を作るカード機の特許も取得しています。

 イギリスに産業革命をもたらした起業家の1人といえる人です。

 動力と機械と半熟練工と新たな原料(木綿)を結びつけ、フォードの1世紀以上前に、糸の大量生産を成し遂げた、大量生産の考え方を工業に取り入れた人です。

 また、組織を作り上げる能力に優れており、彼のクロムフォード工場は、当時最も近代的な工場だといわれています。

 近代紡績業の父とも言ってもよいほどの人です。

 

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■【きょうの人】 1222 普明国師 臨済宗相国寺の第二世

2020-12-22 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1222 普明国師 臨済宗相国寺の第二世

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■ 普明国師 臨済宗相国寺の第二世


 ふめいこくし
 応長元年12月22日(1312年1月31日)-元中5年/嘉慶2年8月12日(1388年9月12日)


 室町時代の臨済宗の禅僧で、室町幕府の帰依を得て臨済宗相国寺の第二世となりました。事実上の開山国師です。

 五山文化の発展に寄与した。ほかに天龍寺や臨川寺の住職をしています。

 春屋は道号、別号に芥室、不軽子など。諡号は知覚普明国師です。

 母方の叔父である夢窓疎石のもとで受戒すると天龍寺の住職となりました。室町幕府に対して、五山第一の南禅寺の楼門(山門)新築を提言しました。

 幕府は楼門建設の援助をしましたが、南禅寺と紛争状態であった園城寺がこれに強く抗議をしました。

 比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や妙葩の配流を求め、紛争は政治問題にまで発展してしまいました。

 妙葩は頼之と対立して天龍寺住職を辞して阿波国光勝院、さらに丹後国雲門寺に隠棲することになりました。

 1379年(康暦元年/天授5年)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰しました。

 

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■【きょうの人】 1221 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家

2020-12-21 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1221 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家

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■ 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家


 きたおおじ ろさんじん
 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日


 篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持つ、日本の芸術家で、本名は、北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)といいます。

 魯山人は、母の不貞によりできた子で、父は割腹自殺、生後すぐに里子に出され、養家を転々としました。この鬱屈は、終生払われることはなく、人格形成に深甚な影響を及ぼしたといわれています。

 傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、横山大観をはじめとする戦前を代表する芸術家・批評家などを容赦なく罵倒しました。

 いっぽうで、その天衣無縫ぶりは、吉田茂などから愛されるという人物でもありました。

 その気難さは、お手伝いさん曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それが出来ずに叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」という話も残っているほどです。

 

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■【きょうの人】 1220 藤堂高次 江戸城本丸消失後の復興 日光大猷院石垣普請

2020-12-20 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1220 藤堂高次 江戸城本丸消失後の復興 日光大猷院石垣普請

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■ 藤堂高次 江戸城本丸消失後の復興 日光大猷院石垣普請


 とうどうたかつぐ
 慶長6年閏11月11日(1602年1月4日)-延宝4年11月16日(1676年12月20日)


 藤堂高虎を父に持ち、幼名「大助」で、徳川家光や家綱までの時代の武将です。

 父、高虎には、なかなか実子ができなかったため、丹羽長秀の子を養嗣子・高吉として迎えていました。

 幸い、高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれ、寛永7年(1630年)、高虎が病死すると、高次がそのあとを継ぎました。

 寛永9年(1632年)の江戸城二の丸、寛永16年(1639年)の江戸城本丸消失後の復興、慶安5年(1652年)の日光の大猷院霊廟(だいゆういん、徳川家光の霊廟)などの数多くの石垣普請を行いました。

 ところが津藩はこれらの石垣普請の負担により財政が極度に悪化し、高次は年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めました。

 しかしなおも江戸幕府の普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどっていきました。

 寛文9年(1669年)、隠居して家督を長男の高久に譲り、延宝4年11月16日(1676年12月20日)に死去しました。

 

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■【きょうの人】 1219 ベーリング  探検家 ベーリング海峡を発見

2020-12-19 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1219 ベーリング  探検家 ベーリング海峡を発見

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■ ベーリング  探検家 ベーリング海峡を発見

 Vitus Jonassen Bering
 1681年8月 - 1741年12月19日(ユリウス暦12月8日)

 デンマークのホーセンス生まれのロシア帝国の航海士で、探検家として知られています。

 アムステルダムの学校を卒業し、東インドへの旅の後、ロシア海軍に入隊、大北方戦争ではバルチック艦隊(バルト艦隊)の一員として戦いました。また、オスマン帝国との戦争でも闘っています。

 2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認しました。また、アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見しました。

 ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海、ベーリング海峡、ベーリング島、ベーリング地峡などがあります。

 

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■【専門業】経営コンサルタント独立起業 5つの要諦 4-1 必要資金の準備

2020-12-18 12:03:00 | 【専門業】 経営コンサルタント独立起業5つの要諦

■【専門業】経営コンサルタント独立起業 5つの要諦 4-1 必要資金の準備

 

 仕事柄、経営士・コンサルタントへの独立起業の相談をしばしば受けます。

 最近は、検索サイトで「経営コンサルタント」をキーワードとして検索して、「経営士・コンサルタントへの道」のページから相談に来られる方が多くなりました。

 経営士・コンサルタントとして、いきなり独立するのではなく、手順を踏んでから独立起業されることをお薦めしています。

 その手順を「5つの要諦」としてまとめてみました。

メモ

■4 独立起業のおける必要資金と予算
  

 経営士・コンサルタントとしての独立起業するのには、資金をどのくらい準備をしたら良いのでしょうか?毎月どのくらいの経費がかかるのでしょうか?

 独立起業する人であれば、誰しもが気になるところです。

 経営士・コンサルタントに特化して説明しますが、一般の独立起業関連の市販書も参照してください。

 

4-1 必要資金の準備

 しばしば「コンサルタントは資金がなくても開業できる」と言うことをしばしば聞きますが、これは正しいでしょうか?


 私は、これから独立起業したいとういう人から相談をしばしば受けますが、「必要資金は充分お持ちですか?」と問うようにしています。

 「コンサルティング業は資金がなくても開業できるのでは?」という答えが返ってくることが多いのです。


 経営士・コンサルタントに限らず士業としての独立起業は、すぐにクライアント・顧問先がつくわけではありません。

 何年もクライアント・顧問先なしの人も結構いますし、経営士・コンサルタントが見つかってもいつまでもその経営士・コンサルタントが自分の顧客として続くわけではありません。

 収入には波があります。それに持ちこたえられるだけの資金を持ち合わせている必要があります。

 すなわち、経営士・コンサルタントといえども起業時に資金がなければ独立起業すべきではないのです。


 では、どのくらいの資金が必要でしょうか?

 「起業時に必要な資金プラス3年分の生活費」が必要でしょう。

 起業時にどのくらいの資金が必要かは、後述の条件により異なりますが、自分でも算定できるでしょう。

 一般的な市販書籍なども参考になります。

 

【 注 】


経営コンサルタントを目指す人の60%が閲覧するといいます「経営コンサルタントへの道というページも併せてご参照くださると幸いです。

 

■ 経営コンサルタント独立起業5つの要諦 サイトからも閲覧できます。

1. 自分自身を見つめ直す
2. 必要な知識・能力を身につける
3. 事業ドメインの明確化と差異化
4. 独立起業の必要資金の準備と予算
5. 事業計画書で自分の考えをまとめる
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■【きょうの人】 1218 柳沢 吉保 綱吉に重用されて権勢を振るう

2020-12-18 06:33:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1218 柳沢 吉保 綱吉に重用されて権勢を振るう

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■ 柳沢 吉保 綱吉に重用されて権勢を振るう


 やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす
 万治元年12月18日(1659年1月10日)-正徳4年11月2日(1714年12月8日)


 江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名で、第5代将軍徳川綱吉も重用され、元禄時代には大老格として幕政を主導しました。

 柳沢氏は、清和源氏の流れを引く、甲斐源氏武田氏一門の末裔を称する、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属しました。

 武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が、家康に仕官しました。

 寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見し、これが契機で後に大役を担うことに繋がります。

 世の中で注目される人は、良きにつけ、悪しきにつけ、チャンスをものにするのが上手と言えます。

 コナン度役などを経験した後、川越城を拝領するなど頭角を現し、常盤橋内の隣地に屋敷を拝領しました。

 翌元禄8年4月21日に駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となります。柳澤が、なぜ、遠いかが後に名を残すのか、お恥ずかしながら知りませんでしたが、これで納得できました。

 綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の姪を受け、成功させます。

 それらの功績が認められ、元禄14年(1701年)将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗るようになりました。

 犬公方の手伝いをしたり、忠臣蔵の判断に大きく関与したり、桂昌院の官位などでは裏工作をしたりと、綱吉寄りの政策を続けました。

 綱吉死後は、次第にその陰が薄れ、隠居後は、江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉がたびたび訪れた六義園の造営などを行いました。

 

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■【きょうの人】 1217 沢庵 宗彭 たくあんの食べる音をどのようにすれば消せるのでしょうね

2020-12-17 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1217 沢庵 宗彭 たくあんの食べる音をどのようにすれば消せるのでしょうね

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■ 沢庵 宗彭 たくあんの食べる音をどのようにすれば消せるのでしょうね


 たくあん そうほう、澤庵
 天正元年12月1日(1573年12月24日)- 正保2年12月11日(1646年1月27日)


 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、諡は普光国師、号に東海・暮翁などがあります。

 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。

 8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。

 天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得ました。

 天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しています。

 天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。

 文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名しています。

 慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交がありました春屋に住職の派遣を依頼しました。

 春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。

 慶長12年(1607年)、沢庵は、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。

 元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入りました。

 寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。

 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説があるようです。

 

 禅宗の修行では、食事の時に音を立てないようにしているそうです。

 たくあんの漬物などが出たときには、どのようにして音を出さないようにして食べるのでしょうね。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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■【心 de 経営】 連載 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 徒然草を経営に活かす

2020-12-15 09:06:00 | 【話材】 話したくなる情報源

■【心 de 経営】 連載 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 徒然草を経営に活かす

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

 序段を含めて244段から構成され、文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心ですので、私のような凡人でもわかりやすく読めます。

 

 兼好の思索や雑感、逸話が順不同に語られ、長い段もあれば、短いのもあります。内容は多岐にわたっていますが、そこからは、兼好が歌人としての素養を持つこともうかがわれます。

 仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えていたようで、仁和寺に関する説話が目につきます。平家物語の作者に関する記述もあり、同時代の事件や人物についても記され、歴史資料としても広く利用されています。

 執筆直後には、あまり注目されなかったようです。

 室町中期に僧・正徹が注目し、自ら書写した写本に、兼好法師の作品として、略歴と共に紹介しています。応仁の乱を体験してきた弟子達は、「無常観の文学」という観点から『徒然草』に共感をよせたようです。

 

 高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。

 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。

 

■ 吉田兼好 三代随筆「徒然草」の作者


 よしだけんこう
 弘安6年(1283年)頃?-文和元年/正平7年(1352年)以後?


 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家です。卜部氏は、神職の家柄で、父治部少輔・卜部兼顕も吉田神社の神職でした。本名は「卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)」といいます。江戸時代以降は、吉田兼好と通称されるようになりました。

 出家しましたので「兼好法師(けんこうほうし)」とも呼ばれ、単に「兼好」と呼ばれることも多いです。

 清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび、日本三大随筆の一つとされる「徒然草」の作者であることはよく知られています。


 後二条天皇の生母である西華門院が、兼好が仕える堀川家の娘であったことから、兼好も六位蔵人という役人に任じられました。すなわち、兼好は、30歳前後で出家遁世するまでは、お役人だったのです。

 出家した後、修学院や比叡山横川などに籠って仏道修行に励んだり、和歌に精進したりしました。鎌倉にも二度ほど訪れたという記述もあります。

 軍記物『太平記』巻二十一の中で、艶書(ラブレター)を代筆したという逸話はよく知られています。

 

【Wikipedia】より

 

■ 発信

 当面は、毎週水曜日の「お昼休み号」を中心に発行いたします。

 ランチの待ち時間やランチ後に、ゆったりしたお気持ちで読んでくださると、経営管理や人生の送り方に何らかのヒントが得られると思います。

■ バックナンバー

   https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/eb88c477696adc4e2e78376c81b7274b

 

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