■【きょうの人】 1224 ■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 ■ 沢庵 宗彭 生誕
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■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及
いっこう しゅんしょう
暦仁2年1月1日(1239年2月6日)-- 弘安10年11月18日(1287年12月24日)
鎌倉時代の僧侶で、伝記に謎が多く、生没日も定かでなく、実在すらが疑問視されていましたが、考古遺物により、存在が証明されました。
伝承によりますと、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野氏の草野永泰の第二子に生まれたとあります。
俊聖(一向上人)は、寛元3年(1245年)に、播磨国の書写山にある圓教寺に入寺して天台教学を修めることとなり、建長5年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。
翌年夏には書写山を下り、奈良の興福寺、鎌倉の蓮華寺(光明寺)をはじめ各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏を修し、道場を設けるまでに至りました。
一遍と並んで浄土系遊行聖となり、各地を回り踊り念仏を広めました。
弘安七年、近江蓮華寺を立てて開基となりました。49歳で同寺で最期を迎えたといわれています。
■ 沢庵 宗彭 生誕
たくあん そうほう、澤庵
天正元年12月1日(1573年12月24日)- 正保2年12月11日(1646年1月27日)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、諡は普光国師、号に東海・暮翁などがあります。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。
8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。
天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得ました。
天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しています。
天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。
文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名しています。
慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交がありました春屋に住職の派遣を依頼しました。
春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。
慶長12年(1607年)、沢庵は、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。
元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入りました。
寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。
書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説があるようです。
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【 注 】
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