久慈 次郎(くじ じろう、1898年10月1日 - 1939年8月21日
先日ネットを見ていて「過去最強の捕手は?」という質問を見かけた。
最強の意味は良く分からないが、要するに最も優れたキャッチャーは誰か?
ということ。
大勢は過去に三冠王(1965)を獲り、8年連続HR王ホームラン王に輝いた野村克也という声が多かったが、なかにはこんな書き込みもあった。
「現役時代の野村の守備を見たことがないだろうが、あのような下手な選手が過去最強の捕手というにはおこがましい」・・そのような内容だったと思うが、今では1962~1968年の全盛期を知る人はそう多くはないはず。
すでに52年も前の話だ。
当時15歳の少年でも67歳になっているわけだが、きっと投稿をした人物は全盛期を過ぎたロッテもしくは西武時代の野村のプレーを言っているのであろう。
プロ野球に限れば、私が印象に残る捕手といえばかって巨人で活躍をした森昌彦(後に祇晶に改名)であったり、阪神でHR王になった田渕や野村の教え子である古田敦也があげられる。
しかし、プロ野球発足前に時代を戻すと、なんといっても「久慈次郎」だろう。
今のプロ野球ファンのほとんどは知らないだろうが都市対抗野球での久慈賞と橋戸賞は聞き覚えがあるはずだ。
さすがに戦前の人であり、プロ野球発足前の選手だから、私自身も名前は知っていても詳しくは知らなかったが、調べてみると彼は岩手県盛岡市出身で盛岡中学卒業後早稲田大学に進学。野球部では誰もが知る野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていたそうだ。
岩手県には
大学卒業後は北海道函館市の函館水電(現在の北電)に入社、同社に務めつつ函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレー、永く函館に在住した。
当時はプロ野球のない時代であったが、函館オーシャンは北の名門野球クラブとして全国にその名を轟かせることになる。
とくに久慈次郎の名を日本全国に知らしめたのは、1934年(昭和9年)にアメリカ選抜チーム(ルー・ゲーリック、ベーブ・ルース、ジミー・フォックスなど)が来日するために作られた選抜チームに呼ばれ日本を代表する名捕手として今もなお語り継がれている。
最も有名な試合は、静岡草薙球場での伝説の名投手沢村栄治とバッテリーを組みルー・ゲーリックの本塁打による1失点の試合だろう。
当時の日本代表は、アメリカ大リーグと比べたら大人と高校生ほどの差があったに違いない。
この試合で沢村栄治の名は日本全国に知られることになったが、残念なことに久慈次郎も沢村栄治も後に非業の死を遂げることになる。
1927年には函館水電を退社し、クジ運動具店を開業。店主として10人近くの従業員を雇う企業家としても活躍し函館市会議員としても地元に大きく貢献をした。
日本で初めて職業野球球団が設立された時には、現在の読売巨人軍から主将として誘われたが、その時期には函館大火があり地元復興に尽力するため断ったというエピソードも残っている。
1939年8月19日、選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部との試合に臨み、この試合で不慮の事故(頭部こめかみに相手捕手からの牽制球が直撃)で帰らぬ人となった。
函館市千代台公園野球場(函館オーシャンスタジアム)には久慈次郎の栄誉をたたえて、後に銅像が建てられた。
北海道に野球の痕跡を残した久慈次郎は函館オーシャンスタジアムに、そしてもうひとりの偉大な投手として活躍をしたビクトル・スタルヒンは旭川スタルヒン球場にお互いが向かい合う形で銅像が建てられている。
日本野球の黎明期にこのような偉大な捕手がいたことは、永遠に語り継がれて行かなければならないだろう。
日ハム 栗山監督、大谷初完封「久慈さんに感謝」
日ハムは今日から旭川スタルヒン球場で埼玉西武を迎えての2連戦が始まる。
書き落としたがビクトル・スタルヒンは沢村、久慈とともに全日本選抜で大リーグの
猛者と戦った間柄だ。
後にスタルヒンが巨人軍に入団したのは、久慈のアドバイスがあったとのこと。
日本プロ野球投手として初の300勝を達成した選手だが、彼も悲劇の名投手といって良いだろう。
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