先日、ふとした拍子に小学生の時に使っていたランドセルを思い出した。給食で食べ残した食パンなどを入れていた、あのランドセルの匂いを嗅いだような気がしたのである。どこから流れてきた匂いか知らないが、匂いで昔の情景を思い出すことがある。
子供の頃、町中にある住宅街の棟割長屋に住んでいた。まだ下水道が整備される前で、友達の家に遊びに行くと微かに便所の臭い匂いがしたものである。その当時は田舎道を歩いて . . . 本文を読む
季節外れの話題になるが、小学校の夏休みの宿題について。
昔は夏休みの宿題といえば「夏休みの友」であった。あとは工作などを提出すればよかった。夏休みの友は毎日、少しづつやれば良いものをため込んでしまい、最後の数日は泣きたい気持ちでやっつけていた。計画性のないのは今も変わらないが、昔の夏休みは遊ぶことに忙しかったのである。
もう一つのお決まりは昆虫採集であった。補虫網に文房具屋で買った昆虫採 . . . 本文を読む
ながら族ではあるが、音楽が好きで毎日聞いている。音楽会を聴きに行く事はあまりない。高校生から独身時代までは良く出掛けたが、家庭を持ってからは中々行く機会がない。
小学生の時は唱歌や流行歌など、何もわからずによく歌っていた。
水原弘の「黒い花びら」が流行った時は、小学校から毎日歌いながら帰っていた。ある日、いつものように歌いながら自動車修理工場に差し掛かると、工場の人達から、おい黒い花びら . . . 本文を読む
今時といっても、10年近く前の話になる。ある時、小学校給食を試食する機会があった。これが美味しかった。別の機会に保育園の給食も食べたことがある。こちらも美味しかった。子どもの食べ物と言っても、馬鹿にしてはいけないと思ったものである。行政も研究会を作ったり、アレルギー除去食に対応したり、質の向上に努めている。
今年は夏休みが早く終わり学校給食が始まったので、小学生の孫に会った時、「 . . . 本文を読む
浄土寺橋の屋台については、色々な方が回想している。
京都在住の元大学教授の思い出である。元教授は私より9歳ほど年長であるが、学生時代は銀閣寺道に下宿していたという。
この方は、毎晩のようにここでラーメンを食べていた。この屋台は繁盛し、百万遍に「百万石」という店を持ったが、この店は後に韓国料理店になり、後にそれもなくなったという。浄土寺橋の北西には、今を時めく「ますたに」というラーメン屋が . . . 本文を読む
JR京都駅から錦林車庫前行きのバスに乗り、河原町通を北上して今出川通から鴨川を越え東に進むと、白川通との交差点に銀閣寺道のバス停がある。昭和51年に市電の今出川線が廃止されるまで、銀閣寺道停留所があったところである。この交差点をまっすぐ東に進んでいくと銀閣寺へと至る。
すぐ横を琵琶湖疏水の分線が流れており、浄土寺橋が架かっている。その橋の東側のたもとに昔、一軒のラーメン屋台があった。
学 . . . 本文を読む
子どもの頃、私は市営住宅に住んでいた。そこは戦後、引揚者向けに建てられた棟割り長屋が連なっており、大きな道路と狭い路地で区画された250戸ほどの団地であった。
私の家の斜め向かいに米屋があり、よく電話の取次ぎをしてもらった。米穀通帳が生きていた時代である。その路地向かいは八百屋であり、夏には店内で子供向けにかき氷を出していた。また小さな広場を隔てて魚屋があった。そのほか歩いて数分のところに豆 . . . 本文を読む
60年ほど前、私は町の中心部に近い幼児園に通っていた。
当時は戦後の復興期で、皆が貧しい時代であった。昭和31年の経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言する少し前のことである。手元に2枚の幼児園の集合写真があるが、1枚目は思い思いの私服で写っている。もう1枚は卒園前で、皆おそろいの制服である。
入園した頃は幼児園のすぐ近くに住んでいた。しかしある時、2 . . . 本文を読む