稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№119(昭和63年1月20日)

2020年05月31日 | 長井長正範士の遺文


〇吉田誠宏先生の五倫五常の道の補足
このことにつきましては既に№9、10、16、22の所で述べましたが、ある日、先生が五の数字の大切さを話されたことがありましたので書きとめておきます。以下、先生のお話を思い出し乍ら私なりにまとめました。

『明治村の大会に特別に会長(当時は石田和外先生)からご招待を頂いたので、お言葉に甘えて明治村へ行ったんだ。その時、会長と親しく談合したんだが、さすが会長、は古流の形を極められただけあって、剣道に対するご立派な理念をお持ちの方であると敬服した。その前会長が「五倫五常の声を聞かして頂きたい」と仰ったので、わたしは先ず五という字の大切さを簡単にお話をした。会長には釋迦に説法だが話の順序として、とことわって、先ず人間の体を五体と言うでしょう。これは一般的には頭、両手、両足のことを言いますが又、頭、頚、胸、手、足とも解釈され、又、筋、脈、肉、骨、毛皮の称であるようですが、人間の指も五本、五弁(花びら)から結果するという大変意義深いものがあり、この他、五を使った言葉は五戒(五悪)、五韻五蘊等澤山あり、これはこれとして私共は五倫五常の道を学ぶため剣道を精進するのですから、剣道のかけ声も五行の声でなければならないと思うのです。

そこで今から五つの部位から声を出して見せますと言って、会長の眼の前で咽喉、胸、口、水月、下腹と五か所から発声してお見せした。(これに関連したものは冒頭の№に在り)会長は早速実行鍛錬され、そのご熱意に尚更頭が下がったよ、帰りに名古屋の駅までと、会長がわざわざタクシーを呼んで下され、自らドアーを開けた前まで進まれ「ほんの些少乍らお車代に」と言われ、包みをわたしに下され、丁重に車を見送って頂いたのだ。このよろこびは何ものにもかえ難い。ただ単に一個人のわたしを重んじるということで無しに剣の眞の道、誠の道を重んじておられる石田会長は偉大なるお方であると感銘を新たにしたよ』

以上が大体の吉田先生のお話でありました。

尚、これも重複しますが、口からの発声は口の中に僅かにある空気をはき出す所謂含み息で“フワッ!”と出る一瞬の声にはならない打ち(主として体捌きによる出頭の甲手を打った時→むしろ押さえた時と言った方が判りやすいと思いますが・・・)これは余程鍛錬しないと出来ませんです。吉田先生はこれをやって見せてくれました。そして、これには含みのある人間、包容力のある人間につながるんだから剣道もここまでいかんとな!と仰ってました。

次に五行の声で胸から発声される時、私に判るように(正面を打つ時は水月=みぞおちからということは私も実行し、みぞおち=心から発声し相手の面を打ち=相手の心を打つことは一刀流の切落しの精神でということはある程度理解出来ますが)切り返しをやって、メンメンと発声して見せられたので大変勉強になりました。即ち同じ面でも攻めて、攻めて相手の面を打つ時は胸(勿論左右の面の連続打ちはそうである)の方から発声し、相手の起り頭の面を打つ(乗り面と申しましょうか、一刀流の切落しからくる、一見合打ちであるかのように見えますが相手の面打ちの起りが確かに当方より早いのですが、われはその太刀のまだ上におおいかぶさる=上太刀(うわたち)という。=精神と技で打ちに出るものですから合打ちに見えますが、こちらの太刀が相手の太刀を無効となし、わが太刀が生きて、逆に相手の面を打つのです。この時、水月からの乗り面が出るのです。
この項一応終ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№118(昭和63年1月15日)

2020年05月26日 | 長井長正範士の遺文


ホッとして、いやー先生に、そんなにお誉め頂くほどの人間ではありませんが、私もうちの大学の校務員として勤めて貰うには勿体ない人物と思っておりましたので、先生に実際問答をして頂いて、お試し願ったわけですが、私の思った通り、先生のお眼鏡に叶って、こんなうれしい事はありません。どうもお忙しい中を来て頂きまして本当に有難うございました。と丁重な挨拶をし、礼を厚うして車でお帰り願ったのであります。

さあ、そのあと気懸りなのは校務員です。一体どんな応対をしたんだろうと、早速校務員室へ行きますと、彼はびっこ乍らも、すくっと立ち上がり「おい総長!えらい恥をかかしやがったなー、日本一のえらい先生だかどうか知らんが、お前のたっての頼みやさかい、最後までえらい辛棒して、あいつと問答したけど、もう腹が立って腹が立ってしやーなかったわい。」と怒鳴ったので、総長は、すまん、すまん、最後までよう辛棒してくれたのー。所でどうだったんだ。始めから教えてくれへんか。と言いますと彼が言うのに

「彼奴入ってくるなり、俺に向って指一本出しやがって、お前の眼一つやないかとぬかしやがったんだ。そいで俺カッとなって、すかさず指二本出して、お前の眼、二つ揃っているからと言って偉そうな事ぬかすなと、やりかえしてやったら、あのがき指三本出しやがって、俺とお前の眼を合わせると三つやと、まあなんと、ぬけぬけと腹立つことをぬかして俺を馬鹿あつかいにしやがったので、とうとう俺は頭にきて、グワッと拳骨であいつを殴ったろかと、精一杯ふりかぶってゼスチュアすると、あいつ青なって、びっくりして慌てて逃げてゆきよった。あんな奴、どこがえらいんや、総長も総長や、俺をまんまと騙しやがって」とぷんぷんです。

総長は『すまんすまん、そう怒るな、機嫌直してくれ、そんな筈ではなかたんや、ほんまに申し訳ないことした。これはほんのわたしのお礼のしるしだ、心よく受取ってくれ』と何がしのものを包んで渡して早々と総長室へ戻ったのであります。

話は以上で、一席の笑い噺ではありますが、われわれはこの噺の中に何かを知ることが出来ます。あとで総長は独り微笑んで、自分の実験して見た大芝居が物の見事に大当たりして、今回の心理学の研究が具体的にいかにうまく役立ったか底知れぬよろこびを胸に抱きつつ、次への研究と向ったのであります。

さて如何でしょう?先の豆腐問答と言い今回の創作による問答と言い、一つの共通点を見出すことが出来ます。それは先ず善意に解釈すると何事も善い事のように見えるものです。その反対に悪意に解釈すると何事も悪い事に解釈しがちであります。われわれは善意に解釈した方が相手を傷つけずに、自分も亦、心安らぐものであります。然しこの話のように人の心の動きを見ると余程心しないと、こんな結果にもなりかねないのであります。

偏屈で程度も低い凡人を、心理的に偉い人だと思わせると、知らない人まで、みんな本当に偉い人だと思い込んでしまい、こんな結果になります。だからわれわれは皆から剣道が強いとか偉い人だとかあがめられて、自分はそんな実力もないし、立派な人間でもないのに思い上がってしまい、いつの間にか自分からそうだと思い上がってしまうと、人間もそれでおしまいでありますので、心すべきであります。われわれ剣道人は剣をもって心を求め、心をもって道を求める精神を忘れてはならないと思います。

この項終り
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№117(昭和63年1月15日)

2020年05月24日 | 長井長正範士の遺文


さて、案内の職員に丁寧にお礼を言って、愈々(いよいよ)先生が校務員室に入られますと、見るからに見窄らしい菜っぱ服の片眼のおっさん(そんな感じの)が一人ぴょこんと椅子に腰かけています。先生は想像をしておりました人よりも余りにも風采の上らん野暮ったい方なので、一瞬戸惑いましたが、総長先生の言われた通り、どこ知ら、並みの人間と違うように、直感いたしましたので、失礼であってはならぬと、すぐ思いかえし一寸礼を致しまして、傍らの椅子にかけ、早速右手を前に出し、人指ゆび一本を上にむけて、彼(以下、校務員を彼と申し上げます)の前に出しました。

彼は客が座るなり、すぐ指を一本出すので、そんな事、わからいでかと言わんばかりに、むっとした顔つきで、すぐさま指二本を出しました。驚いたのは先生。早速それに対して指三本を出しますと、彼はすばやく、それも言うなら、こうではないのかと言わんばかりに、不機嫌な顔つきで右手を高々と挙げ指全部を握りしめて見せましたので、先生はハッと胸をつかれ、彼のその見事な応答ぶりに、これは完全に参りました、大変勉強させて頂きましたと言わんばかりに顔も青ざめ乍ら誠に失礼しましたという表情で直ちに立ち上がって、深々と頭を下げ、丁重に礼をされ、アタフタと、つたい廊下を小走りに総長室に戻られたのであります。

今や遅しと待ち構えていた総長は、先生の青ざめた顔色を見て、これは一大事、何か失礼なことをあれが仕出かしたのではあるまいかと、心配し乍ら、さあ先生、まあおかけ下さい、お茶を。と言い乍ら、先生にこわごわどうでございましたか、彼は先刻も申し上げましたように、不断は大変いい人物ですが、何しろ短気なところがあり、このたびの問答で、何か先生に失礼な態度をとったのではないでしょうか、すみませんでした。

とその労をねぎらう旁ら、お詫び致しましたところ、先生は、いーえいえ、とんでもない、あの校務員さんは流石、総長先生の仰る通り、ご立派なお方です、恐れ入りましてございます。始め私が校務員室へ入りますと、あの方は身なりこそ質素でありましたが、椅子に腰かけられていて私を見据えておられまして、私の眼の中まで見抜いておられるかのように尊厳な面持ちで何か知ら私に迫るような感じが致したので一瞬戸惑いました。と申しますのは、いい加減な問いでは失礼に当ると思いましたからです。

そこで思いきって問答にかかりました。最初、私が指一本を出しまして「万物唯心ただ一つと思いますがこれ如何に?」と問いますと、あの方は早速指二本を出されまして『万物は天地の二つ(陰陽)から成っているんだ。』と、いとも簡単な問いにややお叱りのご様子に見えましたので、私は早速指三本を出しまして「この世は天、地、人の三つから成り、三千大千世界の心理ここにある。と思いますが」と問い返しますと、あの方は間髪を入れず、五本の指を全部折り曲げて握りしめ、腕を高々と挙げ『それを言うなら、結曲、合して一体となるのではないか』と厳しく教えられましたので、あの方の聡明な悟りに対し、圧倒され、さすが総長先生の仰る通り誠に徳の高いお人柄と感銘を受けまして深々と頭をさげ、敬意を表し、わが身の修養の至らなさを恥じつつ退散して参りました次第です。あんなご立派な校務員さんをもたれた総長先生をうらやましく思います。と大変恐縮し乍ら話されたのであります。


これを聞いた総長先生は、やれやれ失礼な態度をとらず、最後まで怒鳴ることもなく、無言で応答してくれたもんだ。よかった、よかった。それにしても何んと当意即妙な答えをしたんだろうと内心疑心暗鬼乍ら・・・

(以下続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№116(昭和63年1月10日)

2020年05月21日 | 長井長正範士の遺文


話をしたり用事を頼むといった具合でした。総長も勿論このことを充分承知の上で計画を立てられたのは言うまでもありません。

さて、総長は予めA先生に伺いをたて、実は私どもの大学の校務員に、それはそれは素晴らしい人物がおりまして、校務員にしては勿体ないくらい立派な哲学者で、常々私が尊敬している人物であります。それで一度先生のご都合のよい日に、果してどれだけの人物かお試し願いたいのです。と申し上げ、又ご参考の為にと、本人の人物像のよい所ばかりを詳しく説明申し上げ、尚且つ本人は相当耳が遠いので手真似で問答して頂ければ有難いのですが、とお願い致しましたところ、先生の快諾を得ましたので、早速日時も相談の上決める事が出来ました。

約束の日は一週間ほど先のことでありますので、時機を見て総長は校務員室に行きまして、実は来週の水曜日の午後、偉い先生が、こちらに来られることになった。それは常日頃、君が体が不自由にも拘らず、大変よく働いてくれ、私はいつも君に感謝し、尊敬している。そんな立派な人物ですと先生に話をしたら、先生は、そんな立派な校務員さんと、お話させて貰うことは、むしろ私の方が光栄に思います。是非とも寄らせて頂きたく、よろしくとの事だ。さあそこでだ、先生と話をするのに君は耳が遠いので話しにくいと思うから、口でなにも喋らず、みんな手真似で応答してほしい。絶対口でもの言わないようにしてくれ、頼む。ただ一つだけ心配なのは、君は立派な素直な、いい人間だが、話の最中に何か自分の癇にさわるち、すぐカッとなって、腹を立ててどなることだ。これだけは絶対するなよ。だから始めから、しまいまで、ぐっと我慢して、手真似で問答してくれ、頼む。と懇々と言って聞かせました。

彼は判ったのか、判らぬのか、わかりませんが、兎に角、ふんふんと耳を傾けて頷いておりました。その日はそのくらいでおきまして、いよいよ先生が来られる前日になりまして総長はもう一度念を押して打ち合わせしておかなくては、と思い、再び校務員室にやって来て、彼の機嫌をそこねないように、気をつかい乍ら、前に言ったことを話しますと、彼は案外素直に、よし判っとる、一寸やそこらで腹立たへんさかいに安心しな、俺にまかしときと、ポンと威勢よく胸をたたいたので、総長もやれやれと胸を撫でおろし、明日を待ったのであります。

一夜明けまして、いよいよ当日、さあ大変です。朝から玄関や総長室、廊下それに校務員室は勿論のこと大学のキャンパスの目立ったところはすべて綺麗に清掃されました。総長はただ偏屈の校務員だけが気がかりでなりません。今日は晴れの日、いつもよれよれの菜っぱ服じゃなしに、よそ行きのキチンとした服装でもして来たかな、と様子を見に校務員室に来ましたが、よそ行きの洋服どころか、いつものよれよれの菜っぱ服で、その上、今朝からの大掃除で顔もドス黒く、すすけて、まるで乞食同然の姿に、総長もただあきれるばかり、漸く声を出して、顔でも洗ったら、顔がすすで真っ黒だと言いますと、こんでええんや、何もよそゆきの顔せんかてええやろとどなられて、あわてて総長室に逃げられた。やがて掃除も万端片ずき、昼食後、いよいよ先生がお越しになるのを今や遅しと待ち受けてますと、丁度約束の午後一時、玄関に車が着きました。総長自ら鄭重に出迎えまして、ひと先ず総長室へ招き入れ、その労をねぎたって暫く懇談いたしまして、さあ、それでは先生、よろしくお願いしますと、事務職員に案内して貰って先生はしずしずと校務員室に向われたのであります。

以下次回へ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№115(昭和63年1月10日)

2020年05月17日 | 長井長正範士の遺文


〇豆腐問答という面白い話が残っていますが、落語では“こんにゃく問答”と言って皆を笑わせているのと同じような内容で、皆さんもよくご存知の事と思いますが、新しく話を進める手段として一応述べておきます。但し話の進め方は私なりに脚色してゆきますので、この点ご了承下さい。

〇その昔、土佐の潮江の眞如寺に誠に徳の高い禅僧がおられることを風の便りに聞いた東の国のある禅僧が、どれほどの高僧であるのか、一度問答をしてみたいと、雲水一人を連れて、はるばるやって来ました。雲水を宿に残して早速眞如寺に参りますと、境内の片すみに、噂の高僧が黙々として竹箒で落葉を掃いているではありませんか。よく見るとさすが天下に名だたる高僧だけに身なりも甚平姿でごく質素なものです。彼(東の禅僧をいう・・以下同じ)はこれ幸いと早速無言の問答に入ったものです。

先ず両手の指で輪を作って見せたところ高僧は鸚鵡返しに右手を高々と挙げて指三本を出しました。これを見た彼は感心したかのような表情で指二本を出しました。高僧はすばやくこれに応えて指で片方の眼の下を押しました。これを見た彼は色を失い、早々と退散して宿に帰りました。

待ちかまえていた雲水が「どうでしたか?」と伺いますと、彼は『いやー噂にまさる名僧じゃわい、初め、わたしが、両手で輪を作って、世界は?と問うたところ、すかさず、指三本を出して「三千世界なり」と答えられたので、それではと、指二本を出して「日本は?」と問うたところ、間髪を入れず、眼の下を指さして「眼下に在り」と答えられた。さすが高僧だ。身なりも質素で在家と変わらぬ。誠に見上げたお方だ』と感心してかの高僧をほめたのであります。

舞台が変わって、くだんの甚平姿の高僧がようやく掃き終る頃、用事から帰って来た本物の高僧が、ふと見ると境内に隣り合せの豆腐やのおっさんが、何やらぶつぶつ言って不機嫌そうな顔つきなので『どうしたんや?えらい機嫌悪そうやが?』と声をかけると豆腐やのおやじ、「いやー、どこのどいつか知らんが、ここへくるなり、あの糞坊主め、指で輪を作って」、お前とこの豆腐何ぼや?と手まねで聞きやがるので、おらあ指三本出して、三文だ!と言ってやったんだ。そしたら、あいつ、指二本出しやがって、二文にまけろと、ぬかしやがったんで、俺頭にきて、あかんべーとしてやったら顔色変えて逃げて行きよった。」という話です。

これに関連してもう一つご紹介申し上げましょう。

〇問答第二
関西のある大学の総長が、嘗て大学時代、心理学を専攻され、今日に至るも、ずっと研究を続けておられましたが、最近になって一つ実験をしてみようと、ある計画をたてられました。その計画とは今、わが国では最高の地位にある哲学者のA先生を招聘して、自分の大学の五十の坂を越した校務員と問答して貰おうという事なのです。

ここで先ず、校務員について説明しておかなければなりません。彼は気の毒にも若い時、事故に会いまして、片眼、片足を失い、現在は義足で然も耳が遠く、不自由な体の上、無学ではありますが、よく働き、仲々良い人物であります。が、然し、律義者によくありがちな偏屈なところがあり、真直ぐな気性だけに、一寸気に入らぬ事がありますと、すぐ癇癪玉を破裂させ、どなり立てるので、教授連始め、廻りの人達は、腫物をさわるようにして気をつかい乍ら(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№114(昭和63年元旦)

2020年05月16日 | 長井長正範士の遺文


〇高上極意五点
この五点は伊藤一刀斎景久が鐘巻自斉から許された高上極意の技と、その玄理の教えです。

1)妙剣は木に象(かた)どる。
この形は極めてすぐれた巧みなものであり、全く夢想であって、万事空なる所で木の芯がのびるように、のびのびとした調子で勝を完了する執行である。

2)絶妙剣は火に象る。
絶妙剣は妙剣のはたらきをも絶したところである。すべてを焼きつくし、全く無我無心の境地に出入した絶想の場である。しかも一点の火が大火と燃え上がり、一切を無にする執行である。

3)真剣は土に象る。
真剣の仕方の構えは常に真中を指す。土は中であり、すべて物があたって帰るところである。どこへどう高く物を投げても皆土に落ちて来て土に帰ってくる。己が剣は必ず打方に当ってはずれることはない。それは打方の中心を刺し、技の中心を刺しているからである。

4)金翅鳥王剣は金に象る。
金は貴い光をもって、銀、銅、鉄、鉛などの上に臨む。その重さは他にまさる。技に於いては上段の高い位の輝やかしい尊い気分をもって、上から圧するものである。即ち尊い位の威光を備える執行である。

5)独妙剣は水に象どる。
水は最も柔らかで、最も強いものである。水は自らどんな形をも持たず、方円の器に従う応適自在なものであり、然も低きにつく主心があり、どんな隙間へでも侵入浸透する。又、万物を生かし育てる主心がある。これは独妙剣の本音である。水は金の上に、いつしか目に見えぬ間に、露の玉となって、どこからともなく、ひとりで生ずる。それは蒸気が空中に充満しているからである。独妙剣の能動は、いつでもどこへでも充満していて、要に応じて働くものである、と述べられています。

〇ちなみに木より火が強く、火はまた燃えつきて皆灰と化して土にかえる。その土の中に燃然と輝いて姿を表すのは金であり、その最高の金でさえも、いつの間にかその金の上に水滴が乗るのであり、水が一番上であることを順序よく切組の形を作られたのが五点であります。

〇以上は笹森順造先生が「一刀流極意」259頁のところをよく見て頂きたいと思います。尚、蛇足ですが、五点の夫々の形の紹介は中途半端ですが、この項は各々技の解説が本意ではありませんし、又、私自身、形をやりますものの、まだまだ真の理合を体得するまでは道が遠く、従って机上の空論に終ってしまいますので、申訳ありませんが省略させて頂きます。「一刀流極意」247頁→259頁参照。われわれの日常生活に水なくしては考えられないことは前述の通りで、日常の会話でも水を使った言葉が多いことに気がつきます・

水にする。水に流す。水をさす。水になる。水いらず。水入り。水かけ論。水くさい。水ごころ。水の泡。水もしたたる・・・。水も漏らさぬ・・・。水を打ったように・・・・等々、水=無色透明(無)=無心(心)=万物。かくありたいものと思います。今年は辰どし、龍吟じて雲を呼ぶ。勢いにあやかって頑張りましょう。終り
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№113(昭和63年元旦)

2020年05月15日 | 長井長正範士の遺文


水についての教えは既に№102に「一刀湛水」と、№103に笹川良一先生の「水六訓」を書いておきましたが、今回は水そのものを述べたいと思います。

日本の国は世界でも有数の水の恵まれた国であります。そこで、この水とは一体どんなものなのか解明してゆきたいと思いますが、一寸その前に申し上げておきたいのは、私達が生きてゆくためには酸素だけではなく、空気であるということです。即ち空気には酸素以外のものが澤山あり、無機物だけではなく、浮遊している微生物も沢山おります。これ等をすべて含んだ空気であるということであります。ただ地下深く沈んでおったはずの重金属が空気中に浮遊し、その異常物を排除するために酸素だけをやかましく言っているだけなのです。この酸素に関係ある水を主体に申しあげたいと思います。

近年、大阪の水道の水が臭くて飲めたものではありません。又、地下水の汚染もひどくなっております。水はご承知のようにH2Oで表します。これはH=水素。2とO=酸素との化合物ですが、ことのついでに申し上げますと酸素は空気中の1/5ぐらい占めていると言われています。さてその水道の水に、薬を入れておりますが、これは飲むためよりも腐らないように入れているのです。ですから、投下された塩素CI=殺菌用。や、化合力の強い弗素=N。を抜けば美味しい水が出来ると簡単に考えて、今浄水器が、いろいろと出廻っておりますが、然し、薬品を除くと即刻腐ってゆくのです。だから今度は逆に腐った水は飲めなくなります。

水はH2OというからH2Oが一番よい水だと思ってH2Oだけで水の代りをすると到底生きてゆけないのであります。それは水の中にも、空気と同じように、色んな成分、色んな微生物を含んでいるから、これで始めて水の味が出てくるので、どこそこの水が美味しいのと、よく言われますが、本当のところ、よく判らないものです。その証拠に、水割り用のミネラルウォーターを水道の水にかえて、黙って、ミネラルウォーターだと言って出して実験してみても、相手は、やはり、美味しいと言って飲んでいるようなもので、本当は、水の味なんて、はっきり判らないものであります。ただ水が甘いと、美味しいような気がするんですが、これは沢山ある有機物の腐敗過程において、そうなるので、成るべく飲まないようにとは友人の藤井技師の話です。それではどの水が美味しくて飲めるかということを昔の人はよく知っているのです。

それは、地下水の浄化を一番効率よくやるのが、イタドリ(スカンポ)です。スカンポの根は、地下水を最もよく浄化するので、その傍に、井戸を掘って飲んだのです。又、野生のしぶ柿は根が浅いので、綺麗な水でなければ育たないから、昔の井戸を見ると近くに柿の木があるのに気がつくでしょう。ちなみに、スカンポと柿は共存共栄するし、共貪もしますので、お互いにそれなりに牽制しあって、育ってゆくのです。以上、水の基本的なものを申し上げましたが、われわれがよく考えなければならないのは、水は無限の資源ではないということです。

大阪で言いますと、びわ湖の水質が汚濁しており、われわれの飲み水の水質の悪化が進んでいるのです。これは工業化による汚染と、人間の出す雑排物や各種の洗剤等による汚濁で問題になっています。これ等はすべて人間が水の自然を破壊しているのであります。われわれは水に対する罪を反省しなければなりません。アフリカあたりの水不足に比べ、われわれは余りにも水を粗末にしすぎているのではないかと、大いに反省しなければなりません。又、水害を見ても、天災よりも人災の方が多いことを思い知らされるのであります。

われわれの先祖は水によって育ち、村や町が発展してきたのであります。川あるところ、湖のほとり、海に面した河口のほとりには人が集まり、住まいし、水の恩恵をうけて来ておるのであります。このような意味で、われわれはもっともっと水を大切にしなければなりません。水は実に人間だけでなく万物を育む源であります。次に小野派一刀流組太刀の高上極意五点の独妙剣=水。について申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№112(昭和63年元旦)

2020年05月03日 | 長井長正範士の遺文


さてこの露のように、無から有に、有から無に、大自然そのままにくりかえしている。俺は剣道でいう静中動あり、動中静あり、ということを道場で人形相手に日夜創意工夫して大宇宙の眞理に溶け込む自分の剣道=心を求めんがため苦しみに苦しみを重ねて修行しているんだよ。俺はこうして剣道を自分で作りあげていってるんだ。剣道家の大切なのは自分で自分を苦しめることだ。敢えていう。岩の間に浸みこんだ水が、つゆの雫となってポタンと落ちるまでの苦労は一生かかっても判らん。と話され、次の唄を詠まれた。

「枯れすすき、昔思えば野原のすすき、露と遊んだこともある」

これは端唄の一節にあるそうです。それを受けて、うたいで次のようにうたった。
「露はすすきと寝たという、すすきは露と寝ぬという、寝たか寝ぬのか、すすきは露を宿しけり」
「炭俵、昔は露を宿しけり」と最後に都都逸のひとくだりでしめくくった。

以上を要約すると、今はすっかり老いぼれて枯れ果てたすすき(かや)ではあるが、こんな枯れすすきでも昔の若い時代は露と浮き名をやつした(朝つゆを穂にうかべた)こともあると、しゃれた唄いいかたをした。これを受けて謡曲の一節で露(うら若き女性)はすすきと同衾したという(穂につゆがたまったから、そういうた)然しすすきは露と寝たことはない、と言いはるが、果してどうか?寝たか寝なかったのか、よくよく見るとすきはつゆを宿したわい。(孕む)やっぱり露のいうことが本当であったという意味でこれをうけた都都逸の一節で、今迄若い時から浮名をやつし露と遊んだ時代もいつしか過ぎ去って枯れすすきとなり、老後最後のお役に立つため刈りとられ炭俵として使われ、中の炭も使い果て、俵だけ残ったが、はかなくもこの俵も最後に焼かれてしまって灰になった。こんな炭俵でも露を宿したこともある。嗚呼人生のはかなさよと言わんばかりである。以上の唄は露とすすき(かや)とのかかわりを静中の動をうまく粋な唄で表現しているではありませんか。

〇そして先生は私に次の色紙を下さったのです。風雅な山里の一軒家に春の花がほころびかけている風景を下に画かれ、その上に書かれている字は何んとも言えぬ風流な字で、長閑な山里の風景に溶け込んでおります。

世逃獨座聖和里
東風花綻春再廻
閉門尋日思剣心
剣即心而心剣也
思量今知天地心
八十五爺 誠宏印

意解。俗世間と離れて山里の聖和道場に住まいしている。東=春風が吹いてきて花もつぼみをほころばせて咲き始めて再び春がやってきた。自分は門を閉ざして(閉じこもって)剣の心をさがし求めているが、この時期になって、ようやく剣は即ち心であり、心は剣であるということを思いはかって、今天地即ち大宇宙の森羅万象のすべてが心であるということを知ることが出来た。と書かれたのです。八十五才にして悟られた偉大なる先生に仕えた私は幸せ者よと感激して辞した。終り

※吉田先生の関防印は「智仁勇」です
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№111(昭和63年元旦)

2020年04月28日 | 長井長正範士の遺文
新年おめでとうございます。



旧年中は格別のご指導ご鞭撻を頂きまして、未熟乍らも№110まで勉強させて頂きました。これ偏らに朝稽古の皆様方のお陰で続けられたものと感激を新たにしております。ここに昭和63年の新春を迎えるに当たりまして、更に初心にかえり、又いちかけから(№111から)勉強してゆきたいと思っておりますので何卒よろしく旧倍のお励ましの程お願いします。

〇さて今からもう10年余りになりますか、お正月に吉田誠宏先生のお宅に新年のご挨拶に参りました時のお話を申し上げたいと思います。先生は、にこにこして「お々、おめでとう。よく来てくれた。」と言うて、早速二階の窓をあけられ「おい、長井、あの段になっている岩をよく見るんだ。丁度、眼の届くあの岩板が湿っているだろう。その湿り汁が、いつとは無しに、岩のふちから小さいつゆとなって、ホラ見えるだろう、あのつゆが、いつのまにか大粒のつゆとなり、ポターンと下の岩かどに落ちていっているだろう。落ちたつゆは、アッというまに岩面ににじんで形なく湿りけとなってポタッと落ちて下のあの草むらに消えてなくなって、下の庭に水たまりとなっている。よく見てみよ、よく判るだろう」私「ハイ、よく判ります」「そうだろう、俺はなー、お前がくるまでこの窓からそれを眺めて剣の極意を追窮してたんだ、さあここえ座れ、窓閉めて」と先生はどかっと自分の席へ座られ「俺はあのつゆに教えられていたんじゃ」と前おきにして次のように話されました。

〇お前さっき(先程の意)よく判ると言ったが、つゆがポタンと落ちてハッとした瞬間、消えて無くなる、つゆの命のはかなさぐらいしか判っとらんと思うが、どうじゃええか(よいか)俺も始めはそう思ってじいっと思いをこらして観ていると、ハッと気ずいたんだ。それはなー、一番上の岩の湿りが、いつとはなしに露となって落ちるんだが、その露となるまでの間に、わずかな湿り気が、どれだけ苦労して形ある露となるか、その苦労を俺の無から有に変る心境に照らし合せてフッと思い立って下に降り、道場へ入って、俺の作った打込み用の人形に向って竹刀を構え、無の境地でつっ立っている人形に、思わず打てるか、うーんとうなっている所をお前は何遍も見ているだろう(※)。

それが打てんのじゃよ。打とうと思えば有心で打つことになる。これじゃいつまで経っても剣道を極めることが出来ん。相手はたかが人形で隙だらけだ。打てば何んぼでも打てる。然しそれでは打とうと思って打つから本物じゃない。いつかお前に言ったろう。相手の隙にさそわれて思わずそこへ打って出た。こうなけりやならん。と言われてきざみ煙草を一ぷく吸われた。あと続く。

※印のところ。

時に夏など、私はいつも早朝に出かけて行って先生の道場へ直接訪問した時、いつも限って人形に向ってうなっておられた。人形の無と対話するためには無の境地でなければ・・・と苦しんでおられたわけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№110(昭和62年12月1日)

2020年04月27日 | 長井長正範士の遺文


これには一同ぐうの音も出ず感服したのです。こうしてやっと島原のいろ里に着いたのであります。一行は宗匠を丁重にもてなし、島原で一番人気のある若い花魁をあてがいました。そして恐らく今時分愛情の最中であろうと、時期を見まして、無粋にも本部屋の襖をがらりと開け、花魁の上になっている宗匠に、さあ、この有様を詠んで頂きたい。と言った途端、宗匠は

「くみしいて、見れば二八の小敦盛 眉毛少々 薄毛ちらほら」

と、恥ずかしげな態度も見せず、ズバリと詠われたのであります。

即ち、戦場で敵の敦盛少将を組み敷いて、よく見ると、まだ毛も生え揃ってない可愛い二八(十六才位)の少年であったわい。という意味で、この花魁の上になって、よくよく見ると、眉毛も少々でまだあどけない十六才ぐらいの可憐な娘(こ)で小さく、ふっくらと盛り上がった女性自身も可愛らしく、まだ毛もろくさま生えておらず、薄い毛がちらほらと生えている程度で、如何にもいじらしい娘(こ)ですこと。とひっかけて言ったのです。小敦盛=

小さい敦盛=小さく盛り上がった女性自身。眉毛少々の少々=敦盛少将。薄毛ちらほら=敦盛少将の眉毛も、まだ一人前の大人のように黒々と立派に生え揃っておらず、うぶ毛のような薄い毛である=花魁の女性自身の毛を暗に詠んだものです。このように何の恥じらいもなく、間髪を入れず花魁を、いたいけない敦盛少将になぞらえ、情をかけて一同に返礼の歌として詠んだのであります。京の都のお歌所の自信家は勿論のこと、なみいる幕府の役人も、ほとほと威服し、私共の道は宗匠様と比べまだまだ遠いことを思い知らされました。と言って、今迄の数々の無礼を詫び、礼を厚くして帰って貰ったという話です。

さて皆さん、名人とはどんな人を言うのか、この昔噺でご理解頂けたと思いますが、名人の域に達した人は、このように間髪を入れず当意即妙、応変自在、転変流露、臨機応変なること恰(あたか)も障子を開けるや否や、月光が部屋にさすように、いずれが光か、瞬時にして光が投げかけるように、対応すること自然にして、無理なく妙を得ているのであります。

われわれ剣道を修行中の者は名人など気の遠くなるほど深遠な境地でありますが、終生修養を積み重ねて行くところに意義があると思います。そしてまた、名人と雖(いえど)も、これで良いということなく、更に更に奥深く修養を続けておられるのです。一刀流に循環端無しと教えられています。禅の言葉に「歩々是道場」とあるように、人夫々(それぞれ)歩む道は違っても、一歩一歩、道を歩むにも、己れが修養の場と心得、お互いに心を一つにして修行してゆこうではありませんか。この項終り。

〇ひとくちメモ、吉田誠宏先生が仰っていました。
三段どまり、五段どまりということ。三段までいけるがそれ以上の段には上れない。五段まで何とかして上がれるが、その剣道ではもう上には上がれない。(戦前は五段まで、あと精錬証=錬士、以上、教士、範士だけであった)現在もそうで、三段までいけたが四段には結局なれなかった。五段までいけたが、それ以上はむづかしい。今でいう七段まで行けたが八段は到底受からない者等、ズバリひとこと。「わが心に問え」と。※

※「わが心に問え」のひとこと。 よくよく考えて下さい。

ヒント
〇心とは
〇わが肉体=心
〇心は素直な心
〇生れ乍らの綺麗な心
〇本来のわれを見つめよ
〇一刀流では剣身異ならず、心も亦然り。以上

---------------

【編集記】
この記事は、2017年12月27日の記事とほぼ同じ内容を含みます。
長井藩士は、連番のものと、配布用に書いたものと、同じ内容で2種類書かれたと推測します。

名人について(昭和62年12月1日)2/2
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20171227/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№109(昭和62年12月1日)

2020年04月26日 | 長井長正範士の遺文


〇名人とは
一般的に技芸にすぐれた人、その道に深く通じている人を指して言いますが、ここに名人とは如何なる人かを一例を挙げて申し上げましょう。

昔、江戸に歌の名人がおりまして、全国にその評判が広がってきました。当時、都は京都にありまして、それを聞いた京のお歌どころの宗匠(そうしょう)は一体その江戸の宗匠はどれほどの名人か一度招待して試してみようということになり江戸の宗匠のところに使いを出しましたが、京の町奉行は皆に命じて粗相のないよう、あちこち整備し、特に三条大橋の板が大変痛んで腐っている所もあるので、真新しい桧(ヒノキ)の板を四角く切ったり細長く切ったりして穴の開いている所を修理させ、準備万端整えて、今や遅しと江戸の宗匠の来るのを橋の袂で待ち受けておりました。

折りしも約束通りの期限に差廻しの駕篭(かご)に乗った宗匠が山科を通り、三条大橋の袂に着きました。奉行一行は鄭重に長旅の労をねぎらい、篭から降りた宗匠を先導して、大橋を渡ろうとした途端に京の宗匠が「この橋を見て何んと詠む」と江戸の名人に言ったところ、間髪を入れず

「来て見れば、さすが都は歌どころ 橋の上にも色紙短冊」

と詠んだので一同は感嘆の余り、唖然としました。

やがて大橋を渡って西へ進み、堺町通りの四つ辻まで参りましたところ、右(北)の方から花嫁の行列がやって来ましたが、折り悪しく左(南)の方から葬式の行列がやって来て、すれ違いになったので、しばし一行は足をとめて待った。その時、京の宗匠が「あれを見て何と詠む」と問いかけましたところ、くだんの宗匠はすかさず

「世の中は 色と恋のさかい町 しに(死に)ゆく人と、されにゆく人」

と詠んだので、皆は一層感心致しまして、宗匠の俗世間に通じた粋人に心もなごみ、急遽予定を変更致しまして、これから島原のいろ里へ案内しよう、という事になり、一行は島原へと向かいました。

今はもうずっと家が立ち並んでおりますが、その当時は、まだ家もまばらで、すっかり田舎めいて、今は花ざかりの菜畑のほとりを歩いてゆきますと、路ばたに、すっかり履き古して、鼻緒の切れた藁草履を捨ててありましたので、道案内の一人がこれをポンと投げ捨てました。それを見た京の名人が、客の名人に「さあ、これを見て何と詠む」と、まあ何という無理難題を持ちかけたたものでしょう。名人はすかさずこれに応えて

「世の中は、葉花がくれの、ほととぎす 血を吐くことが、いやでこそあれ」

と詠んだのです。即ち今、世の中は花ざかりの好季節で、うららかなこの日に、今まで血を吐くほど鳴いていたホトトギスが、いやになって、葉っぱの花の中へかくれたわい。という意味ですが、何と粋なことに役に立たない、すり切れた草履をほととぎすにたとえ、血を(地を)吐く(履く)ことがいやでこそあれ(役に立たなくなったのであろう)。このうららかなよい日に一抹の哀れの風情を感じるわい。と、かけて詠んだのはさすが。

---------------

【編集記】
この記事は、2017年12月25日の記事とほぼ同じ内容になります。
長井藩士は、連番のものと、配布用に書いたものと、同じ内容で2種類書かれたと推測します。

名人について(昭和62年12月1日)1/2
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20171225/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№108(昭和62年11月30日)

2020年04月24日 | 長井長正範士の遺文


ゆっくり握っているのである。それでいて、客に間をおかずに出している。さてよく注意して見ると、握る回数がすくなく、そっと出しているのです。然も、くずれず、ネタとシャリが見事に調和して、にぎりが生きて光っている。私は思わず「これだ!」竹刀を握る手の内、打った瞬間の手の内、その直後の手の内のゆるめ、何かここに共通した筆舌に尽しがたいものを感じとったのです。私はこんな経験を持っているだけに、テレビに映った取手の名人の話に打たれたのであります。

さて、名人という言葉をつかいましたが、それでは一体世にいう豪傑と名人とはどれほど違うか、次に作り話ではありますが、申し上げておきたいと思います。(私なりに脚色して書いておきます。)先ず豪傑から(豪傑については過日金曜の朝げいこの時にお話ししましたが、皆さんの要望で記録しておいてほしいとの事でありますのでここに書いておきます。)

〇豪傑について。
昔、東(あずま)の国に、われこそは日本一の豪傑であると自認していた侍がおりまして、文字通り天下に有名を轟かしておりましたが、いよいよ死ぬ間際になって、辞世の歌を残して逝った。その歌が奮っている。

「今ゆくぞ 鬼も閻魔も油断すな 隙があったら極楽へ飛ぶ」と。

これを要約いたしますと、俺は今まで随分無茶なことをやって来た。又、さんざん悪いことをして来たから、死んだらきっと地獄へゆくだろうが、地獄で鬼も閻魔も油断するなよ、隙があったら極楽へ飛んでいってやるぞ、と、死の直前まで強気の歌を詠んで逝ったので、このうわさが、パッと広がって、世間の人々は口を揃えて、なるほど、豪傑とはあんな人を言うんだと賞賛いたしました。

然し豪傑にもライバルがあるもので、このうわさを聞いた九州一の豪傑が、あ奴が日本一と?チャンチャラおかしい、俺こそは日本一にふさわしい豪傑だ。俺はあ奴のように、そんなにまでして極楽へ行きたくないわい。あ奴は何とかうまいことをいうちょるが、本当は極楽に執着心があるから、うまくごまかして詠んどるが、まだまだ豪傑には程遠い、俺は死ぬ時は、そんなにまでして無理して極楽へはゆきとうはないわい。俺ならこう詠む。と辞世の歌として詠んだのがまた面白い。

「極楽へ、さほどゆきたく なかれども、弥陀を助けに ゆかにゃ なるまい」と。

俺も地獄へ落ちてゆくだろうが、あ奴みたいに、極楽へ、さほどゆきたくないが、あの世で、極楽往生した沢山の佛達の世話で、阿弥陀さんが、人手もなく、大変いそがしく困っておらっしゃるだろうから、こりゃ一つ手助けにゆかにゃならん責任があるから、行かんわけにはいかんのだ。と詠んで、どうだ俺のほうが遙かに上だ。と威張っているという話ですが、一寸待って下さい。結局、二人とも極楽へゆきたいという執着心には変わりなく、真の豪傑と言われそうにない。真の豪傑は酒色に溺れず、嗜(たしな)んでその域を超えず、日夜精進し、如何なる事態が起きても動じない、心構えを養い得た、すべてに並はずれた、すぐれた人物を言うのであります。それでは今度は名人とは如何に。次に述べましょう。

※豪傑については過日金曜の朝げいこの時に、お話しましたが、皆さんの要望で記録しておいてほしいとの事でありますのでここに書いておきます。


【編集記】
この記事は、2017年12月23日の記事とほぼ同じ内容になります。
長井藩士は、連番のものと、配布用に書いたものと、同じ内容で2種類書かれたと推測します。

豪傑について(昭和62年11月30日)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20171223/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№107(昭和62年11月28日)

2020年04月17日 | 長井長正範士の遺文


例えば野球にしても、ピッチャーが球を投げても、投げっ放しせず、すぐピッチャーゴロに備える構えをし残心の態度を崩しません。又、打者がホームランを打っても1点は入りません。三塁を完全に踏んで廻り本塁に帰り、ベースを踏み、終って始めて1点が入るのです。体操などでも見ていますと、鉄棒や、吊環、鞍馬等、如何にうまくやっても、最後の着地、フィニッシュでバランスを崩すと、その程度でジャッジは厳しく減点します。あとの残心が如何に大切かお判りと思います。

又、日常生活で例をあげると、会社で上司が社員に、この書類を誰々に渡してくれと言われ、ハイと言って渡して来て、そのまま黙って自分の仕事をしてよいであろうか、上司に確かに手渡して参りましたと報告する。これで任務のすべてが完了します。これが信頼につながるのです。このように例を挙げても、スポーツでは採点に当ってはより厳密に規定され、より一層高度なスポーツを要求されています。水洗便所じゃないけれど、たれ流し、やりっ放し、打ちっ放しではいけません。ですから剣道ではスポーツ以上の精神を持たなければ、剣道は益々低俗になってしまいます。大いに反省しなければなりません。

私がいつも言っておりますように、剣道を修行すると同時に物の大切さを考え、自分の肉体の大切さを考えていかなければなりません。そして健全な身体から生ずる心の持ち方を修養してゆくのであります。われわれは本物の剣道を求めて生涯修養してゆくよう努めなければなりません。この項一応終りまして話題を変えます。

〇すしを握って65年、現在80才という取手の或る名人がテレビに映っていました。その名人が言うのに「お世辞は頭の中に入れておく」と。又「ごまかさないように基本を忠実に守ること、辛棒出来ずにやめたらおしまい」と。私は成程と大変教えられました。

名人だけあって、無駄に年はとっていない。それだけ苦労の年輪を重ねている。それにひきかえ、年季の入っていない職人でよくお世辞のうまい人がいるが、こんな人の握りを見ると、手早く器用に握って客の前に出すが、すしの形も悪く大小があって、くずれやすい。案外ネタも薄く、シャリと一体となっていない。喋りまくって握りに心が入っていない。すしもまずい。客はこんな江戸前の店にお世辞を聞きに入ってくるのではない。愛想よく、べらべら喋りまくられると、かえって耳ざわりで邪魔になり、すしを味わう楽しみも消え失せ、味もまずく、いやになって、勘定もそこそこに退散した経験を私はしたことがありますが、その反面、一寸変人のようで無口の職人さんではあるが、仕入れのネタは吟味に吟味を重ねて新鮮さを命としている江戸前のすし屋さんに入ったことがありますが、注文のネタを、手の内も鮮かに美しくまとめて握り、ポンと前に出された時は一つの生きた芸術を見せつけられた気がして、自分も無言のうちにパクとついて満足感を味わうことが出来ました。

見ているといずれの客も通らしく、又、常連で食べる幸せを口元に、いや顔一杯にほころばせているのがよく判ります。そして思い思いのネタを注文するのを、ベテランの職人は遠山の目付よろしく、気くばりが行き届いて間をはずさず「ハイ」とタイミングよく皆に平等に出している。その腕前は見事!の一言につきます。それから又、彼の握り方を見ると、若い者のように決して手早くない。以下続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№106(昭和62年11月28日)

2020年04月14日 | 長井長正範士の遺文


指導しなければなりません。あらゆるスポーツの大会の宣誓で戦うという言葉はつかっておりません。「スポーツマンシップに則り(お手本として)正々堂々と競技(技をきそい合うこと)することを誓っております。

ここでもう少し詳しく申しますと、正々堂々とは初めから終わりまで正しく正しく雄大に立派にということで、スポーツマンシップとは、運動する者は、運動する精神(正々堂々と競技する精神)のことを言いますが、〇アメリカでスポーツマンシップを「規則を守れ、友人と約束を守れ、怒りを押さえよ、健康を守れ、負けても落胆するな、勝ってもその誇りに酔うな、健康な精神、冷静な気持、健康な身体、競技を楽しむ」ということをスポーツマンシップだと定義ずけているのです。このスポーツマンシップを日常生活にとり入れているアメリカ人を見習わなくてはなりません。

今の日本の少年剣道など、試合、試合で勝たんがための剣道と思って、勝っては飛び上がってよろこび、負けてはくやしがり、それが剣道のすべてだと解釈しているようですが、現代のスポーツより、今の剣道の方が程度が低いということを自覚しなければなりません。現代のスポーツの方が遥かに精神内容が進んでいるのです。これについて一~二の例をあげますと、先ず野球の話になりますが、往年の巨人の監督でありました川上哲治氏(9年連続して日本一として優勝させた名監督)が、巨人の選手に「チームプレー精神の話をされたことがあります。先ず第一に、プロ選手のみんなは、一般のサラリーマンの方より高い給料を貰っているが、これは澤山入場して下さるお客さんのお陰である。心から有難いことである。と言って感謝の念を植えつけました。そして第二にホームランを打ったのは俺だから、殊勲賞を貰って当然だと思うな、塁に先に出ているチームメートのお陰ですという考えを持たねばいけない。(この時ヒット、安打で既に二人が塁におりました)確かにホームランを打ったことによって三点入って勝った。然し、自分一人の力で出来たのはホームランの一点だけなんだ。二人のチームメイトが出塁していてくれたからこそ、三点入り、ホームランが勝利につながったのである。ここのところを正しく理解することが、チームプレーの心につながるのだよ。と、こんこんと言って聞かせたのです。

さすが名監督だけあって立派なことを言っておられる私も感銘を受けたものです。尚、川上氏も仰ってましたが、スポーツは単に技術や体力を競うだけでなく、ルールの中で自己の最善を尽すことがその目的であります。つまり団体競技を通して、みんなは他への思いやりの心と、何事も、自分一人の力では出来ないことを学ぶことが大切であることを以上の実例で認識を新たにして頂きたいと思います。さて本論にかえって、此頃の剣道は試合が多い結果、試合に勝つための試合用の剣道になり、本来の剣道が見失われつつあることは大変嘆かわしいことで、これは聞いた話ですが、某県のある道場で指導者が特練の少年に「只今から試合用の面を打て」と試合用に考案した面を打たせ、又、今度は審査用の面を打たすという誠に嘆かわしい指導をしているようで、勝つためには手段を選ばず、当てればすぐ引きあげ、あろから打たれないよう走りまくるようになり、剣道に大事な残心どころではないのです。これは少年を責めるより大人の指導者に猛烈なる反省を促したい。又、審判員も少々の引きあげぐらいはと思って、見逃して、本人の有効打をとっているから余計悪くなって行くので、剣道指導上、審判の役割がどれほど大切か皆さんも、とっくにご承知の通りであります。残心の大切さについては、野球のほか、他のスポーツ等についての具体的なことを次に申し上げますと。続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

№105(昭和62年11月28日)

2020年04月13日 | 長井長正範士の遺文


〇将棋について。
私は碁や将棋は余りやりませんが、時々高段者の対局を新聞紙上で興味をもって見ています。
その中でサンケイ新聞の社会部山口昭記者の「盤上に人生を見た」と題した神谷五段(26才)と米長九段(44才)との将棋対局を観戦した記事に「息が詰まるような濃密な空気に包まれ、二人の男の知力、気力が火花を散らす、その気迫には終始圧倒された」と、そして又、「棋は対話なりという。盤上の一手一手が棋士の思想感情を何よりも雄弁に物語り、対局中の棋士はお互い、ほとんど言葉を交わさない。」中略「勝負に集中した棋士は無意識のうちに、さまざまなくせを見せる」引退した升田幸三九段は、煙草に火をつけては、すぐもみ消し、灰皿に花びらのように並べ、石田和雄八段は扇子で頭をたたき続け、一局でボロボロにしてしまう」中略「随分長時間たってから神谷五段は怖いような顔付きで盤上をにらんでいる。耳が真っ赤に染まっている。『ウン』とうなずいて、7・九銀を打ち込み、米長九段の顔をチラリと見たあと手洗いに立った。残った米長九段は険しい表情で考え込む。実はこの場面が神谷五段が勝ちを決めた瞬間だったという。中原誠名人は勝ちを読みきると手洗いに立つ。「もうあきらめなさい」という意思表示で対局相手はこれで負けを悟らされるという。「参りましたね」午後4時41分、米長九段が投了した。八十手だった。表情を崩す神谷五段、幾多の修羅場をくぐってきた米長九段は悔しげな気配を表には出さなかった。「指せると思ったが・・・」「7・九銀で勝ちが見えました」駒を並べ直して、指し手を振り返る感想戦、以下省略

さて皆さん、この将棋の無声の気当たりが、一刀流の真剣そのもので、互いに先の先まで読み合って、長考一番、静寂を破って神谷五段が「パチン」と打った最後の一手に、私は一刀流の切落を見た感があり、又それまでに相手の心を読むところ、「拳の払」の組太刀の読心術を思い浮かべます。よく心、自体を養い、技、自体を磨いて相手の打ち間を知る読心術で最後は調子よく美しく上品に勝つのです。ただ勝たんがため、相手の人格を無視してまで勝とうとするのは、たとえ勝ったとしても相手に人格で負けていることを悟らなければなりません。碁でも「碁は勝とうとして打つな、負けじと打て、勝とうとするのは義を害す」と言われています。われわれ剣道を修行する者、心すべきことであります。

〇証文を書く時、依而件(よってくだん)の如し。と書きますが、国語の解釈では、前文の通り。即ち件(くだん)=くだりの音使から来たものですが、古くから伝わっている話では、くだんとは、体が牛で顔が人間という妖怪動物で、絶対あとへは引かない。即ち、いったん証書を書いた限り、うそ、いつわりはない。書いた限り、絶対あとへは引かないという深い意味が含まれているのです。こういう古い話を後進に伝えていきましょう。

〇少年剣道の錬成試合で試合をやる前に代表者が、宣誓する言葉に「私達選手一同は、本大会の趣旨に則り、正々堂々と戦うことを誓います」と言っていますが、この狭い日本の国の中で、お互いに戦って、どうするんだと言いたい。今、世界の中で日本はどうあるべきか、という時代に、この小さい国の日本民族同志で勝ち負けを争って、よろこんでいる時代ではありません。正々堂々と試合(試し合う)或いは演武することを誓いますというように(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする