忙しいので昔の写真の紹介。
昭和56年(1981年)のもの。

(昭和56年5月3日、連休中に奈良に帰省した時のもの)

(次兄はこの時、風伝流の槍術をやっていたように思う)
その頃は岩手県盛岡市に居住し、新明館橋市道場で剣道を再開し、
剣道二段を頂いたばかりで有頂天になっていた頃だ。
奈良の実家の庭で、兄(隆)や従弟(扇田智司君)と古武道か何かで戯れていた時の写真。

(昭和56年7月、東亜特殊電機、秋田駐在所の前で)

(この赤い車が、当時営業で使っていたトヨタカリーナ1600バン)
(大雪で、この車がこの場所で、すっぽり埋まって見えなくなった事も数回あった)
弱電機器(放送設備)の営業で秋田県を担当していた。
1週間、秋田県内を営業し、週末に盛岡に帰ると500キロ前後になる。
冬期の深夜の山越えなど、危険な事も多かった。
東亜特殊電機株式会社(現TOA)に、
駐在所という制度は正式には無かったが、
往復の時間がもったいなくて駐在所を作ってしまった。
高速道路も新幹線も無かった時代である。
秋田では奥山京助範士八段が指導される興陽館道場に通い始めた。
仕事も剣道も、何をするにも新鮮で全力投入で楽しかった時代だ。
親から自立し、独りで生きていくんだと実感できた時期だった。

(3DKの小さな駐在所は、翌年、そのまま新婚の家となった)
昭和56年(1981年)のもの。

(昭和56年5月3日、連休中に奈良に帰省した時のもの)

(次兄はこの時、風伝流の槍術をやっていたように思う)
その頃は岩手県盛岡市に居住し、新明館橋市道場で剣道を再開し、
剣道二段を頂いたばかりで有頂天になっていた頃だ。
奈良の実家の庭で、兄(隆)や従弟(扇田智司君)と古武道か何かで戯れていた時の写真。

(昭和56年7月、東亜特殊電機、秋田駐在所の前で)

(この赤い車が、当時営業で使っていたトヨタカリーナ1600バン)
(大雪で、この車がこの場所で、すっぽり埋まって見えなくなった事も数回あった)
弱電機器(放送設備)の営業で秋田県を担当していた。
1週間、秋田県内を営業し、週末に盛岡に帰ると500キロ前後になる。
冬期の深夜の山越えなど、危険な事も多かった。
東亜特殊電機株式会社(現TOA)に、
駐在所という制度は正式には無かったが、
往復の時間がもったいなくて駐在所を作ってしまった。
高速道路も新幹線も無かった時代である。
秋田では奥山京助範士八段が指導される興陽館道場に通い始めた。
仕事も剣道も、何をするにも新鮮で全力投入で楽しかった時代だ。
親から自立し、独りで生きていくんだと実感できた時期だった。

(3DKの小さな駐在所は、翌年、そのまま新婚の家となった)