かのパスカルは「自我とは憎むべきものである」と吐いたとか…。
フランスでは「私、私」と自分のことを語るのは、
慎みを欠いた恥ずべきことであるという考え方、感じ方が伝統的にあるそうで、
そんな視点から「たらたら日記」を読めば、
唾棄すべき愚の骨頂ブログなのだろう。
とまた「私」を述べてはまた本題に戻る。
しかし、20世紀に入って極度に知的な方向に向かいすぎた文学のあり方に
対するアンチテーゼがあり、「主体」を回復しようとする欲求から、
アニー・エルノー、クリスチーヌ・アンゴ、マリ・ニミエ、アンヌ・ヴィアゼムスキー
といった女性のオートフィクション(私小説)の書き手が次々と出現するに至った。
その端緒となったのが、このデュラスの『愛人』である。
「映画で観たわ。」とおっしゃる方も多いだろう。
かくいうキューピーもメコン河を渡る渡し舟のシーンをうっすらと憶えている。
この小説はデュラスがすでに作家として大成していた71才のときに、
始めは写真集に付け加えるコメントのつもりで書き溜めたものが
小説になっちゃたわって感じで、文章の中にもその痕跡がある。
71才のときに書かれたというのは、家族、親戚、知人の多くが他界してしまい、
気兼ねなく自分のプライバシーを公に出来る環境になったというのも
小説化の大きな要因に違いない。
この小説がベストセラーになり、ゴンクール賞まで受賞し、
一部の顰蹙を買った要因は一つしかない。
それは、フランスの植民地だった旧インドシナで、
15才のフランス人少女が華僑の金持ちの青年の愛人になる
というスキャンダラスな内容そのものだ。
愛人との関係以外の叙述も、母と二人の兄に対する愛憎が多くのページを割いているが、
それらは陰鬱で、僕は不愉快だった。
放送大学の教科書には
「単なる告白や暴露の安易さを超えて、「地下に埋めてしまったような」、
自己の深い地層にまで降りていって「わたし」を新たに発見する、
一つの冒険としての物語を生み出している。」
とまで書いてあるが、
知能の至らないキューピーにはそこまで読み解くことは出来なかった。
残念ですが、☆☆です。
フランスでは「私、私」と自分のことを語るのは、
慎みを欠いた恥ずべきことであるという考え方、感じ方が伝統的にあるそうで、
そんな視点から「たらたら日記」を読めば、
唾棄すべき愚の骨頂ブログなのだろう。
とまた「私」を述べてはまた本題に戻る。
しかし、20世紀に入って極度に知的な方向に向かいすぎた文学のあり方に
対するアンチテーゼがあり、「主体」を回復しようとする欲求から、
アニー・エルノー、クリスチーヌ・アンゴ、マリ・ニミエ、アンヌ・ヴィアゼムスキー
といった女性のオートフィクション(私小説)の書き手が次々と出現するに至った。
その端緒となったのが、このデュラスの『愛人』である。
「映画で観たわ。」とおっしゃる方も多いだろう。
かくいうキューピーもメコン河を渡る渡し舟のシーンをうっすらと憶えている。
この小説はデュラスがすでに作家として大成していた71才のときに、
始めは写真集に付け加えるコメントのつもりで書き溜めたものが
小説になっちゃたわって感じで、文章の中にもその痕跡がある。
71才のときに書かれたというのは、家族、親戚、知人の多くが他界してしまい、
気兼ねなく自分のプライバシーを公に出来る環境になったというのも
小説化の大きな要因に違いない。
この小説がベストセラーになり、ゴンクール賞まで受賞し、
一部の顰蹙を買った要因は一つしかない。
それは、フランスの植民地だった旧インドシナで、
15才のフランス人少女が華僑の金持ちの青年の愛人になる
というスキャンダラスな内容そのものだ。
愛人との関係以外の叙述も、母と二人の兄に対する愛憎が多くのページを割いているが、
それらは陰鬱で、僕は不愉快だった。
放送大学の教科書には
「単なる告白や暴露の安易さを超えて、「地下に埋めてしまったような」、
自己の深い地層にまで降りていって「わたし」を新たに発見する、
一つの冒険としての物語を生み出している。」
とまで書いてあるが、
知能の至らないキューピーにはそこまで読み解くことは出来なかった。
残念ですが、☆☆です。
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