今朝の山陽新聞から、「漱石の忘れ物」という三ッ木茂氏の作品が掲載されだされました。という訳でないのですが、私は、かって、このブログに漱石の「吾輩は猫である」最後の場面について書いたことがあるのを思い出しました。それを、再び、載せます、お笑いください。
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「吾輩は猫」様の、この世での最後の言葉が「難有い」でした。
いつも思うのですが。なぜ、漱石は、この「難有い」と言う言葉を一番最後に使ったのだろうかと。「南無阿弥陀仏」だけで終わらせても十分だと思うのですが。
そもそも「難有い」という言葉は、「有ることが難い、即ち、ありえない」ということから生まれた言葉だと聞いています。めったにないことに出くわしたことに対する神への感謝の意からできたのだそうです。
私が子供の時です。祖父は、毎朝、近所にある観音様とお大師様をお祭りしている二つの小さなお堂に、晴雨に関わらず、お参りしていました。そなんな祖父の後を、時々、私も一緒について行くことがありました。祖父は、読経が済んで、お堂から出ると、決まって、もう一度、お堂に向き直って深々と首を垂れます。そして、必ず「ありがたや、々、々」と、3度繰り返して言って帰るのが日課でしたいました。
本当に一心に合掌して唱えていました。その時は、私は、そうするのが、お堂にお参りする時の礼儀作法なのとばかり思っていました。時々一緒になるご近所の年寄りたちも、誰もがみんな私の祖父と同じ仕草をしています。
だから「なんまいだぶつ・ありがたや」これが私の覚えた最初のお経でした。四,五歳の時だったでしょうか?
そんなん昔の風景が、いつも「吾輩は猫である」の、この場面を読むと頭を横切ります。
これからもわかるように、ほんの5、60年前ぐらいまでは、日本で生活していた日本人にとっては、都会であっても、田舎であってもです、所を違えず総ての人々が、今まで生きていたことに対する神に対する感謝の念を、「なんまいだ・ありがたや・ほうれんげきょう」などという言葉で、常に生活の中に取り入れて生きていたように思います。仏様がわれわれの生活とまだまだ結びついていたのです。
だからこそ、守屋浩という歌い手が歌った「ありがたや」という歌も流行ったのではないでしょうか。今だったらそんな歌は見向きもされなかったに違いないと思いますが。まだ、当時は「有難い」という観念が社会構造の中に幾分たりとも残していたように考えられます。
お遍路さんの「同行2人」と同じ心だったのではないかと思います。
そんな江戸情緒というか、日本情緒が、まだいっぱい漂う中に生きた「吾輩は猫」様も、やっぱり人の子ではなかった、猫の子だったのではないでしょうか。「猫先生」と、特別、尊敬の念を以て三毛子に言われたように学者肌の「吾輩は猫」様ですから、余計に、そんな感情ができていたのではないかとも思われます。
今まで生きてきて、本当に有難い体験をさせていただき感謝しています。神様仏様ほんとうにありがとうございました。「死んで此太平を得る。太平は死ななくければ得られぬ。南無阿弥陀仏々々々々々々」と。そして、最後に、漱石先生が、わざわざ、「難有い々々々」を持ってきて、その終焉とさせたのではと考えているのですが、どうでしょうか???