日本書紀によりますと、今、お話ししている「雄略天皇」の時のことです。吉備の国に一人の大変な美女がいました。名は「雅媛}といいますが、それとは少々離れて、そのお話の少々前になるのですが、当時、天皇家と同じくらい強大になった吉備の国が、天皇の命令に従わないで勝手な政治をしておりました。その勢力を弱めるために取った天皇の戦略がありました。これと「稚媛」とが何処で繋がっているのかは分からないのですが、そのような当時の吉備国に状態についてお話します。
此の美女の前に出て来ますのが「吉備下道臣前津屋」という人です。
「下道」というのは、先の古事記に出てきた吉備の美女「兄媛」の兄である御友別<ミトモワケ>の長子「稲速別<イナハヤワケ>が封じられた土地です。今の高梁川南西側の南半分ぐらいなところです。
それは応神天皇の時代ですから、時間的に見ると、もう200年ぐらいは過ぎています。その頃、その土地の支配者である「前津臣」は天皇の命令を聞かず、吉備の国を自分勝手に支配していて、天皇中心の中央集権の政治に大いに妨げになっておりました。そこで、雄略天皇は、どうにかして、自分の命令を聞こうともしない強大になって吉備の国の勢いを弱めるべき方法を考えていたのです。その吉備の国の勢力を弱めるために取ったのが「前津屋」という人の事件です。この話も、実は、どうも胡散臭い匂いがしてしようがないのですが、まあ「書紀」には、堂々と、日本のし正史として取り扱われております。