日本書紀です。これは日本の歴史そのものなのですが。誰がどうしてこんなことを書かしたのかは分かりませんが、兎に角、書かれているのです。当時、これが最も日本の話題になっていたことには違いありません。
それが、「稚媛」だったのです。日本書紀の「雄略天皇」の段に、雄略天皇が即位して。直ぐに、”草香幡梭媛命<クサカノハタヒビメノミコト>為皇后”とあり、次に三人の妃を立てるとあります。まず、「韓媛」、次に、「稚媛」とあります。この妃は「吉備上道臣之妻」だとしてあります。「上道臣の妻」がどうして、天皇の妃になられたのでしょうか、大いに疑念の起る書きぶりなのです。どう思われますか。どうして妻なのでしょうか。それも、此の稚媛には天皇の皇子まで出来ているのです。
その御子の名前は「星川稚宮皇子<ホシカワノワカミヤノミコ>」です。この皇子が、また、後に、日本国の相続に関わるような大きな事件を起こしております。