兄媛が吉備に帰ってしまい応神天皇は、その寂しさに、悶々と毎日をお過ごしになられておられました。
「恋し兄媛よ!!!}
と、その「あいたさ見たさにこわさを忘れ・・・」ではないのですが、どうにかして吉備への御幸はとお考えになられておりました。直接、「吉備へ!!!」とは流石に言えなかったのでしょうか、一応、まず、これまでの天皇が、しばしば、幸して慣例になっておられる「淡路島」に行き、それから愛しい兄媛のいる「吉備へ」とお考えになられます。もとより、「吉備国」は、応神天皇の祖母である「播磨稲目大郎女<ハリマノ イナメ オオイラツメ>」の出所ですから、直接、尋ねても、別に,構まいはしないのですが、人の噂を気にしたのでしょうか、そのような間接的な吉備への御幸を計画されます。その正確な日までも「日本書紀」には記されております。
兄媛が吉備に帰ったのは四月ですが、その年の「九月六日」には淡路島に到着されて狩りされ、その翌日でしょうか、小豆島にも立ち寄られたりして、4日後の「九月十日」には、電光石火の如くに、「吉備」に到着されております。
そこが
“葉田葦守宮<ハダノアシモリノミヤ>
です。多分、到着された港が「吉備の津」だったと思います。御参考までの、当時の吉備の穴海をみてくだs
この海が、応神天皇時代の4世紀ごろの、「吉備の穴海」です。現在の岡山市街地や倉敷市街地は、当然、海の中です。「楯築遺跡」と書かれている辺りに「吉備の津」があったと思われます。「葉田ノ葦守」は、そこから8kmばかり奥に入った現在の「岡山市北区足守」ではないかと言われております。
「恋し兄媛よ!!!}
と、その「あいたさ見たさにこわさを忘れ・・・」ではないのですが、どうにかして吉備への御幸はとお考えになられておりました。直接、「吉備へ!!!」とは流石に言えなかったのでしょうか、一応、まず、これまでの天皇が、しばしば、幸して慣例になっておられる「淡路島」に行き、それから愛しい兄媛のいる「吉備へ」とお考えになられます。もとより、「吉備国」は、応神天皇の祖母である「播磨稲目大郎女<ハリマノ イナメ オオイラツメ>」の出所ですから、直接、尋ねても、別に,構まいはしないのですが、人の噂を気にしたのでしょうか、そのような間接的な吉備への御幸を計画されます。その正確な日までも「日本書紀」には記されております。
兄媛が吉備に帰ったのは四月ですが、その年の「九月六日」には淡路島に到着されて狩りされ、その翌日でしょうか、小豆島にも立ち寄られたりして、4日後の「九月十日」には、電光石火の如くに、「吉備」に到着されております。
そこが
“葉田葦守宮<ハダノアシモリノミヤ>
です。多分、到着された港が「吉備の津」だったと思います。御参考までの、当時の吉備の穴海をみてくだs
この海が、応神天皇時代の4世紀ごろの、「吉備の穴海」です。現在の岡山市街地や倉敷市街地は、当然、海の中です。「楯築遺跡」と書かれている辺りに「吉備の津」があったと思われます。「葉田ノ葦守」は、そこから8kmばかり奥に入った現在の「岡山市北区足守」ではないかと言われております。
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