「造山古墳は御友別のお墓だ。」と書いたのですが、日本書紀に書かれた御友別を中心とした吉備の歴史がどれ程の真実性があるかは、歴史家は誰も言及しておりません。また、この御友別がその後の吉備にどのような政治力を発揮したのかも一切不明です。ただ、その兄弟や子達が吉備の地で確たる地位を得たことは記されていますが・・・・ ただ、わずかではありますが吉備津神社の残されている「吉備津神社記」にその存在をうかがわせる記事があります。明治末年に出版された本です。
ここに示されているように、その製作年代全くの不明なのですが、この記は吉備津神社が造営された頃からあったはずです。ここに見えるように、この御友別一族が吉備津神社と深く係わっていたことが伺われます。どうして、このことが古事記に記されてないのが不思議なのですが???
まあ兎も角も、吉備の一宮としての吉備津神社の存在と御友別の関係がわかる一つの資料にはなると思われますが???
「では、それと造山とは・」
と尋ねられても、今のところそれ以上の関係は不明です。はなはだ疑わしき推量だけですが、ただ、この辺りの郷に大きな渦となって駆け巡っているだけです・・・
ここに示されているように、その製作年代全くの不明なのですが、この記は吉備津神社が造営された頃からあったはずです。ここに見えるように、この御友別一族が吉備津神社と深く係わっていたことが伺われます。どうして、このことが古事記に記されてないのが不思議なのですが???
まあ兎も角も、吉備の一宮としての吉備津神社の存在と御友別の関係がわかる一つの資料にはなると思われますが???
「では、それと造山とは・」
と尋ねられても、今のところそれ以上の関係は不明です。はなはだ疑わしき推量だけですが、ただ、この辺りの郷に大きな渦となって駆け巡っているだけです・・・
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