「大和・出雲に拮抗する強大な・・・」と「吉備の古代史」に門脇先生は書かれているのですが、その吉備王国の範囲はどの地方までに達していたのでしょうかね??
まず、吉備と九州との関係について資料に残された記録から拾ってみます。日本第4位の造山古墳の陪塚の一つである「千足古墳」に、北九州地域の特徴である古式横穴式石室に、肥後地域の特徴である直弧文を刻んだ石障があります。これからも九州と吉備の何らかのつながりがあったことを意味しております。それと、いかほどの関係があるかは分らないのですが、この度の球磨川の大水害で大変な被害に遭われた葦北地方と吉備との関係が、あの温羅を退治したと伝えられ大吉備津彦命とあるのです。
それが「新撰姓氏録」に、
「大吉備津彦命の子「三井根子命」が葦北国造<アシキタノクニノミヤツコ>になった。」
とありますが、もしかして、時間的な意味を無視すれば、この千足古墳の製造もこの三井根子命と何らかの関係があったのではとも考えられはしないでしょうか???
その千足古墳の石室内部の写真を。「直弧文」の写真は倉敷の写真家中村昭夫氏が撮影されたものです。
まず、吉備と九州との関係について資料に残された記録から拾ってみます。日本第4位の造山古墳の陪塚の一つである「千足古墳」に、北九州地域の特徴である古式横穴式石室に、肥後地域の特徴である直弧文を刻んだ石障があります。これからも九州と吉備の何らかのつながりがあったことを意味しております。それと、いかほどの関係があるかは分らないのですが、この度の球磨川の大水害で大変な被害に遭われた葦北地方と吉備との関係が、あの温羅を退治したと伝えられ大吉備津彦命とあるのです。
それが「新撰姓氏録」に、
「大吉備津彦命の子「三井根子命」が葦北国造<アシキタノクニノミヤツコ>になった。」
とありますが、もしかして、時間的な意味を無視すれば、この千足古墳の製造もこの三井根子命と何らかの関係があったのではとも考えられはしないでしょうか???
その千足古墳の石室内部の写真を。「直弧文」の写真は倉敷の写真家中村昭夫氏が撮影されたものです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます