私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

吉備国と応神天皇の関係は・・・

2020-05-22 10:19:07 | 日記
 色々な饗によるもてなしを受けた応神天皇は

  「御友別が謹惶(かしこま)りて侍奉(つかまつ)れる状(さま)を看(み)そなわして、悦びたまふ情(こころ)あり。」

 御友別を始め兄媛の兄弟たち総てで大歓迎されたのを大変うれしく思われ、吉備の国を分けてそれぞれの人に分け与えたのです。ということは、それまでのように独立した大王国となっていた吉備の国を、戦争も何もなしに言向け和して、天皇の直属地にしてしまったということです。
 どうして、そのようにいとも簡単に大王国から天皇の直属地になったかという理由について藤井俊先生はその著「吉備津神社」の中で吉備について

 孝霊天皇の時、大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命とは二柱相副はして、吉備国を言向け和したまひき。(古事記)

 更に
 若日子吉備津彦命の子に御鉏友耳建日子命がある。その子に吉備武彦命があった。景行天皇即位の四年、 日本武尊の東征に従って 副官となった。その吉備武彦命の子に、意加部彦命・建功狭日命・吉備穴戸媛・御友別命・鴨別命・兄媛がある。・・・

 続いて

 この若日子吉備津日子命に一男二女があった。長女を播磨稲目大郎媛といい、二女を播磨稲目稚郎媛という。 ともに景行天皇の 宮に入った。姉の稲目大郎媛は、天皇即位二年、皇后に立ち櫛角別王・大碓命・ 小碓命の皇子を生んだ。

 と説明があります。

 これらの記事から応神天皇と吉備との関係は、今更言わなくても、相当古い時代から、深くつながっていたことがわかります。吉備王国といっても天皇家と親戚筋にあたる関係があたのです。すると、この御友別の
                   "饗(みあへ)奉(つかまつ)らしめたまひき”
 も理解できます。


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