また、また、例の「筆敬」氏からメールが届きました。
「わしがおせえたった 「麗人行」の詩を ようしらべもせんと けえたもんじゃのう。そりゃあ マア ほめたるけえど、 けえで おしめえにするんじゃと。 なにゅう ぬかしょんなら。 そげんことじゃあねえかと おもようたんじゃが、 「長恨歌」を もうちょびっと ふこう わからしょうと おもうんなら、 まだ、 よまにゃあ おえりゃあせんもんが あるんじゃ。 杜甫がけえたなけえなあ おしえたるけえ もうちょびっと けえてみんせえ。」
と。
それは、「麗人行」と同じ、杜甫の「兵車行」という詩だ、と言うのです。「わしがおせえたった麗人行」は、当時の、支配階級最上層部の人達の、特に、楊一族の専横ぶりを歌ったもので、それに対して、「こんどおせえたる兵車行」は一般の人たちの、特に、兵隊に徴収された一般国民の必死な暮らしぶりについて書かれたものだ。この詩を読む事によって、当時の人達が、楊国忠を中心とした楊一族の専横ぶりやその根源になっている楊貴妃に対して、如何に恨みを抱いていたか、そこら辺りの様子がよく理解できる。だから、「兵車行」を読まなくては、真の「長恨歌」の理解にはならないのだと強調するのです。
今、私は、あくまで、「私の 吉備津」欄で、「吉備の三大美女」を追及しているのです。だから、「麗人行」、まして、「兵車行」なんて、どうでもええことなのですが、折角の、これだけのご注告、有難く聞かざるを得ません。昨日、「乞う!ご期待」と大見栄を切ったのですが、またまた、頓挫させて、筆敬氏のお教えに従いまして(捜してみますと、「兵車行」の詩を書いてある本が手元にありましたので)、また、しばらく、そちらを優先することにします。どうなることかと、内心、心配しておりますが、あしからず。
大いなるご批判を頂けますればと思っております。
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