咸陽橋は車や馬の立てる濛々とした塵埃のために、永遠の別れと成るやもしれない愛する息子や夫の姿すら見えない。その為に見送りの人々は
牽衣頓足欄道哭 <衣を牽<ヒ>き 足を頓<ソバダ>て 道を欄<サヘギリ>て哭す> です。
天宝十年(麗人行に、あの三月三日に“愼莫近前丞相嗔” と、杜甫をして書かしめた故事は天宝十三年の出来事です。なお、その楊国忠が馬嵬駅に於いて殺害されたのは天宝十四年の事でした)に、国は徴兵の命令を出します。しかし、当然ながら、応募する者は誰一人としていなかったのです。そのため、楊国忠は、国家に対して功績のあった者以外は、皆兵制の令を出したのです。そして、国忠自らその第一の高勲者となったのです。だから、“行者愁怨”となり、見送りの人達の「道を欄(さへぎり)て哭す」状態を生み出したのです。
最後に、一目たりとも、息子や夫の姿を見送ろうと咸陽橋まで来たのですが、その姿すら立ち込める塵埃で見ることができません。どうすることもできません。「牽衣頓足」とは、己の衣を引きちぎるようにして、足をじだんださせて、道を欄(さへぎ)るようにいっぱいになって、恥も外聞もありません、大声を上げて哭(こく) するのです。(「欄<ラン>」を、ここでは、特別に<サヘキツテ>と読ますしております。欄干の欄です)。そして無目的に、ただ、道をあちらに行っては、又、こちらにいってはと、行きつ戻りつするばかりです。
この「欄」という一語の中からも、“行者愁怨”の悲壮感のものすごさが、改めて、感じられます。その「愁怨」が、4年後に、あの馬嵬駅で、一挙噴出し、楊貴妃にまで達するのです。
そして、
哭聲直上干雲霄 <哭聲 直ちに上り雲霄<ウンショウ>を干<オカ>す>
その声はものすごく、雲霄<ウンショウ>を、干す(普通なら起らないようなことが起こるという意味です)。大空の果てまでにも届く様であったと歌っております。
此の歌も、やはり、杜甫は、例の「起承転結」の様式で歌いあげております。ここまでが「起」です。まあ、こうなっては、先を急いでも仕方ありません。少しづつ、ゆっくりと、この後の「承・転・結」も読んでみたいと思っておりますので、お付き合いいただけますようお願い申し上げます。
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