"布斗斯理<フトシリ>ですが、太古のお宮はその柱は総て土地に穴を掘って立てたのです。最近では、プレハブなどの組立様式の物置小屋が総てであり、あまり見かけないようになってはおりますが、ごく最近まで、「掘っ立小屋」など簡単な小屋は、その柱は穴を掘って埋めて作られておりました。このオホクニの時代は建物と云えば総ての柱は穴を掘って埋めていたのです。先に上げた出雲大社の御柱も穴の中にうずめていたのだそうです。その写真を
このような太い柱を穴深く掘って埋め立て、そこに神殿を作ったようです。此の残った柱から推定すろと、当時の神殿はどうも70~90m位もある巨大な建物だったようです。それを基にして考えられた神殿の形が
名のだそうです。それがオホクニの神話の中に出てくる神殿かどうかわ分からないのですが???
それは分かってはいるのですが、では、ここにある“布斗斯理<フトシリ>ですが、<フト>とは<太>と思ったのですが、宣長先生は「さにあらず」として、次のように説明がしてあります。
“此語は、専ら柱に係るには非ず、その宮の主に係れる語なるを、布刀<ふと>と云うが柱に縁<よし>あるから、「宮柱太<みやばしらふと>」とは云ヒかけて、兼ねて其宮をも祝<ほぎ>たる物なり”
と。
要するに、その柱は、ただ単に、太ければそれでよいのではなく、貴く繁き物でなくてはならないから
<太敷立>
と書いたのであれば、そこら辺りの感じ方が薄っぺらに感じられるから、敢て、のような書き方をしたのではないだろうかと説明があります
どうですか。この絵から“底津石根宮柱布斗斯理”の意味するところがお分りいただけるのではないかと???
このような太い柱を穴深く掘って埋め立て、そこに神殿を作ったようです。此の残った柱から推定すろと、当時の神殿はどうも70~90m位もある巨大な建物だったようです。それを基にして考えられた神殿の形が
名のだそうです。それがオホクニの神話の中に出てくる神殿かどうかわ分からないのですが???
それは分かってはいるのですが、では、ここにある“布斗斯理<フトシリ>ですが、<フト>とは<太>と思ったのですが、宣長先生は「さにあらず」として、次のように説明がしてあります。
“此語は、専ら柱に係るには非ず、その宮の主に係れる語なるを、布刀<ふと>と云うが柱に縁<よし>あるから、「宮柱太<みやばしらふと>」とは云ヒかけて、兼ねて其宮をも祝<ほぎ>たる物なり”
と。
要するに、その柱は、ただ単に、太ければそれでよいのではなく、貴く繁き物でなくてはならないから
<太敷立>
と書いたのであれば、そこら辺りの感じ方が薄っぺらに感じられるから、敢て、のような書き方をしたのではないだろうかと説明があります
どうですか。この絵から“底津石根宮柱布斗斯理”の意味するところがお分りいただけるのではないかと???
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