私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

暫らくお休みしておりました「黒日売の恋」について

2015-09-13 16:36:29 | 日記

 「夜麻登弊爾 由玖波多賀都麻<ユクハダガツマ> 許母理豆能<コモリズノ> 志多用波閇都都<シタハヘツツ> 由久波多賀都麻」

 わざわざ自分に逢うために難波の都から、あの大后「石之日売命」を欺いてまでして、この吉備の国へ来て下さった天皇に対して、黒日売は、改めて、お慕いする心が、日々に、深まるのでした。しかし、この恋が永久に続くとは、決して、思っては居ません。だって、天皇は日本国を統治する責任者です。自分一人の為に、この難波から遠く離れている吉備の地に留めておくわけにはいかない事くらいはちゃんとわきまえておりました。何時か、悲しい別れが来るだろう運命は此の地に来られた時からよく分かっております。自分が天皇と、再び、難波に行くことも、大后の嫉妬を恐れて、出来ません。「別れ」は必然になっております。そんな心持が此の歌には現れております。

 ”由玖波多賀都麻<ユクハダガツマ>”

 です。
 「あなた!!!行っておしまいになられました。もう二度とお会いすることはないでしょう。恋するあなた。出来る事なら、もう一度あなたのお顔がこの目て見とうございます。決して、お忘れはいたしません。でも、致し方ありません。私は遠くこの吉備の空から終生お慕い申し上げております。どうぞお元気で・・・・」
 今にも泣き崩れんばかりの悲壮な思いがこの短い歌には秘められております。

 もい一度書いておきます。声に出して御読みください。

 “夜麻登弊爾 由玖波多賀都麻<ユクハダガツマ> 許母理豆能<コモリズノ> 志多用波閇都都<シタハヘツツ> 由久波多賀都麻”


「 漱石」についてもう少し

2015-09-04 09:02:04 | 日記

 昨日の「吾輩は猫である」が大変好評で、閲覧数が100もになりました。そこで、またまた、黒日売をうっちゃっておいて、有頂天の気分になり「夏目漱石」について書いてみます。是も私が持っている大変珍しい本です。大正六年正月に発行された、春陽堂の雑誌「新小説」の『文豪夏目漱石』の臨時号です。

 その内容は
   ・「夏目漱石氏の一生」と題して、森田草平、山本笑月等そのお弟子からのその学生時代、松山時代、熊本時代の思い出話を始め、和辻哲郎、正宗白鳥、小川未明、久保田万太郎、与謝野晶子、田山花袋、島崎藤村、岡本一平、泉鏡花など、当時の超著人による漱石の印象などを載せた雑誌です。
 これも実物をお見せしたいのですが、写真を載せますので見て下さい。

                           

                             

   

 


ついでに、もう少し私の自慢話をします。

2015-09-03 10:34:15 | 日記

 漱石の「猫」様について書いたのですが、又、自慢話をします。私は、このお話を最初に掲載した「ほととぎす」(明治39年)から取りだし、纏めて一冊の本にした、これ又、大変珍しい本を持っております。世界に、たった一冊しかない「貴重本」の「吾輩は猫である」です。
 写真でしかお見せできないのが残念ですが。なお、大正になって岡本三平が書いた「漫画明治大正史」の中にも、この猫様の漫画が画かれておりますのでお見せします。蛇足ですが、現在「吾輩は猫である」の初版本は300万円の値が付いていると言われております。

   

 

 

 


又。寄り道です。「漱石の忘れ物」に触発されて

2015-09-02 10:36:18 | 日記

 今朝の山陽新聞から、「漱石の忘れ物」という三ッ木茂氏の作品が掲載されだされました。という訳でないのですが、私は、かって、このブログに漱石の「吾輩は猫である」最後の場面について書いたことがあるのを思い出しました。それを、再び、載せます、お笑いください。

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 「吾輩は猫」様の、この世での最後の言葉が「難有い」でした。
 いつも思うのですが。なぜ、漱石は、この「難有い」と言う言葉を一番最後に使ったのだろうかと。「南無阿弥陀仏」だけで終わらせても十分だと思うのですが。

 そもそも「難有い」という言葉は、「有ることが難い、即ち、ありえない」ということから生まれた言葉だと聞いています。めったにないことに出くわしたことに対する神への感謝の意からできたのだそうです。

 私が子供の時です。祖父は、毎朝、近所にある観音様とお大師様をお祭りしている二つの小さなお堂に、晴雨に関わらず、お参りしていました。そなんな祖父の後を、時々、私も一緒について行くことがありました。祖父は、読経が済んで、お堂から出ると、決まって、もう一度、お堂に向き直って深々と首を垂れます。そして、必ず「ありがたや、々、々」と、3度繰り返して言って帰るのが日課でしたいました。

 本当に一心に合掌して唱えていました。その時は、私は、そうするのが、お堂にお参りする時の礼儀作法なのとばかり思っていました。時々一緒になるご近所の年寄りたちも、誰もがみんな私の祖父と同じ仕草をしています。
 だから「なんまいだぶつ・ありがたや」これが私の覚えた最初のお経でした。四,五歳の時だったでしょうか?

 そんなん昔の風景が、いつも「吾輩は猫である」の、この場面を読むと頭を横切ります。

 これからもわかるように、ほんの5、60年前ぐらいまでは、日本で生活していた日本人にとっては、都会であっても、田舎であってもです、所を違えず総ての人々が、今まで生きていたことに対する神に対する感謝の念を、「なんまいだ・ありがたや・ほうれんげきょう」などという言葉で、常に生活の中に取り入れて生きていたように思います。仏様がわれわれの生活とまだまだ結びついていたのです。
 だからこそ、守屋浩という歌い手が歌った「ありがたや」という歌も流行ったのではないでしょうか。今だったらそんな歌は見向きもされなかったに違いないと思いますが。まだ、当時は「有難い」という観念が社会構造の中に幾分たりとも残していたように考えられます。
 お遍路さんの「同行2人」と同じ心だったのではないかと思います。
  
 そんな江戸情緒というか、日本情緒が、まだいっぱい漂う中に生きた「吾輩は猫」様も、やっぱり人の子ではなかった、猫の子だったのではないでしょうか。「猫先生」と、特別、尊敬の念を以て三毛子に言われたように学者肌の「吾輩は猫」様ですから、余計に、そんな感情ができていたのではないかとも思われます。
 今まで生きてきて、本当に有難い体験をさせていただき感謝しています。神様仏様ほんとうにありがとうございました。「死んで此太平を得る。太平は死ななくければ得られぬ。南無阿弥陀仏々々々々々々」と。そして、最後に、漱石先生が、わざわざ、「難有い々々々」を持ってきて、その終焉とさせたのではと考えているのですが、どうでしょうか???