私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

日本で4番目に大きな古墳

2015-11-19 09:49:04 | 日記

 又少々脱線します。昨日書いた「造山古墳はどげえなもんかのう」と言うお問い合わせがありましたので、それを少しばかり。詳しくは「造山古墳蘇生会」まで。

 吉備の誇る古墳が「造山」です。日本で4番目に大きな古墳です。全長が363mもあるのです。ちなみに、第一位の古墳はというと486mの仁徳天皇陵だとされている「大仙古墳」です。でも、この造山が、4位だというのは、大きさ比べからの数値ですが、その築造年代から言うと「造山」は5世紀の初め頃に作られた古墳です。そのほぼ同じ時に作られた履中天皇陵と同じ大きさで、時代的に言うと、その当時においては日本一の大きな古墳だったのです。大仙古墳は「造山」のそれより5~60年後の築造になるのだそうです。

 なお、先に見た前津屋事件は、この大仙古墳が作られた時代のでき事なのですから、この古墳が仁徳天皇陵だとするのは誤りだと思いのですが。

 


雄略天皇の激怒

2015-11-18 10:01:05 | 日記

 虚空<オホゾラ>がら吉備下道臣前津屋<サキツヤ>の振る舞いを聞いて天皇は
 「我を蔑ろにするにも程がある。早速、征伐しなくては。」
とお考えになり、征伐軍として物部兵士<モノノベノイクサビト>を都から吉備の国に派遣します。

 この時、天皇が吉備に派遣した物部氏は大和朝廷の軍事を司る大連<オホムラジ>で、国の軍事力を一手に掌握していた大和朝廷の有力豪族だったのです。
 それまでは大和と吉備や筑紫等の地方豪族と連合体で国の政治を行っていたのですが、雄略天皇の時代になると、中国や朝鮮との外交交渉も国家としての権威を高めるより重要な手段となり、中央集権の国家の建設が必要条件になっていたのです。そのようなことから、それまでは対等的な政治関係にあった地方の豪族を天皇の隷属的な関係に置なくてはならなくなり、そのような動きの一つとして、大和の勢力による吉備の勢力の支配の為の戦いが始まったのです。この「前津屋」戦争が天皇制中央集権国家への成立の第一号となったのです。

 今まで多くの学者でも、此の事件を、それほどの歴史的価値とは見なさず、一つの史実として取り扱うにすぎなかったのではないかと思いますが、私は、この「前津屋事件」こそが、日本の古代歴史を考える上でも、最も、大切な国家体制の基礎を築くための事件の一つに挙げられるのではないかと、常々、考えております。

 なお、面白いのは、というか、そんなことはあり得ないと思われるのが、此の時、天皇が吉備に派遣した物部兵士<モノノベノイクサビト>(国軍です)の数ですが何万人jとかではなく、「30人」と、書紀には書いております。少々おかしいと思われません。
 なお、此の事件が起る200年くらい前になると思うのですが、例の神功皇后の朝鮮征伐の時に、此の吉備の国から兵士を集めますが、その兵士数が二万であったと言い伝わっております。{それ以後、この地方は「二万<ニマ>」(現在の倉敷市二万です)と呼ばれています。}この二万地方も下道郡の一部に当たります。
 吉備は、これだけの数の兵士を通常でも集めることができた強大な国です。いかに、当時、日本で一番の勢力を誇った物部の兵士だとしても、三十人で吉備の兵力に打ち勝つことは不可能だったと思われます。三十人ではなく、三万くらいの兵力はいたのではないでしょうか。この辺りにも、この物語の胡散臭さが伺われるのです。

 でも、この時、ここで、どのような熾烈な戦があったかは定かではありませんが、「前津屋一族七十人は誅殺さる。」とだけ書かれております。日本で4番目の大きさの造山古墳を持つ強大国「吉備」だったのですが、その勢力の衰退は、ここから始まり、その名が次第に日本歴史の中から消えて行きます。


吉備の虚空の話

2015-11-17 10:02:02 | 日記

 下道の主「吉備の前津屋」によって押し留められて、いくら呼んでも都へ帰らない吉備の「下道」に派遣していた虚空が、漸くにして帰ってきます。彼の口から当時の吉備の下道のあり様の報告を聞きます。虚空は、

 “ある時、この「前津屋<サキツヤ>」は、小女(<オトメ>)を天皇として、一方、大女(<アネムスメ>)を自分とみなして、お互いに戦わします。書紀には『競令相闘<キソフテ アイアラソワシメ>』と説明しており、女相撲のようなものだと思うのですが、その闘争方法についての詳しい記述はありません。
 この二人を相戦い競わして、もし、天皇と見なした大女が負けどもしたら、直ぐに、刀を抜いて、小女を殺します。
 また、ある時は、小さい雄の鶏を天皇として、その毛を抜き、翼を切り取り、一方、大きな雄の鶏に鈴と鉄を着けて自分として闘わします。もしも毛の抜けた禿げ鶏が勝とうものなら、この時も、直ちに、その鶏も刀を抜いて切り殺してしまいます。”

 と語ります。


吉備国下道臣前津屋

2015-11-16 18:59:26 | 日記

 雄略天皇の七年八月と書かれております。天皇は吉備の国を間接的に支配しようとして中央から派遣しておった官吏「吉備弓削部虚空<キビノユゲベノオホゾア>」に、至急、都へ帰るように書状にて指示します。しかし、吉備下道臣の「前津屋」はそれを拒否して、虚空を都へ帰そうとはしません。そこで、天皇も、仕方なく「毛君大夫<ケノキミマスラオ>」を吉備に派遣して、宮へ連れ戻します。そこら辺りの駆け引きは分からないのですが、前津屋は、よほど、何か、此の虚空を都へ帰したくないわけでもあったのでしょうか、ともかくも、毛君を派遣します。そこで、どのようないきさつが、吉備であったか分からないのですが、一応、虚空は毛君と一緒に都に帰ってまいります。

 吉備の下道の郡から都に帰った「虚空」によって、天皇は吉備の下道郡の、その時の様子を細やかにお聞きになられるのです。

 

 


愈々古代吉備の美女が登場します。

2015-11-15 08:54:30 | 日記

 日本書紀によりますと、今、お話ししている「雄略天皇」の時のことです。吉備の国に一人の大変な美女がいました。名は「雅媛}といいますが、それとは少々離れて、そのお話の少々前になるのですが、当時、天皇家と同じくらい強大になった吉備の国が、天皇の命令に従わないで勝手な政治をしておりました。その勢力を弱めるために取った天皇の戦略がありました。これと「稚媛」とが何処で繋がっているのかは分からないのですが、そのような当時の吉備国に状態についてお話します。

 此の美女の前に出て来ますのが「吉備下道臣前津屋」という人です。
 「下道」というのは、先の古事記に出てきた吉備の美女「兄媛」の兄である御友別<ミトモワケ>の長子「稲速別<イナハヤワケ>が封じられた土地です。今の高梁川南西側の南半分ぐらいなところです。
 それは応神天皇の時代ですから、時間的に見ると、もう200年ぐらいは過ぎています。その頃、その土地の支配者である「前津臣」は天皇の命令を聞かず、吉備の国を自分勝手に支配していて、天皇中心の中央集権の政治に大いに妨げになっておりました。そこで、雄略天皇は、どうにかして、自分の命令を聞こうともしない強大になって吉備の国の勢いを弱めるべき方法を考えていたのです。その吉備の国の勢力を弱めるために取ったのが「前津屋」という人の事件です。この話も、実は、どうも胡散臭い匂いがしてしようがないのですが、まあ「書紀」には、堂々と、日本のし正史として取り扱われております。