私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

禊を終えて・・・

2020-01-22 09:33:10 | 日記
 武内宿禰を伴って敦賀(角鹿)で禊を終えた日嗣の御子は大和にお帰りになります。その時、母親である“息長帯日売<オキナガタラシヒメ”は

    “醸待酒以献<マチサケヲ カミテ タテマツラシキ>”

 “待酒”(遠くより帰って来る人に飲ませるために、わざわざ、自ら醸して待っていた酒)を造って待っていました。その姿が見えると大変の歓びになって歌って帰郷を寿ぐのです。

 「ここに用意した酒は酒の神「スクナヒコナ」が特別にお造りになった大変有難い貴方を寿ぐためのお酒です。」

    “阿佐受袁勢<アサズオセ>”

 「飲み干せ。杯が乾かさないように引き続いて飲んでしまいなさい。」という意味です。
 幼い御子にお酒ですが、この時代は、まだ、お酒は、後の世の大人の為の嗜好品であるというより、神が体に宿り幸が舞い降りてくる己を寿ぐための有難い妙薬だったのです。だから、幼児にでも飲用させたのです。

武内宿禰は「禊」を・・・

2020-01-18 17:40:04 | 日記
 「香阪王」「忍熊王」二人の兄との戦いに勝利した神功皇后の御子のために、将来の禍根を残さないために武内宿禰は

      “卒其太子。為将禊”

 と書いてあります。これを宣長先生は
     <ソノミコヲイテマツリテ ミミソギセムトシテ>
 と読んでおります。
 要するに、武内宿禰はその御子をお連れになって、兄たちからの呪をそそぎ清める為の「禊」の場所を捜して、兄が入水自殺した淡海<オウミ>から若狭国へと尋ねて行きます。 敦賀(古事記では「角鹿<ツヌガ>」に着き、そこに宮殿を造ります。
 ある夜の事、武内宿禰の夢枕に、敦賀の神である「伊奢沙和気大神」が立ち

       “以吾名欲易御子之御名”

 「私の名を御子のお名前と交換したいと思うのですが。」
 と、お告げがあります。
 なほ、「易」は<カフル>と読み、
 「慎んで神からお告げの通りにいたします。」
 と云う意味で、神からの申し出に、「はい、分かりま分かりました。お互いに交換しましょう」と云う簡単な呼びかけでは無く、
 「有難くそのお言葉通りにいたします。」
 と云う恭しく承りますという丁寧な思いのある武内の宿禰の言葉なのです。

 それはお前の深読み過ぎだと思われるかもしれませんが????

我が国最初の辞世の句か???

2020-01-17 09:27:22 | 日記
 忍熊命は皇后の軍勢「振熊命」に追い詰められ琵琶湖まで落ちのび、船で沖合に逃れます。「もうこれまで。」と己の最期を悟った命は歌を詠みます。少々長いのですが原文には

    “伊奢阿藝 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 
     邇本杼理能 阿衣美能宇美邇 迦豆岐勢那和” 

 とあります。
    <イザアギ フルクマガ イタテヲオハズハ 
     ニホドリノ オフミノウミニ カズキセナワ> 
 この時、船で琵琶湖に落ち延びたのは命とその家来である将軍のみです。その将軍に向って
  『もうこれまでだ。いざさらば 私に最期まで付き添ってくれた
         與伊佐比宿禰<イサシノスクネ>よ。
   もう逃れる術は何もないよ。追っ手の振熊の軍勢に打ち負かされるよりも
   この淡海の海に
          潜為む吾<カズキセムワ>
       いさぎよく身を投げて死んでしまおう。私と一緒に!!!』

 と詠って、共に深い湖の底深くへ静かに沈んでいきました。絵に画きたいような壮絶な最期ですね。
   
 なお、この歌がわが国最初の辞世の歌でなないかと私は考えるんですがどうでしょうか???

  

権而<タバカリテ>どうした???

2020-01-16 11:14:24 | 日記
 忍熊命<オシクマノミコト>(仲哀天皇の第2皇子)は、兄「香阪命」の死後も尚、神功皇后の軍勢と山城の国で相まみえ戦います。その時、皇后の軍の将軍“建振熊<タケフルクマ>命”は相手の軍勢に油断を与える、噂をその辺り一帯にふりまきます。

        “権而<タバカリテ>”

 です。
 「オキナガタラシヒメの命は既に亡くなられました。これ以上戦いをしても無駄です。」
 と、兵の持つ弓を切って
      “欺陽帰服<イツハリテ マツロヒス>
 かりそめの降伏をします。
 その謀りを真に受けた忍熊命は安心しきったのでしょうか自分の軍勢の武装を解除してしまいます。それを見越して皇后の軍隊は、兵隊の頭の中に隠しておいた弦を取り出し、密かに再武装をして、敵の軍を急襲します。急を衝かれた忍熊命の軍は敗れ、逢坂まで落ちのび、そこでの戦いにも敗れ。琵琶湖にまで逃げ落ちるも、此処が最期の地だと思われて歌を詠んで、海に身を投げて死んでしまいます。
 
 これが太古の我が国の戦いの模様ですです。武器の主流が弓矢だということが分かりますが、それ以上に、その主流たる武器である弓矢を、どのように相手に使わせ無いようにするかが勝利のカギになるのです。相手を如何にだますかという心理的作戦が戦勝の重要なカギになたのではないでしょうか????
 しかし、この戦いがどうしてそのような単純な思いによる軽々しい戦いになったのかはわかりませんが、余程、忍熊命の作戦指令の拙さがあったのでしょうか、作戦的な欠陥があったのでしょうか、将軍に頭の良さの表れでしょうか、兎に角、文章的には、まこと稚拙な単純な作戦と思われるのですが、その時間的な経緯を見れば、相当激しい戦いになったことには違いありません、どちらも仲哀天皇の御子です。地勢的な観点からみると、はるかに大和にいた御子「忍熊命」の方に利がありそうなのですが????

遅ればせながら・・・  さて“小人”とは

2020-01-15 10:26:55 | 日記
 「明けましておめでとうございます。」

 今年は年男なのですが、何の因果か??肺がんの手術をしました。幸いの初期の段階とのことで術後の経過が順調で、短期間の入院で退院出来ました。

 さて、私の「古事記読み」も最初の予定を随分と越えました。あと少々(出来れば雄略天皇ぐらいまで)は続けてみたいものだと思っていますが???どうなりますか。
 話は変わりますが、私の此の度の入院中に読んだ新聞の中に、目から鱗ばりの言葉との遭遇がありました。というより、見つけたと云う方がいいのかもしれませんが・・・・それが

   “小人之過也。必文。”

 です。
 これを<ショウジンノアヤマツハ カナラズ カザル>と読むのだそうです。「文」を<カザル>です。

 この言葉の後に偶然でしょうが、例のゴンさんの記者会見がレバノンであったとかの報道。まさに“文”そのものです。言葉って面白いものですね。
 私は、今までは「文」と云う言葉は、「文学」「文章」「文化」「天文」「文言」「文雅」「文才」「文理」とかの 総て人の自らを表現する為の活動に関するために生まれ出た文字だと思っていたのですが、あにはからんや!!!このような思ってもみなかった言葉に遭遇しました。

   「文」<カザル>「あやまちをとりつくろう」

 です。でも、これも孔子の言う「小人」の為せる自らの表現の一つかもしれませんが???

 日本でも、先日の「桜を見る会」についての記者会見での、こにっくたらしい???菅とか言う人の説明を聞くと、この言葉と重なって、安倍と同様に

         “小人”

の小人たる所以ではないかと思いますが、どうでしょうか????