ケベックリタイヤ日記

ケベックでリタイア暮らし。ながらえば憂しとみた世も今は忘れた。毎日悦びの種をみつけてぽりぽりかじりたい。

春を巻く

2019-04-23 19:07:46 | 食べる
 筍も木耳もなしで春を巻く

 知人からのいただきもの春巻きの皮で簡単春巻きをつくり義母におすそわけ。義母は春巻き大好きでアントレとしてお客様にお出しする。

 末期の骨癌でホスピス入院を断った右お隣さんが5月15日に尊厳死を迎えることになった。まだ60代。3本の注射でこの世にさよならする。その前に夫と左お隣さんとお別れのあいさつに伺うことになった。

 長きにわたって良く耳にしていた「人は生きたように死んでゆく」という意味がやっとわかった。お隣さんは長くて余命1年と宣告されても、日常生活や生き方は変わらなかった。若い奥様が家をでてからデプレッションするかと思いきや、彼女の為につくった保育園を閉鎖し、各部屋にキッチン、お風呂付の学生向けスチューデイオ3部屋に改造した。ただいま満室。調子の良い時はいつものように庭掃除をし、いつものようにお洒落をしビジネスの話をしていた。でも、去年の秋あたりからぬけがらのようで、死の兆候は3か月前に現れると言うことを思い出した。つまりどこか魂が抜けた感じ。父がそうだった。

 亡き友達のクロードは余命3カ月を宣告されて、84才という年齢ゆえか、パニックを起こすこともなく淡々と死の準備をした。普段から物静かでとても几帳面な人で(だからずぼらで年中騒いでいる私と気が合ったのかもしれない)、車を売り、さまざまなもの処分し、遺言を書き身辺をきっちり始末して娘さんの住むオタワの病院に移った。死の前日にお電話があり、普通に会話し「疲れたのでこれでね」が最後にかわした言葉だった。

 義母は心臓が40パーセントしか機能していない。いつ何があってもおかしくない。ときどき倒れる。それでも普段は、あちこち痛い身体でお料理をし、1日一回は外出する。春巻きを届けたら、新しく買った布団カバーが気に入らずあした返品にゆくという。5月にアメリカの親戚が遊びに見えるのでメニューのあれこれを考えてるという。

 そうなんだ、人は生きたように死んでゆくというのは、死ぬまでいつものように生きてゆくということなんだ。だからいつもの生活って、しあわせなことなんだ。だから、いつか筍と木耳入りの春巻きを作ろう。それを入れなきゃ春を巻くって言えないだろう。





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