はっきりいってちょっと古いです。
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「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その2
H26.6.22
平成26年6月21日分の、「55歳からのハローライフ」について引き続き書きます。
今回は、「ペットロス」というテーマです。
吹雪ジュンと、松尾スズキの主演で作られています。脚本も前回と一緒で、連作(?)のような形をとるようです。後の連作は、原田美恵子、小林薫が主演のようです。
前回の「キャンピングカー」も、このたびのドラマも、郊外のコンドミニアム型の分譲マンションを舞台にしています。いわゆる億ションに近いものかもしれず、近くに今回の舞台となるドッグランのある広い公園があり、郊外型のとても良い住居地域です。住む人たちは、ある程度の社会的達成を必要としそうです。夫は、退職者ですが、大手広告代理店の引退者で、余裕のある家庭であり、妻はずっと専業主婦を続けてきたようです。また、夫は、インテリで、世間的な周囲との折り合いはよいのですが、家では、妻と全くしゃべらず、自分の思うがままに妻を操ります。妻は、長年の忍従生活で、口答えもできません。唯一、夫に逆らったのが、子どもが巣立ったあと、ペットを飼いたいときりだし、「欲しいのなら(散歩の要らない)猫を飼えよ」、という夫に抗い、子どものときからの夢であった柴犬を飼うこととなったことだけです。
夫は唯一逆らった彼女が許せず、犬が汚い、とかうるさいとか彼女をいじめます。犬も嫌って夫に吠えかかります。彼女は、夫のわがままに振り回され、夫の、一言、一言におびえながらびくびくして暮らしているのです。
ところで、夫役の松尾スズキ(劇作家兼俳優)が、とってもいい役をやっています。
彼は退職後、まったく書斎に閉じこもり、ブログばかり没頭しています。たまに出かけるのは、昔のクライアントのホームパーティーに行く時だけで、この時とばかり、相手の妻を褒めちぎり、社交的なセンスを発揮します(AB型じゃないかな)。妻は、運転手代わりに連れて行くだけです。妻をほめたこともないし、共通の話題を探すこともない(私のケースと同じで今更話すことなどはないのです。)自分勝手で、嫌な俗物です。しかし、松尾スズキが、かろうじて、知的で頼りなげで少し憎めない人物を作りあげ、彼を救っています。このドラマで、最初に彼の設定を見て、書斎にひきこもりブログが趣味というこだわりの人生(?)が、この私のパロディかと思って、思わず笑ってしまいました。年代もののレコードプレイヤーと、たくさんのLPレコードがラックに並んでいます。彼は、老後の余生を、自分だけの趣味とそのこだわりに生きているのです。彼の言動はいかにも、私がその局面に遭遇したらいいそうですから、多くの家庭適応不全の男は、痛く、思いあたるはずです。
一人で犬の面倒を看る妻は、ドッグランのある公園で、妻を亡くし、心配した子どもたちから犬をプレゼントされた愛犬家の義田に出会います。義田は、成功したデザイナーで、愛犬家の女性(なぜ愛犬家の男がいないのか)の人気者です。孤独な義田は他人が歩かない雨の日にも散歩します。雨の日は、公園の東屋で、彼女の用意したお茶を飲みながら、問わず語りに妻のことや様々なこと親切に語ってくれ、彼女は、無意識に夫と比較しながら、彼が本当の夫であれば夢想するのです。(余談になりますが、吹雪ジュンは、私の学生時代(1974年)にバーストした大人気のグラビアアイドルであり、今も面影はありますが、素顔が本当にきれいな子と言われていました。同じく、当時、きれいな女の子の代表だった坂口良子も鬼籍に入りました。(ああ!)ドラマでは、意識的な逆光だと思いますが、反射光の中で吹雪ジュンはこれだけ老けたのか、と茫然とします(自分はさておきですが)。)
変化は、愛犬(ボビー)が加齢から、余命いくばくの心臓病になってしまうころから動き出します。座敷にあげると、くさい、汚れる、という夫の心無い言葉で、監護のため、彼女は、納戸に籠城します。二人でこもっているうちにだんだん、過去の夫とのいきさつが思い起され、精神的に少しづつ危うくなっていきます。
「いい加減にしろ、いつまで、俺は冷たいものを食わなきゃならないんだ」という夫の言葉に彼女は激昂します。「好きなものをお食べになったらいいでしょう」と・・・・・。
それ以来、ひきこもりになって、納戸で、看病しながら、カップラーメンをすする妻に、
夫が声をかけます。「出ておいで」、「外で面倒をみてもいいから」と。外に出てみると、居間に犬の看病ができるように準備がされていました。「おかゆを作ったから、よかったら食べろ」と。
問わず語りに、「あなたは、結婚以来一遍も私を褒めてくれたことも、認めてくれたこと
もなかった」と、責める妻に、「お前は俺の誕生日を忘れていた、ボビーの誕生日は祝ったくせに」と、マザコン(自分中心;妻は自分だけ愛して面倒をみてくれればいい)の夫は答えます。「じゃあ、今まであなたは、私の誕生日に何をしてくれたんです」と妻も反論します。さすがの夫も、(俺がお前を愛していたのは当然わかっていると思っていた筈だがと、勝手に思い込んでおり)、初めて自分の仕打ちを謝罪します。
結婚以来、初めてのいさかいで、本音を吐いて、妻も少し落ち着きます。
そのうち、監護する妻が、「買い物がある」と言われて、「行ってこい、俺が見てるから」と、夫も譲ります。妻のいない間に、夫は撫でてやろうと、犬におそるおそる手を伸ばします。
柴犬(ボビー)を看取る日がやってきました。ペット葬儀社で、お骨にして、喪失感のみの妻は家に帰ってきます。もちろん、夫の付き添いはありません。葬儀から帰って、喪失感からと、やることもなく、手元のパソコンで、夫のブログを覗いてみました。
すると、「愛犬の死」という題名で、夫が、愛犬の死を看取った妻との間で、死んだ犬が老後の二人の仲をとりもってくれた、という書き込みがありました。
久しぶりに、公園で義田に出会った妻は、遠廻しに、また、犬を飼ったら、と勧められます。
家に帰って、もし夫に相談したら、「悲しい思いをしたばかりじゃないか、(散歩の要らない)猫にしろ」というだろうと思いながら、瀬踏みのつもりで、夫に相談すると、その通りに応えるので、思わず笑ってしまいます。すると夫は、「その笑顔が必要だから」、と、「また犬を飼えばいいじゃないか」、と言ってくれます。一応、将来に希望を残す幕切れです。
経済的な問題は別にして、支配したがる夫、話もできない夫、不気味な夫、何もしない夫etc、とこんな夫と最後まで、老後を一緒に過ごすのか、という多く(?)の妻の絶望的な気持ちと空虚さがよく理解できるドラマとなっています。
先ごろ、中央公民館の県立大サテライトカレッジに参加し、「語り場「老後の不安・・・何が不安?」に参加し、実体としてどんな話が聞けるか、と期待して行きました。時間が
なかったのですが、義母と夫を在宅で看取った70歳の女性が、嫁に一切遠慮をしなかった(最後は痴呆になったそうです。)義母と、家庭サービス(子供と遊ぶとか、家族みんなで行事をするとか)を一切配慮しない夫(代わりに職場の人を乗せてあらゆるところに遊びに行ったそうです。)に係る、恩讐のかなたの話をしてくれました。また、(女)友達皆が、今は楽になったでしょう、と言ってくれるけど、実感がない、とも言っていました。
また、70歳代の未亡人が、もう一度是非結婚したい(理由まで聞けなかった)、とも言っており、その後、70歳くらいの男が脈絡のない質問を始め(何かの孤立感か疎外感から何かを言いたいのだと思います。)、セミナーはお開きになりました。当日、私は、水を向ければ、夫や、義父母、家族に対する、熾烈な、怨さに満ちた、すさまじい感情の発露があるかと思いましたが、案外でした。
いずれにせよ、参加者の皆さんの多くは、明日は食えない、という経済的な話ではないようです。
しかし、子どもが会いにも来ない、私の世代では、父母(義父母)の面倒を看たのに、というのは、共通して、切実で、さみしい問題のようです。
もとに戻って、これもこの脚本の妙なのですが、先の「キャンピングカー」の家庭と、この「ペットロス」の家庭は隣人です。それぞれ、落差のあるマンション(仮にコンドミニアム型と言ってしまいます。)で、それぞれ20㎡くらいの緑地や、ベランダが部屋に附置しており隣戸とは落差で視線が合わないようになっています。隣人の「キャンピングカー」の夫が錯乱するのも隣の柴犬の吠え声を聞いてからです。「挨拶だけはするけど、感じのいい奥さんよ」、と相互に思うらしいのですが、煩わしさか、決して人間関係を作ろうとしません。うまくいかなくなった場合のリスクを考えるのです(皆さんも同じですか?)。
すなわち、ポストモダン(現代)においては、各家庭の、痛みも悩みも孤独も徹底的に個別的なのです。殊に退職後の男にとっての人間関係は、利害関係のない学生時代の友人(社会階層の同じ)のみしかおらず、もし経済的にとか、病気等で孤立したり、家族にも見放されたら、プーになるか、自殺するしかないような厳しい現実と、個々の、救いようもないほどの孤立と孤独があります。しかしながら、近隣とくらいは、せめて友好な関係を作りたいではありませんか。
私に言わせれば、現在のこの状況は、近代以降、日本が西欧列強に抗して、走らざるを得なかった近代日本がロールモデルとした西欧流の個人主義と豊かさを求めた道筋の帰結ではないかとおもいます。そうは言っても、現在の日本の家族の実態は、余りに淋しい結末であり、例のグローバリゼーションで、世界同一市場(強者の資本の国境を越えた移動と収奪(無慈悲な資本主義))の実現と、それに伴う同一文化の実現、このままいくと、あらゆる国が、均質で、無味乾燥な、つまらない、冷酷な世界国家の中に埋没し、日本も同様になりそうです。これは、「相互扶助」、とか「共存共栄」とか、「察しと思いやり」とか、「情けは人のためならず」とか、共生と相互協力を説いた本来の日本の文化と伝統に真っ向から衝突するものだと思われます。
戦略的には、現在の世界状況での、一部の勝者の、止めどもない自己欲望の追及とその無原則な随順者については、これしか対抗するすべはないではありませんか。(したがって私は、反グローバリズム、反TPP、反新保守主義、の立場をとります。)(この日本人の国民性については、和辻哲郎の「倫理学」を読んでください。)
と、最後は、いつもの堅い話になってしまいましたが、相変わらず「青い」、「渋い」、「固い」です。
次回は、原田美恵子の熟年離婚の話だそうです。きっといい作品だと思います。(かつて見た、彼女の、「愛を乞う人」で、虐待者としての母の演技には背筋がゾクっとしました。)
長くなってすみません。
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