小林秀雄(1902~1983)
一 難解な文体が意味するもの
小林秀雄を文学者とみず、思想家としてみれば、たった一つ端的に表せるのではないか? という矛盾に満ちた強烈な
印象がやってくる
江藤淳
二 「文学的なあまりに文学的な」小林批評(江藤淳の小林秀雄論に対する疑義)
(省略)
三 初期作品に見る批評家としての覚悟 初期の代表作
「様々なる意匠」
<人はいかにして批評というものと自意識というものを区別し得よう。(中略)批評の対象が己であると他人である
とは一つのことであって二つのことでない。批評とは畢竟(ひっきょう)己の夢を懐疑的に語ることではないのか!>
ア 批評というものは、どんな体裁を取ろうと、実は他人の作品をダシにして他人の作品をダシにして自分の自意
識を表出する行為に他ならないこと
イ どんな立派な意匠を凝らした批評理論で自己を武装しようと、批評される対象の生き生きとした豊かな実態の
もたらす感動に迫りえないならば何の意味もないということ。(小林自身の喩を借りるなら、どんな精緻な恋文
研究も、現実の愛における昂揚感を作り出しはしないこと)
ウ (批評の限界を自ら認めることにより)自分の人性の時間を何によって埋めていくのかという問題に対する覚
悟を自他に対し決然と表明しているものであること。
エ 実作者の個性的な表現によって示された作者自身の人性問題や、個々の作品表現の持つ豊かな言語の力に即し
て、批評家自身の自意識を批評対象のあるがままにより添わしていくのでなければ、どんな壮大堅固な批評理論
も見当違いな空砲を放つだけである。・・・反プロレタリア文芸理論
文学や芸術は、客観的・科学的・実証的・合理的等々の言語の網によっては決して掬い取れない人間の営みである。
(「様々なる意匠」から「本居宣長」に至るまでの一貫した批評的態度)
「志賀直哉論」・・・(私見:私も小浜と同様につまらなかったです。)
(私見:小浜に取り上げられた「如是我聞」の中では、志賀が太宰の文章(「斜陽」)の中で「貴族社会にはそん
な習慣はない」などと、文章の一部の表現を言挙げ、「おかしな表現」といわれたことに激高した太宰が、
「じゃ、お前の小説に「お殺し」などと体をなさない文章があるぞ」と、反論した経緯だったと思います。「自
己肯定のすさまじさ」という、自己の道徳性(倫理性のレベルでもないです。)を疑いもしないような、つま
らない志賀直哉は、坂口安吾にも「ただの文章家に過ぎない」と酷評されています。「悩むもの」、「苦しむも
の」のために文学はある、と考えれば、一般受けする道徳性をまとったような志賀直哉の通俗性は文学を志す者
(?)として、腹立たしかったと考えられます。(「不良少年とキリスト」(太宰治論)、「教祖の文学」(小
林秀雄論)という、坂口安吾の文芸評論を「堕落論」と同様におすすめします。)
四 ラディカルな実存思想の誕生
「Xへの手紙」
〈・・・・・・・・・・・・・・・・・いずれ今日の社会の書き割りは恋愛劇には適さない。だが、俺が気になる問題は、
適すにせよ適さないにせよ恋愛というものは、幾世期を通じて社会の機械的なからくりに反逆してきたもう一つの小さ
な社会ではないのかという点にある。〉
〈おれにはこのいわば人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える。
たとえ俺にとって、この世に尊敬すべき男や女は一人もいないとしても、彼らの交渉するこの場所だけは、近づき難い
威厳を備えているものの様に見える。あえて問題を男と女の問題だけに限るまい、友情とか、肉親の間柄とか、およそ
心と心との間に見事な橋が架かっているとき、重要なのはこの橋だけではないのだろうか。この橋をはずして人間の感
情とは理知とはすべて架空な胸壁ではないのか。人がある好きな男とか女とかを実際上持っていないとき、自分はどの
ような人間かと考えることは全く意味をなさないことではないのか。〉
個人的な背景 中原中也、長谷川泰子との三角関係など
社会的な背景 5.15事件、コミンテルン32年テーゼ(1932年)
「恋愛というものは、幾世紀を通じて社会の機械的なからくりに反逆してきたもう一つの小さな社会である。」
「恋愛というもう一つの社会」は、「寄りがたい威厳を備え」た「交渉の場所」であり、「人がある好きな男とか女とかを
持っていない場合に、自分はどういう人間かと考えるのは、全く意味をなさない」という事実の認識
ア 抽象的な「個人」の存在をいまだ得られぬ高所にある実在と信じて、その高所をめがけてむなしく煩悶を繰り返す自
意識の循環過程である。
イ 自分が直接に触れることのできない超越的な世界観念(社会、政治、民族、国家等々)に自分を憑依させることで実
存不安から逃避しようとする態度
アとイは、個々の人間はいつもエロスをいかに生きるかとに身と心を砕いていることを意識化することができないこ
とによる同根のものである。
人と人とがじかに交渉する場所、つまり人間がエロス的な関係性として生きる領域がいかにポジティブな意味を持つの
か強調した。
EX)人間というものを形作っているあらゆる要因、精神と肉体、理性と感情、意識と無意識、言語と行動、思想と
生活などが統合されて再び流れ込む貯水池、それが「客観世界」に対する彼の「抗い」の拠点
大森荘蔵は、デカルト以来の「心と物」の二元論という西洋的思考に反逆して、自然それ自体が有情なのだという「日本的
な」思想の定着を試みた。しかしながら、残念なことに、共同の心を持つ関係存在としての人間という発想を欠いていた。
しかし、小林秀雄にあって初めて、人間と人間とがじかに交渉しあう世界こそが「威厳」に満ちた場所などだという思想に
初めて出会えた。
和辻哲郎は、人間を「間柄的存在」として捉え、その実践的行為的連関のうえに世界の本質を見出すという思想に重ねて見
える。
特筆すべきは、(徹底している)小林秀雄は、抽象的な「個」に対しても抽象的な「全体」に対しても徹底的に抗う姿勢を
うち出している。・・・日本的な実存思想の創出に立ち会っている。
五 文学者が「一兵卒として闘う」ということ
〈戦が始まった以上、いつ銃をとらねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国のために銃をとるだろう、而
も、文学は飽く迄も平和の仕事ならば、文学者として銃をとるとは無意味なことである。戦うのは兵隊の身分として戦う
のだ。銃をとるときが来たらさっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭なものの道理である。〉
〈小林秀雄は、言論でよってでなくて「一兵卒として戦う」と書くのである。この時彼は言論を否定するという言論によっ
てどんな宣伝的な言論よりも、強力にアジっているのであり、しかも、それが言論であることを隠ぺいすることに成功し
ている。・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・とすれば、最も性悪なイデオローグは「一兵卒として戦う」と書く
ような文学者のはずである。〉 (柄谷行人「批評とポストモダン」)
小林は、「最も性悪なイデオローグ」と決めつけられている。これは、文学者・柄谷行人の政治主義への転落を示す以外の
何物でない文章というべきで、想像力を欠いた読み手にとっては、論旨明快でとおりが良い(通俗的である)。
(前提として)「満州事変から大東亜戦争にいたるあの戦争が日本国家の侵略的性格を一部で示したという認識」は、・・・
現在の事後的な視点では、ほぼ常識となったからである。(悪のすすめとして感じ取られてしまう。))
(私註:これは柄谷行人のいつもの手です。現在からの視座という視点をあえてはずしてしまい、自分で都合の良い仮想敵
を作り、批判するというやり方で、対象を批評するという手法をとります。語学自慢で、大学教師という吉本の特に嫌
った(?)タイプの学者です。)
しかし、小林の思想的核心は微動だにしない。
文学的知性や感性というものは本質的に、いかなる場合にも政治的な態度決定(時局への加担や反抗)の資格など持た
ない、そんな役割は文学にはないということを一貫して言っているだけである。
時代の制約が文学など無用と息の根を止めんばかりに強いてくるなら、「黙る」(つまり文学者としては死ぬ)他はな
いという形で、まさに文学の文学たる所以(生活表現の自由)を純粋に守ろうとしているにすぎない。それは彼の言って
いることに良く耳を澄ませばわかることである。
彼の言説を、「戦争肯定」と受けとって、それに影響されて戦場に赴いた青年がいたなどという批判は、時代に対する
想像力を欠いた傲慢極まる認識である。また、同時にそれは、個々の大衆の実存を政治的に愚弄するものでしかない。小
林が発言しようがしまいが、当時の国民は、様々な思いを胸に秘めながら戦地に赴かざるを得なかったのである。
この態度表明は、そのまま彼の実存思想的な歴史観・生活感につながっている。
その時代の人たちが、未来の予見など叶わぬままに、いかにその都度その都度の「たったいま」を懸命に生きていたか
という事実に思いをはせずに、後知恵のさかしらから能天気に過去を裁断する ような擬合理主義的な歴史観の持ち主こ
そ、小林が絶えず批判してやまない「敵」であった。
六 「麦と兵隊」評で表明された生活思想
戦争について(1937年)
火野葦平「麦と兵隊」について(1938年)
満州の印象、歴史について、事変と文学等(1939年)
歴史と文学(1941年)
戦争と平和(1942年)
当麻、實朝(古典論)(1942年から1943年)
筆を絶つ(1944年から1945年)
雌伏期にドストエフスキー論を仕上げ、国民の厭戦気分と敗北と死の気配が濃厚になりにつれ、日本古典の呼び戻しを
行っている。
「麦と兵隊」の評価
この作品の美しさは、平常時の平常な良い文学の持っている沈着な美しさと少しも変りがない。(時流に迎合しない評論)
七 「歴史の必然」と個人の「思い」
実存思想家としての小林の特質
小林は、戦争のような人為的・社会的な事象に対しても、天災にあった人々が仕方なくそれを宿命として受け受け、耐
え忍ぶようなやり方でしか把握しない。落ちてきた石が頭にあたったとき、石に腹をたてても仕方がないが、横断歩道を
渡っているとき車にはねられたら運転手に対し「怒る」ことは必要ではないか、と。
おそらくこれが、小林の歴史観に対する最後の問いである。
「聞けわだつみの声」の登載手記をめぐる論争
戦争反対の手記も、戦争賛美(?)の手記も等価ではないのか?
どんな個々の文化的表現もそれ自体としては政治や歴史を動かすことはできないが、逆にどんな過酷な政治や歴史の動向も、
それが人々の心の中に残していく「思い」を決して消し去ることはできない----彼はたぶんそういいたかった。
その「思い」の内的な持続、すなわち思い出の絶えざる反復と更新こそ、言葉の真の意味での「文学の自由」は現れるので
あり、それによってこそ歴史は私たちの現実生活と地続きで支えられるのである。
ある政治的弾圧や歴史の蹂躙やイデオロギー的な客観主義は一時の生活や表現の自由を圧殺することができるが、どのよう
な抑圧や無慈悲や制限や瞞着も、「生活や表現の自由」そのものを根こそぎ侵略することはできない。なぜならそれは、いか
なる過酷な圧迫をも、それを受けた人間の固有の「声」に変奏させてしまう根源的な力をもともと持っているからだ。
「 生活の声」としての文学は、(政治や公認の歴史の)後追いのつつましい姿勢を保ちながらも、必ずその感情的真実に基
づく記憶の累積によって、政治の相対化を果たさずにはおかないのである。
EX)「イワン・デニーソビッチの一日」(ソルジェーニーティン)その淡々とした記述が、スターリニズムの悪を抉り出
すのに貢献したように。
(私見)短編ですが、同様に「マトリョーナの家」も同様に忘れがたい一遍です。「政治の幅は常に生活の幅ほど広
くない」(吉本隆明)
一 難解な文体が意味するもの
小林秀雄を文学者とみず、思想家としてみれば、たった一つ端的に表せるのではないか? という矛盾に満ちた強烈な
印象がやってくる
江藤淳
二 「文学的なあまりに文学的な」小林批評(江藤淳の小林秀雄論に対する疑義)
(省略)
三 初期作品に見る批評家としての覚悟 初期の代表作
「様々なる意匠」
<人はいかにして批評というものと自意識というものを区別し得よう。(中略)批評の対象が己であると他人である
とは一つのことであって二つのことでない。批評とは畢竟(ひっきょう)己の夢を懐疑的に語ることではないのか!>
ア 批評というものは、どんな体裁を取ろうと、実は他人の作品をダシにして他人の作品をダシにして自分の自意
識を表出する行為に他ならないこと
イ どんな立派な意匠を凝らした批評理論で自己を武装しようと、批評される対象の生き生きとした豊かな実態の
もたらす感動に迫りえないならば何の意味もないということ。(小林自身の喩を借りるなら、どんな精緻な恋文
研究も、現実の愛における昂揚感を作り出しはしないこと)
ウ (批評の限界を自ら認めることにより)自分の人性の時間を何によって埋めていくのかという問題に対する覚
悟を自他に対し決然と表明しているものであること。
エ 実作者の個性的な表現によって示された作者自身の人性問題や、個々の作品表現の持つ豊かな言語の力に即し
て、批評家自身の自意識を批評対象のあるがままにより添わしていくのでなければ、どんな壮大堅固な批評理論
も見当違いな空砲を放つだけである。・・・反プロレタリア文芸理論
文学や芸術は、客観的・科学的・実証的・合理的等々の言語の網によっては決して掬い取れない人間の営みである。
(「様々なる意匠」から「本居宣長」に至るまでの一貫した批評的態度)
「志賀直哉論」・・・(私見:私も小浜と同様につまらなかったです。)
(私見:小浜に取り上げられた「如是我聞」の中では、志賀が太宰の文章(「斜陽」)の中で「貴族社会にはそん
な習慣はない」などと、文章の一部の表現を言挙げ、「おかしな表現」といわれたことに激高した太宰が、
「じゃ、お前の小説に「お殺し」などと体をなさない文章があるぞ」と、反論した経緯だったと思います。「自
己肯定のすさまじさ」という、自己の道徳性(倫理性のレベルでもないです。)を疑いもしないような、つま
らない志賀直哉は、坂口安吾にも「ただの文章家に過ぎない」と酷評されています。「悩むもの」、「苦しむも
の」のために文学はある、と考えれば、一般受けする道徳性をまとったような志賀直哉の通俗性は文学を志す者
(?)として、腹立たしかったと考えられます。(「不良少年とキリスト」(太宰治論)、「教祖の文学」(小
林秀雄論)という、坂口安吾の文芸評論を「堕落論」と同様におすすめします。)
四 ラディカルな実存思想の誕生
「Xへの手紙」
〈・・・・・・・・・・・・・・・・・いずれ今日の社会の書き割りは恋愛劇には適さない。だが、俺が気になる問題は、
適すにせよ適さないにせよ恋愛というものは、幾世期を通じて社会の機械的なからくりに反逆してきたもう一つの小さ
な社会ではないのかという点にある。〉
〈おれにはこのいわば人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える。
たとえ俺にとって、この世に尊敬すべき男や女は一人もいないとしても、彼らの交渉するこの場所だけは、近づき難い
威厳を備えているものの様に見える。あえて問題を男と女の問題だけに限るまい、友情とか、肉親の間柄とか、およそ
心と心との間に見事な橋が架かっているとき、重要なのはこの橋だけではないのだろうか。この橋をはずして人間の感
情とは理知とはすべて架空な胸壁ではないのか。人がある好きな男とか女とかを実際上持っていないとき、自分はどの
ような人間かと考えることは全く意味をなさないことではないのか。〉
個人的な背景 中原中也、長谷川泰子との三角関係など
社会的な背景 5.15事件、コミンテルン32年テーゼ(1932年)
「恋愛というものは、幾世紀を通じて社会の機械的なからくりに反逆してきたもう一つの小さな社会である。」
「恋愛というもう一つの社会」は、「寄りがたい威厳を備え」た「交渉の場所」であり、「人がある好きな男とか女とかを
持っていない場合に、自分はどういう人間かと考えるのは、全く意味をなさない」という事実の認識
ア 抽象的な「個人」の存在をいまだ得られぬ高所にある実在と信じて、その高所をめがけてむなしく煩悶を繰り返す自
意識の循環過程である。
イ 自分が直接に触れることのできない超越的な世界観念(社会、政治、民族、国家等々)に自分を憑依させることで実
存不安から逃避しようとする態度
アとイは、個々の人間はいつもエロスをいかに生きるかとに身と心を砕いていることを意識化することができないこ
とによる同根のものである。
人と人とがじかに交渉する場所、つまり人間がエロス的な関係性として生きる領域がいかにポジティブな意味を持つの
か強調した。
EX)人間というものを形作っているあらゆる要因、精神と肉体、理性と感情、意識と無意識、言語と行動、思想と
生活などが統合されて再び流れ込む貯水池、それが「客観世界」に対する彼の「抗い」の拠点
大森荘蔵は、デカルト以来の「心と物」の二元論という西洋的思考に反逆して、自然それ自体が有情なのだという「日本的
な」思想の定着を試みた。しかしながら、残念なことに、共同の心を持つ関係存在としての人間という発想を欠いていた。
しかし、小林秀雄にあって初めて、人間と人間とがじかに交渉しあう世界こそが「威厳」に満ちた場所などだという思想に
初めて出会えた。
和辻哲郎は、人間を「間柄的存在」として捉え、その実践的行為的連関のうえに世界の本質を見出すという思想に重ねて見
える。
特筆すべきは、(徹底している)小林秀雄は、抽象的な「個」に対しても抽象的な「全体」に対しても徹底的に抗う姿勢を
うち出している。・・・日本的な実存思想の創出に立ち会っている。
五 文学者が「一兵卒として闘う」ということ
〈戦が始まった以上、いつ銃をとらねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国のために銃をとるだろう、而
も、文学は飽く迄も平和の仕事ならば、文学者として銃をとるとは無意味なことである。戦うのは兵隊の身分として戦う
のだ。銃をとるときが来たらさっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭なものの道理である。〉
〈小林秀雄は、言論でよってでなくて「一兵卒として戦う」と書くのである。この時彼は言論を否定するという言論によっ
てどんな宣伝的な言論よりも、強力にアジっているのであり、しかも、それが言論であることを隠ぺいすることに成功し
ている。・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・とすれば、最も性悪なイデオローグは「一兵卒として戦う」と書く
ような文学者のはずである。〉 (柄谷行人「批評とポストモダン」)
小林は、「最も性悪なイデオローグ」と決めつけられている。これは、文学者・柄谷行人の政治主義への転落を示す以外の
何物でない文章というべきで、想像力を欠いた読み手にとっては、論旨明快でとおりが良い(通俗的である)。
(前提として)「満州事変から大東亜戦争にいたるあの戦争が日本国家の侵略的性格を一部で示したという認識」は、・・・
現在の事後的な視点では、ほぼ常識となったからである。(悪のすすめとして感じ取られてしまう。))
(私註:これは柄谷行人のいつもの手です。現在からの視座という視点をあえてはずしてしまい、自分で都合の良い仮想敵
を作り、批判するというやり方で、対象を批評するという手法をとります。語学自慢で、大学教師という吉本の特に嫌
った(?)タイプの学者です。)
しかし、小林の思想的核心は微動だにしない。
文学的知性や感性というものは本質的に、いかなる場合にも政治的な態度決定(時局への加担や反抗)の資格など持た
ない、そんな役割は文学にはないということを一貫して言っているだけである。
時代の制約が文学など無用と息の根を止めんばかりに強いてくるなら、「黙る」(つまり文学者としては死ぬ)他はな
いという形で、まさに文学の文学たる所以(生活表現の自由)を純粋に守ろうとしているにすぎない。それは彼の言って
いることに良く耳を澄ませばわかることである。
彼の言説を、「戦争肯定」と受けとって、それに影響されて戦場に赴いた青年がいたなどという批判は、時代に対する
想像力を欠いた傲慢極まる認識である。また、同時にそれは、個々の大衆の実存を政治的に愚弄するものでしかない。小
林が発言しようがしまいが、当時の国民は、様々な思いを胸に秘めながら戦地に赴かざるを得なかったのである。
この態度表明は、そのまま彼の実存思想的な歴史観・生活感につながっている。
その時代の人たちが、未来の予見など叶わぬままに、いかにその都度その都度の「たったいま」を懸命に生きていたか
という事実に思いをはせずに、後知恵のさかしらから能天気に過去を裁断する ような擬合理主義的な歴史観の持ち主こ
そ、小林が絶えず批判してやまない「敵」であった。
六 「麦と兵隊」評で表明された生活思想
戦争について(1937年)
火野葦平「麦と兵隊」について(1938年)
満州の印象、歴史について、事変と文学等(1939年)
歴史と文学(1941年)
戦争と平和(1942年)
当麻、實朝(古典論)(1942年から1943年)
筆を絶つ(1944年から1945年)
雌伏期にドストエフスキー論を仕上げ、国民の厭戦気分と敗北と死の気配が濃厚になりにつれ、日本古典の呼び戻しを
行っている。
「麦と兵隊」の評価
この作品の美しさは、平常時の平常な良い文学の持っている沈着な美しさと少しも変りがない。(時流に迎合しない評論)
七 「歴史の必然」と個人の「思い」
実存思想家としての小林の特質
小林は、戦争のような人為的・社会的な事象に対しても、天災にあった人々が仕方なくそれを宿命として受け受け、耐
え忍ぶようなやり方でしか把握しない。落ちてきた石が頭にあたったとき、石に腹をたてても仕方がないが、横断歩道を
渡っているとき車にはねられたら運転手に対し「怒る」ことは必要ではないか、と。
おそらくこれが、小林の歴史観に対する最後の問いである。
「聞けわだつみの声」の登載手記をめぐる論争
戦争反対の手記も、戦争賛美(?)の手記も等価ではないのか?
どんな個々の文化的表現もそれ自体としては政治や歴史を動かすことはできないが、逆にどんな過酷な政治や歴史の動向も、
それが人々の心の中に残していく「思い」を決して消し去ることはできない----彼はたぶんそういいたかった。
その「思い」の内的な持続、すなわち思い出の絶えざる反復と更新こそ、言葉の真の意味での「文学の自由」は現れるので
あり、それによってこそ歴史は私たちの現実生活と地続きで支えられるのである。
ある政治的弾圧や歴史の蹂躙やイデオロギー的な客観主義は一時の生活や表現の自由を圧殺することができるが、どのよう
な抑圧や無慈悲や制限や瞞着も、「生活や表現の自由」そのものを根こそぎ侵略することはできない。なぜならそれは、いか
なる過酷な圧迫をも、それを受けた人間の固有の「声」に変奏させてしまう根源的な力をもともと持っているからだ。
「 生活の声」としての文学は、(政治や公認の歴史の)後追いのつつましい姿勢を保ちながらも、必ずその感情的真実に基
づく記憶の累積によって、政治の相対化を果たさずにはおかないのである。
EX)「イワン・デニーソビッチの一日」(ソルジェーニーティン)その淡々とした記述が、スターリニズムの悪を抉り出
すのに貢献したように。
(私見)短編ですが、同様に「マトリョーナの家」も同様に忘れがたい一遍です。「政治の幅は常に生活の幅ほど広
くない」(吉本隆明)
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