引き続きよろしくお願いします。
思い入れのある方は、是非、私の「吉本」を論じてください。
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吉本隆明(1924~2012)
その1
Ⅰ 今の吉本の何をどう読むか
(私記:吉本隆明と呼ばずに「吉本」と呼ぶのに注意してください。当時、一般的な呼称でした。)
ア 全共闘世代であるが(ゆえに)思想家としての吉本隆明を伝えようとするとふと迷う。この戸惑いは、少し上の世代と、少し下の世
代に共通している。
(理由)1970年代以降の著作がつまらない(文芸批評、古典論、宗教論、反核運動批判を除き)。
吉本は、目の前の「敵」を前にくんずほぐれつの戦いを演ずるところに自らのアイデンティティを見出す思想家である。優れた敵が
いないと、鈍ってしまう。代表作の、「言語美」、「共同幻想論」、「心的現象論」、いずれも何者かと戦う必要で書かれている。し
かし、その敵が読者(支持者)が敵とみなせない相手であると空回りをしてしまう。
(EX)サリン事件を起こした浅原彰晃への過大評価(1995年)など (私見:私もさすがにどうなのか、と思いました。)
イ 何から読むかについての留意点
敗戦当時(私記:彼は戦中派です。)彼の青春期がどんな時代であったか、深く想像力を馳せること。
戦争中文学少年であったため、「客観的な」社会認識や社会認識の方法に無自覚であったことに深い自責と羞恥の感覚を覚
えたこと、これが彼の思想的な出発のエネルギーになっている。
戦前のプロレタリア文学者たちが戦中に皇国イデオロギーの加担者に積極的に転向して戦意高揚を垂れ流したにもかかわらず、戦後
は口を拭ってあたかも最初から戦争抵抗者であるような顔をし、臆面もなしに他人の戦争責任の追及に明け暮れたこと。
吉本はあくまで文学の自立性を重んじる思想家であったこと。
吉本の敵とは60年代までは、大衆の生活意識から、離反・浮遊・逆立ちした支配的イデオロギー(虚偽観念)であることを踏ま
えること(支配的イデオロギーとは、国家権力でもあれば、「既成左翼」、「進歩的知識人」と置き換えの利くものであること)。
これらを踏まえたうえで、
壮年期の著作では、主著として
転向論(1957年) 戦前のプロレタリア文学者たちの転向を権力の弾圧の結果と考えずに、大衆からの孤立の結果とみなし、かつ、戦
争協力的な境地までにもう一度積極的な転向を図ったと喝破したものである。
マチュー書試論(1955年) 新約聖書マタイ伝の著者の編集意図のうちに、「愛の教義」をではなく、人間同士の血なまぐさい
葛藤と憎悪の劇を読み取り、同時に思想の真実性がどこで保証されるのか、という普遍的問題を提起
した大変ユニークな作品である。またこの作品で吉本は、彼自身の体制的イデオロギーと、これに反逆す
るイデオロギーの「等価性」を、マタイ伝という意匠で包みながら、鋭く指し示している。しかし、当の
マタイ伝の編集者に対する彼自身のアンビバレンスがにじみ出ているがゆえに、かなり難解で微妙な部分も
含んでいる。
から、までの条件を踏まえないと、簡単に咀嚼(そしゃく)できるものではない。
(なぜ前置きが必要であるか、というと)
40代半ば(私見:1970年前後)から全著作集の刊行が始まり、戦後最大の思想家とまで言われたものの、「いま」の日本の言
論界では、一部の熱心な信奉者を除くと、虚名のみ残り、彼が日本の思想界で何を果たしたか、という問題の方は、ほとんど忘
れされようとしている。
(なぜなら)
ア 吉本思想の特異性
イ 日本人の変わり身の早さ がありはしないのか。
Ⅱ 転向知識人はなぜ敵なのか
まず、戦中派として、上の世代の戦争責任を追及せざるを得ない必然性をもっている。
(私記(社会主義ファシストと罵倒された)花田清輝についての言及は省略します。)
彼が青春期を送った時に、「マルクス主義知識人」は、 左翼の看板を下し → 転向して積極的に戦意高揚を垂れ流しており、
自由主義者の抵抗の影もなく、どこを見回しても「お国のため」の大合唱だった。毎日、勤労動員に明ける中から、ひとりまたひとり
と同胞達が死地におもむいていった。
(私記:吉本自体の学歴は、純粋に理系の化学畑の人(東京府立化学工業学校から米沢高専、東京工大とひたすら理系の道を歩ん
でいます。したがって、強制的な徴兵という経路は、彼の生育史の中ではなかったように思われます。)
その中で、明日はわが身の覚悟を固める以外、精神の活動の道を見出すすべはなかった。
彼が、自分の敵を見定めるその根拠は、自分と同じような年齢で死地に赴いていった若き同胞たちに対する深い負い目である。
また、その「敵」とは、戦後何食わぬ顔で「抵抗者」を自称して現れた年長の転向知識人たちである。
転向自体を(直接体験として)倫理的に指弾するのではなく、変節を重ねながら、そのことに無自覚で、「私は、戦争に終始反対
だった」と自己欺瞞的な免罪符を得ようとする、知識人たちの態度に、同胞たちの死から一番近い場所から憤怒を投げつけている。
マチュー書試論
<<人間は狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、
革命思想を嫌悪することもできる。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。>>
敗戦直前、若き吉本は皇国イデオロギーにかぶれており、迫りくる敗北の予感をまえにして、日本は徹底抗戦すべきと考えていた。その
直情径行は、敗戦の詔勅を聞くや否や、あっさり戦意を放棄して、戦地から毛布や食料を山のように背負い込んで復員してくる姿に接
し、見事に裏切られる。こうして、それまでの自分の心情との落差をいやというほど見せつけられることによって、心底から人間のわ
からなさを実感し、彼は否応なしに大人にされたのだ。
「関係の絶対性」 ここでいう「関係」とは、理想や信念や正義などの「観念」を排したところで現れる人間の社会的被拘束性で
あり「絶対性」とは、その被拘束性が一人の実存の前に、理想や信念や正義などの「観念」にはどう動かしよう
もなく壁として立ちはだかることである。
この壁にぶつかるとき、自己の信念や理想や正義の姿は、にわかに相対的なものとして色褪せ、それまで曖昧
で多様で相対的と思えた様々な日常的な生のあり方が、逆に絶対性の相貌を帯び迫ってくる。
(私見:原典といわれる新約聖書(マタイ伝)の中で、最後の晩餐時に、ペテロに対しキリストが、「おまえは明日の鶏鳴まで
に私を三度裏切るだろう」と予言する場面があり、「そんなことは絶対ありません」、と答えたペテロが、翌日までにローマ
兵の審尋に、「私はイエスの弟子ではありません」と三度答えるくだりがあります。宗教(観念)の使徒の思わぬ弱さ)
(私見:三島由紀夫がかつて、(吉本の記述とその激しい論理の展開を読んでいくと)、エロスすら感じるといったことがあり
ます。それほど、マチュー書試論でのジュジュ(キリストらしきもの)と弟子たちとのやり取りは、真理をめぐる迫力に満
ちた激しいものであり、いまだに読む者に迫真の問いかけを行ってきます。今回、読み返しまったくそう思いました。まさし
く「観念」に震えるといった態の体験でした。若い時に読めたのは幸せでした。)
世界認識の方法を懸命に模索している一人の思想者には、この世のあり方は、関係の絶対性として映るはずであり、絶対性の深
度と広がりの構造を自覚することから思想が出立するのである。その出立は、安保闘争への加担の過程を経て、「国家権力や既成
左翼からの自立」と「大衆の原像を繰り込む」という二つの思想的宣言へと凝集していく。
Ⅲ 大衆の実存の場所から「革命」を展望
安保闘争(60年)での、丸山眞男との立ち位置の差
市民主義者としての見方 × 丸山眞男
共産党としての見方 × コミンフォルム主導(親ソ)
共産主義者同盟(ブント)としての身方 同伴 吉本
それぞれの国で行われる、社会主義革命が必要である、と認識していた。
政治に無関心で、私的利害を追及する大衆の生活意識を堂々と肯定する(反既成左翼)、(反埴谷雄高論争)。
(私見:現在の資本主義の社会の中では、労働者が、貯蓄を試み、貧困から脱出するのは、当然良いことという認識がある。埴谷は
不徹底?)
しかし、(今になって思えば)私的利害を追及する大衆の生活意識を堂々と肯定することが本当に「革命的政治理論」に合致してい
たかどうか(前衛神話を解体、反組織官僚主義を解体したと称揚した、との当時の言説)
(私見:ブントロマン主義とでもいうのか?
かつて、蓮見重彦が、吉本に対し、あなたの思想はロマン主義ではないか?といっていたことを連想します。しかし、多かれ少
なかれ、青春期の若者は、世界を救う(自分だけが正しいと思う)「観念の騎士」でもあります。当然ロマン主義はネガティブ
に使われています(例えばロマン主義は欠損から出発する)。など)
Ⅳ 孤独な戦中派の怨念と憤怒
青春時代に国家権力にとことんたぶらかされたという自責と羞恥、戦死者(友人)たちの哄笑
戦前から戦中にかけ二度の転向を果たした知識人のたちに対する徹底的な不信と怒り
<民主化日本>を受け入れるには あまりに孤独で強固な戦中派の怨念と執着と憤怒
(生き残ったものしか告発はできない。)
Ⅳ 「大衆の原像を繰り込む」ことの意義
ア 60年安保以降
既成左翼からの自立
「言語にとって美とは何か」 言語芸術としての文学についての理論
(党派的理言語論と芸術至上主義理論の止揚)
「心的現象論序説」 人間の心的現象それ自体を分析対象とする試み
(「物質が意識を決定する」式の俗流反映論の克服)
「共同幻想論」 まったく独特の発想によって新しい国家論を構想する
(俗流マルクス主義国家論としての経済決定論の国家論を克服)
それぞれ主要アイテム、言語、心、国家をそれぞれ、現実諸条件に依存するものとして扱わず、それ自体、独自な発展や構造の
様式をもつものとして扱っている。(「自立」の根拠)
イ 大衆の原像を繰り込むべきことを提唱
寄り添う(ヴ・ナロード(人民の中へ!))ではなく、観念レベルでは、生活大衆からも知識人からも距離をおいた自己の孤独
の明確な自覚
詩人として「ぼくは秩序の敵であると同時に君たちの敵だ」
「ぼくは拒絶された思想としてその意味のために生きよう」
(「その秋のために」1953年)
「大衆の原像を繰り込め」とは何であり、誰に呼びかけているのか?
誰・・・知識をものにしようとする知識人、知識人候補生(私註:知的に上昇していかざるを得なかったすべての者)
大衆の原像 日々の生活のやりくりや、苦楽を共にする人間関係以外に余計なことを考えない人々 (EX)近所のさかな屋さん
などの比ゆ
原像であるから一つの理念であり、実体としての大衆自体には重ならないが、知識人にも同時に原像とすればその中に、存する
ものであり、時間的、空間的な拡大にも耐えうる。
その当時のもっとも平均的な生活者の存在の仕方や意識のあり方を念頭にあげつつ言葉を発せよ、のいうことに等しい。
(思想的価値の産物を最終的に試験紙にかけるのは普通の生活大衆であることを忘れるな。)
たとえば、昔の魚屋さんモデルが、ランチを楽しみながら子供の担任をくさすことに興じる母親たちに変わっても、それが現在の
「大衆」の一典型であれば、思想的な対象に繰り込むことでは同じである。今後どんなに日本の大衆が画一性をなくして多様化し
ようと、大衆または大衆性がなくなることはありえないからである。
現在も未来も永久に有効である
(私見:このような深みのある批判は、70年代にはできにくかったと思います。当時の吉本ファンは、「大衆の原像」の繰り込みは
納得できるにせよ、じゃ結論としてどんな政治的な行為(?)をすればいいのか、と迷っていた、と思います(いつ政治革命を
すればいいのか(?)など)。当時の先輩が、「僕は大衆が目覚めるまで待つ。」と言っていましたが、その後、いわゆる当時
「吉本隆明の影響下の政治党派」はあったにせよ、80年代、90年代を通じて、状況の中に埋没していきました)。)
この時期(安保闘争同伴時期)吉本は、自分自身の「自立」と大衆の「自立」を混同して、曖昧になっている。大衆は理念を求め
ない。大衆は時に残酷な行為を平然として行うし、不合理極まりない差別意識をむき出しにする。知識人の理念などに頓着すること
もない。こうした存在様態にはいいも悪いもなく、彼ら自身が自立する課題を担っているわけではない。にもかかわらずそのような
問題設定をしてしまう吉本は、知と無知に係る価値の転倒を性急に目指すあまり、彼らとの共通の課題を目指さざるを得ない弱点
(親鸞論においての牽強付会(けんきょうふかい:道理のないものを無理やり結びつけること)につながる)を持っていた。
もし、60年安保の時代に、ブント(反共産党、反政府(自民党)の政治党派)が主導権を握ったとしても、それは一時のことであ
り、「祭りのあと」は必ずやってくる。
豊かになった後の日本の大衆が失うべきものを持って、社会主義革命の可能性や、社会主義国家のユートピア性を信じなくなっ
たとしても、それはただの自然過程であり、その事態を持って、大衆が自分の生活思想を意識化して、「自立思想」に目覚めたと
もいえない。状況が変われば、マスとしての大衆はいくらでも逆方向を向くのである。
(EX) NHKテレビで満州事変でのマスコミの煽り、国際連盟の脱退際の大衆の狂喜の姿、米英戦争の緒戦勝利に酔いしれる
ちょうちん行列、また、敗北が決定したのち、敵国の将を歓迎したその様子
大衆はそういうもので、そこにこそ、「原像」をみなくてはならない。
大衆の「原像」執着するあまり、「大衆の原像を繰り込む」を、自らの中の大衆像を偶像視するようになる。
EX)「日本の大衆を決して敵にしない」、という決意表明を行ったり、・・・
読むほうが恥ずかしくなるような、ナイーブ(バカ)な偶像崇拝である。
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