日記で一度とりあげましたが、今回、日本の七大思想家読書ノートの番外篇として、私にとっての吉本隆明について書きたいと思います。(大変恐縮ですが、構成上、日記と一部重複します。)
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私的な「吉本隆明家」のことども・・・・
H27.7.2
昔(最近いつも同じ出だしになってしまい我ながら恥ずかしいことです。)、学生時代(1974年から1978年まで)のころ、私は京都の私学の文学・社会科学系のサークルに入っていました。
70年代全共闘の余波で、怒れる若者たちの「政治の時代」のくすぶりくらいは残っており、サークルの先輩にも、高共闘で退学処分、大検、受験入学のような人もおり、普段は温厚でおとなしいが、酒を飲むと暴れるとか、殴られるとか、畏怖と、敬遠のような存在となっていました。そんな人たち、オールド・ボルシェヴィキは、すでにサークルに来ることはなく、語り草のようになっていました。
当時、わがサークルの例年行事で、定期的な講演会をやろうとしていましたが、私の世代ではわが大学の出身で、現代詩人の清水昶さん(山口県出身でもあります。)を呼びました。本当は、残り少ない学生時代に、一度、あの、吉本隆明を呼びたかったのですが、もし呼べば学内の徒党政治党派(?)(今思えば「笑っちゃお」ですが)と明らかな対立関係となり、それ以上に、お前ら程度で、あの吉本が呼べるのかよ、という身内(?)からの圧力がきつかったように思われます。(私の在学中に、一度、京大の西部講堂で講演会があり、当日、多数参加により到底会場にたどりつけず、参加を断念しました。あとで聞いた話では、吉本隆明に敵対する政治党派がいろいろ集まり、腰の据わらぬ主催者はバタバタだったらしいです。)
また、吉本隆明の長女の多子(ハルノ宵子)さんが、京都青華女短に在学していたこともあり、父、吉本隆明は講演を快諾されたそうです。当該講演のことをあとで聞いて、残念な思いをしました。
ところで、清水昶さんも、僕も「「言語美」(「言語にとって美とは何か」)は、読み込んだ覚えがある」、と、文学者「吉本隆明」を評価している人でした。彼の評論、詩論に吉本について触れた部分は多いものです。
石原吉郎、黒田喜夫などに係る評論もあります。その清水昶氏も、2011年に物故されました。
余談はさておき、当時の吉本は、「詩的乾坤」で、「不倫」から駆け落ち同然に始めた結婚生活の、食卓も無い中で始めた生活(「ネギ弁当」など)について触れていましたが、その後、組合運動で勤務先を追われ、病弱な妻とまだ幼い子供を抱え、生活と家事のため奮闘しながら、その中で、思想・文学のために原理的な仕事をしている、とは、吉本の読者であれば十分に承知おきのことでした。私生活においても、原理的な思考を崩さず、逃げず、ひたすら思考し、その意味では、極北の、透徹性のある思想家でした(ああ、皆に周知のように、毎夏の行事と公言していた、西伊豆の海水浴場で吉本は溺れたのだった。)。
吉本多子(ハルノ宵子)さんは、吉本家の父母を看取った人ですが、彼女の書いた父との共著、「開店休業」と、エッセイ集「それでも、猫は出かけていく」はそれぞれとても興味深い本でした。少女マンガはあまり読まない私ですが、彼女自身のイラストは、線がはっきりして、明快でとても見やすく、同時に家について猫について、切れ味のよい批評が続きます。読み進むにつれ、一家で猫を熱愛する、吉本家と個性あふれる猫とのかかわりあいを語りながら、問わず語りに、吉本隆明と家族との関わり合いが、だんだんに外部に視えてくるようになっています。結論からいうと、あれほど、その深い根源性ゆえに周囲と隔絶し、孤独と孤立を抱え込んだ吉本が、不倫を契機に始まった、家族(「対幻想」)の在り方を思想的に突き詰めた筈が、その後の愛妻との関係は必ずしもいいことばかりではなかった、ことがわかります。
誤解を招くような言い方をしますが、病弱な奥さんは、家事や、子供のケアが十分にできなかった、自身が淡白なせいか、殊に、食事を呪詛するほど嫌い、甘いものも、彼女たちが望むように、子供たちにも与えなかった、いみじくも(自分の好みを周囲に押し付けているのに無自覚な)山の手のお嬢さんのような人だった。
翻って吉本は、下町の大家族出身で、彼女の思うような世間体や体面もなく、妻が出来なければ家事(煮炊きすべて)は俺がやる、妻にとっては耐え難いことかもしれないが、思想的にそれをやる、また、深化した方法ではありますが、それを自己著作に取り上げる、妻とすればつらかったかもしれない、しかし、大変失礼ながら、何らかの原因で、吉本家に「母存在」が希薄であれば、それは、子供たちにとって良い環境と思えず、多忙の中で、当然と思いつつ、吉本が、懸命に食事を作り母親業をやっていたらしい、ところです。
ひらたくいえば、我が家の状況の方がまだましだなー(それ以外の感想も当然ありますが)、と要らざる感興がわきます。やっぱり、ヤな女だったのかもしれない。
また、長じて、吉本家の実態がわかるようになった、ハルノさん姉妹は、母親の欠点も父親の欠点も見えるようになり、お互いの組み合わせの不幸と、それを、「思想」で乗り越えようとする、父の偉さと孤独な姿が目に入り、最終的にハルノさんが一手に、家事と老親の介護を引き受けることとなったようです。
「女性が、自分の創造した料理の味に家族を訓致されることができれば、家族をリードできる、そこだけ抑えれば、少々男・女出入りがあろうと、破たんは生じない」(詩的乾坤)、との吉本のエッセイがありました。
それは、病弱な妻を抱え、厳しい多忙な生活の中で、吉本が、懸命に食事を作っていたらしい、主夫として食事の用意という、ハルノさんが指摘するうんざりするような、日常の繰り返しに耐えるというまるで反目の現実です。それは、娘たちが、後から思えば、当時父からあてがわれたのはとんでもない食事ということになりますが、彼は、決して、その努力・苦闘を放棄しなかった、家族からの観察ですから確かでしょう。
その、おかげで、二女吉本ばななさんは、「キッチン」(台所で醸成される家族としての親和力の再生の話ではなかったかと思います。)を書いたのかもしれず、少なくとも、吉本夫妻の代では、キッチンは幸せな場所ではなかった、らしいです。ハルノ宵子さんは、文面から見ると、料理は大得意、いかなる状況でも、姉妹の家族・友人から、吉本の来客から、数多くの来客・知人、その兵站を一気にまかなっているようです。同時に、家飼い、野良飼いの猫の世話をしつつ、父母を看取っていくわけですが、その奮闘ぶりは、極北の孤独者吉本の、晩年期での大いなる救いであった、と思われます。
若年にして、糖尿病を発症した吉本は、食欲は旺盛で、心配した妻の厳しい食事療法に耐えきれず、あちこちで、買い食い、隠れ食事を繰り返したそうです。それがまた、妻の逆鱗にふれ、「もう私は知らない」、という、料理(家事)放棄にもつながったようです。
ただ、買い食い、隠れ食事が、唯一(?)の楽しみだった、という、吉本隆明とは、どこか、「かわいい」とは思いませんか?
実は、同じく学生時代、「吉本はなー、ひょっとしたら、間違えへん人かと思うんや」と言っていた、サークルの先輩と、かつて、千駄木時代の、吉本の家周辺に行ったことがあります。その家の路地の前で、ぶすっとしたおっさんが、ごみの、ぽりバケツの始末をしているのが見えました。我々は、あわてて、そそくさと立ち去りましたが、「やっぱ、吉本やで」、「本物やったんですねー」と、興奮して話したのを覚えています。
吉本に過剰に期待して(?)吉本家にねじ込んだり、講演の依頼には行けなかったが、ささやかな思い出、です。
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私的な「吉本隆明家」のことども・・・・
H27.7.2
昔(最近いつも同じ出だしになってしまい我ながら恥ずかしいことです。)、学生時代(1974年から1978年まで)のころ、私は京都の私学の文学・社会科学系のサークルに入っていました。
70年代全共闘の余波で、怒れる若者たちの「政治の時代」のくすぶりくらいは残っており、サークルの先輩にも、高共闘で退学処分、大検、受験入学のような人もおり、普段は温厚でおとなしいが、酒を飲むと暴れるとか、殴られるとか、畏怖と、敬遠のような存在となっていました。そんな人たち、オールド・ボルシェヴィキは、すでにサークルに来ることはなく、語り草のようになっていました。
当時、わがサークルの例年行事で、定期的な講演会をやろうとしていましたが、私の世代ではわが大学の出身で、現代詩人の清水昶さん(山口県出身でもあります。)を呼びました。本当は、残り少ない学生時代に、一度、あの、吉本隆明を呼びたかったのですが、もし呼べば学内の徒党政治党派(?)(今思えば「笑っちゃお」ですが)と明らかな対立関係となり、それ以上に、お前ら程度で、あの吉本が呼べるのかよ、という身内(?)からの圧力がきつかったように思われます。(私の在学中に、一度、京大の西部講堂で講演会があり、当日、多数参加により到底会場にたどりつけず、参加を断念しました。あとで聞いた話では、吉本隆明に敵対する政治党派がいろいろ集まり、腰の据わらぬ主催者はバタバタだったらしいです。)
また、吉本隆明の長女の多子(ハルノ宵子)さんが、京都青華女短に在学していたこともあり、父、吉本隆明は講演を快諾されたそうです。当該講演のことをあとで聞いて、残念な思いをしました。
ところで、清水昶さんも、僕も「「言語美」(「言語にとって美とは何か」)は、読み込んだ覚えがある」、と、文学者「吉本隆明」を評価している人でした。彼の評論、詩論に吉本について触れた部分は多いものです。
石原吉郎、黒田喜夫などに係る評論もあります。その清水昶氏も、2011年に物故されました。
余談はさておき、当時の吉本は、「詩的乾坤」で、「不倫」から駆け落ち同然に始めた結婚生活の、食卓も無い中で始めた生活(「ネギ弁当」など)について触れていましたが、その後、組合運動で勤務先を追われ、病弱な妻とまだ幼い子供を抱え、生活と家事のため奮闘しながら、その中で、思想・文学のために原理的な仕事をしている、とは、吉本の読者であれば十分に承知おきのことでした。私生活においても、原理的な思考を崩さず、逃げず、ひたすら思考し、その意味では、極北の、透徹性のある思想家でした(ああ、皆に周知のように、毎夏の行事と公言していた、西伊豆の海水浴場で吉本は溺れたのだった。)。
吉本多子(ハルノ宵子)さんは、吉本家の父母を看取った人ですが、彼女の書いた父との共著、「開店休業」と、エッセイ集「それでも、猫は出かけていく」はそれぞれとても興味深い本でした。少女マンガはあまり読まない私ですが、彼女自身のイラストは、線がはっきりして、明快でとても見やすく、同時に家について猫について、切れ味のよい批評が続きます。読み進むにつれ、一家で猫を熱愛する、吉本家と個性あふれる猫とのかかわりあいを語りながら、問わず語りに、吉本隆明と家族との関わり合いが、だんだんに外部に視えてくるようになっています。結論からいうと、あれほど、その深い根源性ゆえに周囲と隔絶し、孤独と孤立を抱え込んだ吉本が、不倫を契機に始まった、家族(「対幻想」)の在り方を思想的に突き詰めた筈が、その後の愛妻との関係は必ずしもいいことばかりではなかった、ことがわかります。
誤解を招くような言い方をしますが、病弱な奥さんは、家事や、子供のケアが十分にできなかった、自身が淡白なせいか、殊に、食事を呪詛するほど嫌い、甘いものも、彼女たちが望むように、子供たちにも与えなかった、いみじくも(自分の好みを周囲に押し付けているのに無自覚な)山の手のお嬢さんのような人だった。
翻って吉本は、下町の大家族出身で、彼女の思うような世間体や体面もなく、妻が出来なければ家事(煮炊きすべて)は俺がやる、妻にとっては耐え難いことかもしれないが、思想的にそれをやる、また、深化した方法ではありますが、それを自己著作に取り上げる、妻とすればつらかったかもしれない、しかし、大変失礼ながら、何らかの原因で、吉本家に「母存在」が希薄であれば、それは、子供たちにとって良い環境と思えず、多忙の中で、当然と思いつつ、吉本が、懸命に食事を作り母親業をやっていたらしい、ところです。
ひらたくいえば、我が家の状況の方がまだましだなー(それ以外の感想も当然ありますが)、と要らざる感興がわきます。やっぱり、ヤな女だったのかもしれない。
また、長じて、吉本家の実態がわかるようになった、ハルノさん姉妹は、母親の欠点も父親の欠点も見えるようになり、お互いの組み合わせの不幸と、それを、「思想」で乗り越えようとする、父の偉さと孤独な姿が目に入り、最終的にハルノさんが一手に、家事と老親の介護を引き受けることとなったようです。
「女性が、自分の創造した料理の味に家族を訓致されることができれば、家族をリードできる、そこだけ抑えれば、少々男・女出入りがあろうと、破たんは生じない」(詩的乾坤)、との吉本のエッセイがありました。
それは、病弱な妻を抱え、厳しい多忙な生活の中で、吉本が、懸命に食事を作っていたらしい、主夫として食事の用意という、ハルノさんが指摘するうんざりするような、日常の繰り返しに耐えるというまるで反目の現実です。それは、娘たちが、後から思えば、当時父からあてがわれたのはとんでもない食事ということになりますが、彼は、決して、その努力・苦闘を放棄しなかった、家族からの観察ですから確かでしょう。
その、おかげで、二女吉本ばななさんは、「キッチン」(台所で醸成される家族としての親和力の再生の話ではなかったかと思います。)を書いたのかもしれず、少なくとも、吉本夫妻の代では、キッチンは幸せな場所ではなかった、らしいです。ハルノ宵子さんは、文面から見ると、料理は大得意、いかなる状況でも、姉妹の家族・友人から、吉本の来客から、数多くの来客・知人、その兵站を一気にまかなっているようです。同時に、家飼い、野良飼いの猫の世話をしつつ、父母を看取っていくわけですが、その奮闘ぶりは、極北の孤独者吉本の、晩年期での大いなる救いであった、と思われます。
若年にして、糖尿病を発症した吉本は、食欲は旺盛で、心配した妻の厳しい食事療法に耐えきれず、あちこちで、買い食い、隠れ食事を繰り返したそうです。それがまた、妻の逆鱗にふれ、「もう私は知らない」、という、料理(家事)放棄にもつながったようです。
ただ、買い食い、隠れ食事が、唯一(?)の楽しみだった、という、吉本隆明とは、どこか、「かわいい」とは思いませんか?
実は、同じく学生時代、「吉本はなー、ひょっとしたら、間違えへん人かと思うんや」と言っていた、サークルの先輩と、かつて、千駄木時代の、吉本の家周辺に行ったことがあります。その家の路地の前で、ぶすっとしたおっさんが、ごみの、ぽりバケツの始末をしているのが見えました。我々は、あわてて、そそくさと立ち去りましたが、「やっぱ、吉本やで」、「本物やったんですねー」と、興奮して話したのを覚えています。
吉本に過剰に期待して(?)吉本家にねじ込んだり、講演の依頼には行けなかったが、ささやかな思い出、です。
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