天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

今日は、「瞬きもせず」(中島みゆき作詞・作曲)について考える

2015-07-14 06:18:50 | 歌謡曲・歌手・音楽
瞬きもせず          
              中島みゆき作詞・作曲
( あー 君はどこで 何をしているの
  あー 君はいつ ぼくの心から消えるの )(*最初、みゆきさんの独白のように入ります。)

 瞬きひとつの あいだの一生
 僕たちはみんな 一瞬の星
 瞬きもせずに
 息をすることさえ 惜しむかのように 求めあう

 ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
 裸すぎる獣たちだ

 君を映す鏡の中 君を誉める歌はなくても
 ぼくは誉める 君の知らぬ君についていくつでも

 あの ささやかな人生を よくは言わぬ人もあるだろう
 あの ささやかな人生を 無駄となじる人もあるだろう
 でも ぼくは誉める 君の知らぬ君についていくつでも

ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
 裸すぎる獣たちだ

 触れようとされるだけで 痛む人は やけどしてるから
 通り過ぎる街の中で そんなひとを見かけないか

瞬きひとつの あいだの一生
 僕たちはみんな 一瞬の星
 瞬きもせずに
 息をすることさえ 惜しむかのように 求めあう

ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
 裸すぎる獣たち だから
 ぼくは誉める 君の知らぬきみについていくつでも

瞬きひとつの あいだの一生
 僕たちはみんな 一瞬の星
 瞬きもせずに
 息をすることさえ 惜しむかのように 求めあう

 中島みゆきさんは、谷川俊太郎のファンだそうです。私も好きですから、ご同輩ですが、中島みゆきさんは、歌手とは別に何冊もソングブックを出していて、歌とは別に、これもとても良いのです。
 しかし、上記の歌は、是非ユーチューブででも聴いてみてください。彼女の歌を聞いていると、ときどき、「天才じゃないだろうか!!」と心底思うときがあって、この感覚と思いは、是非、誰かと共有したいと思うことが多いところです。
 最近、小浜さんに触発され、かんがみるに、確かに現代の歌謡曲(?) で、愛とか恋とかの主題を扱わない歌が多くなり、最近は自意識過剰で「愛] とか「恋」もできないのか、また貧困と多忙が原因なのか、生気が失われるかのように、「日本国民」の恋や性愛が衰退しているような気がするのは確かですね。つまらない政治的なバイアスのかかった歌は論外としても、皆さん、いつも歌謡曲が、絆とか、思いやり、とか、そればっかりだったらいやになりません?
 いつもじゃ困るけど、若いときとか、暇なときとか、おれ(私)の愛が終われば、世界は破滅する、とまで思い込む時期が人性には必要じゃありはしませんか?
「恋の歌」は、人間にとって本質的です。なんせ、人生は、「人性」ですから。男、女の各自と、それにまつわる人倫や観念は、自己愛も含め、各人を強く拘束します。どうも、幼児から、死ぬまで、死にいたる病というべきかも知れません。その意味で、歌謡曲が、三十一文字(みそひともじ)の時代から現在に至るまで連綿と続いており、愛唱されるのは根拠のあることです。
 どんなつよい人間でも、愛のためにどこかで齟齬(そご)を味わい、躓き(つまずき)、膝を折る、それは普遍的な人の業のようなものではないのでしょうか。
 その代表格としての中島みゆきの歌は、デビュー(1975年)当初から、男女の愛憎のみの歌でしたが(「雨が空を見限って 私の心にふりそそぐ」などと自然を愛憎に読み替える歌すらあったぞ。)、その凄さと徹底性は、誰ともなく(?)「暗い中島みゆき」とか、言われましたが、その徹底性は極北にまでに至っており、当時、時には涙と共に愛唱するとともに、相応のつまらない恋をしている自分が恥ずかしいような思いでした。
それはたかが歌謡曲では決してなく、周囲から見る美醜をこえ、たとえ現実ではぶざまであろうと、その「真情」は「美」であるしかないような、人間本質まで到達するような情感の本質性を謳うようでした。聴き込むにつれ感じられるのは、人は愛の喜び(?) はむしろ少なく、いわゆる「愛の苦さ、苦しさ」を味わうことであり、そんな時、本来傲慢な人間は、挫折をきっかけに誰かのいうように「神」に近くなるのです(相互の気持ち(?)の 齟齬による悲しい歌が多いのは、本質的で本来的とは思いませんか。)。

 蛇足ながら、若いとき、吉本隆明ではないですが、「他人を愛すると思うのはひっきょう自己を愛する思いと同一のものではないのか」、と考えていましたが、あにはからんや、その後人並みに苦労をし、対幻想の渦中 (?) で、他者に向かう本来の異性愛や、性愛の功罪とその苦みも、少しは思い知ったところです。

 そんな、中島みゆきさんですが、最近は「糸」とか「二隻の舟」など、男女の相愛と相克の結果、相互の親和に基づくような曲も見受けられるようになりました。新たな側面です。殊に、皆が愛唱する、「糸」はとてもいい歌です。(そんな傾向が通俗的とか妥協的とは思いませんが。)

 ところで、標記の歌は、男女の愛を歌った歌なのか、友人への愛を歌ったものなのか、どっちだと思いますか?
 彼女の歌は、加齢とともに、ますます深みを増していったのかも知れませんが、ドロドロ男女関係から、人間同士の葛藤、愛憎関係にまで広がっていて、言葉にすると誠に味気ないのですが、ついには社会的な(共生)存在としての人間存在にまつわる孤独や悲しみに至るまで拡大していきます。それを、別の視点から、認め、励ます演歌のような要素が出て来ます。それは決して通俗的ではなく、大事なのは、男女の関係も、女同士の関係も、男同士の関係をも、媒介するに足る、上質な応援歌であることです。個人的に、彼女の歌は、多くの人に支持される「詩」のレベルに達していると思います。入りやすいところは、谷川俊太郎に似ていると思う。
この歌も、谷川俊太郎のデビュー作の「二十億光年の孤独」という詩を連想してしまう(「二十億光年」というのは宇宙の暗喩(あんゆ:たとえ)なのですが)。(興味のある人は、読んでみてください。)
 
 自分の車のハードディスクに、図書館で借りた中島みゆきのCD(おやじが好むのか図書館にはたくさんあります。)を落として、毎回聞き流していますが、何曲か聞き流せない曲があり、上記もそのうちの一つです。
 
 殊に、「 ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
      ただ 痛むための涙だけをもって生まれた
  裸すぎる獣たちだ 」 

 このリフレインは、少年少女合唱団が歌っており、最初に聞いたときは、ぶっ飛んだ(?) 思いがしました。
 こんな衝撃的なフレーズを、わらべ歌のようにこどもたちが合唱する効果に、驚愕しました。「まさしく、天才」と思った次第です。
 私にとって、泣かせどころは、

「 君を映す鏡の中 君を誉める歌はなくても
   ぼくは誉める 君の知らぬ きみについて いくつでも 」

であります。妻もいらない、神様もいらないが、中島みゆき大先生が、私を、こうであるしかなかったような私の人性を、私の苦闘を、自分自身にも意識できなかった自分だけのつらい意義ある試み(人性)を認め、ほめてくれたらそれだけでも本当にうれしい、「生きていてよかった!」、ということとなります。
 やっぱりこれは応援歌ですよね、いまさら、自分の「人性」を嫌悪したり恐れるわけではないけれども、様々な状況で醸成されたような、説明しがたい私(たち)のそれぞれの孤独感と孤立感そして疎隔感を少しは癒せるかも知れない、今世のどこかで誰か一人でもその認識と受容と承認があれば、というお話です。

 長い髪と、色白の彼女の顔は、イメージ的に、カンナギ(巫女)という感じですよね。
 幸か不幸か、カンナギは、生涯非婚です。
 昨年も、「麦の歌」ですか、ヒットしましたが、年末紅白で視ていると、やっぱり、彼女の歌う姿には「聖性」のようなものがあります。

 さだまさしが、テレビで言っていましたが、以前松山千春と三人で焼き肉を食べに行ったそうです。仕切り屋のみゆきさんは、二人の(髪の)ためにわかめスープばっかり食べさせ、肉を食べさせてくれなかったそうです(笑えます)。
 このあたりの落差が、中島みゆきの持ち味です。DJをやらせても、歌手としての中島みゆきとは全く違います。ケラケラ、よく笑い、よく笑わせ、まったく不真面目です。

 それはそれでほっとする光景ですが、選ばれた「カンナギ」中島みゆきさんが、今後も、美神(ミューズ)からもらった才能で、もっともっといい歌を作ってくれることを望んでいます。

 昨年の紅白の出演時に、演出は別にしても、人でも、けものでもないような彼女に、文字どおり強いオーラを感じたのは私だけでしょうか。

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