吉本隆明(1924~2012) その3
Ⅷ 共同幻想、対幻想、自己幻想について
主著といわれる
「言語にとって美とは何か」(以下「言語美」という。)(1965年)
「共同幻想論」(1968年)
方法論として、人間の幻想(観念)領域の問題を、共同幻想、対幻想、自己幻想の三つの軸に基づいて考察する、
というものである。
共同幻想 複数の人間が何らかの観念によってよりあつまり、一定の言語活動や行動を行うとき、その統一
性を作っている観念を指す。したがって、大は国家から、小は小さなサークルに至るまで、あらゆる集団(家
族、夫婦関係、恋人関係は除く。)のまとまりの原理をそう呼ぶと言って差支えない。
対幻想 ところが、同じ集団原理でも一つだけ例外があって、性の観念を原理としてまとまりを作った場合は対
幻想と呼ばれる(家族、夫婦関係、恋人関係を媒介する観念はこれに属する)。
自己幻想 文学や芸術などの観念世界を形作る原理を表す。
重要事項として、「共同幻想」と「対幻想」、「共同幻想」と「自己幻想」とは、必ず、「逆立」の契機を持つ。「逆
立」とは、たとえば対幻想の現象形態としての「家族」の共同体は決して順接で「国家」の共同性につながらず、それぞ
れの原理の違いからくる「よじれ」が必ず出現する。
戦前の思想「家族国家論」(臣民は陛下の赤子)に対する原理的な否定のモチーフ、国家と家族を原理の段階から、裁
然と分かつ思考は、極めて適切(小浜逸郎)な発想と考える。
当時 (唯物史観に基づく)理論が幅を利かせ、
マルクス主義国家論 国家はそれぞれの時代の社会経済構成からの反映及びその逆作用
マルクス主義芸術論 当該社会のいきいきとした現実の描写が未来社会(共産社会)の発展に寄与することで意味があ
る(私註:スターリン時代の社会主義リアリズム、当時、芸術には芸術的価値しかない、と誰も言わなかった。)
この2つの流れに戦いをいどみ、国家は、経済社会領域からの幻想領域の自立性の主張、文学に政治的役割を押し付ける運
動に抗した。いずれも、<人間の観念領域の、社会的現実からの相対的な自立>という観点を原理的な抑えにしている、ことが
共通している。
◎共同幻想論の難点
ア「自己幻想」なる領域の存立可能性の危うさ。この軸を基底に共同幻想や対幻想と並立的にかつ自立的に立てようとする発
想は、(人間をあくまで関係的な存在として理解する私(小浜)にとって納得しがたい。あらゆる幻想(観念)は個人の身
体を通過点又は宿り場所として考えていいが、それはまた複数の人間に何らかの意味で通底することによってはじめて一定
の幻想(観念)足りうる、と考える。その意味で、他の2つと同じ論理的資格としては成り立ちようがなく、吉本用語をあ
えて使えば、対幻想と国家幻想の織り成す世界しかない。
イ 主として国家の本質をさかのぼることによって見透かし、そうすることで国家の存立基盤そのものを相対化するという方
法をとっている。どこかで重なりあう契機が存在したはずだ、という自問に自ら苦しめられ、普遍性を持つとは思えないよ
うな自答を導き出している。
A 吉本は社会的共同性(共同幻想性)そのものを「悪」と考えてしまっている。
人間は本質的に関係存在であると同時に観念を紡ぐ存在である。そうであるかぎり、人間同士が何らかの社会的かかわりを
形成するためには、必ず何らかの社会的かかわりを形成するためには、必ず何らかの共同幻想を媒介としなくてはならない。
ということは、あらゆる社会的共同体は「共同幻想」を基礎として成り立つといいかえても同じであるかぎり、「共同幻想
自体の消滅」などはあり得ないし、もしあっても困るのだ。
現在の私たちにとっては、国民国家形成の歴史的必然性を承認しつつ、より良い社会的共同性とは何かについてたゆまず思
索を深める課題が残されている。
(私註:橋爪大三郎(東工大教授、社会学者、東大全共闘世代)においても、国家=悪、という共同幻想のとらえ方につい
ては、吉本思想に疑問を表明しています。書かれているように、(私もいまになったら言えます(時代的な底上げ状況に拠っ
てです。)が、)吉本も戦争期の体験において、丸山とはもっと違った形で、しかし、バイアスのかかった見方が、同様に通
底しているのかも知れません。しかしながら、学生時代の「反帝・反スタの運動」は、当時のスター(?)埴谷雄高もご同様
で、共産主義社会においての「国家の死滅」ということを大きなスローガンにしていたように思います。)
Ⅸ 言語本質論に隠された吉本思想の孤独さ
「言語にとって美とは何か」(以下「言語美」という。)(1965年)
言語美は、言語芸術としての文学をどのように客観的に評価したらよいかという批評的な問いに答えるための原理の
提出を革新的なモチーフとして書かれている。
進行は、
言語の本質(発生・進化)
言語の属性(意味・価値・文字・像など) から説き起こす。
言語本質論からの出発がきわめて魅力的で大きな思想的スケールを与える力となっている。
言語の本質・・自己表出と指示表出との二重性
<この人間が何事かを言わなければならなくなった現実的な与件と、その与件に促されて現実的に言語を表出するこ
ととの間に存在することとの間にある千里の径庭を言語の自己表出と想定することができる。自己表出は現実的な
与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたっ
たもので、これが人間の言語の現実離脱の水準を決めるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度とな
ることができる。言語はこのように、対象に対する指示と、対象に対する意識の自動的水準という表出という二重
性によって言語本質をなしている。>(吉本隆明)
a 人間の観念構成力や、b 現前している知覚世界とは次元の異なる「非在」のもの想像する力とかを、言語成立の条
件として補足しており、言語の本質規定として足りているものである。(小浜の見解)
(時枝誠記の国語学(言語過程説*)から出発しながら、しかも時枝の「意味論」を退けて)その延長線上で言語の」
「価値」と「意味」をとらえ、言語の「価値」と「意味」は、「自己表出」と「指示表出」との二重性であり、「言語
の価値」とは、「意識の自己表出から見られた言語構造の全体の関係」、「言語の意味」とは、「意識の指示表出か
ら見られた言語構造の全体の関係」と本質規定を位置づけた。
*時枝誠記の国語学(言語過程説)の註
ソシュールの言語観は、言語を音声と概念の一体化した既存の社会的実体のようにみなすものであるが、話し手
(書き手)から聞き手(読み手)への現実的・物理的過程より前に、そういう実体的なものは存在しない、という
時枝の持論
ある言語の「意味」を読み取ろうとすることは、ただその言語が記号的に指し示す「内容」機械的に指し示すだけで
なく、どんな場合においても(格別の文学表現でなくとも)、同時にその言語の示す指示表出性(表現主体の思いの高
さ・強さ・深さ)をも展望することでもある。
また、「価値」を量り取ろうとするのは、何がどんな広がりをもってどのような仕方で指示されているかという探索
作業を抜きにしては不可能である。
◎それでは、言語美の突き進んだ方向に問題はなかったのか?
吉本の「自己表出」概念への過度の固執傾向は
「自己表出-指示表出の二重性」としてつかまれた本質規定を、「文学言語-生活言語」の対立関係の理解に連続さ
せてしまっている。
<言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめて完全な意味で生まれるの
である。文字に書かれることによって言語表出は、対象化された自己像が、自己の内ばかりでなく外に自己と対話す
るという二重の要素が可能となる。>(吉本)
文字は音声言語に比べて、外的表現としての空間的な定着性と拡張性、また、記録として残る時間的永続性を持つとい
う意味で、「外に自己と対話する」可能性を大きく広げる。・・・それは相対的な「効果」の問題である。
文字がなくても(音声だけでも)、「対象化された自己像」は存立する。
例えば、「お前を処刑する」という音声による宣告は、判決文がなくても、聞き取りの過程(理解)により、「対象
化する自己像」を持つし、「外に自己と対話する」過程を必然的に要請する。
録音技術の発達した現代では、書き言葉よりむしろ記録された音声言語の方が、発語者の「真意」は何かという探索
に対し信憑性が高い。
音声言語が、そのやり取りが行われた直接的な生活文脈と発語者の身体性
との関係を保存するからである。
EX) 「さあ、修行するぞ、修行するぞ」 (浅原彰晃)
(私見:浅原彰晃に過剰に感情移入した、吉本に対する皮肉です。音声言語は発語者と受けとる側を、社会的関係
性が強く拘束しているということだと思います。現代のスキャンダルの数多くが、失言とか、不用意な言動に
端を発することは例の多いことです。しかしながら、文字に表すことは、自己の対象化として自己との対話の
要素が小さくないぞとも思われます、あらゆる表現者において、これも重要な要素です。)
発達した現代社会においては「書き言葉」と「話し言葉」とは、その作法が全く違うから、受け手の「効果」も違っ
てくる。
いかなる文字表現も「読まれる」ことを媒介にしなくては、言語表現としての使命を達成できないのである。
文学言語の批評基盤を確立させたいという「言語美」の論述は、これ以降、その強い動機によって、簡単に言えば、
次のような強引な図式論理に拘束されることとなる。(言語美のその後の記述ベクトルは明らかにこの図式に従ってい
る。)
自己表出 → 文学言語 → 書き言葉
指示表出 → 生活言語 → 話し言葉
これはおかしい。「自己表出」概念が「何事かを言わなければならないと感じた時に思わずこぼれざるを得ない主体
の表出意識の高さ」を意味するとすれば、日常生活言語において自己表出性が不断に、しかも頻繁に使われるのは当然
である。
また、生活言語という概念を話し言葉に追い込むのも強引であって、私たちは日常の業務報告なども合理性によって
文書で行っている。(味もそっけなさもない利便性がむしろ良い。)・・・自己表出性が最低限に抑えられている
世界史においても、どの民族の文化も口承文芸(歌、説話、神話、叙事詩、物語など)の伝統を長く保持してきた。
文字を持った時、言語は単なる創造的「表出」の次元よりも高次の「表現」としての水準を「初めて」獲得したこと
により二重化したという、「進化論」的な把握はさしたる根拠はない。
そもそも、言語の本質が自己表出と指示表出の二重性として捉えられたはずなのに、その二項の一方をある言語様式
にふり分けることができるという考え方自体が、せっかくの優れた本質規定を自ら破ってしまうこととなる。
それでは、吉本の言語本質過程には何が欠けていたのか?
言語の本質を、「自己表出と指示表出との二重性」ととらえたことは正しいが、その二重性を、「「書き言葉」と
「話し言葉」の二重性」としたのは無理があった。
(時枝の言語論にはかろうじて保存されていて)吉本の言語論に欠落していたのは、言語とは、発話と受話のやり取り
の過程そのものであって、受話そのものが主体の言語行為であるという視線である。そしてこの欠落は、彼が言語論を構
築しようとした動機と表裏一体の関係にある。
彼のうちたてた、自己表出という概念は、ほとんどもっぱら、発語者(他動的な表現者)のそれとしか考えられていな
い。
<書き言葉は言語の自己表出につかえる方に進み、話し言葉は言語の指示表出につかれる方に進む≻ といったような強
引な引き寄せの論理がでてくる。
おそらく、吉本は、
書き言葉としての文学言語による感動が何に由来するかを根拠づけたかった。
そしてその動機に剥離しがたく結びついていたのは、文学が「自己幻想」や「個体の幻想」の所産であって、「共同
幻想」からは絶対的に自立した(逆立する)領域の作業の結果であるという固定観念である。
(私見:ヘーゲルにおいて「胸の騎士」の段階を連想してしまいます。青年期の病いと言ってしまえばそれきりにな
ってしまいますが、夜中に、それこそ 本に線引きしたり、ノートを取ったりしながら、孤立と孤独を糧とし、
「私だけ真理につかえている。」とか、「人類の正義のために勉強したい」というのは、十分に共感できるところ
です。またその営為は何をも保証しないことも、苦い「真実」ですが。)
(見解)小浜
ここに私は、吉本思想の本質的な孤独さと、それゆえの内閉性を見る。
「自己表出と指示表出の二重性」という彼の言語本質論は、はじめから、「文学表現としての書き言葉」こそは自己
表出性の高みや深みや力の純粋の実現であると考える隠された発想に強く色づけされていた。
吉本の強烈な思想体質の淵源は、戦争体験における「身近な死者たちに対する深い負い目意識と羞恥」にあり、そこ
からかもされる一種独特な孤独さと執念は、我々の想像を絶するところにある。
私自身は、ご多分に漏れず、全共闘世代の一員として、吉本思想の影響を強く受けてきた。そして、私淑と懐疑のな
いまぜになったアンヴィヴァレントな心理状態の期間を長く閲するのち、オーム真理教事件によってついにその呪縛から解き
放さざるを得なくなった。
Ⅷ 共同幻想、対幻想、自己幻想について
主著といわれる
「言語にとって美とは何か」(以下「言語美」という。)(1965年)
「共同幻想論」(1968年)
方法論として、人間の幻想(観念)領域の問題を、共同幻想、対幻想、自己幻想の三つの軸に基づいて考察する、
というものである。
共同幻想 複数の人間が何らかの観念によってよりあつまり、一定の言語活動や行動を行うとき、その統一
性を作っている観念を指す。したがって、大は国家から、小は小さなサークルに至るまで、あらゆる集団(家
族、夫婦関係、恋人関係は除く。)のまとまりの原理をそう呼ぶと言って差支えない。
対幻想 ところが、同じ集団原理でも一つだけ例外があって、性の観念を原理としてまとまりを作った場合は対
幻想と呼ばれる(家族、夫婦関係、恋人関係を媒介する観念はこれに属する)。
自己幻想 文学や芸術などの観念世界を形作る原理を表す。
重要事項として、「共同幻想」と「対幻想」、「共同幻想」と「自己幻想」とは、必ず、「逆立」の契機を持つ。「逆
立」とは、たとえば対幻想の現象形態としての「家族」の共同体は決して順接で「国家」の共同性につながらず、それぞ
れの原理の違いからくる「よじれ」が必ず出現する。
戦前の思想「家族国家論」(臣民は陛下の赤子)に対する原理的な否定のモチーフ、国家と家族を原理の段階から、裁
然と分かつ思考は、極めて適切(小浜逸郎)な発想と考える。
当時 (唯物史観に基づく)理論が幅を利かせ、
マルクス主義国家論 国家はそれぞれの時代の社会経済構成からの反映及びその逆作用
マルクス主義芸術論 当該社会のいきいきとした現実の描写が未来社会(共産社会)の発展に寄与することで意味があ
る(私註:スターリン時代の社会主義リアリズム、当時、芸術には芸術的価値しかない、と誰も言わなかった。)
この2つの流れに戦いをいどみ、国家は、経済社会領域からの幻想領域の自立性の主張、文学に政治的役割を押し付ける運
動に抗した。いずれも、<人間の観念領域の、社会的現実からの相対的な自立>という観点を原理的な抑えにしている、ことが
共通している。
◎共同幻想論の難点
ア「自己幻想」なる領域の存立可能性の危うさ。この軸を基底に共同幻想や対幻想と並立的にかつ自立的に立てようとする発
想は、(人間をあくまで関係的な存在として理解する私(小浜)にとって納得しがたい。あらゆる幻想(観念)は個人の身
体を通過点又は宿り場所として考えていいが、それはまた複数の人間に何らかの意味で通底することによってはじめて一定
の幻想(観念)足りうる、と考える。その意味で、他の2つと同じ論理的資格としては成り立ちようがなく、吉本用語をあ
えて使えば、対幻想と国家幻想の織り成す世界しかない。
イ 主として国家の本質をさかのぼることによって見透かし、そうすることで国家の存立基盤そのものを相対化するという方
法をとっている。どこかで重なりあう契機が存在したはずだ、という自問に自ら苦しめられ、普遍性を持つとは思えないよ
うな自答を導き出している。
A 吉本は社会的共同性(共同幻想性)そのものを「悪」と考えてしまっている。
人間は本質的に関係存在であると同時に観念を紡ぐ存在である。そうであるかぎり、人間同士が何らかの社会的かかわりを
形成するためには、必ず何らかの社会的かかわりを形成するためには、必ず何らかの共同幻想を媒介としなくてはならない。
ということは、あらゆる社会的共同体は「共同幻想」を基礎として成り立つといいかえても同じであるかぎり、「共同幻想
自体の消滅」などはあり得ないし、もしあっても困るのだ。
現在の私たちにとっては、国民国家形成の歴史的必然性を承認しつつ、より良い社会的共同性とは何かについてたゆまず思
索を深める課題が残されている。
(私註:橋爪大三郎(東工大教授、社会学者、東大全共闘世代)においても、国家=悪、という共同幻想のとらえ方につい
ては、吉本思想に疑問を表明しています。書かれているように、(私もいまになったら言えます(時代的な底上げ状況に拠っ
てです。)が、)吉本も戦争期の体験において、丸山とはもっと違った形で、しかし、バイアスのかかった見方が、同様に通
底しているのかも知れません。しかしながら、学生時代の「反帝・反スタの運動」は、当時のスター(?)埴谷雄高もご同様
で、共産主義社会においての「国家の死滅」ということを大きなスローガンにしていたように思います。)
Ⅸ 言語本質論に隠された吉本思想の孤独さ
「言語にとって美とは何か」(以下「言語美」という。)(1965年)
言語美は、言語芸術としての文学をどのように客観的に評価したらよいかという批評的な問いに答えるための原理の
提出を革新的なモチーフとして書かれている。
進行は、
言語の本質(発生・進化)
言語の属性(意味・価値・文字・像など) から説き起こす。
言語本質論からの出発がきわめて魅力的で大きな思想的スケールを与える力となっている。
言語の本質・・自己表出と指示表出との二重性
<この人間が何事かを言わなければならなくなった現実的な与件と、その与件に促されて現実的に言語を表出するこ
ととの間に存在することとの間にある千里の径庭を言語の自己表出と想定することができる。自己表出は現実的な
与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたっ
たもので、これが人間の言語の現実離脱の水準を決めるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度とな
ることができる。言語はこのように、対象に対する指示と、対象に対する意識の自動的水準という表出という二重
性によって言語本質をなしている。>(吉本隆明)
a 人間の観念構成力や、b 現前している知覚世界とは次元の異なる「非在」のもの想像する力とかを、言語成立の条
件として補足しており、言語の本質規定として足りているものである。(小浜の見解)
(時枝誠記の国語学(言語過程説*)から出発しながら、しかも時枝の「意味論」を退けて)その延長線上で言語の」
「価値」と「意味」をとらえ、言語の「価値」と「意味」は、「自己表出」と「指示表出」との二重性であり、「言語
の価値」とは、「意識の自己表出から見られた言語構造の全体の関係」、「言語の意味」とは、「意識の指示表出か
ら見られた言語構造の全体の関係」と本質規定を位置づけた。
*時枝誠記の国語学(言語過程説)の註
ソシュールの言語観は、言語を音声と概念の一体化した既存の社会的実体のようにみなすものであるが、話し手
(書き手)から聞き手(読み手)への現実的・物理的過程より前に、そういう実体的なものは存在しない、という
時枝の持論
ある言語の「意味」を読み取ろうとすることは、ただその言語が記号的に指し示す「内容」機械的に指し示すだけで
なく、どんな場合においても(格別の文学表現でなくとも)、同時にその言語の示す指示表出性(表現主体の思いの高
さ・強さ・深さ)をも展望することでもある。
また、「価値」を量り取ろうとするのは、何がどんな広がりをもってどのような仕方で指示されているかという探索
作業を抜きにしては不可能である。
◎それでは、言語美の突き進んだ方向に問題はなかったのか?
吉本の「自己表出」概念への過度の固執傾向は
「自己表出-指示表出の二重性」としてつかまれた本質規定を、「文学言語-生活言語」の対立関係の理解に連続さ
せてしまっている。
<言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめて完全な意味で生まれるの
である。文字に書かれることによって言語表出は、対象化された自己像が、自己の内ばかりでなく外に自己と対話す
るという二重の要素が可能となる。>(吉本)
文字は音声言語に比べて、外的表現としての空間的な定着性と拡張性、また、記録として残る時間的永続性を持つとい
う意味で、「外に自己と対話する」可能性を大きく広げる。・・・それは相対的な「効果」の問題である。
文字がなくても(音声だけでも)、「対象化された自己像」は存立する。
例えば、「お前を処刑する」という音声による宣告は、判決文がなくても、聞き取りの過程(理解)により、「対象
化する自己像」を持つし、「外に自己と対話する」過程を必然的に要請する。
録音技術の発達した現代では、書き言葉よりむしろ記録された音声言語の方が、発語者の「真意」は何かという探索
に対し信憑性が高い。
音声言語が、そのやり取りが行われた直接的な生活文脈と発語者の身体性
との関係を保存するからである。
EX) 「さあ、修行するぞ、修行するぞ」 (浅原彰晃)
(私見:浅原彰晃に過剰に感情移入した、吉本に対する皮肉です。音声言語は発語者と受けとる側を、社会的関係
性が強く拘束しているということだと思います。現代のスキャンダルの数多くが、失言とか、不用意な言動に
端を発することは例の多いことです。しかしながら、文字に表すことは、自己の対象化として自己との対話の
要素が小さくないぞとも思われます、あらゆる表現者において、これも重要な要素です。)
発達した現代社会においては「書き言葉」と「話し言葉」とは、その作法が全く違うから、受け手の「効果」も違っ
てくる。
いかなる文字表現も「読まれる」ことを媒介にしなくては、言語表現としての使命を達成できないのである。
文学言語の批評基盤を確立させたいという「言語美」の論述は、これ以降、その強い動機によって、簡単に言えば、
次のような強引な図式論理に拘束されることとなる。(言語美のその後の記述ベクトルは明らかにこの図式に従ってい
る。)
自己表出 → 文学言語 → 書き言葉
指示表出 → 生活言語 → 話し言葉
これはおかしい。「自己表出」概念が「何事かを言わなければならないと感じた時に思わずこぼれざるを得ない主体
の表出意識の高さ」を意味するとすれば、日常生活言語において自己表出性が不断に、しかも頻繁に使われるのは当然
である。
また、生活言語という概念を話し言葉に追い込むのも強引であって、私たちは日常の業務報告なども合理性によって
文書で行っている。(味もそっけなさもない利便性がむしろ良い。)・・・自己表出性が最低限に抑えられている
世界史においても、どの民族の文化も口承文芸(歌、説話、神話、叙事詩、物語など)の伝統を長く保持してきた。
文字を持った時、言語は単なる創造的「表出」の次元よりも高次の「表現」としての水準を「初めて」獲得したこと
により二重化したという、「進化論」的な把握はさしたる根拠はない。
そもそも、言語の本質が自己表出と指示表出の二重性として捉えられたはずなのに、その二項の一方をある言語様式
にふり分けることができるという考え方自体が、せっかくの優れた本質規定を自ら破ってしまうこととなる。
それでは、吉本の言語本質過程には何が欠けていたのか?
言語の本質を、「自己表出と指示表出との二重性」ととらえたことは正しいが、その二重性を、「「書き言葉」と
「話し言葉」の二重性」としたのは無理があった。
(時枝の言語論にはかろうじて保存されていて)吉本の言語論に欠落していたのは、言語とは、発話と受話のやり取り
の過程そのものであって、受話そのものが主体の言語行為であるという視線である。そしてこの欠落は、彼が言語論を構
築しようとした動機と表裏一体の関係にある。
彼のうちたてた、自己表出という概念は、ほとんどもっぱら、発語者(他動的な表現者)のそれとしか考えられていな
い。
<書き言葉は言語の自己表出につかえる方に進み、話し言葉は言語の指示表出につかれる方に進む≻ といったような強
引な引き寄せの論理がでてくる。
おそらく、吉本は、
書き言葉としての文学言語による感動が何に由来するかを根拠づけたかった。
そしてその動機に剥離しがたく結びついていたのは、文学が「自己幻想」や「個体の幻想」の所産であって、「共同
幻想」からは絶対的に自立した(逆立する)領域の作業の結果であるという固定観念である。
(私見:ヘーゲルにおいて「胸の騎士」の段階を連想してしまいます。青年期の病いと言ってしまえばそれきりにな
ってしまいますが、夜中に、それこそ 本に線引きしたり、ノートを取ったりしながら、孤立と孤独を糧とし、
「私だけ真理につかえている。」とか、「人類の正義のために勉強したい」というのは、十分に共感できるところ
です。またその営為は何をも保証しないことも、苦い「真実」ですが。)
(見解)小浜
ここに私は、吉本思想の本質的な孤独さと、それゆえの内閉性を見る。
「自己表出と指示表出の二重性」という彼の言語本質論は、はじめから、「文学表現としての書き言葉」こそは自己
表出性の高みや深みや力の純粋の実現であると考える隠された発想に強く色づけされていた。
吉本の強烈な思想体質の淵源は、戦争体験における「身近な死者たちに対する深い負い目意識と羞恥」にあり、そこ
からかもされる一種独特な孤独さと執念は、我々の想像を絶するところにある。
私自身は、ご多分に漏れず、全共闘世代の一員として、吉本思想の影響を強く受けてきた。そして、私淑と懐疑のな
いまぜになったアンヴィヴァレントな心理状態の期間を長く閲するのち、オーム真理教事件によってついにその呪縛から解き
放さざるを得なくなった。
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