世代間交流などの地域教育機能が必要なのは、先日のコメントにもあったように、>ヒトは明らかに繁殖停止よりはるかに長い寿命、であることの意味にも求められるかもしれません。遙かに長い寿命なのは、役割を与えられているからに他ならない。それが、子育て。
また、新しい教育スタンスを創造していく上にも、大変重要なポイントだとも思います。
私の尊敬するお坊さんがこんな事をおっしゃいました。
「公教育がいつから始まったのか?どうやら、資本主義の成立と関係が深そうだ。日本の場合は、富国強兵。当然、明治以後。今風だと、国家や企業の利益になる優れた企業人を育成するのが教育。
・・・と言うことは、どっちにしろ民衆の側から教育を要望したのではないということだね。
庶民の教育は、丁稚奉公の中で施されたのではないかな。そりゃぁ~もちろん、エリート教育は、そのような人材を必要とする機関なり階層なりが、自分たちのためにやってたろう。例:藩校、または、僧堂など寺院。だから、地域に教育力なんてのは、はなっからなかったんだよ。
地域の教育力は、地域の育成と同じで、その構成員が、一致団結して、その意志を固めて、「セ~ノッ」てな具合にやらないと、無理じゃないの?だって、歴史を見ても、民衆の側から教育を公のものとして行え、って話は一切出ていないんだからさ。教育は、エリートのためだけのものだったのよ。!
ところでさ、智・徳・体っていうでしょ!道徳力と高度知識や教養、体力とは、相関関係があるのよ。
道徳レベルが高くないと、教養も上がらんし、その教養を支える知識情報も理解できない。そして、体が丈夫でないと道徳や教養を支える主体が不安定。
江戸時代、庶民はどんなにして道徳力を身につけていたのでしょうか?
当時の道徳の規範は「親の顔が見たい」「世間様(お天道様)に顔向けできない」「ご先祖様に申し訳ない」。つまりは、すべて、人間関係に還元していたの。
丁稚奉公でしつけられるのは、読み書き算盤と礼儀。礼儀がなってないと、お客になって貰えないのだから、礼儀作法は、商品の一部。もっというと、換金される商品に付随している!
人は、必要がないと身につかないから、今の世の中、道徳が未熟なのは、お金に不自由しない世の中だからではないのか、と思う。お金は、というか、経済活動は、道徳が機能していないと成立しないんだよ!
」
と導いて下さいました。
>歴史を見ても、民衆の側から教育を公のものとして行え、って話は一切出ていないんだからさ!
今現在の教育だって、中央教育審議会なんかを見ていても解るように、経済界をはじめとする
諸団体の自己中心的な発想から出てくるアイデアのような気がしてなりません。
そういえば、市町村の教育委員会組織の名目上の頂点である「教育委員長」というポストに就く人は、
経済界関係の人が多いような気がするのは、私だけでしょうか?確たる根拠もなくこんな事言っちゃいけませんね。前言撤回。でも、日記だからいいか!
ということは、そろそろ地域住民主体の教育を考えてもいい時代なんじゃないだろうか?とそういうことを考えるわけですよね。これまで、偉い人たちが経済至上主義、科学至上主義のもとに牛耳ってきた教育の権利を、私たち住民の手に取り戻そう!そして、人間性溢れる地域に根ざした人や、少しでも持続可能な世の中を創造してくれるような優れたリーダーを養成しよう、ってな感じです。
主体的、自主的に物事に取り組んでいこうという教育を受けていない世代。
地方分権を押しすすめったって、それに取り組む人物不在。合併問題が右往左往するのも、この世代の若者達が無関心であることも原因のような気もします。
また、新しい教育スタンスを創造していく上にも、大変重要なポイントだとも思います。
私の尊敬するお坊さんがこんな事をおっしゃいました。
「公教育がいつから始まったのか?どうやら、資本主義の成立と関係が深そうだ。日本の場合は、富国強兵。当然、明治以後。今風だと、国家や企業の利益になる優れた企業人を育成するのが教育。
・・・と言うことは、どっちにしろ民衆の側から教育を要望したのではないということだね。
庶民の教育は、丁稚奉公の中で施されたのではないかな。そりゃぁ~もちろん、エリート教育は、そのような人材を必要とする機関なり階層なりが、自分たちのためにやってたろう。例:藩校、または、僧堂など寺院。だから、地域に教育力なんてのは、はなっからなかったんだよ。
地域の教育力は、地域の育成と同じで、その構成員が、一致団結して、その意志を固めて、「セ~ノッ」てな具合にやらないと、無理じゃないの?だって、歴史を見ても、民衆の側から教育を公のものとして行え、って話は一切出ていないんだからさ。教育は、エリートのためだけのものだったのよ。!
ところでさ、智・徳・体っていうでしょ!道徳力と高度知識や教養、体力とは、相関関係があるのよ。
道徳レベルが高くないと、教養も上がらんし、その教養を支える知識情報も理解できない。そして、体が丈夫でないと道徳や教養を支える主体が不安定。
江戸時代、庶民はどんなにして道徳力を身につけていたのでしょうか?
当時の道徳の規範は「親の顔が見たい」「世間様(お天道様)に顔向けできない」「ご先祖様に申し訳ない」。つまりは、すべて、人間関係に還元していたの。
丁稚奉公でしつけられるのは、読み書き算盤と礼儀。礼儀がなってないと、お客になって貰えないのだから、礼儀作法は、商品の一部。もっというと、換金される商品に付随している!
人は、必要がないと身につかないから、今の世の中、道徳が未熟なのは、お金に不自由しない世の中だからではないのか、と思う。お金は、というか、経済活動は、道徳が機能していないと成立しないんだよ!
」
と導いて下さいました。
>歴史を見ても、民衆の側から教育を公のものとして行え、って話は一切出ていないんだからさ!
今現在の教育だって、中央教育審議会なんかを見ていても解るように、経済界をはじめとする
諸団体の自己中心的な発想から出てくるアイデアのような気がしてなりません。
そういえば、市町村の教育委員会組織の名目上の頂点である「教育委員長」というポストに就く人は、
経済界関係の人が多いような気がするのは、私だけでしょうか?確たる根拠もなくこんな事言っちゃいけませんね。前言撤回。でも、日記だからいいか!
ということは、そろそろ地域住民主体の教育を考えてもいい時代なんじゃないだろうか?とそういうことを考えるわけですよね。これまで、偉い人たちが経済至上主義、科学至上主義のもとに牛耳ってきた教育の権利を、私たち住民の手に取り戻そう!そして、人間性溢れる地域に根ざした人や、少しでも持続可能な世の中を創造してくれるような優れたリーダーを養成しよう、ってな感じです。
主体的、自主的に物事に取り組んでいこうという教育を受けていない世代。
地方分権を押しすすめったって、それに取り組む人物不在。合併問題が右往左往するのも、この世代の若者達が無関心であることも原因のような気もします。