アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石碑中0084  名医 吉益東洞 宅蹟

2015年07月09日 13時23分33秒 | 石碑

 吉益東洞(1702~73)は,安芸出身で元文3(1738)年京都に移り,

古医方をもって医者となった。不遇であったが,

解剖をして有名になった山脇東洋(1705~62)に見出された。

その学説は,万病一毒説と親試実験にあって,

実験医学の道を切り開いた。

この石標は,吉益東洞宅の跡地を示すものである。

なお,東洞の号は東洞院通に面して住していたことに因む

名医 吉益東洞 宅蹟    京都史蹟会

昭和4年1月

 山脇東洋のゆかりの地 ➡  人物007  山脇東洋

石碑 前回の記事  ➡  石碑中0083  山脇東洋解剖碑所在墓地

 


大炊御門万里小路殿・おおいのみかどまでのこうじど

2015年07月09日 10時41分56秒 | 石碑

大炊御門万里小路殿は,平安京左京二条四坊十一町にあった

但馬守源高房(?~1077)の邸宅。

後三条天皇(1034~73)は,延久5(1073)年

病を得てこの邸に行幸,この地で崩御した。

のちに中納言源能俊(1071~1137)の領となり,

白河法皇(1053~1129)は仮の御所とした。

鎌倉末期には里内裏として度々利用された

大炊御門万里小路殿

富有同窓会

 

 

白河天皇の内裏

紀元2600年 のものです

 

  


方広寺 創建石垣

2015年07月09日 01時26分55秒 | 石碑

秀吉配下の諸侯が方広寺の創建に献上したもの、

巨石の表面に家紋が刻まれています

蒲生氏郷からの石は重すぎたので、

音頭をとらせ、はやしたてて苦労して搬入した

方広寺 西北隅の巨石は加賀の前田侯が搬入したものといわれ、

泣き石と呼ばれています。

いわれは 人夫が重すぎて泣いた、

あるいは前田侯が経費がかかりすぎて泣いた

とか言われています