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大正5年 (1916) 下水 101年前
と刻まれた マンホール 京都で一番古いと思われます
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堀川四条橋親柱
この石柱は、四条堀川に架けられていた橋の親柱です。
明治35年(1902)にチンチン電車の堀川三条~西四条が開通し
四条堀川の交差点の東側を走っていました。
その後、市電に統合され昭和36年(1961)8月1日京都駅~北野線廃止に伴い、
惜しまれながら軌道敷石と橋の親柱が撤去されました。
当山参拝道の石畳には市電廃止により払い下げられた敷石が多数使用されており、
50年の時を経て親柱と軌道敷石が出会うという深いご縁が結ばれました。
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日蓮宗本圀寺派 豊臣秀次の母(瑞竜院日秀尼)が
文禄4年(1595)高野山で自刃した秀次の菩提を弔うために創建した寺。
はじめ嵯峨二尊院に一宇を建立し、秀次の法名を採って善正寺としたが、
慶長5年(1600)日鋭上人を請じて開山とし、現在の地に移った。
寛永元年(1624)4代日演上人のとき多くの僧が集まり、「さくら談義」もあり、にぎわった。
明治維新後は衰退し、境内の南半分は学校の敷地になった。
本堂の本尊の傍らに、秀次像、日秀尼像を安置する。
境内北部の墓地には、秀次以下その一族の墓がある。
村雲瑞竜寺歴代の住職の墓。
江戸初期の儒医 江村専斎一族の墓は本堂背後の墓地にある。
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本堂